「久保貞次郎とヘンリー・ミラー研究会」 臼田紘

1、久保貞次郎について
 久保貞次郎(1909~96)さんをごぞんじだろうか。久保さんは一般には美術評論家として知られ、また町田市立国際版画美術館の初代館長として名を残しているが、それのみならず、非常に多面的な活躍をされた方である。ここではそれをすべて挙げる余裕はないので主なものだけを見ておこう。まず第1に、久保さんの美術の世界との関わりは、東京大学文学部教育学科を卒業していることからもおのずと方向が決まるのだが、児童画、児童美術の普及からはじまっている。地方の素封家の出身である久保さんは、30歳になる頃から児童画を公募して公開審査を行なうということを実行し、収集した児童画の展覧会を日本の各地で開催し、同時に研究会も開いている。これは第2次大戦後の1952年に「創造美育協会」(通称「創美」)の設立となり、全国でセミナーを実施し、美術教育に携わる学校教員に大きな影響を与えた。

 第2は、1956年に発足させた「よい絵を安く売る会」によって小コレクター運動を起こしたことである。美術に親しむためには〈見るだけでなく、作品を持つことだ〉という考えのもとに、才能ある新進の作家たちに版画を作らせ、それを安く頒布する運動を起こした。これによって、多くの美術愛好家を作り、また若手作家の生活を支えた。

 第3に、ヘンリー・ミラー研究会の創立である。

2、久保貞次郎とヘンリー・ミラー
 日本でヘンリー・ミラーの名前が登場するのは、陸川博著の『日本におけるヘンリー・ミラー書誌』によると、第2次大戦後の1950年前後である。久保さんは、1954年、秘密出版による『セクサス』の翻訳が出た時にはじめてこのアメリカの作家の名前を知った。そして、1955年にブリジストン美術館で特別展示として開催された「ヘンリー・ミラー水彩画展」に赴き、3点の水彩画を購入している。久保さんは〈作品を評価することは、それを購入すること〉という独特な考えの持主で、評価する作品はただ口で称賛するだけでなく金を払って買い求めたことでも有名である。久保さんは翌年ミラーにその作品を称賛する手紙を送り、ミラーはそれをたいそう喜んで長文の返信を書き送っている。その後、1967年の春、渡米した際に、パシフィック・パリセーズのミラーを池田満寿夫らと訪れ、はじめてミラーと会うが、その際にはミラーの版画を日本で制作したい旨申し出て了解を得ている。以降、久保さんはミラーの絵画作品を版画で広めることに専念する。

 しかし久保さんはヘンリー・ミラーについて、その絵画を評価しただけでなく、文学作品と作家そのものにも惚れ込んでいる様子が、著作の随所に見られる。文学作品について正面から取り上げた文章はないが、ロサンジェルスの古書店に行けばオベリスク・プレス版の『暗い春』を求め、またミラー作品のなかに見られる考えに、わが意を得たものを発見して、その喜びをエッセーのなかで記している。ミラーの美術や文学のなかで久保さんが共感を寄せるのは、ミラーの何ものにも捉われない《自由の精神》である。

3、ヘンリー・ミラー研究会の発足
 久保さんは大戦後、跡見学園という1875年に跡見花蹊によって設立された女学校に短大が新設されることになり、そこで生活芸術科という学科の教員に就任した。そして教授、生活芸術科科長となり、1977年には学長に就任した。久保さんの跡見短大における功績については省略するが、その人柄が反映して当時の短大は、面倒な規則などに煩わされない自由な気風の風通しの良い学校であった。久保さんは、図書館に日本版の「ヘンリーミラー・アーカイヴス」を設けるべく、ミラーの文献に詳しい陸川博氏を司書に迎えて、文献の収集に乗り出した。85年に学長を退任するが、その翌年、ヘンリー・ミラー研究会を短大内に設立した。久保さんの後任学長が、永年早稲田大学で英文学科の教授を務め、定年後跡見短大の英文科科長に就任した鈴木幸夫氏だったことも幸いし、研究会は飛田茂雄氏や本田康典氏といった専門家も加え、順調に船出した。ヘンリー・ミラーというその小説が発禁になるような作家の研究会が女子短大に設けられたことで、一部の研究者を驚かせたが、久保さんはそうした小事に捉われず、このアメリカの文豪の気宇壮大な本質を見抜き、一般のミラー理解の糸口を作った。

久保貞次郎略年譜(ヘンリー・ミラーとの関わりを中心とする)

