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太田岳人のエッセイ「よりみち未来派」
第14回 2022年6月12日
いわゆる「ボッチョーニ中心主義」について

太田岳人

本連載の初回の導入で、「未来派という前衛芸術を研究しています」と自己紹介する際、「なぜイタリアの近代美術なのか」と聞き返されるという話を書いたが、それと異なる反応を受けることもある。すなわち、よりイタリアに関心がある、あるいは美術史の知識を持つ方々は「じゃあ、ボッチョーニなんかを調べているわけですね」と、ウンベルト・ボッチョーニ(1882−1916)の名前に具体的に言及してくれる【図1】。日本でも、東京と大阪で《空間における連続性の唯一の形態》や《街路の力》のような作品が実際に見ることができ、前者の図柄などは現在のイタリアの20セントユーロ硬貨にも使われている。軍営での落馬事故で夭折したという伝説的エピソードともあいまって、未来派と言えば彼の名が真っ先に思い出されるのは当然と言えよう。

図1 ボッチョーニの肖像
図1《物質Materia》を前にしたボッチョーニ、1912年
※ Giovanni Lista e Ada Masoero (a cura di), Futurismo 1909-2009: velocit?+arte+azione, Mitano: Skira, 2009より。

ところが、私のボッチョーニへの関心は実のところ、研究を始めた当初は高くなかった。というのも、自分の未来派への関心において重要な要素の一つが、この芸術運動とファシズム勢力との接近という特殊な事情にあったことから、未来派の初期に亡くなった彼はあまり視野に入ってこなかったのである。また、ボッチョーニのようなスター的存在に対しては、日本でもより正統的な西洋美術史を追求する研究者が、遅かれ早かれ続々と台頭してくるに違いないとも予測したためでもある(これは残念ながら当たっていない)。

むしろ私の興味は、彼に対する批評史にある。第二次世界大戦直後から1960年代にかけて、未来派を「ファシズムの芸術」と同一視し忌避する傾向は特に強かったものの、初期未来派については一定の擁護があり、その中でもボッチョーニは特に例外的に高く扱われてきた。外国では、ニューヨーク近代美術館が積極的に初期未来派の展覧会を開催し作品も購入する一方、イタリア国内では、反ファシズムを旗印に戦後の左派運動を率いたイタリア共産党の界隈においても、ボッチョーニを肯定する批評家が存在していた【注1】。批評家ラッファエーレ・デ=グラーダの『ボッチョーニ:近代の神話』(1962年)【図2】などには、純美術史的に妥当な記述(影響関係、諸作品のフォルム分析)と合わせ、「ボッチョーニの全作品には、世界を解釈するだけでは不十分であり、必要なのはそれを変えることだという、マルクスの概念が浸透している」といった熱狂的な表現が散見される。

図2 デ=グラーダ『ボッチョーニ』
図2:デ=グラーダ『ボッチョーニ:近代の神話』表紙
※ Raffaele De Grada, Boccioni: il mito del moderno, Milano: Edizioni per il club del libro, 1962、筆者蔵。

一方、1960年代から70年代にかけて台頭してくる後続世代の研究者たち――私の研究の大枠はこれに属している――は、ボッチョーニ生前の「英雄時代」が過ぎ去った1920年代や30年代の段階においても、未来派の興味深い試みは継続していると強調し、運動の30年以上の歴史総体を研究対象としない「ボッチョーニ中心主義(Boccionicentrismo)」を偏頗なものとして批判した。とすると、かつてのイタリアの研究状況は未来派を「タブー視」したもので、「イデオロギー的判断」ばかりでよくない時代でしたね、となりそうになるのだが、そう言い切ってしまうにはいささか問題が複雑である。初期未来派とその後の運動の峻別をすることで、前者を救済しようとした人々の努力をよそに、前者に対する疑惑も容易に消えていなかったことは、トゥリオ・クラーリが晩年の自筆年譜に記した、1960年のヴェネツィア・ビエンナーレにおける未来派の展示にまつわるエピソードからも読み取れる。

家族連れ、母親(文学の教師?)、父親(よくいる馬鹿者)、娘(知ることに飢えた16才)が絵を見ている。父親が指を差して告発する。「こいつはファシストだった、大物ファシストだった!」。母親は「まったくですわ、鞭を見逃さないでしょうね」(棍棒をとは言わなかった)。見つめていた娘は、黙って《物質》(ボッチョーニの母の像)のある隣の部屋に行き、「これはきれいよ、私は好きだわ」と叫んだ。父親はこの絵を見ると、署名を一瞥して怒鳴る。「いや、こいつはファシストだ!」。娘は何も言わなくなった。【図3/注2】

