ひとつの軌跡 瑛九をいたむ
滝口修造
めずらしく油絵の近作をまとめた瑛九の個展(兜屋画廊 2・23-28)を見て、私はふしぎな感じを抱いたものである。「ある日天井を眺めていると、フト描けないから個展でもやってみたら……という考えがうかび」展覧会をひらいたと、カタログの片隅に小さく書かれてある。昨年十一月から慢性じん炎で病臥中だという。親友の小野里利信氏がひとり会場にいた。病状は一時危なかったが、東京の病院に移ってからは愁眉をひらいたという。しかし私はこの会場にいて、作者と作品とのあいだで、なにか取り残されたような感じをどうすることもできなかった。病臥中の作者が、作品をひとりで出してやり、自分は横臥しているという気持はよくわかるようで、同時に奇異な感じがする。だが、それも瑛九らしい、とその場をつくろう気持がなかったとはいえない。そしてそれが誤解の一因なので
はないか。
瑛九の近作は二百号の大作も含めて、すべて点描風の作品である。それは細かい色点のハーモニーという点では、かつての分割主義の点描と似ているだけで、それ以外はどこにも共通点がない。星雲を見るように茫漠としているけれど、空間以外のなにものでもない。作者はそのモティーフを精神状態のなかにもとめ、それを空間化しているようだ。
ところで私はこれまでの瑛九の仕事について妙なうけとりかたをしていたといえる。作者の精神状態のようなものに共感しながら、ともすると、つくられた形にしばしば疑問をもってしまうのだった。それはかれの形態感覚とか様式とかについてなのである。といっても瑛九は、意図や観念だけを露出させるような画家ではなかった。むしろ無邪気なほど、あまりにも容易に絵にしてしまうのだ。その点で、かれはめずらしい知性の持主だったが、ソフィスティケーションの画家ではなかった。しかし、その反面に、かれの描く作品の形象が、つねに意を完全につたえていたかどうかを、私は疑問に思ったものだ。ところが近作の瑛九ははるかに「自由」を感じはじめたのではないかと思う。つまり描くものと、描かれるものとの一致とでもいうのか、瑛九が長いあいだもち運んできた独自の精神を表わすのに、もっとも自然な方法に達していたのではないかと思うのである。それが何ものも再現(ルビ:、、)しない色彩の点々であるとは!
私は小野里氏から感想を求められて、ふと作者が解放された感じがするといったが、それから間もなく瑛九の死がつたえられ愕然とした。私は旅行していて病床を見舞うこともできなかったが、浦和の自宅の告別式で、作品にかこまれたかれの顔のクローズアップの写真の前に、白いフリジアの花を一枝ささげた。これが無宗教の告別式であった。私は浦和という町に始めて降りて、埃っぽい郊外の小道を歩いていると、あの作品の前でうけた妙に「取り残された」感じが、また別の意味でよみがえってくるのに驚いた。――展覧会というものの最終的な意味、作者ハ眠リナガラ、作品ヲ展示スルコト。
第三者である私が取り残されたと感じたのは、現実慣習の違和感のせいであるにすぎない。瑛九はこういう新形式の個展をひらいて、生きながら遺作展をやってしまったのではないか。
こう書いている私はけっして瑛九の生活に身近な人間ではなかった。私は瑛九の仕事をかなり見てきた。フォト・デッサン展に小さな序文をおくったこともあるし、タケミヤ画廊で石版画展(一九五七)を催してもらったこともある。久保貞次郎氏のお世話であったが、私の詩「五月のスフィンクス」にエッチングを描いてくれたこともある(滝口修造の詩による版画集)。しかし私には瑛九は幾年おきかにどこからか瓢然と現われ、瓢然と消えていったようにしか思われない。はじめて瑛九の名を見て中国人かと思ったのが固定観念になり、何度会ってもこの迷信が消えなかった。実際、人間はこの執拗な迷信や誤解や伝説をひとつひとつ剥いでいくと何が残るのだろう。瑛九の場合は、宮崎の眼科医杉田直の次男、杉田秀夫となる。さらにもっと剥ぎとっていくと瑛九の作品になるかも知れない。ああ、そしてそこにもまた迷信や誤解…… 私は告別式のかれの肖像を眺めながら烈しい苛立たしさを感じたことを白状せずにはいられない。
