草間彌生と瑛九 第二回 深野一朗

クマンバチガ クレバイイ

一昨年の末に「アート宣言」をしたきっかけが、北川民次のエスキースであったことは、前に書きました
何も知らずにBEAMSでオノサトと靉嘔の版画を手に入れ、この三人が「久保貞次郎」なる人物と密接に結びついていることを、おなじみ「ときの忘れもの」の綿貫さんに教えて頂き、単なる偶然を必然と思い込む生来の単細胞が、僕をアートにのめり込むませることになったのです。

この久保貞次郎が、肩入れして止まなかったのが、瑛九です。

中原佑介、東野芳明と並んで美術評論の「御三家」と言われた針生一郎は、こう書いています。

わたしは五〇年代末、『芸術新潮』の異色作家特集に書いたとき、「瑛九という名を聞くと、わたしはジンマシンにかかったみたいに、全身がむずかゆくなる。彼を知る人びとはみな、瑛九はすごい、天才だなどというが、彼は病気がちでめったに東京に出てこないから会えず、作品をみる機会も少ない」という書き出しで、「瑛九を神棚に祭りあげるな、久保貞次郎から解放しろ」と結んだ。

針生がこう書くほど、久保は瑛九の庇護者だったようです。

タミジ先生は凄くいい。オノサトと靉嘔もいい。

しかし瑛九は……

正直に申せば、初め、ときの忘れものさんのHPで瑛九の作品群を見ても、僕にはあまりピンと来ませんでした。

それは、あまりに作風が多彩で、掴みどころがない、捉えどころがないためでした。

例えば、タミジ先生の絵ならひと目で分かります。オノサト然り、靉嘔然り。いずれもスタイルがはっきいしていて、ひと目でそれと分かるのです。

ところが瑛九ときたら、具象的な絵があるかと思えば、
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抽象的な絵がある。
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印画紙に直接焼いた写真のようなものがあれば、
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シュールな絵柄の版画もある。
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いったい、どれが本当の瑛九なのか。「これぞ瑛九」というのは、どのような作品なのか。

僕にとって瑛九は「理解不能」な芸術家でした。

分からないなら、分からないで、いいではないか。そんなご意見もあろうかと思いますが、僕にはそうもいかない事情がありました。浦和にあった瑛九のアトリエには、彼を慕って連日、若い作家たちが集ったといいます。靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久、河原温、福島辰夫、細江英公ら「デモクラート美術家協会」の面々です。その誰もが後に、世界的なアーティストとなったことは周知の事実です。それだけならまだいい。問題は、彼らほど頻繁ではないにせよ、その中に、一人の若き建築家が交じっていたという事です。誰あろう、磯崎新さんです。
これほどの人たちに大きな影響を与えた瑛九とは何者なのか。
そして死してなお、内外に若いコレクターを生み続けるこの「水脈」の源流はどこにあるのか。

僕にとって瑛九は、分からないでは済まされない、避けては通れない、大きな「謎」だったのです。

こんな理由から、生誕100年を記念して昨年埼玉で行われた瑛九展には、まなじりを決して臨みました。

瑛九を名乗る前の本名「村田秀夫」時代の作品から始まって、エスペラントの影響、おなじみ変幻自在のメディア。一昨年から猛スピードでアートを観てきて、少しは慣れてきたせいか、当初持っていた瑛九への「分からなさ」が、雪がジンワリ融けるように、少しずつ和らいでいく気がします。

ある油彩の前で、妻が思わず声を上げました。
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なんだ、草間先生より、瑛九が先にやっているじゃない!
妻が思い出していたのは、前に吉祥寺美術館で見た、ある草間の版画でした。
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確かに、似てなくはないですが、瑛九のほうが、よりチャーミングです。

チャーミング。

瑛九の展示を観ていて感じたのは、この「チャーミング」という感じです。

銅板やフォト・デッサンに多く見られる男と女のモチーフ。
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まるでイタズラっ子が描いたような、小さなモンスターたち。
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「ユーモラス」とは違う。「チャーミング」こそ瑛九ではないか。

瑛九という大きな謎が、少しずつ解けてきたような気がしました。

瑛九、分かるかも!