図3 ボッチョーニ《物質》、1912年
図3:ボッチョーニ《物質》、1912年(キャンバスに油彩、225×150cm、ジャンニ・マッティオーリ・コレクション)
※ Giorgio Verzotti, Boccioni: catalogo completo dei dipinti, Firenze: Cantini, 1989より。

「哀れなりボッチョーニ、彼が死んだのは1916年だ」と、国民ファシスト党の母体となった「戦士のファッシ」成立(1919年)以前に世を去ったボッチョーニに「ファシスト」としての責任はないだろうとクラーリが嘆いたのは、時系列からすればもっともである。ただ、ボッチョーニもそうした見方をされたのには、彼の死後も継続した未来派運動の側からの、その顕彰の在り方にも原因があったように思われる。それは、マリネッティの編集により制作された『ボッチョーニ全作品』(1927年)【注3】のような刊行物からも見えてくる。

『ボッチョーニ全作品』は、彼の主著である『未来派の絵画と彫刻』(1914年)の内容を再録するとともに、彼の日記や手紙といった資料も一部掲載することで、第二次世界大戦前の芸術家のモノグラフとしては唯一無二のものである。しかし、マリネッティが追加した資料の選択には一つの傾向性があった。たとえば、収録されたわずかな手紙は、いずれも夭折した画家の好戦性を強調する、ことに第一次世界大戦を未来派の美の闘争と結びつけ、喜び勇んで受け入れていることを示すものだけである。そこには、コレクター兼友人のヴィーコ・バエルや、ベルリンの画廊主ヘアヴァルト・ヴァルデンが受け取った手紙――芸術家が戦争に熱狂していた時期を過ぎ、その生活に明らかに倦みはじめ、未来派とはまた何か異なる美の在り方を模索し始めていたと読める――は、入る余地もなかった【注4】。あくまで迷うことのなき未来派であったことの強調、またそれゆえに、プレ・ファシスト的人間でもあったという示唆を、ここでのマリネッティは提供していることになる。

第二次世界大戦後の、今から見れば奇妙な言辞をも伴ったボッチョーニの研究は、未来派を即ファシズムと見なしがちであった側にとっても発見を伴う洗い直しであり、ファシズム期における未来派陣営の自己評価軸をいったんリセットする意味でも、必要な作業だったのではないか。かつての「ボッチョーニ中心主義」は、未来派の歴史総体を評価しようとする取り組みに抵抗しつつも、それを準備したものでもあったと私には思われる。

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注1:この辺りの様相は、拙稿「ウンベルト・ボッチョーニと未来派評価:第二次世界大戦後から1960年代まで」(『千葉大学大学院人文公共学府研究プロジェクト報告書』第333号、2018年)を参照。さらにより詳細、かつ広く時期をとった未来派の批評史としては、横田さやか「イタリア未来派研究と未来派の定義の変遷をめぐる考察」(『上智ヨーロッパ研究』第12号、2020年)を見よ。

注2:Claudio Rebeschini (a cura di), Crali aeropittore-fururista, Milano: Electa, 1994.

注3:Filippo Tommaso Marinetti (a cura di), Opera compreta di Umberto Boccioni, Fogliono, Campirelli, 1927.

注4:ボッチョーニによる手紙については、1970年代初頭に公刊された基本的な資料集には80通以上、さらにより近年の書簡集には200通以上が収録されている。Zeno Birolli (a cura di), Umberto Boccioni: gli scritti editi e inediti, Milano: Feltrinelli, 1971; Federica Rovati (a cura di), Umberto Boccioni: lettere futuriste, Rovereto: Museo di arte moderna e contemporanea di Trento e Rovereto, 2009. 一方、マリネッティの『ボッチョーニ全作品』には4通ほどしか掲載されていない。書籍の紙数制限という問題もあったろうが、実際にはマリネッティの立場なら広範な資料提供を周囲から受けられたはずであり、そうした上で彼は自分のボッチョーニ像に合う手紙のみを「厳選した」と考えられる。
(おおた たけと)

・太田岳人のエッセイ「よりみち未来派」は偶数月の12日に掲載します。次回は2022年8月12日の予定です。

■太田岳人
1979年、愛知県生まれ。2013年、千葉大学大学院社会文化科学研究科修了。日本学術振興会特別研究員を経て、今年度は千葉大学・東京医科歯科大学で講義の予定。専門は未来派を中心とするイタリア近現代美術史。E-mail: punchingcat@hotmail.com

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