若くして亡くなった山際淳司さんの「スローカーブを、もう一球」というノンフィクションをご存知でしょうか。
亭主がときどき(しばしば)公私混同して自慢(宣伝)する母校群馬県立高崎高校の野球部が初の甲子園の選抜大会出場を決めた、1980年秋の関東大会決勝の戦いぶりを描いたものです。
山際淳司内容については松岡正剛さんの千夜千冊に詳しいのでお読みいただきたいのですが、あれから31年、再び選抜大会出場をわがタカタカ(高高)が決めてくれました。
あのときは、軟投派川端君の人を食ったようなスローカーブであれよあれよという間に決勝に進んで、結局は敗れたんですが、センバツ出場となり大騒ぎとなりました。
今回は、実力でも関東大会4強、21世紀枠でも可能と、出場は間違いないと思われており、昨秋からOB達は盛り上がっていました。
クラス会幹事からは先日、募金を呼びかけるメールが届いたばかりです。

ところが、昨日の東京新聞に<31年前の野球部後援会に2000万円もの使途不明金があることが判明した>という記事が掲載されました。
野球部後援会は約15年前から休眠状態で(つまり弱いわけですね)、今回、復活させようとしたら、通帳や決算資料が見つからず、不祥事があきらかになったというもの。
亭主もうろ覚えですが、31年前の初出場ではOB達が熱狂し、1億円も寄付金が集まっちゃった。甲子園では初戦敗退でしたので、8000万円も余ったという話は聞いていました。
きっとその余ったお金の一部がどこかへ消えちゃったのでしょう。
現役の野球部員たちがこういう大人の不始末で煩わされるのは気の毒です。それにしても杜撰な運営は情けない。

母校高高は明治30年創立の群馬では古い高校(旧制高崎中学)ですが、進学校ということもあり、スポーツは盛んなのですが弱い。
亭主が在学したのは1961~1964年ですが、バンカラな校風でラグビーが校技というほど皆熱中しました。しかしラグビー部が強いかというとそんなことはなく、他にもクラブが乱立(?)していて(中には部員1人という部もあった)どこも慢性的部員不足でした。
ラグビー部員が13人しかいない時に他の部から助っ人を借りて国体優勝したとか、バスケット部が3人でインターハイを戦ったとかの伝説にはこと欠きませんでした。
もともと頭のいい子が集まるので、部は弱いけれど中に一人や二人出色の才能がいる。剣道や柔道で中学時代県下一だった同級生もいましたが、高校は団体戦なので一人図抜けたのがいても結局は敗退する。
最も有名な伝説は、東大野球部があわやという旋風を巻き起こしたことがあるのですが、そのときのエースが高崎高校出身でした。彼は弱い高高ではもちろん甲子園などには出られなくて、神宮の六大学野球を目指します。自分の実力では早稲田や立教などでは通用しない、ならば自分が神宮で投げられるのは最弱の東大と考え、猛勉強して現役で合格したというものです。
毎年夏の甲子園予選が終わると(初戦か二回戦で負けるのが常だった)、3年生が引退し1、2年生が翌春のセンバツ目指して練習するのですが、毎年のように野球部の部長(教頭先生だった)が墨痕鮮やかに「明治三十一年創部、わが伝統ある高崎高校野球部はいま部員が9人に満たず、このままだと秋季大会にも出場できない。経験を問わないので入部を乞う。」と大書して掲示したものです。
亭主も、TMO(高崎高校マンドリン・オーケストラ)のOB会のメンバーであり、野球部とは比較になりませんが、毎年夏の現役・OBの合同演奏会の会場費や楽器代などに少なからぬ寄付金をOB達から募り運営しています。
以って他山の石としましょう。

先日のブログへのアクセス急増の影響か、ときの忘れもののホームページ本体へのアクセスも増えているようです。
おかげさまで日本語ページは10数年の蓄積により、グーグルやヤフーの検索でもほとんどのページが上位にランクされ、一日平均5千人ほどのアクセスがあります。
それに比して英語版の貧弱さは覆いがたく、アクセスも平均200人足らず。その200人の中には当然亭主たち身内のアクセスも入っているので、実数はもっと少ない、まことに残念無念。
ひとえに語学オンチの亭主の責任でありますが、何とか内容を充実させて海外向けの営業を強化したいというのが2012年の課題です。
そんな貧弱な英語版ホームページですが、それでも海外からの問合せはしょっちゅうあります。
草間彌生安藤忠雄植田正治がベスト3。
最近は瑛九元永定正などへの問合せも増えてきました。

いま英語に堪能な新人スタッフたちにより英語版の改編作業が進められています。
一朝一夕には参りませんが、日本の作家たちが世界に発信するお手伝いをネットを通じてできればと思っています。

銀塩写真の魅力Ⅲ/裸婦は美しい」の会期も今日と明日の二日間となってしまいました。
出品作品すべてのご紹介はできませんが、ぜひご来廊のうえ、ゼラチン・シルバー・プリントの素晴らしさを実感してください。
ときの忘れものでは初登場のカート・マーカスは、写真のほかに映画でも活躍しています。
カート・マーカス
カート・マーカス Kurt MARKUS
"Lisa Marie, Montana 1991"
1991年
ゼラチンシルバープリント
35.5x27.8cm
サインあり

■カート・マーカス Kurt MARKUS
写真家。1947年アメリカ・モンタナ州に生まれる。
カート・マーカスのキャリアはカウボーイの生活とアメリカ西部に広がる景色の撮影から始まった。ポートレート、音楽、スポーツ、報道(ルポルタージュ)、ファッション、広告など幅広いジャンルでの写真において自分の美意識を表現し続けている。
近年では、ミュージックビデオの制作や映画「Deep Six」の脚本を執筆し、この作品はロサンゼルス・シネマ賞勲章賞とロサンゼルス・ムービー賞特別賞を受賞した。主な写真集に『After Barbed Wird』、『Boxers』、『Cowpuncher』などがある。

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