草間彌生と瑛九 第三回  深野一朗

草間彌生と瑛九

さて、そこであらためて草間彌生と瑛九です。

ふたりを比較することにどれほどの意味があるか分かりませんが、似通った作品を見つけることは出来ます。

草間
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瑛九
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(画像はときの忘れものさんのHPより拝借しました。以下同じ。)

草間
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瑛九
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2005年7月より埼玉県立近代美術館では、「キュレーターの視点-〈点〉と〈網〉」という常設展を開催していますが、その展覧会についてキュレーターは次のように解説しています。

常設展の特別プログラム「キュレーターの視点」は、自由なテーマの設定、斬新な作品の組合せ、実験的な展示方法などに挑戦することで、美術館のコレクションにユニークな視点から光をあてる実験的な試みです。
第二弾となる今回のテーマは「点と網」。
以前から取り組んでみたいテーマでしたが、常設展リニューアル後の作家特集として瑛九と草間彌生の展示を担当したこともあり、瑛九の点描がもたらす浮遊感のある空間表現の魅力や、草間の網目モチーフがもたらす幻惑的な表現の魅力を、作家という枠組みとは別な視点から探ってみたいと感じていました。


また、先日の瑛九展をご覧になった植田実先生は、次のような感想をブログに書かれています。

たとえば草間彌生の点描と瑛九の点描とを並べる企画展ができたらと思う。点のひとつひとつが自立完結し、集まった全体が生命を得て動き出すような草間の点描の強靭さにたいして、何かを探り求めるような、多分それ故にあまりにも美しい瑛九の点描は、ある意味で「弱い」。その弱さのなかにこそ成長しつづける永続性と尽きせぬ魅力がある。

どうやら、「瑛九VS草間」というのは、美術愛好家、とりわけ美術館のキュレーターや植田先生のような玄人には興味の尽きないテーマのようです。

そこで素人の僕が、瑛九と草間について、比較してあれこれ言うのは、1億年早いのですが、昨年瑛九の大きな回顧展を観て、今回大阪で草間の最近作を観ることができて、ひとつ感じたことがあるので、ここに書かせて頂きます。もちろん、絵画の技術的な話や、影響を与えたであろう美術の流れ(印象派とかアンフォルメルなど)についてあれこれ言うことは、能力的に出来ません。

もっと「ざっくり」した感想なので、玄人の方は、どうぞ怒らないで頂きたい。

まず、ふたりの共通点はなんでしょう?

それはふたりとも「絵描き」であるということです。

いま海外から瑛九のフォト・デッサンが注目されていますが、これは瑛九にとっては「絵」です。写真ではありません。フォト・グラムをフォト・デッサンと呼んだのはこういう訳です。

草間もインスタレーションや彫刻をやりますが、時間さえあれば絵を描いていたい、生まれ変わっても絵描きになりたい、と常々口にしています。

ふたりとも絵描き。それが共通点です。

当たり前だ、馬鹿にするな、と怒らないで下さい。僕はふたりの共通点は、実はこれぐらいしかないと考えています。もしこれに付け加えるなら、ふたりとも稀代のコロリスト、色彩の画家だということです。絵描きであることに変わりはない。

ふたりとも前衛では?

確かに草間はそうです。何しろ自己紹介するときに、自ら「前衛芸術家」を名乗るほどです。

しかし、瑛九はどうでしょう。

ここに強烈な助っ人にご登場願いましょう。引用します。

瑛九に対する誤解の第一は、瑛九に冠せられた「前衛」にあります。瑛九は前衛ではありません。後衛でもありません。
戦後は新しさが最大の価値観でした。進歩的知識人を自負する人たちは、革命分子のアジテーターとなることで自分の存在を主張してきました。瑛九は芸術における革命家ではないかと誤解されました。

