生きているTATEMONO 松本竣介を読む 12
「デッサン」と「エッセエ」
植田実
綿貫不二夫さんから拝借した大切な資料、『雜記帳』全14巻を読み始めている。一応その概略を記しておくが、1936年10月、それまで松本竣介が関わっていた生長の家の機関誌『生命の藝術』誌が終刊、その同じ月に竣介と禎子夫人によって踵を接するように創刊された月刊誌である。翌37年12月の第14号まで、途中家族の不幸などで一回やむなく臨時休刊となる以外は毎月きちんと出されていた。その意図はメイン・タイトルの『雜記帳』に劣らず、サブ・タイトルによく表れているといっていい。
サブ・タイトルに「随筆(エッセエ)雜誌」とある。創刊第2号から(エッセエ)の文字がそれを両側から挟む「随筆」「雜誌」の文字より大きくなる。(エッセエ)への力点を端的に伝えるこのロゴタイプ・デザインがまず印象的だ。このサブ・タイトルは第9号で「随筆(ESSAI)雜誌」となり、第10号ではただ「ESSAIS」となって「随筆」の言葉が消え、この体裁が終刊号まで続く。
もうひとつ、創刊号のサブ・タイトルに続いて「昭和十一年九月二十七日印刷納本 昭和十一年十月一日発行(毎月一回一日発行)」の記載がある。第2号ではさらにそれに続いて「第三種郵便物出願中」が加わり、第4号では「昭和十一年十二月一日第三種郵便物許可」になる。雑誌を世に送り出すという夢の一端が言ってみれば郵政大臣のハンコをもらって現実化した記録がそこに刻まれている。その30年後に私が関わった月刊建築誌の創刊にも「第三種」の許可が必要だった。手続きを済ませていよいよ定期刊行に突入という緊張と高揚感はいまでもどこかに残っているが、ましてや『雜記帳』は小さくても自立した版元の発行である。
印刷物としての体裁を記しておこう。
サイズ:A5判(220x156mm)平綴じ。
本文を別紙による表紙でくるみ、その天と地を断裁し、小口は折り丁のまま残して綴じているために天地は規格寸法だが左右は160ほど。そのために天地の開いた袋状のページがところどころにできる。これをペーパーナイフでカットしながら読んでいくことになる。
創刊号と第2号の本文は64ページ。
第3号は68ページ。これは巻頭に特色刷りの口絵・目次4ページが加えられたため。
第4号から7号は本文が増えて全84ページに。
第8号から最終14号ではさらに増えて100ページに達している。
これを折りにすると、16ページ1折りならば、64=16x4折り、68=16x4折り+4、84=16x5折り+4、100=16x6折り+4、となる。
印刷機その他の事情で、8ページ1折り、あるいは4ページ1折り(口絵・目次はそうなっている)ということだってありうるだろうが、袋状のページは16ページ1折りにしたときに初めて生じる。そして6折りならば口絵・目次の4ページを足して100ページちょうどになる。この切りのいい数字とフランスの本みたいな仕上げとを、竣介は気に入っていたと想像したくなる。
表紙・本文ともに活字・活版、図版も凸版。1枚の絵に線描部分と濃淡の調子のついた部分がある場合はハイライト版で処理するきれいな製版であり、活字や罫もじつに多様なサイズや書体を使っている。これについてはあとで触れるが、いま見ても時代を感じさせない、斬新なつくりであることに驚くばかりだ。
本文総計1232ページ、表紙まわりを併せれば1288ページをわずか1年余りの月日で、一画家とその夫人が企画、原稿依頼、集稿、割り付け、入稿、校正、校了、印刷・製本管理、そして出来上がれば発送作業まで一貫して行ったことになる。しかもどうやら書店への適正部数配本にまで腐心した様子である。
寄稿者は、私なりの数えかたでは延べ318人。海外作品については原著者とその翻訳者とを併せて1人とした。これに7号以降の雑記欄への投稿者は約30人。挿図を描いている画家は、やはり竣介(当然多い)を除いて、国内外を併せて40人。これは文章に自分の絵をつけている人もいるので寄稿者とダブることもあり、いい加減だがおおよその人数を実感したかったわけである。寄稿者のなかには何号にもわたって書いている人もいるが、あえて延べ人数にしている。延べ人数を拾ったのは編集者側の手間を考えようとしたからである。たとえ連載(は少ないが)であっても今みたいにおまかせで済ませてしまうのではなく、細かい注文なり感想なりをその都度寄稿者に送った気配が感じられるからだ。メールはもちろん、ファックスもコピー機も(たぶん)電話さえなかった個人の編集室からは、おそらく手紙と葉書でのやりとりと直接の訪問が、唯一の手段だったのではないか(そういえば口述筆記の原稿もあったが録音機のない時代でもある)。しかも聴覚を失った編集者だが、その誌面は精力的かつ明るくゆったりとしている。
