ときの忘れもの ギャラリー 版画
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平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき
第12回 2021年05月17日
その12 私の駒込名所図会(3)染井吉野と霜降・染井銀座(後編) 

文・写真 平嶋彰彦


 染井の長池から発した谷戸川は、巣鴨や西ヶ原からの湧水や下水(したみず)を併せつつ、染井通りを遠巻きにする形で、北から東へ向きを変えながら、現在の染井銀座から霜降銀座を流れた。霜降橋交差点は本郷通りが谷戸川を渡るところで、かつては霜降橋が架かっていた。その先が谷田川通りで、東南に流れて、中里から田端にいたる。さらに日暮里付近で向きを南に転じ、谷中(台東区)と千駄木・根津(文京区)との境になっているよみせ通りやへび道などの道筋を流れたあと、上野の不忍池に注ぎこんでいた。川の名前は上流の駒込付近では谷戸川または境川、中流の田端付近では谷田川、下流の谷中・千駄木・根津付近では藍染川と呼ばれていた(註15)。

ph11-6V7A5493-eph11 木造二階建ての賃貸アパート。西ヶ原4-3  2020.11.18

ph12-6V7A5439-bph12 染井商店街の路地。鉢植えのアオイ。駒込6-34。2020.11.18

ph13-6V7A7157-bph13 染井商店街の路地。とうふのかさはらの板塀。西ヶ原1-63。2020.11.18

 現在、谷戸川は源流の長池から不忍池にいたる流路のすべてが暗渠になっている。
この川は水はけが悪かった。そのため、大雨が降ると、下流の谷中・千駄木・根津付近では、しょっちゅう氾濫し、町中が水浸しになった。
 タウン誌『谷中・根津・千駄木』は第3号で、暗渠化する前の藍染川(谷戸川)について、古老からの聞書きと地元で集めた史料により特集を組んでいる。下記の引用は、そのうちの1つである(註16)。
 明治末まではあさりやしじみが採れ、小魚が釣れた。子供は泳いだり水浴びをした。…大正5年8月、大雨が4、5日降り続いたが、川沿いに二階家が少なく、天井裏に寝起きしたり素人作りの筏まで出た。そこで地元の衆議院議員秋虎太郎氏を動かして官庁に町ぐるみの請願を行ない、大正7年から排水工事を始めて、千駄木地区は9年10月に暗渠化された(野口福治さん(故人)「ふるさと千駄木」より、明41年生、茶舗野口園)。
 いい方を変えれば、明治から大正になると、あさりやしじみは採れなくなり、小魚も釣れなくなった。明治末というのは、染井霊園の周りの寺院が東京の市中から移ってきた時期にあたる。おそらく谷戸川に沿ったあちこちで、それまでの田園地帯から市街地への転換が急速に進んでいたものと思われる。千駄木では、1918(大正7)年から谷戸川の排水工事がはじまり、2年後に暗渠化されたのは、筆者が書いているように、町ぐるみの請願が功を奏したのかもしれない。しかし、この地域の水害対策は昨日今日のことではなく、かなり以前からの懸案事項であったようにみられる。
 というのも、その洪水より3年前になる1913年、東京市は藍染川(谷戸川)による谷中・千駄木・根津一帯の水害対策として、「藍染川上流より谷中初音町四丁目を経て荒川にいたる排水路」という工事計画を立案しているからである(註17)。
 この計画書を読むと、以前からこの川はしばしば氾濫をくりかえしていたことが分かるのだが、同書では氾濫の原因をこんなふうに説明している。
 藍染川は染井・西ヶ原両高地に発し、流域は甚だ広大であるが、市内谷中・根津の地に入ると、その水路は流量に比べて甚だ狭小であるのみならず、構造が極めて粗悪であることから、一朝大雨に際会すると、雨水を排除することができない。その結果、沿川の谷中・根津一帯に氾濫をもたらし、その被害面積を測定すると約7万1千坪にもおよぶ。
 では、水害を防ぐ具体策はなにかというと、氾濫の常襲地域の手前に分水装置を設け、それまで不忍池に注いでいた流路を変更し、荒川区内を経由させ荒川(現在の隅田川)に放流しようというのである。河口の三河島には、この計画書の立案された同じ年に、汚水処分場(現在の水再生センター)が完成する予定だった。そこで、流路を変更した谷戸川の水を、この処分場で浄化してから放流することを考えたのである(註18)。
 故ニ本計画ニ於テハ下谷区初音町4丁目ニ分水装置ヲ施シ、新ニ府下三河島ニ至リテ荒川ニ合流スル延長1千658間余ノ大排水路ヲ設ケ、一朝豪雨到ラバ上流全部ノ雨水ヲ之ニ導キテ荒川ニ放流し、分岐点以下ノ水路ハ単ニ本郷台及び上野台並ニ沿岸ヨリスル雨水並ニ汚水ヲ収容排セシムルコトトセリ。
 下谷区谷中初音町4丁目は、現在の台東区谷中3丁目である。ここは道灌山の南東にある低地で、道灌山を越えた北側にJR西日暮里駅がある。計画書でいう分水装置とは、道灌山から西日暮里駅の地下に通じる「藍染川トンネル」のことである。
 この「排水路」計画の考え方に疑問がないわけでもない。というのも、川の流量に比べ川幅が狭いというなら、川幅を広げるとか、川底を浚うなどの改修工事をすればいいからである。しかし、そうはならなかった。土地買収の経費や下水管敷設の工事費が莫大になるのみならず、工事そのものの困難さが予想されたからだというのである。
 在来水路を取拡ケントセバ勢沿岸ハ多大ノ土地ヲ買収セザルベカラザルノミナラズ、下流吐口神田川ニ達スル迄長距離ニ亘リテ広大ナル下水管ノ築造ヲ必要トシ其工事費莫大ニシテ工事亦甚ダ困難ナルヲ免レズ。
 谷中から三河島にいたる新たな水路は、京成電鉄本線に沿って開削され、上記のように、排水は三河島の汚水処理場で浄化し、荒川に放流された。この計画の実施により、文京区・台東区側の千駄木・谷中から不忍池までの流路は暗渠化され、沿川一帯の人々は水害の危険から解放されることになった。
 そのいっぽう、新たな問題も生じた。どうしてかといえば、そのころには京成沿線の荒川区内でもやはり市街地化が進んでいた。西日暮里から三河島の汚水処理場までの水路は、行政的には下水道である。にもかかわらず、沿川住民の生活感情をないがしろにし、蓋をかぶせない状態のまま、長年にわたって放置していたからである(註19)。

