「マン・レイのパリ 1972年」第1回
石原輝雄
久しぶりに展覧会をすることになった。会期は12月4日(火)から16日(日)までの二週間、会場は京都・四条河原町のギャラリーマロニエ。今回はわたしのマン・レイコレクションからカタログ、ポスター、案内状といった展覧会資料を中心としたエフェメラ類を展示させていただく事とした。一般的にコレクション展は、並べるだけと揶揄されやすいので、展示構成の意図と一年以上に及ぶ準備作業について、二回に別けて報告させていただきたいと思う。もっとも「ときの忘れもの」の画面をクリックされる方々は、「そんな事はないよ、いまさら」と温かい言葉を掛けてくださると期待するのだが(笑)。エフェメラというのは、蜻蛉などの短命な生き物、はかない存在を指す言葉を語源とする。今日では一枚だけの印刷物や役割を終えれば処分されるものに使われ、近年脚光を浴びる美術館アーカイバルの横断的収集分野として見直されている。わたしのコレクションの特色は展覧会資料にあるが、現物志向が強いので、デジタル発信をねらうこの風潮からは遠い。
[手には招待状]
それはさておき、展覧会はギャラリーマロニエの西川勲氏の企画。わたしの方は氏の好意に甘え、自由に展示構成を設計する立場。氏から「面白い展覧会をやりましょう」と頼まれていた。話が具体化したのは、国立国際美術館で開催された森山大道展のオープニングレセプションに向かう道で氏と顔を合わせた事による。具体美術協会のピナコテカがあった辺りだったろうか。二人の鞄には、当日の招待状が入っていて、当代一の写真家による展示が近作と旧作との競演でどんな様子になっているのか、期待しながらの会話だった。これが、マン・レイ存命中の展覧会に向かう石畳の街路だったらポスターが貼られ、手にする招待状の意匠を楽しみつつ、作家の生涯と未来についての話題になっていた事だろう。パリの街路だったらと思うと氏の申し入れによるコレクション展は、レセプションに向かう高揚感を再現できるものでなくてはならない。
Invitation, 15 × 10.5cm
例えば、1972年1月7日(金)のパリ。わたしはプレジダン・ヴィルソン通りを国立近代美術館へ向かって歩いている。手にした小さな案内状は、名前をモチーフにした自然絵画で「マン・レイ」の文字が赤く刷られている。ポスターもこの絵柄で、カフェで見たしメトロの構内にも貼られていた。パリ画壇で商業的価値など無いと軽視され続けた芸術家に、現代美術の先駆者の一人としての評価を見出し、連帯の挨拶を贈る大規模な回顧展。彼は写真を出品するのを了承しただろうか、肖像やファッションは拒否したままだろうな。オブジェの展示はどうしただろう、リブレリ・シスで個展をした時のように取られてしまったらいけないし、ケースに入れたら力が弱くなる、解決策を見付けただろうか。およそ60年にわたる創作活動を俯瞰して見せるのか凝縮するのか、ジャン=ユベール・マルタンの腕の見せ所だなと、美術館を前にして期待が高まる。そして、展示を観たら昼食会に出席しなくちゃ、誰が来ているだろう。招待状を呉れたのは懇意にしている古書店の親父で、会場はサン・ジェルマン大通りのラテンアメリカ会館。酔っぱらって高額品を買う事になったらどうしよう。
翌朝の日刊紙「ヌーベル・レビュブリック」の第一面を見ると展覧会の紹介が掲載されていた。メトロノームに眼の写真を引付けた『永遠のモチーフ』を頭に乗せ、おどけた調子のマン・レイが笑っている。太縁眼鏡も似合う勝ち残った芸術家。狂人扱いされた若い時代から、自分自身であり続けた長く孤独な闘いにやっと光が射したのだと、こちらも嬉しくなった。11日からはラ・ユンヌ書店で新作の版画展、来月には四運動画廊でレイヨグラフの展示も開かれる。街中にマン・レイが拡がる興奮はいつまで続くのだろう。これでは、身体も財布も保たないよ。── 40年前のパリに住んでいたら、こんな調子だと展覧会のエフェメラを前にした夢想は果てしない。
Poster, 60 × 40cm
わたしが『マン・レイのパリ 1972年』と題する展示で示したいのは、こうした時間旅行の楽しみである。西川氏と話をした時に国立近代美術館での展覧会資料を使った「乗り物」のアイデアは直ぐに出た。展覧会エフェメラの三種の神器であるカタログ、ポスター、案内状の他に、プレスリリースと昼食会の招待状、会場写真、新聞と雑誌の抜き刷りも手許にあるので、同年の他の展覧会と合せてギャラリーマロニエの空間をマン・レイ展への「期待」で充満できると考えた。切符となるカタログと案内状のイメージも現れた。しかし、1972年だけを切り取る事には違和感も持った。86年の生涯から一年だけを切り取るのは、俯瞰と凝縮のどちら側だろう、画家は82歳を迎え、わたしの方は20歳になったばかり。名古屋から京都に移り住んでコレクションを始めた時期。いつも、どうしてコレクションをするのだろうと自問する。どうしてマン・レイなのだろうと初恋を思う。この道筋を前段に置いてこそ展示に奥行きが生まれる、「乗り物」の乗り心地が良くなるのだと思う。