寄稿者にはどんな人たちがいたのか。専門分野が多岐にわたり時代的にも私の手に負えない部分があるので、ひとつの目安として強引にというか機械的に、手元にあった『コンサイス日本人名事典』(三省堂 2001第4版)で寄稿者全員の人名に当たり、記載されていた人々を肩書きとともに生年順に並べてみた。以下がそのリストである(当事典では新字体表記だが、それを旧字体に戻している)。
田中阿歌麿 1869-1944 湖沼学者
伊原青々園 1870-1941 劇評家、劇作家
戸川秋骨 1870-1939 評論家、英文学者
平田禿木 1873-1943 英文学者、随筆家
西村眞次 1879-1943 歴史学者
上司小劍 1874-1947 小説家、詩人
石原純 1881-1947 物理学者
秋田雨雀 1883-1962 劇作家
岡田八千代1883-1962 劇作家
高村光太郎 1883-1956 彫刻家、詩人
柳原燁子(白蓮) 1885-1961 歌人
萩原朔太郎 1886-1942 詩人
藤田嗣治 1886-1968 洋画家
服部嘉香 1886-1975 詩人、歌人、国語学者
石井鶴三 1887-1973 彫刻家、洋画家、版画家
新居格 1888-1951 評論家
今和次郎 1888-1973 建築学者、風俗研究家
深尾須磨子 1888-1974 詩人
安井曾太郎 1888-1955 洋画家
岡本かの子 1889-1947 歌人、小説家
室生犀星 1889-1962 詩人、小説家
坪田譲治 1890-1981 小説家、童話作家
長谷川利行 1891-1940 洋画家
恩地孝四郎 1891-1955 版画家
高倉テル 1891-1986 社会運動家、小説家
須田國太郎 1891-1961 洋画家、美術史家
佐藤春夫 1892-1964 詩人、小説家
澁澤秀雄 1892-1984 実業家
曾宮一念 1893-1994 洋画家
木村莊八 1893-1959 洋画家
福原麟太郎 1894-1981 英文学者
佐藤喜一郎 1894-1974 実業家
里見勝蔵 1895-1981 洋画家
宮澤賢治 1896-1933 詩人、作家
林武 1896-1975 洋画家
東郷青兒 1897-1978 洋画家
伊藤廉 1898-1983 洋画家
福澤一郎 1898-1992 洋画家
尾崎士郎 1898-1964 小説家
中條(宮本)百合子 1899-1951 小説家、評論家
尾崎一雄 1899-1983 小説家
内田巖 1900-1953 洋画家
村山知義 1901-1977 劇作家、演出家、舞台美術家
村野四郎 1901-1975 詩人
小熊秀雄 1901-1940 詩人
猪熊弦一郎 1902-1993 洋画家
眞船豐 1902-1977 劇作家
中野重治1902-1979 詩人、小説家、評論家
鶴田知也 1902-1988 小説家
北園克衛 1902-1978 詩人
林芙美子 1903-1951 小説家
島木健作 1903-1945 小説家
深田久彌 1903-1971 小説家、登山家
瀧口修造 1903-1979 美術評論家
菅原卓 1903-1970 演出家
中島健蔵 1903-1979 評論家
武田麟太郎 1904-1946 小説家
木村秀政 1904-1986 航空工学者
新田潤 1904-1978 小説家
窪川(佐多)稻子 1904-1998 小説家
谷口吉郎 1904-1979 建築家
海老原喜之助1904-1970 洋画家
森山啓 1904-1991 小説家、詩人
本庄陸男1905-1939 小説家
巽聖歌 1905-1973 童謡詩人
平林たい子 1905-1972 小説家
神保光太郎 1905-1990 詩人、ドイツ文学者
山本安英 1906-1993 新劇俳優
高見順 1907-1965 小説家、詩人、評論家