瑛九は一九三六年にフォト・デッサン集「眠りの理由」を公にしたが、この種のフォトグラムのかなり早い仕事であった。しかしそれは技法の新らしさよりも、かれが写真の媒材を画家の欲望でほしいままに扱ってきたということに意義があった。かれは写真専門家の技術意識にとらわれず、光と印画紙とのあいだに、かれのヴィジョンは飛び跳ねるのである。その態度は戦後のフォト・デッサンでいっそう露骨に現われてきた。だから私が「光の創作版画」と呼びたくなったのも自然であろう。私は版画からも写真は生れたのだという歴史観を抱いているものだが、瑛九はどんな契機からか、この光の定着にとりつかれ、こんどはいわば逆の径路をとったかのように銅版画、ついで石版画に手を染めていった。いま銅版画集「不安な街」を取りだしてみると、銅版画としては素朴な技術とフォルムであるとはいえ、官能的なものがなまなましく鮮魚の腹のように現われている。ここに瑛九の芸術に見え隠れしている生のもうひとつの秘密があるのだろう。
瑛九にはとらえどころがない、と思わせるものがひそんでいる。だが実はかれの芸術の本質的なものがそこに結びついているのではなかろうか。画壇というものに密着した、とらえどころのありすぎる芸術が多いので、瑛九のようにごく自然に表現欲を行使しようとすると、そんなことになるのではなかろうか。瑛九を脱俗画家とか文人的画家として片づけることはすでに誤解ではないか。
瑛九よ。とにかく画家が死んで急に評価がきまるというのはおかしい。あなたの作品はあなたの死によって急に変るはずはないではないか。芸術の、死という名の迷信におたがい注意しようではないか。
では、さよなら。
(美術評論家)
『美術手帖』1960年5月号 美術出版社
*初出には「滝口修造」と記載されているので、そのまま転載しました。
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1960年2月の兜屋画廊の個展案内状の表紙

個展案内状の裏に印刷された瑛九のメッセージ
ただいま開催中の「第24回瑛九展 瑛九と瀧口修造」では、瑛九のよき理解者であった瀧口修造にスポットをあてています。
瀧口が執筆した7つのテキストを、ご遺族のご許可をいただいて順次再録します。
「土渕信彦のエッセイ~瀧口修造の箱舟」とあわせ、お読みください。
●「瑛九へ」『ノートから、1951』/』『コレクション 瀧口修造 4』所収
●「瑛九のエッチング」『美術手帖』No.74 1953年10月号 美術出版社
●「瑛九のフォート・デッサン」『瑛九 フォート・デッサン展』図録 1955年1月 日本橋・高島屋
●「ひとつの軌跡 瑛九をいたむ」『美術手帖』1960年5月号
●「通りすぎるもの……」1966年4月 瑛九の会機関誌『眠りの理由』創刊号
●「『瑛九』を待ちながら」山田光春著『瑛九』内容見本 1976年6月 青龍洞
●「瑛九の訪れ」『現代美術の父 瑛九展』図録 1979年6月 小田急グランドギャラリー(瑛九展開催委員会主催)
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瑛九 Q Ei
《白い朝(仮)》
1957年 油彩
45.0×52.7cm
サインあり
※レゾネNo.520
※『瑛九作品集』(日本経済新聞社、1997年)121頁所収
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●『第23回 瑛九展』図録

発行日:2013年5月17日
執筆:大谷省吾(東京国立近代美術館主任研究員)
図版:約30点掲載
カラー 24ページ
25.6x18.1cm(B5判)
価格:800円(税込)
※送料別途250円
◆ときの忘れものは2013年10月26日[土]―11月2日[土]「第24回瑛九展 瑛九と瀧口修造」を開催しています(※会期中無休)。

瑛九のよき理解者であった瀧口修造との関係にスポットをあてます。瑛九の油彩、水彩、フォトデッサン、版画とともに、瀧口修造のデカルコマニーや瀧口の詩による版画集『スフィンクス』を展示します。
滝口修造
