生きているTATEMONO 松本竣介を読む 10

建物からの風景
植田実


 今回展図録で「第IV章展開期」としてまとめられている作品群は、松本竣介の生涯の最後に描かれている。東京の焼跡を描いたあと、風景画といえる作品はぷつりと気配を絶ち、人物画も激しく変貌している。

P118松本竣介
≪建物≫
1947年頃
油彩・板
37.9x45.5cm
三重県立美術館


 作品にそくして見ていく。
 ≪建物≫(1947頃)はこれまでになく抽象的な構成になっている。1940年頃から描かれてきた≪構図≫と題された一連の作品も抽象的な線によっているが、こちらが開かれた場に分散する線路、車、人、家などの断片から成るのに対して、前者は画面いっぱいの線が全体に求心性を形成している。まず中央下部の透視図状の線がその両側に立つ門柱あるいは細長い建物から奥まった距離をつくり出しているのが目につく。次いで左下から右上に斜めに上昇した太い線が、中央で折れて水平に右へと進み、その先は消えているが、また折れて右下へと向かう見えない台形が画面の下半分を占める。これも先の透視図状の道の作用を受けて奥行きをつくり出し、建物を透かして、窓や屋根や煙突らしき形が暗示するこのお邸の建つ敷地の輪郭を見せている。
 と、この油彩は読めるともいえる。それはいいかえれば風景のなかに点在する要素としての建物が、風景を内包するマッスに変わっている。その結果、風景の内圧が高まっている。それは同時期の≪習作(陸橋)≫(1947頃)にも共通していて、道がありその上に陸橋が架け渡された風景というよりは、うねるような絡み合うような陸橋や建物らしき構築物が道や空をその内側におさえこみ、おさえこまれたものはそこから脱け出す隙間を探っているような運動量が伝わってくる。

P119松本竣介
≪習作(陸橋)≫
1947年頃
油彩・画布
24.2x33.3cm
個人蔵


D116松本竣介
≪建物≫
1948年
墨・鉛筆・紙
23.8x32.2cm
個人蔵


D119松本竣介
≪ざくろ≫
1948年1月
墨・紙
37.8x45.4cm
個人蔵


 マッスとそこに加えられた切れ目は、素描の≪建物≫や≪ざくろ≫(ともに1948)にも見られる。果実のように継ぎ目のない建物の1ヵ所だけ四角い穴が開けられ、そこを刃のように鋭い表情の窓が出入りしている。逆に、まろやかな形とその先端が自然に弾けて赤い種子を覗かせているはずの果実は、人工物のような異形の全体と亀裂に変じている。

D118松本竣介
≪ランプ≫
1948年1月
墨・紙
27.4x21.2cm
個人蔵


P120松本竣介
≪ランプ≫
1948年
油彩・厚紙
27.0x22.0cm
個人蔵


 彼の作品のなかでは唯一と思える静物画も同時期に描かれる。素描と油彩それぞれの≪ランプ≫(1948)だが、これは見たままのランプの絵であってそこには何事も起こっていない。けれども油のタンクと火屋(ほや)の組み合わせは、素描では懐かしい明かりの道具として見えるが、油彩ではどこか不穏な建築のようでもある。どんな意図でこうしたモチーフを選んだのか。
 いずれにしても、上記の素描も油彩も習作過程のまま終った感があり、竣介にはその先を展開する時間がもうなかったともいえるが、自分の絵画とするうえでのこの手法の限界を見極めたのかもしれない。それはこれらの作品の価値を低めていない。どころか彼の試行の驚くべき複雑な多様さを記録している。とくに東京の焼跡を見てしまった後に、確かな場を再構築しようとした決意は、これらのわずかな作品にしか残されていない。
 もう一群の印象的な作品がある。一群といっても図録にあるのは素描2点、油彩2点のわずか4点。油彩の1点は遺作となった。素描は≪建物≫と≪建物(茶)≫、油彩は≪建物(青)≫と≪建物≫(すべて1948)。古典的建築のファサードを断片化し、コラージュしている。

D120松本竣介
≪建物(茶)≫
1948年
墨・紙
27.5x39.5cm
東京国立近代美術館


P123松本竣介
≪建物(青)≫
1948年5月
油彩・画布
24.0x33.0cm
(公財)大川美術館



 1929年、17歳で岩手から上京した竣介は、その後、岩手とはどういう行き来があったのか。
 33年頃まで盛岡の風景をいくつも描いている。帰ることがよくあったのか。年譜では、41年に松本竣介・舟越保武二人展、42年に澤田哲郎・舟越・松本三人展、45年11月に松本・舟越二人を盛岡で開催、いずれも会期中に同市を訪ねている。戦中戦後を通してかなりの頻度で盛岡に行っているし、盛岡でのいくつかの美術展に作品を出品している回数はさらに多い。それほどのつながりがあったのだろうが東京が廃墟となった後は、故里を見る眼が変わったのではないか。それが4点の≪建物≫に感じられる。
 たとえば≪建物(青)≫に描かれているのは東京のではなく盛岡の建物だという気がする。この作品だけは断片のコラージュではなく、ある建物の正面ファサードを描いているようにも見えるがどこもかしこもフツーではない。全体のプロポーションと不釣合な太さの、3本の円柱はちゃんとキャピタル(柱頭)まで載せているが、それと様式的には関係なく背後の壁にぽっかり黒い穴が開けられている。屋根部の双対の小塔からはそれぞれさらに小さい双対の煙突らしきものが突き出ている。もっと不思議なのはペディメント(破風)の垂直面を貫いて上に伸びる中央の小さなタワーである。このためにペディメントが奥へと傾斜しているようにも見える。
 この連載第1回「盛岡市紺屋町界隈」では、10歳から17歳にかけて竣介が住んでいた家の界隈を訪ね、そこに集中しているいくつもの洋風建築を見てきている。≪建物(青)≫にはこれらの建築のディテールを思い出させるところがある。旧盛岡貯蓄銀行の大仰な正面円柱、旧盛岡銀行本店の裏手に付けられた双対の煙突、さらには紺屋町番屋消防団第5分団(これに言及するのは今回が初めてだが)の寄せ棟屋根を貫く六角形の望楼。そしてこの絵を支配するメランコリックともいえる深い青の色調は「ロマネスク様式をベースにユーゲントシュティルの影響」を受けているといわれる旧第九十銀行本店の綺想的気分につながるようにも思える。