鶴岡政男 1907-1979 洋画家
靉光 1907-1946 洋画家
蘆原英了 1907-1981 音楽・舞踏評論家
龜井勝一郎 1907-1966 評論家
脇田和 1908-2005 洋画家(没年は当方で記入)
森芳雄 1908-1997 洋画家
菱山修三 1909-1967 詩人
保田與重郎 1910-1981 評論家
竣介と同世代あるいはそれ以降の人はこの事典には収録されていないことが分かる(しかし松本竣介の項はある)。これだけではすこしさびしいので、画家についてはそれ以外に私でも親しい名を号を追って拾ってみた。
難波田龍起、野間仁根、村井正誠、前川千帆、向井潤吉、三岸節子、川口軌外、深澤紅子、桂ゆき子、鳥海青兒、寺田政明、岡田謙三、山口長男、麻生三郎、等々。ついでに海外作家ではスゴンザック、モーリス・ドニ、ピカソ、モジリアニ、ドガ、デュフィなど。
ここに竣介とその時代という環境が次第に見えてくる。そしてこれではっきりしてくるのは『雜記帳』は同人誌ではないこと、だがいわゆる綜合誌とも違うことであり、竣介がまだ形にならないあるメディア環境を、手に取って読める雑誌という形にするヴィジョンが感じられることだ。第11号の編集後記で彼は書いている。これは「自分の個人雜誌のつもりでやつてゐるのではない。また出版屋にならうなど、凡そ無縁である。たゞ『物をエッセエする態度』は是非今日瀰漫させたいと思ふことだ。(中略)もつと地道な眞摯な科學的批評精神を日常生活に徹底させることを願つてゐるのである」
繰り返すが、『雜記帳』というタイトル、「随筆(エッセエ)雜誌」というサブ・タイトルには、竣介がつくろうとしていた新しい形が表れている。前回紹介した竣介の言葉のなかで「デッサン」は単なる素描ではなく、仏語のDessein、英語のDesign、すなわち「計画であり、決意決心」の意であると言及されているが、「随筆」や「エッセエ」も同じように自己表現の根本に触れたタームだと考えていたにちがいない。今では随筆なんて言い方はほとんどされなくなったし、エッセエもごく軽い便宜的な呼び名になってしまったが。
『雜記帳』第1号の巻頭には宮澤賢治の「朝に就ての童話的構図(遺稿)」が載せられている。本誌の出発を象徴する特別作品と見てよいだろうが、その次の關根秀雄「ミッシェル殿のエッセエ」は關根の専門とするモンテーニュが上記の本を刊行した1508年においては「この標題は一種奇異なる、少くとも聊かはつきりせぬ、感じを一般に與へたらしい」とエッセエそのものを主題にしている。エッセエとはまず「試み」の意味をもっていたが、その主体は自己でも他者でもあり、対象が限定されることもないからその意味するところは「危険」とも「試作」ともなり、「即ちここには、自由な、又謙遜な、態度なり心持なりも、感ぜられる」、そういう広い意味まで包摂する結果になった『モンテーニュ随想録』の新しさを位置づけ、『雜記帳』創刊時の日本人読者の受容度を考慮に入れたかのように「そこに、一種の禪味、俳味、一種の抒情詩も亦、なくはなかつたやうに私は思つて居る」と締め括る。
竣介も編集後記でそれを受けるように「エッセエの意味は(中略)千差萬別、非常に廣いものだと考へる。(中略)野放しの文章、書きたいことを自由に、各方面の方々に書いて」もらうつもりだと書いているが、そうした文章や絵を編集した全14巻には、竣介が「エッセエ」と「デッサン」のなかに極めようとした自己表現の純粋さがくっきりと残されているのである。 (この項続く)
(2013.5.9 うえだまこと)
『松本竣介展』図録
2012年 ときの忘れもの 発行
15ページ 25.6x18.1cm
執筆:植田実、図版:30点、略歴
価格:800円(税込)
※お申し込みはコチラから。
●ときの忘れものでは松本竣介の希少画集、カタログを特別頒布しています。
◆植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、毎月数回、更新は随時行います。
同じく植田実さんのエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は毎月15日の更新です。
「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
