「空と地の間に-植田実写真展―空地の絵葉書に寄せて」 原茂
扉を開けると、そこはいつもの見慣れたギャラリー、のはずがちょっと違う。空気がいつもよりぴりっとしていてしかもふうわりと軽い感じ。別に普段がゆるんでいる(!)というわけではないのだが、全体に心地よい緊張感とリズム感。それは、伝説にして現役バリバリ(たとえば、どちらかと言えば若い人向けと思える『デザイン・アディクト』vol.2、「特集 ニッポンの新鋭建築家20人+α」2007年、エクスナレッジムック、の中で「Radical Movement in Japan 『都市住宅』という時代」という記事が10頁にもわたって掲載されている)の編集者にして建築評論家にして写真家(!)の植田実さんが毎日在廊しておられるとか、そうそうたるスター建築家や写真家が来廊されたりというだけではないでしょう。
その空気を作り出しているのが、写真の額としては少し幅のあるくっきりと黒い木のフレームで額装され、二枚一組で微妙に隙間を空けて展示されている50枚の写真。特に正方形の(特注とか!)額が用いられた壁の一隅は、とりわけ軽快でメリハリの効いた感じ。この「ときの忘れもの」自体が木造の立方体の空間であることが思わず思い起こされます。聞けば、この展示そのものが植田先生のプランによるものとのこと。壁面の寸法を送ると、どの写真をどの順番で並べるかを指示した指示書が届いて、あとはその通りに額をかけるだけだったそうです。その後の掛け替えは一切なし。70枚のうちどの50枚を選んでそれをどの順番に並べるかは全部植田先生の頭の中で完璧に出来上がっていたわけで、これが伝説の編集者かと一同唸ったとか納得だったとか。この展示空間そのものが植田先生によって編集された作品だというわけです。
そして、作品そのものもまた魅力的です。蒼く沈んだトーンが基調音のように響きながら、どこからともなく差し込む光が一つ一つの像を浮かび上がらせます。水の中から地上を見たような、夢の上澄みをすくい取ったような一枚一枚です。何か特別なものが写っているわけではないのに(よくよく見ると特別なものも写っているようですが)、どれもが特別の場所のように見えます。あたりまえに思っている場所、あたりまえに思っている時が、けっしてあたりまえではなく、特別な、かけがえのない場所であり時であること、私たちが「空き地」としか見ず、「空き時間」としか思わない時が、「絵葉書」として残されるべき、充ち満ちた場所であり時であることを思い起こさせてくれます。植田先生がフィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』に寄せた「昼間は板塀に取り囲まれた、ごみ箱や古自動車がおいてあるに過ぎない小さな空き地が、ずっと奥まで拡がっている美しい庭園に変わっている」(植田実「庭または時間-フィリパ・ピアスからルウシィ・モウド・モンゴメリまで」『真夜中の家-絵本空間論』住まいの図書館出版局、1989年)という言葉は、植田先生自身の写真にこそふさわしいと思わされたことです。
個人的には、No.6「トゥールーズに向かうバスの窓から」、No.21「ベルファスト」、No.40「ティヴォリ」、No.48 「バイヨンヌ」、No.54「マテーラ」が欲しくなりました。No.38「ティヴォリ」のなまめかしいひかがみも捨てがたいのですが、写真集(!)『都市住宅クロニクル』で予習した際のメモ、「過ぎ去るものとしての建築」、「タテ『モノ』ではなく」、「闇と光」、「現と幻」、「イズマイ、タタズマイ」にそれぞれ連なる作品として手元に置きたいと思った次第です。
特に、No.40「ティヴォリ」は、最初HPで拝見した際に「上下逆では」とメールを送って、「作家の意図で、水面に映った像を上にしてあります」との返信をいただいたというちょっと情けないいわれのある(?)作品です。そして、それを、像こそが永遠の実在であり、形あるものは過ぎ行く仮構にすぎないというプラトニスト植田実の真骨頂と言い切ってしまうのはまだ時期尚早でしょうか。
毛の生えた初心者の世迷い言はさておき、それ自体が空地でもあるこの空間に多くの方が足を運んでいただければと思います。(はらしげる)




*画廊亭主敬白
昨日の大竹昭子さんと植田実先生のギャラリートークには福岡、岩手、栃木などなど遠方の方も含め、大勢のお客様にご来場いただき、ありがとうございました。その後のレセプションも、トーク終了間際には入れなかったお客様がドアの前でお待ちになるという、ときの忘れもの史上最もにぎやかなパーティとなりました。その様子は近日中にご報告するとして、参加者のお一人で、私たちの写真の師匠でもある原茂さんが三たび、熱いメッセージを掲示板に書き込んでくださったので転載させていただきました。