[五月革命]
もちろん、わたくし事だけど、高校生の頃にダダとシュルレアリスムの書物に出会った。書店では、ちょっとしたブームではなかったのかと、今にして思う。70年安保前の時代で、高校生は三無主義と言われた。たまたま、写真部に在籍した関係で、わたし達は時代へのコミットを求め様々な事象にカメラを向けた。学生運動もそのひとつである。フランスデモの渦の中に入った事も全日本学生写真連盟の影響を受けた地域設定の集団撮影も行った。結果としては個人主義に帰ってしまったのだが、アンドレ・ブルトンの著作『ナジャ』からマン・レイへの道が開けた。以降、40年以上に亙る収集と研究生活の原点が、エリュアールやペレやデスノスの肖像写真にあったと振り返る。図版下に置かれた「それから数日ののち、バンジャマン・ペレがやってきたのだ…」とか「私はいま、ロベール・デスノスを、ふたたび眼前にしている…」といった説明(巖谷國士訳)に、一般的な読書と異なる参加の意識、ともに生きる街路の思想を持った。読書は頁を進むと薄くなり閉じられるが、撮影は通りを進むと宙づりになる。時間が止められてしまうのだ。残された時間は互いに干渉し合って別の世界を生み出そうとする。
Newspaper, 43.5 × 30cm
以上の意図を含んで展示は五月革命を基点に、1972年にパリで開催されたマン・レイの四つの展覧会を開催日順に巡る構成とした。国立近代美術館(1月7日〜2月28日)、ラ・ユンヌ書店(1月12日〜 )、四運動画廊(2月25日〜3月25日)、フランシス・トリニエ画廊(11月7日〜12月15日)。そして、同年に刊行されたマン・レイとピエール・ブルジャッドの対談をまとめた書籍『Bonsoir, Man Ray』の日本語版に関する資料を間に置いた。原書の限定版には、瓶の中で抱き合う男女のシルエットが描かれた版画が挿入されているが、五月革命の折に「新聞を信じるな」と書いて街頭に張り出されたポスターの絵柄と同様の仕掛けで、ふたつの類縁に興味を持った。
展示品は全34点。内訳はカタログ(4)、ポスター(5)、案内状 (5)、新聞(4)、写真(3)、書籍(4)、写真集(2)、雑誌(1)、版画(2)、その他の紙モノ(4)とした。その内、五月革命の最中に配布された5月13日の日付を持つ新聞『アクシオン』第2号は、表紙面の写真に機動隊を配置して、訴求力があると思う。
マン・レイ展のエフェメラが流通したパリの街路にも、前段階の喧噪があっただろうし、68年の前にも多くのバリケードが築かれ、取り除かれていった。唐突に1972年を持ち出すのではなく、個人的な青春期の体験が、その前にあった事を、いわば、マン・レイイストとなった必然をわたしは示したいと思った。
(いしはら てるお)


*画廊亭主敬白
マン・レイイストとして夙に有名な京都の石原輝雄さんから上掲の案内状をいただきました。
コレクターによるコレクション展はいま流行りでもありますが、あの石原さんがただコレクションを並べるだけの展示をするはずがない。
石原さんは2009年4月の「マン・レイ展」ギャラリートークの講師にお招きしましたので、そのコレクションの徹底ぶりに感銘を受けた方も少なくないでしょう。
さっそく今回のコレクション展への思いを存分に語っていただきたいとお願いのメールを出しました。
石原さんからの返信は、
ご依頼の原稿「マン・レイのパリ 1972」の思いの丈は書きすぎてしまいました、(略)
(展覧会は)充分、余裕をもって準備してきたつもりですが、ここに来て、バダバタになっています。
なんとか、しなければと、毎晩 孤軍奮闘です。
また、展覧会の結果報告のようなものを、この後、3回目として書かせていただけたら嬉しく思います。
というわけで、まず今日と明日の2回連載し、全3回の連載をお届けします。
終了報告の第3回は、12月の末に掲載します。

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ときの忘れもののコレクションからマン・レイ作品をご紹介します。
マン・レイ
「les grands trans-parents」
スクリーンプリント・鏡
64.2×49.1cm
Ed.100
アクリルに「MR」の刻サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
