本日12月28日をもって2010年の営業を終了します。
大掃除、打ち上げなどなど忙しい一日になりそうですが、今年2010年は開廊15周年でした。
特別のことは何もしませんでしたが、年の最後でもあるし、たまには社長の出自と「ときの忘れもの」の由来など少し書いてみましょう。
そもそも「ときの忘れもの」とその設立者である社長の原点は瑛九でした。

瑛九「作品」
フォトデッサン 29.5×23.3cm
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
ときの忘れものにいらっしゃる皆さんは、さんざん亭主の自慢話を聞かされ、聞きたくもない昔話につき合わされ、閉口しているでしょうが、実は美術界に入ったのも、瑛九を知ったのも社長のほうが、はるかに古い。
来年はその瑛九の生誕100年にあたり、故郷の宮崎の県立美術館はじめ、アトリエ(今も生前のまま夫人が守っています)のあった浦和の県と、市の二つの美術館などで大規模な回顧展が予定されています。
ときの忘れものもつい先日、連続企画「瑛九展」の第20回展を開催したばかりです。
社長の出自といっても、社長自身は頼まれてもそんなこと一言も言わないでしょうから、亭主の知る範囲でしか書けませんが・・・・
生まれは兵庫県の西宮らしい。父親の仕事の関係で千葉で育った社長は運動神経抜群で、あの小さな体で女子高時代はバスケット部のキャプテンを務めたほど。
高校卒業後に学んだ跡見学園女子短大(今はもうない)には久保貞次郎というちょっと変わった先生(学長もつとめた)がいました。ご存知の通り、日本有数の大コレクターであり、小コレクター運動を唱導し、瑛九をはじめとする一群の作家たちを物心ともに支援し続けた美術界の大立者でした。
栃木県真岡の旧家の当主であり、いくつもの蔵には膨大な美術作品が収蔵されていました。
東京市ヶ谷にもお屋敷を構え、旧軽井沢には3000坪の別荘を持つお金持ちで、宮仕えなんか全く似合わない久保先生が、跡見の生活芸術学科の科長であった今泉篤男先生(後に京都国立近代美術館初代館長)に口説かれ、短大で「児童美術」「美術鑑賞」の講座を担当するようになったのは1959年(昭和34)のこと、またたくまに女子学生の人気を集めます。
社長も僅か2年の学生生活でしたが、久保先生にすっかり感化され、その親衛隊長となり、久保先生から教室で売りつけられた瑛九のコレクターにもなりました(そのユニークな授業ぶりは同級生の北沢長子さんの聞き書きをお読みください)。

瑛九「夜明」
1951 銅版(※作家自刷り)
14.5x7.5cm
Ed.1(又は数部) 自筆サインあり
※林グラフィックプレス刊行の銅版カタログには「自刷りなし」と記載されているが、本作品は稀少な作家自刷りである。
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瑛九「庭」
1957 リトグラフ
33.5×21.0cm
Ed.8(ep) 自筆サインあり
*レゾネNo.92(瑛九の会)
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短大卒業後は、親のコネで某大企業に勤めたのですが、久保先生から受け継いだ自由なる精神は大企業には馴染まなかったようで、数ヶ月で退社。久保先生の紹介でJAF(ジャパン・アート・フェスティバル Japan Art Festival)に転職します。
1960年代半ばから70年代にかけて、日本の現代美術、伝統工芸を海外に紹介したJAFのことを知る人もだんだん少なくなってきました。現在の国際交流基金の先駆だったといえばよいでしょうか。
JAFについては、「国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)始末記」というとても面白いサイトがありますのでお読みください(書かれているのは社長が在籍する以前のことですが)。
ともかく社長はJAFの事務局に勤め、そこで多くの作家たちと知り合います。
瑛九は既に亡くなっていましたが、靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久はじめ瑛九のもとに集まった当時の若い作家たちが続々と海外へ進出し活躍していた時代でした。
その後、社長は再び転職します。
今度は流水書房(名前は、あのライトの落水荘に因んだときいたことがあります)という、今は無くなってしまった本屋さんが経営する画廊でした。皇居の前に端座する名建築パレスサイドビルの一階にありました。
全くの偶然ですが、同じビルに亭主の勤めていた毎日新聞社がありました。
ちょうどその頃、亭主が初めて久保貞次郎先生に出会った話は別に書きましたが、久保先生を顧問に毎日新聞の関連事業として現代版画センターを創立したのが1974年でした。