ph14-6V7A5395-bph14 霜降商店街。空地のアート。西ヶ原1-58。2020.11.18

ph15-6V7A5470-bph15 染井商店街。鉢植えのイチョウ。駒込6-30。2020.11.18

 谷戸川の上流にあたる駒込や染井の一帯では、1931(昭和6)年に埋立工事がはじまり、1940年までには暗渠化された。現在の霜降銀座と染井銀座は、その流路跡につくられた商店街である(ph12〜20)。川添登は小学校1年のとき、駒込から西巣鴨へ引っ越した。その1年後に谷戸川の埋立工事がはじまったことになる。(註20)。
 駄菓子屋の前の道をさらにすすむと谷戸川にぶつかり、川に沿って下ると霜降橋へでるが、その途中に活動写真館があったり、サーカスが小屋掛けする場所があったりで、いわば場末の繁華街になっていた。谷戸川は、川とはいえ、角材と板材とで土留めされた底を、雨でも降らない限り、わずかな水がちょろちょろ流れるだけのものになっていて、私たちはドブ川とよんでいたが、たまにはオタマジャクシが泳いでいて、それをとったりもしたのである。
 駄菓子屋の前の道というのは、本郷台地の上にある染井通りから谷戸川へくだる染井坂通りのことである。川添登の一家がこの坂道の中腹に引っ越してきたのは、連載その10で書いたように、関東大震災の直後であった。それまでは、谷戸川に沿って田んぼが続いていたが、川添が子どものころには、すでに民家で埋まっていた。とくに染井坂の下には、長屋が建ちならんでいて、それをバラック呼んでいたともいうことである。
 現在の霜降銀座と染井銀座になっている一帯は、おそらく関東大震災のあと、東京市中からの人口の流出現象にともない、本格的に市街地化したものと思われる。
 『コンサイス東京都35区区分地図帖』は、戦災焼失区域を赤く色分けして表示した区分地図である。連載その1で書いたように、『東京ラビリンス』のもとになった『昭和二十一年東京地図』の取材では、いつもこの地図を持ち歩いた。
 この『地図帖』をあらためて見てみると、1945(昭和20)年の米軍による空襲で、川添登が記憶する谷戸川沿いにつくられた「場末の繁華街」をはじめ、駒込・巣鴨一帯のあらかたの地域が赤く塗りつぶされている。罹災を免れた箇所は、染井霊園とその南東側に隣接する高級住宅地、伊藤伊兵衛政武の墓のある西福寺と染井稲荷神社の境内など、ごくわずかしか確認することができない(註21)。
 終戦後の1951年、朝鮮戦争が勃発した翌年になるが、商店街の店主を中心に霜降銀座栄会が設立されている。染井銀座をふくめ、戦災で壊滅した「場末の繁華街」が、現在のような家族連れでにぎわう商店街へ再生する足がかりをつくったのも、そのころではなかったかと思われる(註22)。
 それ以上の詳しいことはわからないが、都心の繁華街に眼を向けると、この年の12月、銀座界隈の露店が取り払われ、その替りに三十間堀埋立地の露天デパートに移転することが決まっている。都内にはそれまで7000余りの露天商がいたとのことだが、そのうちの約4500がすでに「自発」的に廃業し、新宿・上野ではすでに協同組合のデパートに移転したともいう。それより4ヶ月前の8月、東京都は御茶ノ水駅下の谷間・上野寛永寺の墓地(「葵町」)・浅草の隅田公園(「アリの町」)などにあったバラック建築を年内に撤去することを決めている。朝鮮戦争による特需景気を契機にして、終戦直後のいわゆる闇市時代は終わりをむかえつつあったのである。(註23)。