植田先生が創刊編集長をつとめた雑誌『都市住宅』は今も語り継がれる伝説の雑誌ですが、ときの忘れものの「植田実のエッセイ」でご自身が語っている他にも、いろいろなサイトで紹介されていますので、参考までにいくつか挙げておきます。
http://inaxreport.info/data/INAX170_15_37.pdf
http://www.ozone.co.jp/event_seminar/seminar/seminar_c/detail/881.html
http://landship.sub.jp/stocktaking/archives/000760.html
http://www5c.biglobe.ne.jp/~fullchin/aso/ueda2/06/06.htm
http://www.xknowledge.co.jp/book/detail/89977102
http://www.msz.co.jp/book/detail/07302.html
http://a-blog.aoyamayuuki.com/2005/05/post-28.html
http://ameblo.jp/mori-arch-econo/entry-10404965056.html
http://www.uenishi.co.jp/e20.htm
http://d.hatena.ne.jp/hi-ro/20040116
◆ときの忘れものは、1月26日[火]―2月6日[土]「植田実写真展ー影の空地」を開催しています(※会期中無休)。
植田先生は毎日午後4時頃から会場にいます。

植田実「バイヨンヌ Bayonne, France」
1993年撮影(2010年プリント) ラムダプリント
15.9×24.4cm Ed.7 サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
●画廊では植田実サイン入り本を販売しています(送料無料)。
植田実『都市住宅クロニクル』第Ⅰ巻・第Ⅱ巻
花田佳明『植田実の編集現場 建築を伝えるということ』
扉を開けると、そこはいつもの見慣れたギャラリー、のはずがちょっと違う。空気がいつもよりぴりっとしていてしかもふうわりと軽い感じ。別に普段がゆるんでいる(!)というわけではないのだが、全体に心地よい緊張感とリズム感。それは、伝説にして現役バリバリ(たとえば、どちらかと言えば若い人向けと思える『デザイン・アディクト』vol.2、「特集 ニッポンの新鋭建築家20人+α」2007年、エクスナレッジムック、の中で「Radical Movement in Japan 『都市住宅』という時代」という記事が10頁にもわたって掲載されている)の編集者にして建築評論家にして写真家(!)の植田実さんが毎日在廊しておられるとか、そうそうたるスター建築家や写真家が来廊されたりというだけではないでしょう。
その空気を作り出しているのが、写真の額としては少し幅のあるくっきりと黒い木のフレームで額装され、二枚一組で微妙に隙間を空けて展示されている50枚の写真。特に正方形の(特注とか!)額が用いられた壁の一隅は、とりわけ軽快でメリハリの効いた感じ。この「ときの忘れもの」自体が木造の立方体の空間であることが思わず思い起こされます。聞けば、この展示そのものが植田先生のプランによるものとのこと。壁面の寸法を送ると、どの写真をどの順番で並べるかを指示した指示書が届いて、あとはその通りに額をかけるだけだったそうです。その後の掛け替えは一切なし。70枚のうちどの50枚を選んでそれをどの順番に並べるかは全部植田先生の頭の中で完璧に出来上がっていたわけで、これが伝説の編集者かと一同唸ったとか納得だったとか。この展示空間そのものが植田先生によって編集された作品だというわけです。
