石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」 第4回

青い裸体 1978年8月29日 大阪

manray4-1北観音山 祇園囃子



4-1 祇園祭りの事なども

7月1日の吉符入りから祇園祭りが始まっている。今年は蛤御門の変でほとんどを焼失した凱旋船鉾(大船鉾)が復活し巡行に参加するので喜ばしくハレの日が待ち遠しい。実は京都に移り住んだ頃から祇園祭りの宵山に飾られた大金幣に見とれてきたし、再興の機運が増してきたこの頃は、宵山での寄付などもさせて頂いた(ほんのわずかですが)。昭和の鉾と称される菊水鉾の復活(1952年)には出会えなかったが、懸想品などが整えられていく様を想像し平成の鉾の復活と出会えるのが嬉しい。今年は観光や交通事情への配慮から合わせて進められてきた山鉾巡行が、48年ぶりに祭り本来の姿である「先祭り」と「後祭り」に別れて実施されるのも喜ばしい。北観音山の吉田家で御当主の横笛をお聴きした後、青竹に入った冷酒をよばれた宵山のひととき、浴衣姿の男たちが口々に「良い夏や」と暑気払いされ、巡行の無事を祈る姿に感動したのを覚えている。 

manray4-2凱旋船鉾(大船鉾) 宵山飾り 新町通四条下る


manray4-3藤井紋株式会社 新町通六角下る


manray4-4吉田家『麻田脩二展』 新町通六角下る


 宵山見物の楽しみの一つに屏風飾りがある。山鉾町の家々が秘蔵の屏風や美術品、調度品などを飾る様子を格子越しに通りから拝見する仕掛けで、床の間の設えから漏れる光や中庭の空間を背景に、談笑される人の姿を遠くから見ると言うのは、「中には入らないで」の拒否と、ちょっとは見せたい自意識で、「いけず」でもあるけど、わたしなどはギャラリースコープを使って拝見させていただいている。舞妓さんがおいでのお宅もあるのだから、よろしおす。

 『マン・レイへの写真日記』と直接関係しないが、1,000年以上の歴史を持つ祇園祭りは、幾多の困難を乗り越え、受け継がれた奇跡のひとつではないかと思う。それは、残された懸装品の魅力、現物の力によるだろう。マン・レイのオリジナルを遺し伝える事ができたら、これも奇跡となるかも知れない。彼の仕事が始められた時代から100年が経とうとしている。彼の精神を知るには、程良い時間が流れたと云うことだろうか。しかし、京都生まれの家人などは、祇園祭りも隣の町内のお祭りといったスタンスで、いくぶん冷ややか、マン・レイに対してはもっと厳しい、京都人の屈折した感じは、そぼくな味噌文化の名古屋人には判りません(涙)。
 普段は蔵などに入れておいて、大切な客人を迎えたり、ハレの日だけにお見せすると云うのは、「現物」に権威を与える事だろうか、それとも、普段使いと別格の「品物」を伝えるための知恵だろうか。その家に伝えられた物語は、年月の間に純化され、美しさを身に付けていく。いけない、マン・レイに続けなくては----


4-2 青い裸体

透明なアクリル板に裸婦が蜘蛛の巣に絡まれた写真を刷った作品を入手したのは、1978年だった。懇意になったリブレリ・アルカードの山内十三男さんが見付けてくれたもので、ベルギーの田舎町に登場したと云う。前年に阪急・古書の街で開店された同氏と巴里のベルグレン画廊のカタログを見ていて、これは面白いと話題にしていた品物だった。この画廊は戦後まもない時期にハインツ・ベルグレン(1914-2007)が開いた前衛画廊で、ウィキによると独逸系ユダヤ人の彼はジャーナリストとして出発するも、ナチスの台頭から逃れる為にアメリカへ移住し西海岸で美術批評家として働いた後、サンフランシスコ美術館のアシスタント・ディレクターの職を得、ディエゴ・リベラと知り合い、フリーダ・カーロとつき合ったらしい。戦後、米陸軍のメンバーとして欧州に戻りジャーナリストとしてしばらく働いた後、美術の分野で活躍するようになり巴里で小さな書店兼画廊を始めたと云う。大阪でわたしたちが手にしていたのは、通販用のカタログ(表紙に有名画家のオリジナルリトを用いた冊子で注文を取るやり方で成功した)で、マン・レイ作品も多数掲載(版画集の『アナトム』『サボテン』『エレクトロ・マジー』など)されていた。アクリル板のシリーズは3点で別に彫刻なども含まれていた。その中で興味を持ったのが『青い裸体』(版画レゾネII-91)で限定25部、番号サイン入り、アクリル板にシルクスクリーン黒刷り、価格は別紙に10,000Fと記載されていた。山内さんもわたしも小さな図柄では判断が付きかねるも、性器部分に蜘蛛が待ち構えるエロテックな案配に、興味津々なのだった。版元はイタリア人が経営するジョルジュ・ヴィザであるらしいが、よく知らない事柄だった(最初の頃は何も知らないのよね) ── ベルグレン画廊の扱いじゃなくてベルギーで現れたと云うのが謎、だから、わたしでも購入できる価格だった。

