いつもはヒマな画廊ですが、昨日は名古屋から若者たちが大挙して来襲。ときの忘れものの長年のお客様である高北幸矢先生が、自ら学長を務める名古屋造形大学の学生さんたちを引率して来られたのだ。全国広しといえども、高北学長さんほど学生の面倒見がよく、発信力の高い方はそうはいないでしょう。高北先生の「学長ブログ」はマメにご自身や学生さんたちの活動を紹介しています。ぜひご一読ください。
 夜は7時から五味彬先生によるギャラリー・トークを開催しました。
いつもなら女性が随分と多いのですが、今回は女性はただ一人、それもスタッフの家族だったので、実質はゼロ。五味作品におそれをなしたのでしょうか(笑)。
 先ず、五味先生は「Yellows 1.0」シリーズが断裁されてしまったを経緯から述べ始めました。
簡単に要約すると、1991年4月から『月刊PLAYBOY』にヌードの写真連載が始まったのですが、当時のヘアー問題のためにわずか2ヶ月で連載打ち切りとなります。その後、別の大手出版社から写真集『YELLOWS』と題して出版されることになり、五味先生は撮影を続行したのですが、その写真集も印刷が終わり、あとは配本するだけという時に、再びヘアー問題による出版社の自主規制で断裁処分されてしまったというものです。
 そのことは「この日本における表現の自由とは何か」という大きな問題をはらんでおり、そのことに対する五味先生の怒り、危機感にも切実なものがありました。そして、私が五味先生のトークで面白かったのは、「Yellows」つまり1990年代の日本人女性の裸体を標本のように無機的に撮影したそもそものきっかけでした。五味先生はファッション雑誌の売れっ子カメラマンだったのですが、当時ご健在だったお母さんが「アキラ、お前はなぜ外人の女ばっか撮るんだい。そこの原宿には、日本の女の子がたくさんいるじゃないか」と言われたとか。日本の若い女性も昔と違って体格もいい、足も長い。この子たちを体型見本のようにたくさん撮っておけば、100年後には日本人の貴重な資料になるに違いない、そう思ったんだそうです。
 数十人の若い女性のアップ、正面、背面をただ淡々と撮り続ける。撮影期間中、五味先生は彼女らと一言も口をきかなかったとか。つまり親しくなる、感情が入り込む、そういう関係での撮影を拒否したわけですね。そういう経緯を知ってこれらの写真を見ると、最初に見たときのとは異なる別の感慨を催します。

 さて、久しぶりに瑛九の秀作、リトグラフ「舞踏会の夜」と銅版「庭園」が入ってきましたので、ご紹介します。
2点とも版画の代表作品で、非常に状態が良く、『瑛九作品集』(日本経済新聞社)及び『現代美術の父 瑛九』展図録(小田急)などの重要文献に掲載されています。
瑛九「舞踏会の夜」
瑛九「舞踏会の夜」
 1957年 リトグラフ
 35.5×24.0cm(額サイズ:57.0×45.0cm)
 *レゾネ番号126 鉛筆サイン、1/50

レゾネ(瑛九の会)には限定15部となっていますが、瑛九のリトのいくつかは(特に代表作)セカンド・エディションされています。恐らくこの限定50部というのは、セカンド・エディションと思われますが、分母15の方が先なのか、それとも分母50の方が先なのかは、不明です。
因みに、瑛九のリトグラフのセカンド・エディション(没後の後刷りではありません)についての全貌の解明はなされておらず、今後の課題です。いずれこの連載でも具体的な例をあげて論じてみたいと思っています。
1950年代はまだアルシュなどの高級な版画用紙の入手は難しい時代でした。今からみると粗末な紙ですが、珍しく色彩が非常によく保存されています。瑛九のリトグラフは相当数扱ってきましたが、色彩の良い物はなかなかなく、これはランクAといっていいでしょう。

瑛九「庭園」
瑛九「庭園」
 1953年 エッチング
 23.5×18.0cm(額サイズ:60.0×43.5cm)
 鉛筆サイン

瑛九の銅版自刷りで、しかもサイン入りというのも、なかなかありません。それだけ生前は売れなかったということですね。
市場によく出てくるのは、ほとんどが没後の後刷りです。これは状態も、刷りもよく、サインも入っている瑛九自刷りのものです。もちろんランクAです。
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