めずらしく油絵の近作をまとめた瑛九の個展(兜屋画廊 2・23-28)を見て、私はふしぎな感じを抱いたものである。「ある日天井を眺めていると、フト描けないから個展でもやってみたら……という考えがうかび」展覧会をひらいたと、カタログの片隅に小さく書かれてある。昨年十一月から慢性じん炎で病臥中だという。親友の小野里利信氏がひとり会場にいた。病状は一時危なかったが、東京の病院に移ってからは愁眉をひらいたという。しかし私はこの会場にいて、作者と作品とのあいだで、なにか取り残されたような感じをどうすることもできなかった。病臥中の作者が、作品をひとりで出してやり、自分は横臥しているという気持はよくわかるようで、同時に奇異な感じがする。だが、それも瑛九らしい、とその場をつくろう気持がなかったとはいえない。そしてそれが誤解の一因なので
はないか。
瑛九の近作は二百号の大作も含めて、すべて点描風の作品である。それは細かい色点のハーモニーという点では、かつての分割主義の点描と似ているだけで、それ以外はどこにも共通点がない。星雲を見るように茫漠としているけれど、空間以外のなにものでもない。作者はそのモティーフを精神状態のなかにもとめ、それを空間化しているようだ。
ところで私はこれまでの瑛九の仕事について妙なうけとりかたをしていたといえる。作者の精神状態のようなものに共感しながら、ともすると、つくられた形にしばしば疑問をもってしまうのだった。それはかれの形態感覚とか様式とかについてなのである。といっても瑛九は、意図や観念だけを露出させるような画家ではなかった。むしろ無邪気なほど、あまりにも容易に絵にしてしまうのだ。その点で、かれはめずらしい知性の持主だったが、ソフィスティケーションの画家ではなかった。しかし、その反面に、かれの描く作品の形象が、つねに意を完全につたえていたかどうかを、私は疑問に思ったものだ。ところが近作の瑛九ははるかに「自由」を感じはじめたのではないかと思う。つまり描くものと、描かれるものとの一致とでもいうのか、瑛九が長いあいだもち運んできた独自の精神を表わすのに、もっとも自然な方法に達していたのではないかと思うのである。それが何ものも再現(ルビ:、、)しない色彩の点々であるとは!
私は小野里氏から感想を求められて、ふと作者が解放された感じがするといったが、それから間もなく瑛九の死がつたえられ愕然とした。私は旅行していて病床を見舞うこともできなかったが、浦和の自宅の告別式で、作品にかこまれたかれの顔のクローズアップの写真の前に、白いフリジアの花を一枝ささげた。これが無宗教の告別式であった。私は浦和という町に始めて降りて、埃っぽい郊外の小道を歩いていると、あの作品の前でうけた妙に「取り残された」感じが、また別の意味でよみがえってくるのに驚いた。――展覧会というものの最終的な意味、作者ハ眠リナガラ、作品ヲ展示スルコト。
第三者である私が取り残されたと感じたのは、現実慣習の違和感のせいであるにすぎない。瑛九はこういう新形式の個展をひらいて、生きながら遺作展をやってしまったのではないか。
こう書いている私はけっして瑛九の生活に身近な人間ではなかった。私は瑛九の仕事をかなり見てきた。フォト・デッサン展に小さな序文をおくったこともあるし、タケミヤ画廊で石版画展(一九五七)を催してもらったこともある。久保貞次郎氏のお世話であったが、私の詩「五月のスフィンクス」にエッチングを描いてくれたこともある(滝口修造の詩による版画集)。しかし私には瑛九は幾年おきかにどこからか瓢然と現われ、瓢然と消えていったようにしか思われない。はじめて瑛九の名を見て中国人かと思ったのが固定観念になり、何度会ってもこの迷信が消えなかった。実際、人間はこの執拗な迷信や誤解や伝説をひとつひとつ剥いでいくと何が残るのだろう。瑛九の場合は、宮崎の眼科医杉田直の次男、杉田秀夫となる。さらにもっと剥ぎとっていくと瑛九の作品になるかも知れない。ああ、そしてそこにもまた迷信や誤解…… 私は告別式のかれの肖像を眺めながら烈しい苛立たしさを感じたことを白状せずにはいられない。