manray4-5『青い裸体』と筆者


 しばらくして大判の作品が到着した。マジックで書かれたサインが軽やかな限定番号22番、エロテックだけど品が良いのです。作品の背後に隠れて眼をこらすと、性器の中に入ってしまう感覚がたまりません。持ち帰ってベッドの前でかざしました。

 晩年のマン・レイが制作した版画の多くが旧作のリメークであったとはいえ、アクリル板やメタリック・ペーパーといった新しい支持体を使い、イメージにも手を加える(職人との共同作業でもある)事によって、アイデアを蘇らせるのに成功している。本作は1930年頃の裸体写真と蜘蛛の巣を撮った写真を二重焼き付けにした例で、40年後に性器を加筆し写真も左右を反転し再現させている。元の写真にはタイトルは付けられていなかったと思うが、便宜的な「蜘蛛女」の表記が一人歩きして、最近のオークションや展覧会で出会ったりするのは、アメリカ的な品性の欠如で嘆かわしい。アクリルを透過した光がインクを青く見せる、大きさと透明感の故に『青い裸体』の名前を好ましいと思うのだ。

manray4-6マン・レイ フェルー街2番地乙 (撮影者不詳)



4-3 カフェ・マン・レイ

女性雑誌の紹介記事で京都市内にお洒落な喫茶店「カフェ・マン・レイ」があるのを知ったのは、1992年頃だったろうか。四条烏丸から二筋下った仏光寺通りを東に入ったところに店があり、自然素材を使ったケーキとガッジアのエスプレッソで飲ませる美味しい珈琲が評判だと言う。訪ねてみるとモダンなビルの入り口から、美しい曲線で演出された中庭に至る通路に,展示用の小窓(マン・レイのポストカードがピンナップされていた)を幾つか配した造りで、大きなガラス窓の構造が素敵な店だった。店名の由来を尋ねたところ、ご主人がマン・レイ好きだとの答えだった。

 10年の後、京都写真クラブの設立パーティで、「マン・レイ狂い」の自己紹介をした時、オーナーの前田好雄氏に声をかけられた。学生時代からデュシャンやマン・レイなどのアバンギャルド作家を知っていた氏は、マン・レイに魅せられていて1991年6月に四条烏丸の大丸百貨店で開かれた『マン・レイ回顧展』の折に、シャベルをドアノッカーに見立てたミクストメディア作品『カフェ・マン・レイ』の制作年と、ご自身の生年が一致しているのに興味を持ち、準備中の喫茶店の名前に選んだと云う。特に1948年の「8」の字が横にされて無限大「∞」へと変化している部分に心を動かされたとの話しだった。
 店の場所は、氏の生家跡で元々は前田集栄堂と云う印刷会社、ビルに建て替えるに際し展示可能なスペースを確保された。設立パーティの席で、たまたまビルに空き室が出来たので、店名に由来するような一日だけの展覧会をやろうとなって(酒の勢いは恐いですね)、京都写真クラブ代表の森岡誠氏、現代美術作家の吉川恭生氏ともども話がまとまったのである。

manray4-7カフェ・マン・レイ 烏丸通仏光寺東入る


manray4-8前田好雄・正子夫妻


 喫茶店でわたしのコレクションを展示し、夕方から5・6階の部屋を使ってマン・レイにちなんだ料理を吉川氏が提供する企画。総合プロデュースを前田氏が行い、協賛を京都写真クラブとした。この時の案内状に「マン・レイの有名な油彩『天文台の時間──恋人たち』を最初にコレクションしたウイリアム・コプリーは、自身の画廊で開催したマン・レイ展のオープニング(1948年12月13日)に、一夜だけの喫茶店カフェ・マン・レイを併設し、ハリウッド中の有名人を集めた楽しい宴を催した。飲み物と料理を用意し「人ごみのあいだを妖精のように歩きまわった」のはジュリエット、ドリス・コプリー、フランソワーズ・ストラヴィンスキーといった美しい女性達。さて、京都の一日はどんな顔ぶれとなりますか、ご期待下さい。」とわたしは書いた。同展の報告については凝った造りの冊子を作り、また、マン・レイ・トラストの展覧会記録にもアップをしていただいた。