石原輝雄
久しぶりに展覧会をすることになった。会期は12月4日(火)から16日(日)までの二週間、会場は京都・四条河原町のギャラリーマロニエ。今回はわたしのマン・レイコレクションからカタログ、ポスター、案内状といった展覧会資料を中心としたエフェメラ類を展示させていただく事とした。一般的にコレクション展は、並べるだけと揶揄されやすいので、展示構成の意図と一年以上に及ぶ準備作業について、二回に別けて報告させていただきたいと思う。もっとも「ときの忘れもの」の画面をクリックされる方々は、「そんな事はないよ、いまさら」と温かい言葉を掛けてくださると期待するのだが(笑)。エフェメラというのは、蜻蛉などの短命な生き物、はかない存在を指す言葉を語源とする。今日では一枚だけの印刷物や役割を終えれば処分されるものに使われ、近年脚光を浴びる美術館アーカイバルの横断的収集分野として見直されている。わたしのコレクションの特色は展覧会資料にあるが、現物志向が強いので、デジタル発信をねらうこの風潮からは遠い。
[手には招待状]
それはさておき、展覧会はギャラリーマロニエの西川勲氏の企画。わたしの方は氏の好意に甘え、自由に展示構成を設計する立場。氏から「面白い展覧会をやりましょう」と頼まれていた。話が具体化したのは、国立国際美術館で開催された森山大道展のオープニングレセプションに向かう道で氏と顔を合わせた事による。具体美術協会のピナコテカがあった辺りだったろうか。二人の鞄には、当日の招待状が入っていて、当代一の写真家による展示が近作と旧作との競演でどんな様子になっているのか、期待しながらの会話だった。これが、マン・レイ存命中の展覧会に向かう石畳の街路だったらポスターが貼られ、手にする招待状の意匠を楽しみつつ、作家の生涯と未来についての話題になっていた事だろう。パリの街路だったらと思うと氏の申し入れによるコレクション展は、レセプションに向かう高揚感を再現できるものでなくてはならない。
Invitation, 15 × 10.5cm例えば、1972年1月7日(金)のパリ。わたしはプレジダン・ヴィルソン通りを国立近代美術館へ向かって歩いている。手にした小さな案内状は、名前をモチーフにした自然絵画で「マン・レイ」の文字が赤く刷られている。ポスターもこの絵柄で、カフェで見たしメトロの構内にも貼られていた。パリ画壇で商業的価値など無いと軽視され続けた芸術家に、現代美術の先駆者の一人としての評価を見出し、連帯の挨拶を贈る大規模な回顧展。彼は写真を出品するのを了承しただろうか、肖像やファッションは拒否したままだろうな。オブジェの展示はどうしただろう、リブレリ・シスで個展をした時のように取られてしまったらいけないし、ケースに入れたら力が弱くなる、解決策を見付けただろうか。およそ60年にわたる創作活動を俯瞰して見せるのか凝縮するのか、ジャン=ユベール・マルタンの腕の見せ所だなと、美術館を前にして期待が高まる。そして、展示を観たら昼食会に出席しなくちゃ、誰が来ているだろう。招待状を呉れたのは懇意にしている古書店の親父で、会場はサン・ジェルマン大通りのラテンアメリカ会館。酔っぱらって高額品を買う事になったらどうしよう。
翌朝の日刊紙「ヌーベル・レビュブリック」の第一面を見ると展覧会の紹介が掲載されていた。メトロノームに眼の写真を引付けた『永遠のモチーフ』を頭に乗せ、おどけた調子のマン・レイが笑っている。太縁眼鏡も似合う勝ち残った芸術家。狂人扱いされた若い時代から、自分自身であり続けた長く孤独な闘いにやっと光が射したのだと、こちらも嬉しくなった。11日からはラ・ユンヌ書店で新作の版画展、来月には四運動画廊でレイヨグラフの展示も開かれる。街中にマン・レイが拡がる興奮はいつまで続くのだろう。これでは、身体も財布も保たないよ。── 40年前のパリに住んでいたら、こんな調子だと展覧会のエフェメラを前にした夢想は果てしない。
Poster, 60 × 40cmわたしが『マン・レイのパリ 1972年』と題する展示で示したいのは、こうした時間旅行の楽しみである。西川氏と話をした時に国立近代美術館での展覧会資料を使った「乗り物」のアイデアは直ぐに出た。展覧会エフェメラの三種の神器であるカタログ、ポスター、案内状の他に、プレスリリースと昼食会の招待状、会場写真、新聞と雑誌の抜き刷りも手許にあるので、同年の他の展覧会と合せてギャラリーマロニエの空間をマン・レイ展への「期待」で充満できると考えた。切符となるカタログと案内状のイメージも現れた。しかし、1972年だけを切り取る事には違和感も持った。86年の生涯から一年だけを切り取るのは、俯瞰と凝縮のどちら側だろう、画家は82歳を迎え、わたしの方は20歳になったばかり。名古屋から京都に移り住んでコレクションを始めた時期。いつも、どうしてコレクションをするのだろうと自問する。どうしてマン・レイなのだろうと初恋を思う。この道筋を前段に置いてこそ展示に奥行きが生まれる、「乗り物」の乗り心地が良くなるのだと思う。
