建築家というもの、建築家の仕事というもの [たてもの]
深野一朗
磯崎新さんの講演が続けてありました。
まず三田の建築会館で行われた建築夜学校。テーマは「3.11以後の日本」を二夜に渡って論じるというもので、磯崎さんは第一夜で30分程度話されました。
講演で磯崎さんが示されたスライドはたった一枚。

津波により鉄骨部分だけが残り、立方体フレームが剥き出しになった、南三陸町の防災センターの写真です。
磯崎さんはこの建物をモニュメントとして残すべきだったと言います。(実際には取り壊しが決まりました。)
なぜなら、この立方体こそ、震災の記憶のみならず、「日本の近代」というものすべてを表象するものだから、というのが磯崎さんの考えです。
近代とは、未来の理想郷、すなわちユートピアを目指して社会を組み立てていくように、国家なり都市なり建築なりを「計画」していくという概念です。そして日本で近代が始まったときに、都市計画の一番基本となった単位がこの立方体フレームだというのです。
メタボリズムのときにも書いたように、未来はユートピアなんかじゃない、廃墟だ、というのが磯崎さんの一貫した主張です。磯崎さんは「近代=計画」が失敗したと断罪します。
従って、近代のテクノロジーを象徴する立方体フレームこそ、近代の失敗、計画の失敗を表象するモニュメントとして残されるべきだ、というのです。
この「立方体フレーム」が、図らずも、次の講演との連結環になります。
次は九段のイタリア文化会館で行われた特別講演。イタリアの建築家ジョルジョ・ヴァザーリの生誕500周年を記念して行われている展覧会でのシンポジウムです。
ヴァザーリはフィレンツェのウフィッツィを設計した建築家ですが、磯崎さんは1999年にウフィッツィの新出口を設計するコンペに優勝しています。

New Gate for the Uffizi Museum Limited Competition [winner], Florence, Italy, 1998
そんな縁から、磯崎さんが初めてイタリア文化会館で講演されました。
結論から言うと、このコンペ案は、10年以上経った今でも実現されていません。
実施設計も済ませ、着工にも至ったのに、いまだに「凍結」されています。地面を掘り起こしたら、遺跡が出てきたという、イタリアでは「お約束」のハプニングがあったとはいえ、それがほんとうの理由ではありません。
ひとことで言えば、「政治」です。それもイタリアにはありがちの、「政治」によって、この計画は頓挫させられています。

この案の骨子として、磯崎さんは二つの概念を導入しました。
ひとつは、「ロッジア」です。ロッジアとは、屋根の掛かった回廊のことで、イタリアの修道院へ行くと、中庭を取り囲むようにロッジアが設えられています。
下の写真は映画『グラン・ブルー』のロケにも使われたタオルミーナのホテルですが、ここももとは修道院です。

このロッジアに囲まれた中庭をキオストロといいますが、僕が世界で一番美しいと思うのは、ナポリのサンタ・キアラ教会にあるキオストロです。

フィレンツェの街には、このロッジアが点在しています。特にヴェッキオ宮のあるシニョーリア広場にある、ランツィのロッジアは有名です。

磯崎さんはひとつめの概念として、このロッジアを導入しました。
もうひとつの概念が、さきほど近代のテクノロジーとして指摘した「立方体」です。
立方体は透視図法的空間の理想的な表現です。そしてこの透視図法を方法として開発したのが、ブルネルスキといわれています。(これを理論的に記述したのがブルネルスキよりとし二十七若いアルベルティです。)ブルネルスキといえば、ご存知、花の大聖堂のクーポラを設計したフィレンツェを代表する建築家ですが、磯崎さんは、15世紀前半のフィレンツェで、透視図法が方法化されていくなか、その背後で正方形や円形といった明解な幾何学を下敷きにすることによって生まれる建築的空間が、あらためて可視化された点にこそ注目すべきと言っています。