ところが……

そんな淡い期待を胸に、最後の展示室に入った途端、僕の浅はかな思い込みは、粉々に砕かれます。

そこには、とんでもないものが待ち受けていたのです。
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(画像はこちらのサイトから拝借したものです。以下同じ。)

それは瑛九が1960年に亡くなるまでの2年間に描き続けた、一連の点描画の群れでした。

58年に瑛九は、創美運動の中心メンバーだった福井県の小学校教師、木水育男に宛てた手紙にこう綴っています。

僕は啓蒙家で、絵画の周囲をぐるぐるまわっていて画家だと思っていたのです。
(中略)
こういう自己から脱出して絵画の中に突入できるかどうか、最後の冒険を試みようとしています。
油絵の表現をおしすすめるためには油絵を描かねば ぜったいその方法をかくとくできぬものなのです。
2、3枚かいては思想だ ポエジーだと議論していても油絵のヒミツはつかまえることができない。


また、靉嘔に宛てた手紙にも、次のように書いています。

5年ばかり画壇に背をむけて最後のカケをやるつもりで大作をかくつもりです。

これらの言葉の通り、瑛九はほとんど外出もせず、孤独な画業に専念し始めたといいます。

以下、宮崎日日新聞のサイトより引用します。
(引用ここから)

1960(昭和35)年2月、東京都・銀座兜屋画廊で「瑛九油絵展」と題する展覧会が開かれた。瑛九が文字通り命を削って描き上げた、油彩点描画大作9点の初披露である。

 訪れた友人たちは、彼が到達した新たな画境の深さに息をのんだ。一方で、ずらりと並んだ美しい絵画の奥底に、どこか空恐ろしい気配を感じ取る者もいた。

 「瑛九は大丈夫なのか?これだけの仕事ができたのはただごとではない」。ある画家はそんな不安を漏らした。心配を裏付けるように、個展初日から、作者である瑛九の姿は会場のどこにも見えなかった―。

 時間は3カ月前にさかのぼる。59(昭和34)年11月10日夜、大作「つばさ」を制作中に激しい腹痛に襲われた瑛九は、埼玉県さいたま市の浦和中央病院に入院することになった。

 検査結果は腸閉塞(へいそく)。加えて腎臓にも、腎硬化症の兆候があることが判明した。この数年、毎日14時間を点描画制作に割いた日々の過労が、予想以上に体を弱らせていたのだ。

 約1カ月後の12月19日、退院。同市の自宅で療養することになった。病床でも仕事への意欲はやみがたい。久々の個展「瑛九油絵展」を構想して計画を練る一方、具合の良い時を見計らい、中途に終わっていた「つばさ」を描き継いで、ついに完成させている。

 揺るがない絵画への情熱。しかし退院からわずか19日後の60(同35)年1月7日には、再入院となってしまう。病状は悪化の一途をたどり、同年2月24日に東京都神田の同和病院に転院して以降は、尿毒症の症状も出てきた。

 衰弱していく。精神にも弱りが見え始めた。「絵が描きたい、絵が描きたい」。そう言って涙を流すことさえあった。そんな夫に、妻の谷口都は小さなスケッチブックと色鉛筆を買ってきた。瑛九は喜び、早速デッサンを1枚書いた。

 「ヒミツ」という哀切な詩を瑛九が書いたのは、その翌朝のことである。

 「くまんバチガ/マイアサ サシタドガ/イタカ イタカ/ナイテイマシタ/クマンバチハ/白衣の天使/ガ サスノデス/ナンタラコトダベエ/ソレデモ アルアサハ/カナシクテ/アマリアマリ カナシクテ/イタイ イタイ/クマンバチガ/クレバイイト/イノッタノデス」

 「ヒミツ」を書いた2日後の同年3月10日朝、目覚めた瑛九は、傍らの都にしみじみと語り掛けた。「僕は元気になったら、とても素晴らしい油絵がどんどん描けるような気がするよ。早く退院して大きな作品が描きたいなあ

 病状が急変したのは直後だった。呼吸困難に陥り、のたうち回って苦しんだ後、瑛九は静かに息を引き取った。直接原因は急性心不全。享年48歳。「絵が描きたい」―。最期の、そして生涯抱き続けた純粋な願いは、ついに再びかなわなかった。(敬称略)
(引用ここまで)

一連の点描の大作は、文字通り瑛九が命を削って描いた作品なのです。

展覧会場で、これらの作品を観たとき、僕は思いました。

やりすぎだ。これは死ぬ。ここまでやったら死んでしまう。

そう思わずにはいられないほど、瑛九の点描には、凄まじい鬼気が宿っていました。これほど人間の気迫と執念が宿った絵を、僕はほかに知りません。怖ろしいものを見た・・・それが率直な感想です。

絶筆となった『つばさ』です。
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都夫人は当時を振り返り、「この絵を見るのは、怖かった。あの頃、瑛九の命がこの絵の中へぐんぐん吸い取られて行くように思えた」と言っています。
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瑛九を知らない人、或いは彼の点描をじかに見たことのない人には、是非これらの絵を見て貰いたい。

その砂嵐のような点描の中には、一人の画家が命を懸けて描いた絵がどんなものか、瑛九という画家がどういう画家だったのか、秘密の鍵が隠されています。

イタイ、イタイ、と泣きながら、ついに瑛九は絵画のヒミツをつかめたのかしら。
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ふかのいちろう(つづく、ブログ「ジャージの王様」より転載)

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