生きているTATEMONO 松本竣介を読む 9

「残骸東京」
植田実


「東京や横浜の、一切の夾雑物を焼き払つてしまつた直後の街は、極限的な美しさであつた。人類と人類が死闘することによつて描き出された風景である。」(「残骸東京」、「東北文庫」第1巻第2号 1946.2.1)
 今回展図録にも引用されている松本竣介のこの一文は、あまりにも強烈なイメージのために、かえって目に見える光景としての像を結びえないようなところがある。竣介自身、こういう感想を述べるについては犠牲者たちへの祈りなしに口にすべきではないとことわりながらも「極限的な美しさ」と、自らの身を投げ出すかのように断言している。その言葉と画家のはかり知れない距離あるいは回路が、現在においてもその言葉のままに生きている。ほんの少しの刺激によってもすぐ作動しはじめるみたいに。
 日本人のすべてが同じ状況のもとにいるという理解をこれほど否応なく持てた時代はあとにもさきにもないだろう。同時に、個々に違う光景を、立場によって年齢によって居る場所によって細分化されて見ていた時代もない。人それぞれに残骸東京を(今からすれば)一瞬見た記憶のなかに、竣介の言葉は熱した鉄のように置かれていると、読んだときそう思った。当時を体験していない世代にも、いやその人たちにとってこそ、こう形容された街は消えることがないだろう。
 その形容にもっとも対応すると思われる作品は≪焼跡風景≫(1946頃)なのだろうか。画面中央に赤褐色の、なにもない帯状の流れが端から端まで続いている。この油彩は図録に印刷されたものと実物とがとくに違って見えた。実物のほうが帯の幅が太く感じられる。絵具の内に籠った輝きのせいだろう。その輝きが前景の石あるいは瓦礫と、遠景の建物群を圧縮せんばかりに広がっている。焼跡を示す図像はそこになく、無の色彩だけが横溢している。一方、遠景の建物群には空襲による損傷の跡が見えない。右手の工場らしき建物の屋根は傾いでいると思えなくもないが破壊された形ではない。むしろ無事に残された場所が無になった場所をその対比で語っている。奥の風景は静止し、無の色彩は火の川のように流れ続けている。盛岡を描いた初期の作品では、こちらと向こうの世界を分けながらその両者を繋ぐ道や補助線を必ず加えていると見ていたのだが、≪焼跡風景≫においてはこちらと向こうは断絶し、ただ全体を彩る赤褐色が同じ時代のもとにあることを暗示している。

600松本竣介
≪焼跡風景≫
1946年頃
油彩・画布
23.6x53.2cm
中野美術館

 「残骸東京」は引用した一節の少し先で、焼跡のいわば日常について筆を進めている。
 「東京は、極限から、人間の世界の底地に、急調子で辿りつゝあるやうだ。鉄屑や瓦礫はとりかたづけられ、焼跡は貧しい野菜畑になつた。鉄筋建造物の残骸や、煙突や、防火壁や、風呂屋のタイル張りや、豪奢な邸宅の跡に、煖爐、車庫等が哀れな姿でとり残されてゐる。その間に点々として営まれてゐる乞食小屋の如き住居。その中で人々は明日の食物のことを考へてゐる。これが日本人の今日の生地(きぢ)である。」
 当時松江に母たちと疎開していた莞さんに竣介が送った絵手紙(1945.5.28)には、そんな焼跡の光景が水彩で描かれている。手前には自転車やバケツの焼けただれた残骸がころがっているし、電信柱は真ん中から折れ、風呂屋や邸宅は煙突だけが立ち枯れ状態だ。空にはシコルスキーやグラマン(なつかしい!)がうるさく飛びまわっている。「ヒガシナカノエキノアタリカラ オウチノホーヲミタトコロ」とある、何もかも茶色の絵には、いちばん遠くに水平にのびる緑の帯状の場所が見える。難を逃れたそこに松本家があった。1946年9月に発行された、戦災焼失区域を表示した『東京都区分地図帖』によると、現・JR東中野駅からその真北に位置する現・西武新宿線中井駅とのあいだの区域はほぼ全焼しているが、中井駅からさらに北の住宅地の一画(松本家のあるところ)は、線路とそれに平行する妙正寺川が火の勢いを阻んだのか、ほとんど無傷である。妙正寺川は中井駅とその西隣の新井薬師前駅との中間で線路をくぐって北西に向かう。そうなると火も線路をまたいで北に突き進み、川の西一帯を焼き、哲学堂(公園)のぎりぎり際まで襲っている。上の絵手紙のなかの緑の帯のなかに矢印でこの辺におうちがあると説明されているその左、少し離れたところにやはり緑の帯のなかから顔を出している建物があり、それにも矢印がついていて、以前は家の裏のほうからでなければ見えなかった水道の白い塔、の説明。哲学堂のすぐ先にある現・野方給水塔だろう。松本家からはその手前一帯が焼失して円筒形のランドマークが丸見えになったのだ。

図2 p246上 600松本竣介
≪莞あて書状≫
1945年5月28日
図3 p246下600松本竣介
≪莞あて書状≫ 
n.d.

 莞さん宛てのこのスケッチは、手前に焼野原、遠景には残された場所という画面構成が≪焼跡風景≫と同じである。しかし描写の手法は逆で、手紙にこまごまと描かれた瓦礫や残骸は、油彩ではなにも無い赤褐色の強く太い帯だけになり、一方、残された建物群は手紙ではか細い緑の帯になっている。絵手紙のスケッチは当時5歳の息子に宛てた、東京からのいわば緊急報告であり、5月25日の山の手地区大空襲(下北沢の私の生家もこの日に焼失した)からわずか3日後に描かれているから画面にはまだ余燼が渦巻いていたにちがいない。当然描写は細部にまで及んでその臨場感を家族に伝えようとしただろう。それにたいして油彩には瓦礫の形跡はほとんどない。製作年は1946年頃となっているから様子は変わってきていると説明できるかもしれないが、無の赤褐色はあくまで、1945年5月に描かれたスケッチと等質の「焼跡風景」だと私は思う。いや、壊滅的な空襲に曝され、敗戦の日を迎え、占領軍上陸に怯えた日々の風景ですらなく、わが子に寄せた私信と作品としての油彩はともに、日本が戦争に参入してしまった日々にまで遡っての風景として見えてくる。
 だからこれらは焼跡という結末を追認する風景ではなく、内側に膨れあがってきていた怖ろしい予感が焼跡に触発されて可視化した風景ともいうべきで、竣介はそれをダブル・イメージで描いた。絵手紙にある瓦礫の向こうの緑の帯は奇跡的に残った場所というよりは全体を喪失した場所の姿である。画家はその光景を外から描くことはできない。自分と遭遇している場面である。
 画面中央に2本の尖塔があるだけで、それ以外は残された建物でもあり焦土でもあるような赤褐色の棒状のマッスが地平まで重なり続いている≪神田付近≫(1946-47)や、焼跡というよりは異郷の荒野のような≪郊外(焼跡風景)≫(1946-47)も同様に、茫漠のなかに確かめられるのはその只中に立つ画家自身である。風景は消失した。その後は竣介は風景画と呼べる作品を描いていない。

600松本竣介
≪神田付近≫
1946-47年
油彩・板
24.0x33.0cm
個人蔵
600松本竣介
≪郊外(焼跡風景)≫
1946-47年
油彩・画布
27.3x45.5cm
岩手県立美術館

(2013.2.4 うえだまこと

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執筆:植田実、16頁、図版30点、略歴
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