ときの忘れもの ギャラリー 版画
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井桁裕子−私の人形制作
第11回 「肖像は謎とともに」 2010年5月12日
2003年、10月。
私はできあがった「肖像人形」を窓辺の作業台に横たえて、来客を待っていました。ドイツ人アーティストのマリオ・A氏が、見に来てくれることになっていたのです。

私がこの人形の制作を決めたのはその年の春でした。金田さんの癌が再発した知らせを聞いてからのことです。しかしまだその頃の金田さんはお元気で、東京国際フォーラムの野外スペースで白熱した演奏をやったりしていました。私は、そして周りの同世代の人達もおそらく、癌というものをよく知りませんでした。少なくとも私は万一のことが起こるなど考えたくもなかったし、実感もなかったのです。
制作は8ヶ月近くもかかっていました。
その間に、金田さんは脚がしびれる、と言い始め、杖を探していたかと思ったら、やがて車いすで移動するようになってしまいました。

「よくできているけど、あなた、これを作ってどうするの?現代美術館に買ってもらうつもり?」
西日に浮かぶ大きな人形を見ながら、マリオさんは、半分怒ったようにそんなようなことを言ったのでした。
「あなたは、先のことを何も考えてない!」
そして、少し同情したように言い添えました。
「これはあなたの、若いときの想い出。そういうものが、人生で一つくらいあってもいいと思うけれど。」
もちろん、私は後のことなど何も考えてはいなかったのです。

私は当時、会社で仕事ができなくなって療養生活をおくっていました。いずれまた働く気でいたので、朝からずっと制作していられるのは人生で今しかない、かけがえのない時期だと思っていました。
しかしこれは作っていて楽しいものではありませんでした。作業はとどまることなく進んでゆき、その毎日の延長にこの日を迎えてしまったという、説明のしようもない感じなのです。私はただ、過ぎていく時間を形にして残してしまったのでした。
井桁裕子
「闘病日誌
―音楽家・
金田真一氏の肖像人形]
2004年
金田真一さんは打楽器奏者・作曲家でした。しかし病気がわかってから、金属による創作楽器も考案しました。それは音楽という枠を越えた、独自の芸術表現を目指したものでした。

その中に音響彫刻「鐘の牢」という強烈な作品がありました。これは檻のような金属棒(長さが違って音階になっている)に囲まれた中に演奏者が入って、その檻を叩いて「演奏」するのです。

人はだれもが自分の肉体に閉じ込められた囚人である。その牢獄が打ち鳴らされる鐘になっている、というのは言葉で書くと美しいイメージと言えなくもありません。しかし実際のパフォーマンスは優雅なものではなく、むしろ不穏な空気が漂ったようです。金田さんは「俺をここから出せ!」とばかりに激しく「鐘」を打ち鳴らし、跳ね返った金属棒が自分に当たって怪我をするほどでした。そもそも、これは人を良い気持ちにさせるような発想で作ったわけではなかったのです。聴衆を酔わせるような美しい音を出す打楽器なら、倉庫に充分コレクションされていました。この「鐘」は、自らの運命に気付かない人の心をかき乱し目覚めさせるためのものだった、と私は思っています。
金田真一さん
当時の「GEISAIミュージアム」(2003年12月、六本木ヒルズ)での記録が「フォトレポート」の中に残されています。
http://www.geisai.net/archive/gm/photo/index2.php
ほかにもいろいろ創作楽器がありました。それらの金属加工を手がけていた鉄の造形作家が、一人は斎藤鉄平さん、もう一人が当時イル・テンポのスタッフでもあった大河原良子さんでした。

大河原良子さんHP
http://www.characan.com/sturgeon/index.html
金田真一オンライン記念館
http://www.geocities.jp/city_memo/kaneda/

2004年2月から3月にかけて、完成した肖像人形は東京都現代美術館で行われた「球体関節人形展」に出品されました。そのとき金田さんはもう車いすでしたが、吉祥寺から江東区まで人形を見にきてくれたのです。
4月には、私は会社をやめることになり、慌ただしい日々が過ぎてゆきました。

5月、数週間ぶりに会いに行くと、金田さんはひどく痩せてしまっていました。
一緒に行った大河原さんは「彫りが深くなって、平井堅みたい。かっこよくなってますよ。」と話しかけていました。
絶句するしかなかった私はその時、いいことを言うなぁ、と感心した覚えがあります。
その日のお見舞いは、6月6日に予定していたコンサートの打ち合わせも兼ねていました。そこには、当時大河原さんが制作に奮闘していた蓮の葉のような形の楽器スタンドが並べられるはずでした。立ち上がった葉のひとつひとつに大きなお椀の形の鈴(りん)を置くのです。
鈴は、アジアのどこかの国のもので、日本の仏壇にあるものよりずっと大きく、大きさによって音が違いました。それは夢心地になるようないい音色です。スタンドはあと少しで完成し、金田さんはこの先ずっと車いすに座ったままでも演奏できるようになるのでした。

その場にいた人達はみな、コンサートが実現すると信じていました。病室の外で、「ここまで頑張ったのだから、あと一ヶ月くらいなんとかなるはず」と話していたのです。しかし6月のその日、会場は演奏者を迎えることはできませんでした。5月17日未明、金田さんはついに帰らぬ人となったのでした。

後で聞いた事ですが、金田さんは「あの人形の作られた意味がわかった」とそばに付き添っていた婚約者の方に言ったのだそうです。しかし、その言葉のあとに具体的な話は無かったといいます。私には、その意味はわかりませんでした。人形は大きな謎となって残りました。私は作る事が虚しくなってしまい、何をするのも虚しく思えました。

行き詰まって、テラコッタを引っ張り出してきたりしていたのは、その後のことです。肖像を作るのはもう、やめにしようと思いました。

しかし、それから時が過ぎて、徐々に元気を取り戻した私は、結局また肖像らしき人形を作ることになったのです。それも「死」を密かなテーマにして作るつもりでした。なぜなら、私はその時まだ、それ以外の事を考えながら制作をするのは無理だったからです。

踊る人、最上和子さんとの対話が、そのきっかけでした。最上さん自身が、死について実にさりげなく語っていたので、その「語られる、実現しなかった死」を手がかりに造形ができそうな気がしたのです。

私は、そろそろタナトスちゃんには帰ってもらって、ミューズちゃんたちと仲良くしなくてはいけない時期でした。それは、翌2005年夏に始まる話です。
(いげたひろこ)

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