(中略) 
近代美術を評するのに「前衛」と言う言葉が使われだしたのは社会主義革命と無縁ではありません。社会主義革命の思想を芸術の世界に持ち込んだのはマルセルデュシャンを代表とする「ダダ」運動です。それは価値観の破壊と否定を美学とする芸術運動です。瑛九がフォトデッサンの手法を開拓したことを「ダダ」のマンレイやホモリナギの模倣と考え、だから瑛九は日本の「ダダ」運動の中心者のように誤解されました。マンレイのフォトグラムと瑛九のフォトデッサンはその手法が根底的に異なっています。瑛九が写真術を使ったのは彼の新しさのためではありません。瑛九は「技術は発明されたときから普遍的です。その技術を使うことは新しさではありません。」「新しさは画家の精神です。」と言っていました。
瑛九はデュシャンの対極にありました。瑛九は、古代人と同じ手法、ドローイングで自分を表現しようとしました。瑛九は絵画の原点から離れようとしたことはありません。瑛九の表現にコンセプトはありません。あるとすれば意識の支配下からの解放でしょう。瑛九は、考えて作品を構成しようとする心と戦いました。1937年頃カーボン紙を使ったデッサンを試みています。これは不透明なカーボン紙を使いますので描画した線を見ることが出来ません。視覚的に画面を構成しようとする意識から自分を解放するためでした。この事はこのデッサンを前にして瑛九自身が語ってくれたことです。同じ抽象でもこの点に於いてカンディンスキーと異なります。瑛九は精神が直接手の動きになることを心がけました。

(中略)
浅薄な批評家達が瑛九を「前衛芸術の父」と表現することが的はずれであると理解していただけたでしょうか。日本の批評家は欧米の美術批評に従って、日本の画家を分類し、欧米の画家の批評を当てはめているように思えます。しかし、瑛九の芸術はその類例を他に見つけることが出来ません。欧米との比較で瑛九を見ようとしても何も見えてきません。

この強靭な文章の書き手は、瑛九の評価を「世界の瑛九」にまで高めることに命を懸ける男、加藤南枝氏です。加藤氏は2006年9月12日放送のテレビ『開運!なんでも鑑定団』に瑛九の『田園』を引っさげて登場し、5千万円の評価額を付けさせた方です。視聴者はもちろん番組関係者も度肝を抜かれたなか、当の加藤氏本人は涼しい顔をしていたそうです。
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さもありなん、加藤氏のHPを開くと、その『田園』の絵とともに、大きな文字でこう書いてあります。

この絵売ります

そして、その下にこう書いてあります。

日本の歴史と文化を代表する絵画はこの絵です。
日本の文化が欧米と対等であるなら、この絵が国際市場に於いて100億円相当の評価を受けてもおかしくありません。
一歩下がって、少なくとも30億円くらいで売りたいと思います。その目的は瑛九を正当に評価できる人物を国内外から捜し出し、瑛九の名をポピュラーにすることです。
もし外国に渡ることになれば、やがて、この「田園」を日本に買い戻すため売却値の二三倍の金額を提示することになるでしょう。その時初めて真の評価が下されたことになります。
私の目的はそこで達成されます。多分私の死後でしょうが。


100億円、少なくとも30億円で売りたいお方ですから、5千万円という鑑定団の評価には大いに不服だったのかもしれません。

この加藤氏が断言するのですから、間違いありません。瑛九は草間と違って前衛ではありません。(では草間が本当の前衛か僕には分かりませんが、なにしろ本人が自分をそう名乗っているのですから、是非もありません。)

ふたりとも絵描き。コロリスト。草間は前衛でも瑛九はそうではない。

ふたりとも天才ではないのか。

そう仰る方に、僕は勇気を持って言います。

草間は天才です。

でも、瑛九は天才ではありません。

ああ、こんなことを書くと、ときの忘れものの綿貫さんに怒られるかしら。もっと怖いのは、加藤南枝氏だ。ご自身のHPに「この絵売ります」と大書し、少なくとも30億円くらいで売りたい、と仰る方だもの、僕は半殺しにされるかも・・・・。