瑛九は一九三六年にフォト・デッサン集「眠りの理由」を公にしたが、この種のフォトグラムのかなり早い仕事であった。しかしそれは技法の新らしさよりも、かれが写真の媒材を画家の欲望でほしいままに扱ってきたということに意義があった。かれは写真専門家の技術意識にとらわれず、光と印画紙とのあいだに、かれのヴィジョンは飛び跳ねるのである。その態度は戦後のフォト・デッサンでいっそう露骨に現われてきた。だから私が「光の創作版画」と呼びたくなったのも自然であろう。私は版画からも写真は生れたのだという歴史観を抱いているものだが、瑛九はどんな契機からか、この光の定着にとりつかれ、こんどはいわば逆の径路をとったかのように銅版画、ついで石版画に手を染めていった。いま銅版画集「不安な街」を取りだしてみると、銅版画としては素朴な技術とフォルムであるとはいえ、官能的なものがなまなましく鮮魚の腹のように現われている。ここに瑛九の芸術に見え隠れしている生のもうひとつの秘密があるのだろう。
瑛九にはとらえどころがない、と思わせるものがひそんでいる。だが実はかれの芸術の本質的なものがそこに結びついているのではなかろうか。画壇というものに密着した、とらえどころのありすぎる芸術が多いので、瑛九のようにごく自然に表現欲を行使しようとすると、そんなことになるのではなかろうか。瑛九を脱俗画家とか文人的画家として片づけることはすでに誤解ではないか。
瑛九よ。とにかく画家が死んで急に評価がきまるというのはおかしい。あなたの作品はあなたの死によって急に変るはずはないではないか。芸術の、死という名の迷信におたがい注意しようではないか。
では、さよなら。
(美術評論家)
『美術手帖』1960年5月号 美術出版社
*初出には「滝口修造」と記載されているので、そのまま転載しました。
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1960年2月の兜屋画廊の個展案内状の表紙

個展案内状の裏に印刷された瑛九のメッセージ
ただいま開催中の「第24回瑛九展 瑛九と瀧口修造」では、瑛九のよき理解者であった瀧口修造にスポットをあてています。
瀧口が執筆した7つのテキストを、ご遺族のご許可をいただいて順次再録します。
「土渕信彦のエッセイ~瀧口修造の箱舟」とあわせ、お読みください。
●「瑛九へ」『ノートから、1951』/』『コレクション 瀧口修造 4』所収
●「瑛九のエッチング」『美術手帖』No.74 1953年10月号 美術出版社
●「瑛九のフォート・デッサン」『瑛九 フォート・デッサン展』図録 1955年1月 日本橋・高島屋
●「ひとつの軌跡 瑛九をいたむ」『美術手帖』1960年5月号
●「通りすぎるもの……」1966年4月 瑛九の会機関誌『眠りの理由』創刊号
●「『瑛九』を待ちながら」山田光春著『瑛九』内容見本 1976年6月 青龍洞
●「瑛九の訪れ」『現代美術の父 瑛九展』図録 1979年6月 小田急グランドギャラリー(瑛九展開催委員会主催)
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瑛九 Q Ei《白い朝(仮)》
1957年 油彩
45.0×52.7cm
サインあり
※レゾネNo.520
※『瑛九作品集』(日本経済新聞社、1997年)121頁所収
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●『第23回 瑛九展』図録

発行日:2013年5月17日
執筆:大谷省吾(東京国立近代美術館主任研究員)
図版:約30点掲載
カラー 24ページ
25.6x18.1cm(B5判)
価格:800円(税込)
※送料別途250円
◆ときの忘れものは2013年10月26日[土]―11月2日[土]「第24回瑛九展 瑛九と瀧口修造」を開催しています(※会期中無休)。

瑛九のよき理解者であった瀧口修造との関係にスポットをあてます。瑛九の油彩、水彩、フォトデッサン、版画とともに、瀧口修造のデカルコマニーや瀧口の詩による版画集『スフィンクス』を展示します。
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