[五月革命]
もちろん、わたくし事だけど、高校生の頃にダダとシュルレアリスムの書物に出会った。書店では、ちょっとしたブームではなかったのかと、今にして思う。70年安保前の時代で、高校生は三無主義と言われた。たまたま、写真部に在籍した関係で、わたし達は時代へのコミットを求め様々な事象にカメラを向けた。学生運動もそのひとつである。フランスデモの渦の中に入った事も全日本学生写真連盟の影響を受けた地域設定の集団撮影も行った。結果としては個人主義に帰ってしまったのだが、アンドレ・ブルトンの著作『ナジャ』からマン・レイへの道が開けた。以降、40年以上に亙る収集と研究生活の原点が、エリュアールやペレやデスノスの肖像写真にあったと振り返る。図版下に置かれた「それから数日ののち、バンジャマン・ペレがやってきたのだ…」とか「私はいま、ロベール・デスノスを、ふたたび眼前にしている…」といった説明(巖谷國士訳)に、一般的な読書と異なる参加の意識、ともに生きる街路の思想を持った。読書は頁を進むと薄くなり閉じられるが、撮影は通りを進むと宙づりになる。時間が止められてしまうのだ。残された時間は互いに干渉し合って別の世界を生み出そうとする。
Newspaper, 43.5 × 30cm以上の意図を含んで展示は五月革命を基点に、1972年にパリで開催されたマン・レイの四つの展覧会を開催日順に巡る構成とした。国立近代美術館(1月7日〜2月28日)、ラ・ユンヌ書店(1月12日〜 )、四運動画廊(2月25日〜3月25日)、フランシス・トリニエ画廊(11月7日〜12月15日)。そして、同年に刊行されたマン・レイとピエール・ブルジャッドの対談をまとめた書籍『Bonsoir, Man Ray』の日本語版に関する資料を間に置いた。原書の限定版には、瓶の中で抱き合う男女のシルエットが描かれた版画が挿入されているが、五月革命の折に「新聞を信じるな」と書いて街頭に張り出されたポスターの絵柄と同様の仕掛けで、ふたつの類縁に興味を持った。
展示品は全34点。内訳はカタログ(4)、ポスター(5)、案内状 (5)、新聞(4)、写真(3)、書籍(4)、写真集(2)、雑誌(1)、版画(2)、その他の紙モノ(4)とした。その内、五月革命の最中に配布された5月13日の日付を持つ新聞『アクシオン』第2号は、表紙面の写真に機動隊を配置して、訴求力があると思う。
マン・レイ展のエフェメラが流通したパリの街路にも、前段階の喧噪があっただろうし、68年の前にも多くのバリケードが築かれ、取り除かれていった。唐突に1972年を持ち出すのではなく、個人的な青春期の体験が、その前にあった事を、いわば、マン・レイイストとなった必然をわたしは示したいと思った。
(いしはら てるお)


*画廊亭主敬白
マン・レイイストとして夙に有名な京都の石原輝雄さんから上掲の案内状をいただきました。
コレクターによるコレクション展はいま流行りでもありますが、あの石原さんがただコレクションを並べるだけの展示をするはずがない。
石原さんは2009年4月の「マン・レイ展」ギャラリートークの講師にお招きしましたので、そのコレクションの徹底ぶりに感銘を受けた方も少なくないでしょう。
さっそく今回のコレクション展への思いを存分に語っていただきたいとお願いのメールを出しました。
石原さんからの返信は、
ご依頼の原稿「マン・レイのパリ 1972」の思いの丈は書きすぎてしまいました、(略)
(展覧会は)充分、余裕をもって準備してきたつもりですが、ここに来て、バダバタになっています。
なんとか、しなければと、毎晩 孤軍奮闘です。
また、展覧会の結果報告のようなものを、この後、3回目として書かせていただけたら嬉しく思います。
というわけで、まず今日と明日の2回連載し、全3回の連載をお届けします。
終了報告の第3回は、12月の末に掲載します。

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ときの忘れもののコレクションからマン・レイ作品をご紹介します。
マン・レイ「les grands trans-parents」
スクリーンプリント・鏡
64.2×49.1cm
Ed.100
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