でも、どうか落着いて聞いてください。
僕の考える「天才」には二つの条件があります。まず、長生きであること。次に、初めから真理を知っていること。

どうです、瑛九が天才ではない、と言った意味がお分かり頂けたでしょうか。
彼は48歳で逝きました。長生きではありません。だから天才ではありません。

なぜ、長生きが天才の条件の一つでしょう。なぜなら天才は、才能をすり減らさないのです。神様が与えてくれた才能が無尽蔵にあるので、どれだけ創造しても、引き換えに自分の命を削ることがない。しかも天才は逡巡しない。試行錯誤がないのです。
一方天才でない人は、血の滲むような努力で試行錯誤を繰返します。限りある才能はその都度消耗していきます。そうして遂にある極みに達したとき、神様の祝福と引き換えに自らの命を差し出すことになります。
80歳を超えてなお進化を続ける草間と、誰も到達し得ない絵画の境地に分け入ったまま48歳で逝ってしまった瑛九。草間は天才ですが、瑛九は天才ではありません。

では、初めから真理を知っているとは、どういうことでしょう。
ここでいう真理とは、宇宙の真理、というほどのことです。

瑛九の点描をご覧になったことのない方に、ひとことで説明するなら、それは「アナログ・テレビの砂嵐」です。夜も更けて、全ての番組が終了した後、暫くしてから現れるあの砂嵐。あれはモノクロですが、あれに色彩が加わったものが瑛九の点描です。それは絶えずうごめき、揺れ、ざわざわしています。加えて、砂嵐と同じようなザーッという音すら瑛九の絵からは聴こえてくるようです。
一方、草間には幼少の頃から水玉や網目が視えていました。そのモチーフはもちろん今でも続いているのですが、今回の展覧会で僕が注目したのは、細いひも状のものです。しかもそれが、まるで震えているように、小刻みに揺れている。
瑛九が最後に到達した「ざわざわした点描」と、草間の最近作に現れ始めた震える細い紐。
これらはいずれも同じものを表していると僕は考えます。それは宇宙の真理、万物の構成要素、左脳が正常に機能している以上、絶対に見ることの出来ない世界です。

瑛九は自分の命と引き換えに、この「ヒミツ」を知りました。しかし、都夫人が恐れていたように、ヒミツの中に吸い込まれてしまった。
一方、天才の草間には初めから視えていました。震える紐は当時まだ水玉や網目にしか視えませんでした。花や犬が人間の言葉で話しかけてきたといいます。左脳が機能障害を起こした人の体験談によると、人間の話し声が全て犬の鳴き声に聴こえたそうです。そして自分の体の境界線が分からなくなり、自分を取り巻く周囲の物質と同化し始めるそうです。草間が空間の全てを水玉で埋め尽くすインスタレーションを想わせます。
初めから真理を知っている草間は天才ですが、自らの努力でヒミツの扉を開けて扉の向こうに行ってしまった瑛九は天才ではありません。

僕がふたりを比較して、いちばん言いたかったのは、このことです。

前衛の草間彌生と、前衛ではない瑛九。
天才の草間彌生と、天才ではない瑛九。

さて、あなたは、どちらに惹かれますか。
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ふかのいちろう(ブログ「ジャージの王様」より転載)

*画廊亭主敬白
昨日画廊では「ジョック・スタージス一日展~3.11を忘れない」を開催いたしました。
一年前の惨禍に思いを馳せ、スタージスさんの静謐な世界に向き合い、犠牲者に追悼の祈りを捧げたいと企画した一日展でした。
画廊を開けるや、今年個展を計画している細江英公先生、井桁裕子さんはじめ老若男女、たくさんのお客様が来廊されました。
作品をお買い上げいただいた皆様には深く感謝申し上げます。後日寄付の詳細はご報告いたします。
夕方には本稿の執筆者深野さんもいらしてくださいました。
3回にわたり転載させていただいた深野さんの「草間彌生と瑛九」論、いかがでしたでしょうか。
長年二人の作品を扱ってきた亭主ではありますが、深野さんの自由奔放な論理の展開には「目から鱗」の新鮮な驚きを感じました。
それによく勉強していらっしゃる。
ギャラリーや美術館で実物に触れ、身銭を切って作品を購い、自分の消費行動をきちんと検証している、画商にとっては実に手強いコレクターの出現であります。