 上述のコプリー画廊展覧会で作られた限定版カタログ『告示なしにあり続けるために』には、サインの入ったオリジナル作品が挿入されていて、京都での展覧会でもそのイメージを再現するのに喜びを持った。フォトグラーベのそれは、サイズが23.3×13.8cmだが、わたしが用意したのは68×41.5cm、主題を変形・進化させた『青い裸体』である。


4-4 巡行に向けて

展覧会に作品を貸しだすのは、ハレの日を待つ町衆の心境、ある種の屏風飾りと言える。マン・レイも鯉山に飾られる16世紀ブリュッセル製のタピストリーと同じくベルギーからの将来品。レア・シルヴィアの物語とは別のジュリエットの物語がこれから始まるだろう。前田好雄氏は山車幕などを扱う祭禮懸装品研究所の代表、小学5年生の時に長刀鉾の禿の大役をこなされ、長く同鉾の囃子方を務められた。ねっからの京都人と競演できるのは有り難い事柄で、お祭り好きの血が騒ぐと言っておられた。

manray4-9鯉山 宵山飾り 室町通六角下る


manray4-10宵山の四条通り 月鉾の鉾頭(三日月)など


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manray4-11長刀鉾 巡行当日 四条通烏丸東入る


 1,000年以上を掛けて変化してきた祇園祭りは、疫病消除を願う庶民の都市型祭礼である。山や鉾が登場し始めた14世紀には、各町内が趣向をきそって中国の故事や伝説、歴史上の人物や民話を取りあげ疫神に見立て、神の依代とした。これを飾る懸装染織品には異国の品物である絨毯、毛綴、錦織が用いられた。朝鮮毛綴のモダンぶりに舌を巻くし、大航海時代にもたらされた真っ赤な毛織物と木製の山や鉾との対比の美しさに、今もうっとりする。気品あふれるマン・レイの裸体は、屏風飾りもさることながら、見送りに仕立てて都大路をしずしずと進むのに最適ではなかろうか。町内の寄り合いで「山鉾風流」を協議する機会があったら進言申し上げたい。でも、よその町衆だから却下されるか。
 
 七月に入って阪急電車の烏丸駅では祇園囃子が流されている。これを通勤の朝から聴いてしまうと心がお祭りモードになって仕事など出来ない、職場は祭りのただ中、宵山で鉾頭を見上げたら西日が反射して神々しいだろうな、今年のお天気はどうかしら。

manray4-12北観音山 巡行当日 新町通六角下る


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尚、祇園祭りの撮影は2013年。

続く

(いしはらてるお)

■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。

石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」目次
第1回「アンナ 1975年7月8日 東京」
第1回bis「マン・レイ展『光の時代』 2014年4月29日―5月4日 京都」
第2回「シュルレアリスム展 1975年11月30日 京都」
第3回「ヴァランティーヌの肖像 1977年12月14日 京都」
第4回「青い裸体 1978年8月29日 大阪」
第5回「ダダメイド 1980年3月5日 神戸」
第6回「プリアポスの文鎮 1982年6月11日 パリ」
第7回「よみがえったマネキン 1983年7月5日 大阪」
第8回「マン・レイになってしまった人 1983年9月20日 京都」
第9回「ダニエル画廊 1984年9月16日 大阪」
第10回「エレクトリシテ 1985年12月26日 パリ」
第11回「セルフポートレイト 1986年7月11日 ミラノ」
第12回「贈り物 1988年2月4日 大阪」
第13回「指先のマン・レイ展 1990年6月14日 大阪」
第14回「ピンナップ 1991年7月6日 東京」
第15回「破壊されざるオブジェ 1993年11月10日 ニューヨーク」
第16回「マーガレット 1995年4月18日 ロンドン」
第17回「我が愛しのマン・レイ展 1996年12月1日 名古屋」
第18回「1929 1998年9月17日 東京」
第19回「封印された星 1999年6月22日 パリ」
第20回「パリ・国立図書館 2002年11月12日 パリ」
第21回「まなざしの贈り物 2004年6月2日 銀座」
第22回「マン・レイ展のエフェメラ 2008年12月20日 京都」
第23回「天使ウルトビーズ 2011年7月13日 東京」
第24回「月夜の夜想曲 2012年7月7日 東京」
番外編「新刊『マン・レイへの写真日記』 2016年7月京都」
番外編─2『Reflected; 展覧会ポスターに見るマン・レイ』
番外編─2-2『マン・レイへの廻廊』
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