「デッサン」と「エッセエ」
植田実
綿貫不二夫さんから拝借した大切な資料、『雜記帳』全14巻を読み始めている。一応その概略を記しておくが、1936年10月、それまで松本竣介が関わっていた生長の家の機関誌『生命の藝術』誌が終刊、その同じ月に竣介と禎子夫人によって踵を接するように創刊された月刊誌である。翌37年12月の第14号まで、途中家族の不幸などで一回やむなく臨時休刊となる以外は毎月きちんと出されていた。その意図はメイン・タイトルの『雜記帳』に劣らず、サブ・タイトルによく表れているといっていい。
サブ・タイトルに「随筆(エッセエ)雜誌」とある。創刊第2号から(エッセエ)の文字がそれを両側から挟む「随筆」「雜誌」の文字より大きくなる。(エッセエ)への力点を端的に伝えるこのロゴタイプ・デザインがまず印象的だ。このサブ・タイトルは第9号で「随筆(ESSAI)雜誌」となり、第10号ではただ「ESSAIS」となって「随筆」の言葉が消え、この体裁が終刊号まで続く。
もうひとつ、創刊号のサブ・タイトルに続いて「昭和十一年九月二十七日印刷納本 昭和十一年十月一日発行(毎月一回一日発行)」の記載がある。第2号ではさらにそれに続いて「第三種郵便物出願中」が加わり、第4号では「昭和十一年十二月一日第三種郵便物許可」になる。雑誌を世に送り出すという夢の一端が言ってみれば郵政大臣のハンコをもらって現実化した記録がそこに刻まれている。その30年後に私が関わった月刊建築誌の創刊にも「第三種」の許可が必要だった。手続きを済ませていよいよ定期刊行に突入という緊張と高揚感はいまでもどこかに残っているが、ましてや『雜記帳』は小さくても自立した版元の発行である。
印刷物としての体裁を記しておこう。
サイズ:A5判(220x156mm)平綴じ。
本文を別紙による表紙でくるみ、その天と地を断裁し、小口は折り丁のまま残して綴じているために天地は規格寸法だが左右は160ほど。そのために天地の開いた袋状のページがところどころにできる。これをペーパーナイフでカットしながら読んでいくことになる。
創刊号と第2号の本文は64ページ。
第3号は68ページ。これは巻頭に特色刷りの口絵・目次4ページが加えられたため。
第4号から7号は本文が増えて全84ページに。
第8号から最終14号ではさらに増えて100ページに達している。
これを折りにすると、16ページ1折りならば、64=16x4折り、68=16x4折り+4、84=16x5折り+4、100=16x6折り+4、となる。
印刷機その他の事情で、8ページ1折り、あるいは4ページ1折り(口絵・目次はそうなっている)ということだってありうるだろうが、袋状のページは16ページ1折りにしたときに初めて生じる。そして6折りならば口絵・目次の4ページを足して100ページちょうどになる。この切りのいい数字とフランスの本みたいな仕上げとを、竣介は気に入っていたと想像したくなる。
表紙・本文ともに活字・活版、図版も凸版。1枚の絵に線描部分と濃淡の調子のついた部分がある場合はハイライト版で処理するきれいな製版であり、活字や罫もじつに多様なサイズや書体を使っている。これについてはあとで触れるが、いま見ても時代を感じさせない、斬新なつくりであることに驚くばかりだ。
本文総計1232ページ、表紙まわりを併せれば1288ページをわずか1年余りの月日で、一画家とその夫人が企画、原稿依頼、集稿、割り付け、入稿、校正、校了、印刷・製本管理、そして出来上がれば発送作業まで一貫して行ったことになる。しかもどうやら書店への適正部数配本にまで腐心した様子である。
寄稿者は、私なりの数えかたでは延べ318人。海外作品については原著者とその翻訳者とを併せて1人とした。これに7号以降の雑記欄への投稿者は約30人。挿図を描いている画家は、やはり竣介(当然多い)を除いて、国内外を併せて40人。これは文章に自分の絵をつけている人もいるので寄稿者とダブることもあり、いい加減だがおおよその人数を実感したかったわけである。寄稿者のなかには何号にもわたって書いている人もいるが、あえて延べ人数にしている。延べ人数を拾ったのは編集者側の手間を考えようとしたからである。たとえ連載(は少ないが)であっても今みたいにおまかせで済ませてしまうのではなく、細かい注文なり感想なりをその都度寄稿者に送った気配が感じられるからだ。メールはもちろん、ファックスもコピー機も(たぶん)電話さえなかった個人の編集室からは、おそらく手紙と葉書でのやりとりと直接の訪問が、唯一の手段だったのではないか(そういえば口述筆記の原稿もあったが録音機のない時代でもある)。しかも聴覚を失った編集者だが、その誌面は精力的かつ明るくゆったりとしている。