磯崎 新
『磯崎新の思考力―建築家はどこに立っているか』
王国社 2005年
「ロッジア」と「立方体」。これほどフィレンツェという街のコンテクストを理解し、それを最大に賛辞したプロジェクトがあるでしょうか。磯崎さんの案が優勝したのは、審査員の見識でしょう。
これほどの案でも、「政治」という横槍が入り、頓挫せざるを得なかったエピソードを、磯崎さんは面白おかしく話されました。
そこには、無念とか恨みといった感情はひとかけらもなく、むしろ反対陣営に廻ったスガルビやグレゴッティといったイタリア人達への愛情すら感じられる、実に大らかな、大人(たいじん)らしいスピーチでした。
磯崎さんは今回の一件を、自身が「まれびと=異人」だったのだから仕方がない、と割り切っておられるようでした。何より磯崎さんはフィレンツェを愛しているのです。そしてこのトラブルで多くを学んだけれど、そのお返しがまだ出来ていない、何故ならウフィッツィの新出口はまだ完成していないからだ、とスピーチを締めくくりました。
実に清々しい、磯崎さんらしい感動のスピーチでした。
ところが・・・・・
話がここで終わっていれば、このシンポジウムは和気に包まれたまま終わったのですが、磯崎さんの話が終わったあとに、最前列に居た関係者らしきイタリア人が余計なことを延々と話し始めました。
曰く、プロジェクトの中止は磯崎さんが日本人だからという理由ではない、我々イタリア人は決して日本人を差別していない、何よりフィレンツェの市民が磯崎さんの案を嫌悪したのだ、市民の声を無視する訳にはいかない、云々。
これはほんとうに余計な、そしてトンチンカンなひとことでした。このイタリア人がことさら強調しなくても、磯崎さんは「まれびと」が引き起こす「controversy=賛否両論」について十分に説明したし、聴衆もそれを理解していたはずです。誰もイタリア人を責めていないし、ましてや今回の一件が人種差別に根ざしたものだなんて考えてもいません。
このバカ・イタリア人の余計なひとことが、磯崎信者の聴衆に火をつけました。
曰く、磯崎さんの案はほかの案に比べて控えめで周囲と調和している、なぜダメなのか、中止するならそもそもコンペなんてやるな、イタリアのコンペは信じられない、云々。
これに対してバカ・イタリア人は、フィレンツェの市民が嫌だと言っている、の一点張り。
ああ、なんだろう、このやり取りは。
僕は心配になって、最前列で一部始終を聴いている磯崎さんを見やりました。
こんな不毛なやり取りを聴かされる、当事者磯崎さんの心中はいかばかりだろう・・・・。
バカ・イタリア人と火のついた聴衆との応酬が終わり、最後に磯崎さんが改めて登壇されました。
そして、先ほどのスピーチとはまったく違う、とても強い語気で、はっきりと仰いました。
コジモ一世も失脚し、蜜月だったヴァザーリの時代も終わった。
しかし、現在のウフィッツィはヴァザーリの代表作として語り継がれ、500年経ったいまもこうして祝福されている。
これが建築家の仕事というものだ。
そこに携わった人間が死んでも、そのコンセプトは生き続けている。
どう言われようが僕は結構だ。これをどう解釈するか、どう受け取るかというだけの話だ。
だから、結構、やってくれ。どうでもいいことだ。
かつてヴァザーリのコンセプトが実現したように、このコンセプトはフィレンツェで必ず実現すると、僕は信じている。
それは100年後かもしれないし、200年後かもしれない。けれど、いまのウフィッツィがあるように、このロッジアは必ず実現すると僕は信じている。
さすが、全身建築家!!
だから僕は磯崎さんが好きなのです。
(ふかの いちろう)
*画廊亭主敬白
才ある人の講演を聞くのは楽しい。
しかしその面白さを文章で再現するのは難しい。
それをやすやすとやってしまう人がいる、これも才能でしょうね。
ブログ初登場(とはいえ、Fさんという名で何度かご紹介しています)の深野さんは、私どもの大切なお客様ですが、珍しいことにイタリア語を使う公認会計士さんです。
(因みに亭主のフランス往来時代の相棒Uさんはフランス語を使うやはり公認会計士ですが、今は香港で働いています。)
深野さんのブログ「ジャージの王様」は常日頃から愛読しており、デザイン、建築に寄せる薀蓄の深さに感銘し、ときの忘れもののブログにもぜひ執筆して欲しいと懇願しておりました。
なかなか首をたてにふってくださらない。
そこでとりあえず既成事実を作ってしまおうと、深野さんのブログから有無を言わさず転載してしまったという次第です。
こんな面白い講演拝聴記を磯崎親衛隊としてはほってはおけませんもんね。
◆深野一朗(ふかの・いちろう)
1968(昭和43)年千葉・市川生まれ。幼名「一郎」。小学生の頃に占い師から「女狂いする」と言われ、慌てた父が「郎」の字を「朗」に変える。以後「一朗」となる。日本大学経済学部卒。公認会計士。学生の頃から服飾に尋常ならざる情熱を燃やし、セレクトショップ通いの毎日を送る。やがてその関心はミッド・センチュリーな家具へと移り、一時期服飾の世界から完全に「手を引く」。1999年にミラノで始まった駐在員生活が、失われつつあった服飾魂に再び火をつけ、以後帰任までの4年間「服飾バカ一代」の途をひた走る。欧州各地を訪れては、ホテルと料理と美術館を堪能するという放蕩がたたり、帰任後のサラリーマン生活に悶絶の日々を送っていたが、つい最近独立した。
著書『クラシコ・イタリア ショッピングガイド』(2004年 光文社・知恵の森文庫)
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
磯崎新の版画「還元」シリーズより2点をご紹介します。