21_旧盛岡貯蓄銀行旧盛岡貯蓄銀行


23_旧盛岡銀行本店旧盛岡銀行本店


13_紺屋町番屋消防団第5分団紺屋町番屋消防団第5分団


33_旧第九十銀行本店旧第九十銀行本店


 これは盛岡の建物の絵だ。といっても上に挙げたようなモチーフの近似によってそう断ずるのではなく、東京の風景から遠い、ある平穏に満たされているからだ。竣介が物心ついたときから当然の環境としてすでにあった、シンプルだが洒落た、親しく知りつくした建物のいくつかだけで、時代と合わせ鏡になった(東京の)果てのない風景は閉ざされたのではなかったか。
 それはノスタルジーではない。竣介はそんな心情をさらりと回避して、しかし建物のファサードのコラージュあるいはレイヤーの手法には興味を抱いたのだろう、残りの3作品は教会の尖塔、薔薇窓、戦勝記念円柱などの比較的ポピュラーなモチーフを、断片化あるいは切削、本来の位置からの移し替え、スケールの操作などで自由に構成している。さらに彼の本領が発揮されたのは平面性と立体性、黒い線描と色彩面との微妙な調整だろう。素描では各モチーフは立体的に扱われ、画面の両サイドは全体がひとつの建築的マッスであるかのように、視線は地上に揃えながらパースペクティブな奥行きのある線でまとめている。だが遺作とされる油彩においてはこの奥行きを見せる線描が辛うじて窺えるほどにまで濃い絵具を載せ立体性を隠している。一方、画面上部においては尖塔や切妻屋根の形を黒の線がしっかり輪郭づけしているにもかかわらず、ちょっと擦ったように立ち上がる幾本かの明るい色彩の小塔が、画面の奥に重ねられる。平面と立体、線と面との相反する動きを、竣介はただ1画面のなかで駆使している。

P124松本竣介
≪建物≫
1948年5月
油彩・画布
60.5x73.0cm
東京国立近代美術館


 画家の親友だった舟越保武は、この絶筆≪建物≫について「あれは絶筆になったのではなく、竣介はたしかに絶筆として描いた。これほどに、画家の生命の終結を思わせる作品は他にない」(「アサヒグラフ別冊・美術特集松本竣介1983秋」)と書いている。竣介のすぐ近くにいた人の証言に対して言い返せることは何もない。ただ、ほぼ同時期に描いている、小川未明、林芙美子、芹沢光治良などの著書のための装画を見ると、絵画のシリアスな探求とは別に、本や雑誌の表紙やとびらを飾る楽しいカットも手がけたい気持ちもあったのではないかと思う(昨年暮れから今年初めにかけてときの忘れもので開かれた「松本竣介素描展」にも古代建築古代彫刻を扱ったいかにも装画らしい作品が見られた)。そして遺作≪建物≫は、見方を変えてみるとそうした洒落っ気に富んだスマートな装画のシリーズとも思えてくる。こうした解釈も取っておきたいのだ。そんな仕事も楽しんだにちがいない姿を想像すると、健康を取り戻そうとする竣介の未来時間があったという気がするからだ。

P122松本竣介
≪彫刻と女≫
1948年5月
油彩・画布
116.8x91.0cm
福岡市美術館


 もう1点の遺作≪彫刻と女≫(1948)には知らぬうちに画面のすぐ近くまで引き寄せられているような気分がある。全体は深い赤褐色を基調としているが、彫刻と女性の上半身とのあいだの空間が白く輝いている。それは女性の息吹だと思った。つまり女神でも精霊でも近しいひとでもある女性が彫刻に生命を吹きこんでいる。ストレートすぎる解釈なのでとりあえずの印象としたいが、ついでに唐突な連想をしてしまったのだが(同じ頃に描かれた≪少年≫のせいか)彫刻がピノキオみたいに思えてきたのである。頭部だけの彫像は台の上に載っている。台は4本の長い脚に支えられている。だが2本脚のようにも見えるように巧妙に描かれている。いいかえればこれはもうひとつの≪立てる像≫である。ピノキオもまたボッティチェリの描くヴィーナスも生命を与えられた瞬間、身ひとつで立つ。そうした人類の歴史に限りなく表れてくる生誕の図像が次々と見えてきた。
(2013.3.19 うえだまこと

*掲載図版は「生誕100年 松本竣介展」図録より転載してます。
この展覧会は、2012年4月~2013年1月にかけて下記の全国5美術館で巡回開催されました。
岩手県立美術館、神奈川県立近代美術館 葉山、宮城県美術館、島根県立美術館、世田谷美術館

植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、毎月数回、更新は随時行います。
 同じく植田実さんの新連載「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は毎月15日の更新です。第10回は予定より遅れて3月22日の掲載となりました。
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