会社の意向で本社からの社員は亭主一人だけ。他のスタッフはお前が集めろということで、久保先生に相談すると「ボクの教え子にイケダ君という優秀な子がいます」の一言。
かくしてイケダさんが現代版画センターの事務局に入り、やがて亭主と結婚したのが悪夢の始まり。
左の写真は現代版画センター時代の社長(当時イケダさん、まだ独身、可愛いですね)。
後ろ姿が亭主です(まだ髪の毛がある!)。
先日、経営学の視点から美術品の流通を研究している某大学の准教授に現代版画センターが開催していたオークションについてのインタビューを申し込まれ(ようやくこういうことが学問の対象になってきたのですね)、倉庫で資料漁りをしていて発掘したのがこの写真。
ときの忘れもののスタッフに見せても、誰も社長だとは気づきませんでした・・・・・・・
瑛九、三輪龍作、磯辺行久、靉嘔、北川民次、オノサト・トシノブ、木村利三郎、竹田鎮三郎、ヘンリー・ミラーなどなど学生時代からこつこつ集めたイケダコレクションの数々は日々の資金繰りに使われ消えていきました(涙)。
火の車の現代版画センターを支え、辛酸を舐め、あげくに倒産。
その後は失業の亭主にかわり堀江謙一さん、唐牛健太郎さんたちが作ったヨット会社に勤めに出て、借金返しに奔走し、何とか返済の目途もたった1995年、やっと自分の画廊「ときの忘れもの」を開廊したのでした。
当初は、社長が画廊を経営し、その片隅に間借りした亭主が編集仕事をするという分担が決まっていたのですが、出版不況のあおりで亭主にはさっぱり仕事が来ない。
ヒマで仕方ないので社長の画廊を手伝っているうちに、いつの間にか・・・・
以上の経緯の通り、「ときの忘れもの」は100%社長のものであり、亭主は一介の使用人に過ぎません。
今後とも、よろしくご贔屓のほど、お願いいたします。
新年は1月5日より営業します。
尚、このブログは公約通り「毎日更新」しますので(いまスタッフは予定原稿の下書きに大童です)、どうぞ休み中にもご愛読ください。
大掃除、打ち上げなどなど忙しい一日になりそうですが、今年2010年は開廊15周年でした。
特別のことは何もしませんでしたが、年の最後でもあるし、たまには社長の出自と「ときの忘れもの」の由来など少し書いてみましょう。
そもそも「ときの忘れもの」とその設立者である社長の原点は瑛九でした。

瑛九「作品」
フォトデッサン 29.5×23.3cm
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ときの忘れものにいらっしゃる皆さんは、さんざん亭主の自慢話を聞かされ、聞きたくもない昔話につき合わされ、閉口しているでしょうが、実は美術界に入ったのも、瑛九を知ったのも社長のほうが、はるかに古い。
来年はその瑛九の生誕100年にあたり、故郷の宮崎の県立美術館はじめ、アトリエ(今も生前のまま夫人が守っています)のあった浦和の県と、市の二つの美術館などで大規模な回顧展が予定されています。
ときの忘れものもつい先日、連続企画「瑛九展」の第20回展を開催したばかりです。
社長の出自といっても、社長自身は頼まれてもそんなこと一言も言わないでしょうから、亭主の知る範囲でしか書けませんが・・・・
生まれは兵庫県の西宮らしい。父親の仕事の関係で千葉で育った社長は運動神経抜群で、あの小さな体で女子高時代はバスケット部のキャプテンを務めたほど。
高校卒業後に学んだ跡見学園女子短大(今はもうない)には久保貞次郎というちょっと変わった先生(学長もつとめた)がいました。ご存知の通り、日本有数の大コレクターであり、小コレクター運動を唱導し、瑛九をはじめとする一群の作家たちを物心ともに支援し続けた美術界の大立者でした。
栃木県真岡の旧家の当主であり、いくつもの蔵には膨大な美術作品が収蔵されていました。
東京市ヶ谷にもお屋敷を構え、旧軽井沢には3000坪の別荘を持つお金持ちで、宮仕えなんか全く似合わない久保先生が、跡見の生活芸術学科の科長であった今泉篤男先生(後に京都国立近代美術館初代館長)に口説かれ、短大で「児童美術」「美術鑑賞」の講座を担当するようになったのは1959年(昭和34)のこと、またたくまに女子学生の人気を集めます。
社長も僅か2年の学生生活でしたが、久保先生にすっかり感化され、その親衛隊長となり、久保先生から教室で売りつけられた瑛九のコレクターにもなりました(そのユニークな授業ぶりは同級生の北沢長子さんの聞き書きをお読みください)。