磯崎新
「還元 Reduction MUSEUM-Ⅰ」
1983年 スクリーンプリント
イメージサイズ:55.0×55.0cm
シートサイズ:90.0×63.0cm
Ed.75 サインあり

磯崎新
「還元 Reduction CLINIC」
1983年 スクリーンプリント
イメージサイズ:55.0×55.0cm
シートサイズ:90.0×63.0cm
Ed.75 サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
深野一朗
磯崎新さんの講演が続けてありました。
まず三田の建築会館で行われた建築夜学校。テーマは「3.11以後の日本」を二夜に渡って論じるというもので、磯崎さんは第一夜で30分程度話されました。
講演で磯崎さんが示されたスライドはたった一枚。

津波により鉄骨部分だけが残り、立方体フレームが剥き出しになった、南三陸町の防災センターの写真です。
磯崎さんはこの建物をモニュメントとして残すべきだったと言います。(実際には取り壊しが決まりました。)
なぜなら、この立方体こそ、震災の記憶のみならず、「日本の近代」というものすべてを表象するものだから、というのが磯崎さんの考えです。
近代とは、未来の理想郷、すなわちユートピアを目指して社会を組み立てていくように、国家なり都市なり建築なりを「計画」していくという概念です。そして日本で近代が始まったときに、都市計画の一番基本となった単位がこの立方体フレームだというのです。
メタボリズムのときにも書いたように、未来はユートピアなんかじゃない、廃墟だ、というのが磯崎さんの一貫した主張です。磯崎さんは「近代=計画」が失敗したと断罪します。
従って、近代のテクノロジーを象徴する立方体フレームこそ、近代の失敗、計画の失敗を表象するモニュメントとして残されるべきだ、というのです。
この「立方体フレーム」が、図らずも、次の講演との連結環になります。
次は九段のイタリア文化会館で行われた特別講演。イタリアの建築家ジョルジョ・ヴァザーリの生誕500周年を記念して行われている展覧会でのシンポジウムです。
ヴァザーリはフィレンツェのウフィッツィを設計した建築家ですが、磯崎さんは1999年にウフィッツィの新出口を設計するコンペに優勝しています。