寄稿者にはどんな人たちがいたのか。専門分野が多岐にわたり時代的にも私の手に負えない部分があるので、ひとつの目安として強引にというか機械的に、手元にあった『コンサイス日本人名事典』(三省堂 2001第4版)で寄稿者全員の人名に当たり、記載されていた人々を肩書きとともに生年順に並べてみた。以下がそのリストである(当事典では新字体表記だが、それを旧字体に戻している)。
田中阿歌麿 1869-1944 湖沼学者
伊原青々園 1870-1941 劇評家、劇作家
戸川秋骨 1870-1939 評論家、英文学者
平田禿木 1873-1943 英文学者、随筆家
西村眞次 1879-1943 歴史学者
上司小劍 1874-1947 小説家、詩人
石原純 1881-1947 物理学者
秋田雨雀 1883-1962 劇作家
岡田八千代1883-1962 劇作家
高村光太郎 1883-1956 彫刻家、詩人
柳原燁子(白蓮) 1885-1961 歌人
萩原朔太郎 1886-1942 詩人
藤田嗣治 1886-1968 洋画家
服部嘉香 1886-1975 詩人、歌人、国語学者
石井鶴三 1887-1973 彫刻家、洋画家、版画家
新居格 1888-1951 評論家
今和次郎 1888-1973 建築学者、風俗研究家
深尾須磨子 1888-1974 詩人
安井曾太郎 1888-1955 洋画家
岡本かの子 1889-1947 歌人、小説家
室生犀星 1889-1962 詩人、小説家
坪田譲治 1890-1981 小説家、童話作家
長谷川利行 1891-1940 洋画家
恩地孝四郎 1891-1955 版画家
高倉テル 1891-1986 社会運動家、小説家
須田國太郎 1891-1961 洋画家、美術史家
佐藤春夫 1892-1964 詩人、小説家
澁澤秀雄 1892-1984 実業家
曾宮一念 1893-1994 洋画家
木村莊八 1893-1959 洋画家
福原麟太郎 1894-1981 英文学者
佐藤喜一郎 1894-1974 実業家
里見勝蔵 1895-1981 洋画家
宮澤賢治 1896-1933 詩人、作家
林武 1896-1975 洋画家
東郷青兒 1897-1978 洋画家
伊藤廉 1898-1983 洋画家
福澤一郎 1898-1992 洋画家
尾崎士郎 1898-1964 小説家
中條(宮本)百合子 1899-1951 小説家、評論家
尾崎一雄 1899-1983 小説家
内田巖 1900-1953 洋画家
村山知義 1901-1977 劇作家、演出家、舞台美術家
村野四郎 1901-1975 詩人
小熊秀雄 1901-1940 詩人
猪熊弦一郎 1902-1993 洋画家
眞船豐 1902-1977 劇作家
中野重治1902-1979 詩人、小説家、評論家
鶴田知也 1902-1988 小説家
北園克衛 1902-1978 詩人
林芙美子 1903-1951 小説家
島木健作 1903-1945 小説家
深田久彌 1903-1971 小説家、登山家
瀧口修造 1903-1979 美術評論家
菅原卓 1903-1970 演出家
中島健蔵 1903-1979 評論家
武田麟太郎 1904-1946 小説家
木村秀政 1904-1986 航空工学者
新田潤 1904-1978 小説家
窪川(佐多)稻子 1904-1998 小説家
谷口吉郎 1904-1979 建築家
海老原喜之助1904-1970 洋画家
森山啓 1904-1991 小説家、詩人
本庄陸男1905-1939 小説家
巽聖歌 1905-1973 童謡詩人
平林たい子 1905-1972 小説家
神保光太郎 1905-1990 詩人、ドイツ文学者
山本安英 1906-1993 新劇俳優
高見順 1907-1965 小説家、詩人、評論家