そして、作品そのものもまた魅力的です。蒼く沈んだトーンが基調音のように響きながら、どこからともなく差し込む光が一つ一つの像を浮かび上がらせます。水の中から地上を見たような、夢の上澄みをすくい取ったような一枚一枚です。何か特別なものが写っているわけではないのに(よくよく見ると特別なものも写っているようですが)、どれもが特別の場所のように見えます。あたりまえに思っている場所、あたりまえに思っている時が、けっしてあたりまえではなく、特別な、かけがえのない場所であり時であること、私たちが「空き地」としか見ず、「空き時間」としか思わない時が、「絵葉書」として残されるべき、充ち満ちた場所であり時であることを思い起こさせてくれます。植田先生がフィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』に寄せた「昼間は板塀に取り囲まれた、ごみ箱や古自動車がおいてあるに過ぎない小さな空き地が、ずっと奥まで拡がっている美しい庭園に変わっている」(植田実「庭または時間-フィリパ・ピアスからルウシィ・モウド・モンゴメリまで」『真夜中の家-絵本空間論』住まいの図書館出版局、1989年)という言葉は、植田先生自身の写真にこそふさわしいと思わされたことです。
個人的には、No.6「トゥールーズに向かうバスの窓から」、No.21「ベルファスト」、No.40「ティヴォリ」、No.48 「バイヨンヌ」、No.54「マテーラ」が欲しくなりました。No.38「ティヴォリ」のなまめかしいひかがみも捨てがたいのですが、写真集(!)『都市住宅クロニクル』で予習した際のメモ、「過ぎ去るものとしての建築」、「タテ『モノ』ではなく」、「闇と光」、「現と幻」、「イズマイ、タタズマイ」にそれぞれ連なる作品として手元に置きたいと思った次第です。
特に、No.40「ティヴォリ」は、最初HPで拝見した際に「上下逆では」とメールを送って、「作家の意図で、水面に映った像を上にしてあります」との返信をいただいたというちょっと情けないいわれのある(?)作品です。そして、それを、像こそが永遠の実在であり、形あるものは過ぎ行く仮構にすぎないというプラトニスト植田実の真骨頂と言い切ってしまうのはまだ時期尚早でしょうか。
毛の生えた初心者の世迷い言はさておき、それ自体が空地でもあるこの空間に多くの方が足を運んでいただければと思います。(はらしげる)
*画廊亭主敬白
昨日の大竹昭子さんと植田実先生のギャラリートークには福岡、岩手、栃木などなど遠方の方も含め、大勢のお客様にご来場いただき、ありがとうございました。その後のレセプションも、トーク終了間際には入れなかったお客様がドアの前でお待ちになるという、ときの忘れもの史上最もにぎやかなパーティとなりました。その様子は近日中にご報告するとして、参加者のお一人で、私たちの写真の師匠でもある原茂さんが三たび、熱いメッセージを掲示板に書き込んでくださったので転載させていただきました。
植田先生が創刊編集長をつとめた雑誌『都市住宅』は今も語り継がれる伝説の雑誌ですが、ときの忘れものの「植田実のエッセイ」でご自身が語っている他にも、いろいろなサイトで紹介されていますので、参考までにいくつか挙げておきます。
http://inaxreport.info/data/INAX170_15_37.pdf
http://www.ozone.co.jp/event_seminar/seminar/seminar_c/detail/881.html
http://landship.sub.jp/stocktaking/archives/000760.html
http://www5c.biglobe.ne.jp/~fullchin/aso/ueda2/06/06.htm
http://www.xknowledge.co.jp/book/detail/89977102
http://www.msz.co.jp/book/detail/07302.html
http://a-blog.aoyamayuuki.com/2005/05/post-28.html
http://ameblo.jp/mori-arch-econo/entry-10404965056.html
http://www.uenishi.co.jp/e20.htm
http://d.hatena.ne.jp/hi-ro/20040116
◆ときの忘れものは、1月26日[火]―2月6日[土]「植田実写真展ー影の空地」を開催しています(※会期中無休)。植田先生は毎日午後4時頃から会場にいます。

植田実「バイヨンヌ Bayonne, France」
1993年撮影(2010年プリント) ラムダプリント
15.9×24.4cm Ed.7 サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
●画廊では植田実サイン入り本を販売しています(送料無料)。
植田実『都市住宅クロニクル』第Ⅰ巻・第Ⅱ巻
花田佳明『植田実の編集現場 建築を伝えるということ』
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