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井桁裕子−私の人形制作
第15回 「頭の中の戦争」 2010年8月30日
8月ももう終わりますが、暑い暑い日々が続きます。皆様はいかがお過ごしでしょうか。

この間太平洋戦争をテーマとしたテレビ番組がいくつも放送されました。
あの戦争がどれだけ深く癒えない傷を残したかということ、それは今も続く世界各地の紛争地帯が、この先どれだけ荒廃に立ち向かわなくてはならないかを考えさせもします。
イラクから米軍が撤退を始めました。しかし、アフガニスタンにはさらに派兵を強化するといいます。
私は、あまり社会的なテーマで作品を作りません。
しかし、以前に一度、不用意な状態でそういう制作に踏み込んだことがあります。
これがまた説明に困るシロモノになったのでした。



2004年頃からしばらくの間、私は自分のHPのトップ画像に、「イラク戦争に反対します。自衛隊は撤退すべきだと思います。」という内容のアピール文を掲げていました。
当時私は「メルヘン村」というサイトの中で「ウェブ写真集」として作品を紹介してもらっていました。
なので、このアピールを出すときは本体のメルヘン村の方が嫌がるのをしつこく説得して入れてもらったのでした。
私自身、一人でこんな意思表明をしたからといって何も役に立たないと
わかっているわけですが、何も言わないのも自分の筋が通らなかったのです。
そんな頃に、あの事件が起こりました。
24歳の青年がイラクに出かけていき、アルカイダを名乗るグループによって人質にされたのです。
犯人グループが要求していたのは、自衛隊の撤退でした。
その青年の殺害される映像が、インターネットで流されました。
私はそれを見られませんでした。
見なくても充分でした。
私が彼のために泣いても、どこにも何も届かないのでした。


当時、金田さんとのお別れから日も浅く、肖像はもう作りたくなかったのですが、何か形にしていないと気が休まりませんでした。
外側を作る事ができないのなら、内側から外へいきあたりばったりに造形しようと思いました。
いまや思考を浸食してやまない個人の肉体の破壊のイメージを排出しなくてはならなかったのです。
内側、すなわち口の中から作り始めました。
なぜかというと、だれでも歯の抜ける時に自分の身体の一部を失う経験をするからです。

歯を一つずつ丁寧に作り、舌は味蕾まで表現しました。
内側にあるものが外側に見えてしまうという状態は、すなわち、死と破壊でした。
屋根がなくなって、室内が見える状態の頭部なのです。
歯と舌を組み合わせていくと下顎の模型のようなものができました。
ここから先は、さらに「ひっくり返された内側」についての観念を形にしていく緻密な作業になるはずでした。

しかし、私はそこで自分の作っているものに耐えられなくなってきました。
神経が疲れて、精密な作業や思考ができなくなってきたのです。
そこで、もうそれを見えないように、せっかく作った「口の中」を覆ってしまうことにしました。
鏡餅のようにすべすべと丸いところに口だけのついた「頭」ができました。
この頭の中には戦争が隠されていて、そのためこの頭は何も見えず何も聞こえなくなってしまったのでした。
そしてひびわれた子どもの声で何かを歌っているようでした。

小学生の頃は、毎日のように合唱をする時間がありました。
小学校は江東区の団地の中でした。江東区には大きな木は生えていません。東京大空襲で焼け野原になったからです。
夢の島のゴミ処分場や、水爆実験で被爆した漁船・第五福竜丸は、私の大事な原風景の一部です。
その頃に歌った合唱曲のなかに、希望はかならずあるという意味の美しい歌がありました。
その歌詞の最初の言葉を、私はそのまま人形に名付けました。
人形の姿はひどくアンバランスで、その歌は残酷なほどそぐわなかったのですが。
たとえば「劣化ウラン弾の妖精」とかいう類のわかりやすい名前を付ければよかったのかもしれません。
しかしその時はそんな突き放した心にはなれなかったのです。

「天つ御使いの声もかくやと」
2004年・石塑粘土

翌2005年、私はZ氏の青山の画廊の二人展にこの人形を展示しました。
しかしその展覧会には、もうすぐ退職する画廊スタッフによるおふざけ企画が盛り込まれ、私を応援してくれる何人かの方に余計な心配をかけてしまいました。
表現をする、というのは、作る作業だけを言うのではありません。
伝わらなければ、表現は生まれずに終わるのです。
ぐれはまな二人展が終わってから、私は「エコール・ド・シモン展」に出かけました。
以前「極楽窯」を一緒に買ったMさんは、もともと四谷シモンさんのもとで人形作りを始めた人で、憂鬱顔の私を心配して誘ってくれたのでした。


シモンさんには、球体関節人形展のときに何度かお会いして以来で、とても久しぶりでした。
新宿・紀伊国屋画廊には、おなじみの人達同士が醸し出すアットホームな空気が漂っています。
Mさんは、私にもそういう安らぐ場所が必要だと力説してくれていたのでした。
シモン先生はお茶を前にして「最近どう、元気?」と、尋ねてくださったのですが、私は正直な所ちっとも元気ではありませんでした。
「展示はどうだった?」と重ねて聞いてくださるので、なんとも胸が熱くなってしまい、
「いや、あまりうまくいかなかったです。ちょっと疲れてしまいました。」
そう言ったとたんに、まったくそんなつもりではなかったのに、私の目から涙がぼろぼろとこぼれてしまいました。
あっしまった、これは全部アルカイダのせいなんです、と私の胸を意味不明な冗談がよぎりつつ、それはともかくもうこぼれたものは取り返しがつきません。
何も言えず横を向いて、何か思い出すようなふりをしました。
先生は、ちょっと困ってから、そっと立って控え室に入りました。そして、何か持ってきてくれたようでした。
「これ、おいしいから、食べて。」
私は、鼻のように吸う機能が眼にもあるべきだと感じつつ振り向いてみると、テーブルには洗ってお皿に盛られた、赤くつやつやしたプチトマトが置いてありました。
「遠慮しないで、どうぞ。」
少しとがった楕円形の、甘いプチトマトでした。
「これは美味しいですね。果物みたいですね。」
「そうそう。お客さんがね、差し入れで。持ってきてくれたの。」
三月でしたから、それは温室で育てたものだったでしょう。
そんな感じの、ちょっと贅沢な味がしました。

その後、2ヶ月ほどたった5月、私は原宿のエコール・ド・シモンに通い始めました。
それまでずっと使っていた石塑粘土の代わりに、桐塑と張り子を教えてもらおうと思ったのです。
そのまま2年半ほど通いました。

本当は、永久に通っていたかったのです。
しかしどんな素敵なことも必ず終わりがあります。
それを越えて進めば、また新たな始まりがあるように思うのです。


次回は9月20日に更新の予定です!
よろしくお願いいたします
(いげたひろこ)

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