New Gate for the Uffizi Museum Limited Competition [winner], Florence, Italy, 1998
そんな縁から、磯崎さんが初めてイタリア文化会館で講演されました。
結論から言うと、このコンペ案は、10年以上経った今でも実現されていません。
実施設計も済ませ、着工にも至ったのに、いまだに「凍結」されています。地面を掘り起こしたら、遺跡が出てきたという、イタリアでは「お約束」のハプニングがあったとはいえ、それがほんとうの理由ではありません。
ひとことで言えば、「政治」です。それもイタリアにはありがちの、「政治」によって、この計画は頓挫させられています。

この案の骨子として、磯崎さんは二つの概念を導入しました。
ひとつは、「ロッジア」です。ロッジアとは、屋根の掛かった回廊のことで、イタリアの修道院へ行くと、中庭を取り囲むようにロッジアが設えられています。
下の写真は映画『グラン・ブルー』のロケにも使われたタオルミーナのホテルですが、ここももとは修道院です。

このロッジアに囲まれた中庭をキオストロといいますが、僕が世界で一番美しいと思うのは、ナポリのサンタ・キアラ教会にあるキオストロです。

フィレンツェの街には、このロッジアが点在しています。特にヴェッキオ宮のあるシニョーリア広場にある、ランツィのロッジアは有名です。

磯崎さんはひとつめの概念として、このロッジアを導入しました。
もうひとつの概念が、さきほど近代のテクノロジーとして指摘した「立方体」です。
立方体は透視図法的空間の理想的な表現です。そしてこの透視図法を方法として開発したのが、ブルネルスキといわれています。(これを理論的に記述したのがブルネルスキよりとし二十七若いアルベルティです。)ブルネルスキといえば、ご存知、花の大聖堂のクーポラを設計したフィレンツェを代表する建築家ですが、磯崎さんは、15世紀前半のフィレンツェで、透視図法が方法化されていくなか、その背後で正方形や円形といった明解な幾何学を下敷きにすることによって生まれる建築的空間が、あらためて可視化された点にこそ注目すべきと言っています。