ph16-6V7A8766-bph16 霧降商店街。土蔵造りの店。ベンチがある。現存しない。西ヶ原1-59。2012.12.08

ph17-6V7A5403-bph17 霧降商店街。金魚亭。もとは寿司屋だった。西ヶ原1-59。2020.11.18

ph18-6V7A8792-bph18 染井商店街。昔ながらの魚屋二木商店。駒込3-29。2012.12.08

ph19-6V7A5388-bph19 霜降商店街。コロッケ・フライのなりきや精肉店。西ケ原1-55。2020.11.18

ph20-6V7A7167-bph20 霧降商店街。果物と野菜のスターフルーツ。西ヶ原1-58。2021.3.16

 霧降銀座と染井銀座から150メートルほど北側へ歩くと旧古河庭園がある。もとは明治の元勲陸奥宗光の邸宅があったところで、次男が古河家の養子に入り、所有は古河家に移った。現在の洋館と西洋庭園は、ジョサイア・コンドルが設計したもので、1917年に竣工した。また日本庭園は小川治兵衛の作庭による(註24)。ドナルド・キーンが、この庭園の西側にある老舗マンションに住んでいたことは、詩人の中村鐵太郎さんから教えてもらった。中村さんの住む共同住宅については、連載その10で取りあげていて、そこは先に述べたように、第二次世界大戦末の空襲を免れた高級住宅地の一画にあたる。
 ドナルド・キーンは『百代の過客 日記にみる日本人』の序文のなかでで、日本の日記文学に強く関心を抱くようになったのは、第二次世界大戦中に戦場に遺棄された日本人兵士の日記を読んで、心を動かされたのがきっかけだと述べている。また、日記という表現形式を、小説や随筆に劣らない文学の分野として大切にしているのは、世界中を見わたしてみても日本だけであるとも明言している(註25)。
 戦場で日記を書いた兵士の多くは、戦争に名聞を持たない無名の庶民であり、そのほとんど全員が生きて帰還することはなかったと思われる。彼にいわせれば、日記をつけるのは、歴史家にとってなんの重要性もない日々を、忘却の淵から救い上げることである。
 霧降銀座と染井銀座では、中村鐵太郎さんによれば、ドナルド・キーンは馴染みのお得意さんというよりも、いわばこの町の顔のような存在になっていて、先生、先生と親しまれていたそうである。おそらく彼もまたこの町をこよなく愛していたにちがいない。
 どういうことなのか、不思議な気がしないでもないが、戦争のさなかにもかかわらず、敵国である日本人兵士の日記に感動するような人物である。彼自身の言葉を借りるなら、歴史家にとってなんの重要性もないこの商店街の日々に、日本文化の基層にある心模様を重ね合わせていたように思われてならない。

(註14) 『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』「江戸・東京全河川解説」(鈴木理生編著、柏書房、2003)
(註15) 『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』「江戸・東京全河川解説」。『日本歴史地名体系13 東京の地名』
(註16) 『谷中・根津・千駄木 第3号』「藍染川すとりーと・らいふ」(谷根千工房、1985)
(註17) 『新修荒川区史 上』「第七章 土木」(1955)
(註18) 『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』「第四章 江戸・東京の水系」
(註19) 同上
(註20) 『東京の原風景』「変わりゆく田園都市」
(註21) 『コンサイス東京都35区区分地図帖』「㉑豊島区」(日地出版、1985)
(註22) 『霜降銀座栄会HP』「霜降銀座商店街の歴史年表」
(註23) 『昭和史全記録 : Chronicle 1926-1989』(編集人西井一夫、毎日新聞社、1989)
(註24) 『公園へ行こう』「旧古河庭園」(東京都公園協会)。旧古河庭園の写真は連載その11(後編、ph18)を参照。
(註25) 『百代の過客 日記にみる日本人』(ドナルド・キーン著、金関寿夫訳、講談社学術文庫、2011)
ひらしま あきひこ

 平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は毎月14日に更新します。今回は特別に前編・後編と2部に分けて駒込をご紹介します。前編は5月14日に掲載しました。
3月14日ブログ:私の駒込名所図会(1)駒込の植木屋と大名屋敷(前編)
3月18日ブログ:私の駒込名所図会(1)駒込の植木屋と大名屋敷(後編)
4月14日ブログ:私の駒込名所図会(2)八百屋お七と駒込土物店(前編)
4月19日ブログ:私の駒込名所図会(2)八百屋お七と駒込土物店(後編) 
5月14日ブログ:私の駒込名所図会(3)染井吉野と霜降・染井銀座(前編)

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月現在で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。

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