鶴岡政男 1907-1979 洋画家
靉光 1907-1946 洋画家
蘆原英了 1907-1981 音楽・舞踏評論家
龜井勝一郎 1907-1966 評論家
脇田和 1908-2005 洋画家(没年は当方で記入)
森芳雄 1908-1997 洋画家
菱山修三 1909-1967 詩人
保田與重郎 1910-1981 評論家
竣介と同世代あるいはそれ以降の人はこの事典には収録されていないことが分かる(しかし松本竣介の項はある)。これだけではすこしさびしいので、画家についてはそれ以外に私でも親しい名を号を追って拾ってみた。
難波田龍起、野間仁根、村井正誠、前川千帆、向井潤吉、三岸節子、川口軌外、深澤紅子、桂ゆき子、鳥海青兒、寺田政明、岡田謙三、山口長男、麻生三郎、等々。ついでに海外作家ではスゴンザック、モーリス・ドニ、ピカソ、モジリアニ、ドガ、デュフィなど。
ここに竣介とその時代という環境が次第に見えてくる。そしてこれではっきりしてくるのは『雜記帳』は同人誌ではないこと、だがいわゆる綜合誌とも違うことであり、竣介がまだ形にならないあるメディア環境を、手に取って読める雑誌という形にするヴィジョンが感じられることだ。第11号の編集後記で彼は書いている。これは「自分の個人雜誌のつもりでやつてゐるのではない。また出版屋にならうなど、凡そ無縁である。たゞ『物をエッセエする態度』は是非今日瀰漫させたいと思ふことだ。(中略)もつと地道な眞摯な科學的批評精神を日常生活に徹底させることを願つてゐるのである」
繰り返すが、『雜記帳』というタイトル、「随筆(エッセエ)雜誌」というサブ・タイトルには、竣介がつくろうとしていた新しい形が表れている。前回紹介した竣介の言葉のなかで「デッサン」は単なる素描ではなく、仏語のDessein、英語のDesign、すなわち「計画であり、決意決心」の意であると言及されているが、「随筆」や「エッセエ」も同じように自己表現の根本に触れたタームだと考えていたにちがいない。今では随筆なんて言い方はほとんどされなくなったし、エッセエもごく軽い便宜的な呼び名になってしまったが。
『雜記帳』第1号の巻頭には宮澤賢治の「朝に就ての童話的構図(遺稿)」が載せられている。本誌の出発を象徴する特別作品と見てよいだろうが、その次の關根秀雄「ミッシェル殿のエッセエ」は關根の専門とするモンテーニュが上記の本を刊行した1508年においては「この標題は一種奇異なる、少くとも聊かはつきりせぬ、感じを一般に與へたらしい」とエッセエそのものを主題にしている。エッセエとはまず「試み」の意味をもっていたが、その主体は自己でも他者でもあり、対象が限定されることもないからその意味するところは「危険」とも「試作」ともなり、「即ちここには、自由な、又謙遜な、態度なり心持なりも、感ぜられる」、そういう広い意味まで包摂する結果になった『モンテーニュ随想録』の新しさを位置づけ、『雜記帳』創刊時の日本人読者の受容度を考慮に入れたかのように「そこに、一種の禪味、俳味、一種の抒情詩も亦、なくはなかつたやうに私は思つて居る」と締め括る。
竣介も編集後記でそれを受けるように「エッセエの意味は(中略)千差萬別、非常に廣いものだと考へる。(中略)野放しの文章、書きたいことを自由に、各方面の方々に書いて」もらうつもりだと書いているが、そうした文章や絵を編集した全14巻には、竣介が「エッセエ」と「デッサン」のなかに極めようとした自己表現の純粋さがくっきりと残されているのである。 (この項続く)
(2013.5.9 うえだまこと)
『松本竣介展』図録2012年 ときの忘れもの 発行
15ページ 25.6x18.1cm
執筆:植田実、図版:30点、略歴
価格:800円(税込)
※お申し込みはコチラから。
●ときの忘れものでは松本竣介の希少画集、カタログを特別頒布しています。
◆植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、毎月数回、更新は随時行います。
同じく植田実さんのエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は毎月15日の更新です。
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