1909(明治42) 栃木県足利市の素封家に生まれる。第3子、4人兄弟の二男。
1927 成蹊高等学校に入学
1928 日本エスペラント学会に入る
1930 東京帝国大学文学部教育学科に入学
1933 東大卒業。修身、英語の教員免許
1935 日米学生会議に参加のため、渡米
エスペラント学会の派遣で九州に出張し、宮崎で瑛九と出会う
1936 紀伊國屋画廊「瑛九フォトデッサン展」をオノサト・トシノブらと支援
1937 東大大学院修了(社会教育専攻)
1938 義祖父80歳の記念事業として真岡小学校に久保講堂を建築(遠藤新設計)寄贈。児童画公開審査会を実施(審査員:羽仁五郎ほか)
8月、児童美術、美術研究のために北米、欧州旅行(翌年5月末まで)
1939 第3回児童画公開審査会。久保コレクション世界児童画展を各地で開催
以降毎年、公開審査会を真岡で、児童画展を全国各地で実施
1946 日本文化人連盟の支部を栃木県芳賀郡に立ち上げ、民主化運動に専念
1948 児童美術研究会を発足
1952 創造美育協会を設立、第1回創美全国セミナーを実施、以降各地で展開
1954 秘密出版の『セクサス』の分冊が送られてくる
1955 ブリヂストン美術館特別展示で「ヘンリー・ミラー水彩画展」を見る
1956 瑛九の主唱で「よい絵を安く売る会」を発足。小コレクター運動を起こす
ミラーの住所を調べ手紙を出す。年末に返事をもらい、以降文通
1959 今泉篤男の推薦で跡見学園短期大学に出講。「児童美術」などを担当
1966 ヴェネツィア・ビエンナーレ日本代表(池田満寿夫靉嘔らの作品を出品)
1967 サン・フランシスコでのシンポジウムの機会に、ミラーを訪問。
リトグラフ制作の許可を得る。ついでニューヨーク、メキシコを訪れる。
サン・パウロ・ビエンナーレ審査員としてブラジルに行き、帰路欧州歴訪
パリ郊外で、ヘンリー・ミラー、ホキ徳田夫妻に会う
1968 「ヘンリー・ミラー絵画展」(新宿伊勢丹、ほか)開催
1970 パリの「現代日本美術展」のオープニングに出席。欧州各地を歴訪
カリの「汎アメリカ版画展」審査員としてコロンビアに行く。
その途中、ロサンジェルスで休憩。ミラーを訪問
グッゲンハイム美術館の「現代日本美術展」オープニングに出席
1972 ケンタッキーで開催された「日本現代版画 ’72」の日本側コミッショナー
ミラーを訪問。リトグラフの画稿料を支払う
1973 編著『文豪ヘンリー・ミラー版画総目録 1948 – 1973 』(阿部出版)
1977 跡見学園短期大学学長に就任(85年まで)
1980 共編著『ヘンリー・ミラー、絵の世界』(叢文社)出版
1981 「文豪ヘンリー・ミラー絵画展」(西武美術館アートフォーラム)
ミラーのベザレル・シアッツ宛書簡420通を購入
1984 『ヘンリー・ミラー』(「久保貞次郎美術の世界」第8巻、叢文社)出版
1985 ヘンリー・ミラー研究会を跡見学園短期大学図書館内に設立、会長に就任
1986 『ヘンリー・ミラー研究会会報』第1号刊行 (93年第8号まで)
町田市立国際版画美術館館長に就任(93年まで)
1987 「ヘンリー・ミラー水彩画展」(町田市立国際版画美術館)
講演「ヘンリー・ミラーの絵画について」(町田市立国際版画美術館)
私家版『ヘンリー・ミラー語録』出版
ヘンリー・ミラー没後7年講演会と『ヘンリー・ミラー、オデッセイ』上映会(池袋西武スタディオ200)
飛田茂雄氏の提言で跡見短大図書館内に「ヘンリー・ミラー文庫」開設
1988 講演「ヘンリー・ミラーの文学と美術」(名古屋河合塾)
1989 講演「ヘンリー・ミラーの版画について」(名古屋)
日本エスペラント学会会長に就任
1990 「絵画の魔術師ヘンリー・ミラー展」(キリンプラザ大阪)
共編著『絵画の魔術師ヘンリー・ミラー』(講談社)出版
1991 「生誕100年記念ヘンリー・ミラー絵画展」(銀座松屋、ほか)
講演「ヘンリー・ミラー、絵の世界」(静岡駿府美術館)
1992 久保コレクション所蔵贋作展を銀座の画廊で開く
ヘンリー・ミラー研究会を日本ヘンリー・ミラー協会と改称。会報も改題
日本ヘンリー・ミラー協会第1回大会開催
日本ヘンリー・ミラー協会「ニューズ・レター」第1号を発行(94年第4号まで)
1993 版画美術館館長退任。版画美術館にて「久保貞次郎と芸術家展」開催される
1994 日本ヘンリー・ミラー協会の活動停止、第2次日本ヘンリー・ミラー協会発足
1996 逝去
1999 「久保貞次郎ヘンリー・ミラーコレクション展」(ヘンリー・ミラー美術館)

*「日本ヘンリー・ミラー協会ニューズ・レター」より再録

■臼田紘(うすだひろし)
元跡見学園短大学長、現・跡見学園女子大学名誉教授
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*画廊亭主敬白
久保貞次郎先生が1996年10月31日に87歳に亡くなられた後、靉嘔先生らの呼びかけで追悼集の編集と偲ぶ会の開催が計画された。
追悼集は1997年10月15日に『久保貞次郎を語る』(文化書房博文社)として刊行され、同時期に茗荷谷の跡見学園短期大学で偲ぶ会が開催された。
跡見短大の当時の学長が臼田紘先生で、偲ぶ会の開催にご尽力された。
久保先生は跡見でユニークな授業をされ多くの学生に慕われたが、時間が経つとそういうこともだんだんと忘れられてゆく。
私どもにとっても恩師であり、大恩人であった久保先生のことを少しでも若い世代の皆さんに知っていただきたくて、臼田先生のお許しを得て再録させていただいた。
DSCF4728靉嘔「久保貞次郎の肖像」
靉嘔
「久保氏像B」
1974年 シルクスクリーン
30×24cm
Ed.50 サインあり
*レゾネNo.269-B(叢文社)

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