瑛九「夜明」
1951 銅版(※作家自刷り)
14.5x7.5cm
Ed.1(又は数部) 自筆サインあり
※林グラフィックプレス刊行の銅版カタログには「自刷りなし」と記載されているが、本作品は稀少な作家自刷りである。
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瑛九「庭」
1957 リトグラフ
33.5×21.0cm
Ed.8(ep) 自筆サインあり
*レゾネNo.92(瑛九の会)
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短大卒業後は、親のコネで某大企業に勤めたのですが、久保先生から受け継いだ自由なる精神は大企業には馴染まなかったようで、数ヶ月で退社。久保先生の紹介でJAF(ジャパン・アート・フェスティバル Japan Art Festival)に転職します。
1960年代半ばから70年代にかけて、日本の現代美術、伝統工芸を海外に紹介したJAFのことを知る人もだんだん少なくなってきました。現在の国際交流基金の先駆だったといえばよいでしょうか。
JAFについては、「国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)始末記」というとても面白いサイトがありますのでお読みください(書かれているのは社長が在籍する以前のことですが)。
ともかく社長はJAFの事務局に勤め、そこで多くの作家たちと知り合います。
瑛九は既に亡くなっていましたが、靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久はじめ瑛九のもとに集まった当時の若い作家たちが続々と海外へ進出し活躍していた時代でした。
その後、社長は再び転職します。
今度は流水書房(名前は、あのライトの落水荘に因んだときいたことがあります)という、今は無くなってしまった本屋さんが経営する画廊でした。皇居の前に端座する名建築パレスサイドビルの一階にありました。
全くの偶然ですが、同じビルに亭主の勤めていた毎日新聞社がありました。
ちょうどその頃、亭主が初めて久保貞次郎先生に出会った話は別に書きましたが、久保先生を顧問に毎日新聞の関連事業として現代版画センターを創立したのが1974年でした。

会社の意向で本社からの社員は亭主一人だけ。他のスタッフはお前が集めろということで、久保先生に相談すると「ボクの教え子にイケダ君という優秀な子がいます」の一言。
かくしてイケダさんが現代版画センターの事務局に入り、やがて亭主と結婚したのが悪夢の始まり。
左の写真は現代版画センター時代の社長(当時イケダさん、まだ独身、可愛いですね)。
後ろ姿が亭主です(まだ髪の毛がある!)。
先日、経営学の視点から美術品の流通を研究している某大学の准教授に現代版画センターが開催していたオークションについてのインタビューを申し込まれ(ようやくこういうことが学問の対象になってきたのですね)、倉庫で資料漁りをしていて発掘したのがこの写真。
ときの忘れもののスタッフに見せても、誰も社長だとは気づきませんでした・・・・・・・
瑛九、三輪龍作、磯辺行久、靉嘔、北川民次、オノサト・トシノブ、木村利三郎、竹田鎮三郎、ヘンリー・ミラーなどなど学生時代からこつこつ集めたイケダコレクションの数々は日々の資金繰りに使われ消えていきました(涙)。
火の車の現代版画センターを支え、辛酸を舐め、あげくに倒産。
その後は失業の亭主にかわり堀江謙一さん、唐牛健太郎さんたちが作ったヨット会社に勤めに出て、借金返しに奔走し、何とか返済の目途もたった1995年、やっと自分の画廊「ときの忘れもの」を開廊したのでした。
当初は、社長が画廊を経営し、その片隅に間借りした亭主が編集仕事をするという分担が決まっていたのですが、出版不況のあおりで亭主にはさっぱり仕事が来ない。
ヒマで仕方ないので社長の画廊を手伝っているうちに、いつの間にか・・・・
以上の経緯の通り、「ときの忘れもの」は100%社長のものであり、亭主は一介の使用人に過ぎません。
今後とも、よろしくご贔屓のほど、お願いいたします。
新年は1月5日より営業します。
尚、このブログは公約通り「毎日更新」しますので(いまスタッフは予定原稿の下書きに大童です)、どうぞ休み中にもご愛読ください。
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