磯崎 新
『磯崎新の思考力―建築家はどこに立っているか』
王国社 2005年
「ロッジア」と「立方体」。これほどフィレンツェという街のコンテクストを理解し、それを最大に賛辞したプロジェクトがあるでしょうか。磯崎さんの案が優勝したのは、審査員の見識でしょう。
これほどの案でも、「政治」という横槍が入り、頓挫せざるを得なかったエピソードを、磯崎さんは面白おかしく話されました。
そこには、無念とか恨みといった感情はひとかけらもなく、むしろ反対陣営に廻ったスガルビやグレゴッティといったイタリア人達への愛情すら感じられる、実に大らかな、大人(たいじん)らしいスピーチでした。
磯崎さんは今回の一件を、自身が「まれびと=異人」だったのだから仕方がない、と割り切っておられるようでした。何より磯崎さんはフィレンツェを愛しているのです。そしてこのトラブルで多くを学んだけれど、そのお返しがまだ出来ていない、何故ならウフィッツィの新出口はまだ完成していないからだ、とスピーチを締めくくりました。
実に清々しい、磯崎さんらしい感動のスピーチでした。
ところが・・・・・
話がここで終わっていれば、このシンポジウムは和気に包まれたまま終わったのですが、磯崎さんの話が終わったあとに、最前列に居た関係者らしきイタリア人が余計なことを延々と話し始めました。
曰く、プロジェクトの中止は磯崎さんが日本人だからという理由ではない、我々イタリア人は決して日本人を差別していない、何よりフィレンツェの市民が磯崎さんの案を嫌悪したのだ、市民の声を無視する訳にはいかない、云々。
これはほんとうに余計な、そしてトンチンカンなひとことでした。このイタリア人がことさら強調しなくても、磯崎さんは「まれびと」が引き起こす「controversy=賛否両論」について十分に説明したし、聴衆もそれを理解していたはずです。誰もイタリア人を責めていないし、ましてや今回の一件が人種差別に根ざしたものだなんて考えてもいません。
このバカ・イタリア人の余計なひとことが、磯崎信者の聴衆に火をつけました。
曰く、磯崎さんの案はほかの案に比べて控えめで周囲と調和している、なぜダメなのか、中止するならそもそもコンペなんてやるな、イタリアのコンペは信じられない、云々。
これに対してバカ・イタリア人は、フィレンツェの市民が嫌だと言っている、の一点張り。
ああ、なんだろう、このやり取りは。
僕は心配になって、最前列で一部始終を聴いている磯崎さんを見やりました。
こんな不毛なやり取りを聴かされる、当事者磯崎さんの心中はいかばかりだろう・・・・。
バカ・イタリア人と火のついた聴衆との応酬が終わり、最後に磯崎さんが改めて登壇されました。
そして、先ほどのスピーチとはまったく違う、とても強い語気で、はっきりと仰いました。
コジモ一世も失脚し、蜜月だったヴァザーリの時代も終わった。
しかし、現在のウフィッツィはヴァザーリの代表作として語り継がれ、500年経ったいまもこうして祝福されている。
これが建築家の仕事というものだ。
そこに携わった人間が死んでも、そのコンセプトは生き続けている。
どう言われようが僕は結構だ。これをどう解釈するか、どう受け取るかというだけの話だ。
だから、結構、やってくれ。どうでもいいことだ。
かつてヴァザーリのコンセプトが実現したように、このコンセプトはフィレンツェで必ず実現すると、僕は信じている。
それは100年後かもしれないし、200年後かもしれない。けれど、いまのウフィッツィがあるように、このロッジアは必ず実現すると僕は信じている。
さすが、全身建築家!!
だから僕は磯崎さんが好きなのです。
(ふかの いちろう)
*画廊亭主敬白
才ある人の講演を聞くのは楽しい。
しかしその面白さを文章で再現するのは難しい。
それをやすやすとやってしまう人がいる、これも才能でしょうね。
ブログ初登場(とはいえ、Fさんという名で何度かご紹介しています)の深野さんは、私どもの大切なお客様ですが、珍しいことにイタリア語を使う公認会計士さんです。
(因みに亭主のフランス往来時代の相棒Uさんはフランス語を使うやはり公認会計士ですが、今は香港で働いています。)
深野さんのブログ「ジャージの王様」は常日頃から愛読しており、デザイン、建築に寄せる薀蓄の深さに感銘し、ときの忘れもののブログにもぜひ執筆して欲しいと懇願しておりました。
なかなか首をたてにふってくださらない。
そこでとりあえず既成事実を作ってしまおうと、深野さんのブログから有無を言わさず転載してしまったという次第です。
こんな面白い講演拝聴記を磯崎親衛隊としてはほってはおけませんもんね。
◆深野一朗(ふかの・いちろう)
1968(昭和43)年千葉・市川生まれ。幼名「一郎」。小学生の頃に占い師から「女狂いする」と言われ、慌てた父が「郎」の字を「朗」に変える。以後「一朗」となる。日本大学経済学部卒。公認会計士。学生の頃から服飾に尋常ならざる情熱を燃やし、セレクトショップ通いの毎日を送る。やがてその関心はミッド・センチュリーな家具へと移り、一時期服飾の世界から完全に「手を引く」。1999年にミラノで始まった駐在員生活が、失われつつあった服飾魂に再び火をつけ、以後帰任までの4年間「服飾バカ一代」の途をひた走る。欧州各地を訪れては、ホテルと料理と美術館を堪能するという放蕩がたたり、帰任後のサラリーマン生活に悶絶の日々を送っていたが、つい最近独立した。
著書『クラシコ・イタリア ショッピングガイド』(2004年 光文社・知恵の森文庫)
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
磯崎新の版画「還元」シリーズより2点をご紹介します。

磯崎新
「還元 Reduction MUSEUM-Ⅰ」
1983年 スクリーンプリント
イメージサイズ:55.0×55.0cm
シートサイズ:90.0×63.0cm
Ed.75 サインあり

磯崎新
「還元 Reduction CLINIC」
1983年 スクリーンプリント
イメージサイズ:55.0×55.0cm
シートサイズ:90.0×63.0cm
Ed.75 サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
コメント