芳賀言太郎のエッセイ  
「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」 第10回

第10話 星降る町 ~エステーリャ~


10/3(Wed) Puente la Reina ~ Estella (22.9km)

 12月25日が過ぎると、街は一夜にしてモードが切り替わる。周りの家の飾りがモミの木から松に、リースが松飾りに変わり、クリスマスからお正月に世間がせわしなく変わっていく中、教会の入り口には相変わらず電飾のついたモミの木が置かれ、りんごやジンジャーマンなどの飾りが残る。これは何も飾り付けを変えるのが面倒でサボっているわけではない。キリスト教の暦ではクリスマスは25日では終わらない。東の国から来た博士たちが幼な子イエスに「黄金、乳香、没薬などを献げた」ことを記念し、教会では1月6日をキリストの栄光が世界中の人に「顕された」ことを「顕現節」(エピファニー)として祝う。教会のクリスマスはこの日まで続くのである。年明けの教会にクリスマスの飾りがつけられたままでも、それはむしろ正しいクリスマスの祝い方なのである。
 
 プエンテ・ラ・レイナの「王妃の橋」を渡り、広大な大地の中に続いている巡礼路を歩いて行くと、目の前に突如として町が現れた。Cirauqui(シラウキ)の町である。この町は丘の上にあり、緩やかな坂を上ってゆく巡礼者の目にはまるで空に浮いているかのように見える。町の中に一歩入ると、入り組んだ路地があっという間に訪れる者を中世へとタイムスリップさせる。細い路地をコツコツと杖を突きながらあるいていると、今にも扉を開けて裸足の子どもたちが水汲みのための木桶を持って出てくるような気がしてくる。タイムマシンとは科学者の電気回路の中にではなく、ごく普通の人々が大切に残してきた石と木の手触りの中にあることに気付く。
 シラウキの町を過ぎ、なだらかな丘を下ると、そこにはローマ時代の橋と石畳の街道が今もそのまま残されている。サンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼が始まる以前から、ここを歩いていった無数の人々のことを思う。

01朝日を浴びる巡礼路


02シラウキの町
広大な大地に佇む


03入り組んだ路地
中世の面影が残る


04二千年前から続くローマ時代の橋
橋の前後には石畳の道があり、それらもローマの時代のものである


05現代の水道橋
千年後にも残っているだろうか。


 Lorcaの町のバルでコカ・コーラを飲む。世界共通の味である。スペインにまで来てコカ・コーラかと思われるかも知れないが、体が要求するのだから仕方がない。テニス選手は炭酸を抜いたコーラを試合の合間に飲み、エネルギーを補給すると聞いたことがある。歩き疲れた体には染み渡る。炎天下の中をひたすら歩き、わずかな休憩のときに咽に流し込んだ一杯のコーラが、これまで飲んだコーラの中で一番うまいと今でも思っている。
 ここはとても雰囲気の良いバルで、2階が巡礼宿になっている。こういうナイスな宿は小さな町に多い。大きな町は泊まる巡礼者も多いためアルベルゲが巨大化してしまう。仕方のないことではあるが、やはり味気ない。効率優先の大きなアルベルゲを一つ造るのではなく、様々な特徴のある小ぶりなアルベルゲが町のあちこちにあって、誰もがこのような趣のある宿に泊まることができれば良いのにと思う。

06ロルカのバル
ビールを片手に歓迎してくれる


 Estellaの手前、野生のオリーブに囲まれた教会を見つける。中へは入れないのだろうと思いつつも、万に一つを期待して正面まで足を運ぶ。そうしたら、なんと入り口の扉が開いていたのである。不思議に思ったので中を覗くと、そこは廃墟のように荒れ果てていた。ずっと使われてないのだろう。ひどくさびれている。決して綺麗とは言えず、むしろ汚い。ただ、空間だけが濃密にあるのだ。中は伽藍。入り口と一つだけの小さな窓。何もないが空間がある。綺麗ではないことは確かであり、美しいのかどうかもわからない。ただ、粗い石をむしろ無造作に積み上げて生まれた場所がひとつのたしかな空間となってそこにはあった。そしてそれはどんな豪華できらびやかな装飾や調度によってもつくり出すことのできない実に豊かな空間であった。

07教会 外観
周りに野生のオリーブが生えている


08教会 内部
正面の十字架と祭壇だけが今も残る


09内部から入り口を見る


 Estella(エステーリャ)、カスティーリャ語で「星」を意味するこの町は、11世紀後半の星降る夜に、その星の光に導かれた羊飼いが聖母マリア像を発見し、その地に建設されたのが始まりであると言われている。東から来た博士たちをユダヤのベツレヘムに導いたのも星であったが、聖ヤコブの墓を発見した羊飼いを導いた星といい、巡礼路には星にまつわる伝説が数多く残っている。
 エステーリャは巡礼路によって栄えた川沿いの美しい町で、起伏に富んだ地形を生かした2つの教会と王宮が有名である。東のトレドと呼ばれるように中世の街並みが色濃く残り、「星」というその美しい名前にふさわしい町である。多くのロマネスクの教会が今に残っている。入り口のファサードはどの教会も見事であり、それぞれに特徴がある。

10聖墳墓教会 ファサード
聖人たちの彫刻が並ぶ


11カルセル橋
中世の趣が残る


12アルベルゲ 中庭
午後の日差しが心地よい


 街に入って右の丘の上にはサン・ミゲール教会がある。12世紀の建築であるがその後多くの改造がなされ、ロマネスク教会としての見どころはこの北の門の正面ファサードに残る保存状態のよいロマネスク彫刻群である。写真だと見にくいかも知れないが、中央タンパン正面にキリスト像、その向かって左上に人間の姿をした聖マタイ、右上に鷲の姿をした聖ヨハネ、左下に獅子の姿をした聖マルコ、右下に牛の姿をした聖ルカの四福音書記者が取り囲み、その左に聖母マリア、右に使徒ヨハネが刻まれている。柱頭彫刻として「ヨセフの夢」、「エリサベツのマリア訪問」、「幼子キリストと羊飼いへのお告げ」、「キリストの宮参り」、「三博士の礼拝」、「エジプトへの逃避」、「ヘロデ王」、「嬰児虐殺」、とキリストの誕生物語が刻まれている。その両側には聖人たちの彫刻が並び、左側下段右端に、この聖堂が献げられた聖ミカエルが彫られている。
 内部も重厚な石の空間が人間を包み込むような魅力的な空間であった。ただ一つ、正面のゴテゴテした金色の祭壇だけはどうも私の趣味には合わないのである。レコンキスタの勝利の余韻と新大陸の発見、運び込まれたおびただしい黄金が、質素であったが高い精神性を持ったロマネスクの空間に、これみよがしの金満主義を持ち込むことになったのであろうか。自分としては千利休の待庵に豊臣秀吉の金の茶道具を持ち込むような具合の悪さを感じてしまうのである。

13サン・ミゲール教会 
急勾配の階段が教会入り口へと続く


14サン・ミゲール教会 正面ファサード
保存状態の良い貴重なロマネスク彫刻


15サン・ミゲール教会 内部
ゴシック様式の高い天井ながら包容力のある空間


 サン・ペドロ・デ・ラ・ルア教会は13世紀初頭のロマネスク教会。急勾配を一気に上る長い階段のアプローチと正面ファサードの美しい多弁装飾が印象的である。構造はロマネスク後期のものであるがゴシック期の彫刻が施されている。「13世紀初頭の極めて印象的な回廊を持つが、その半分は1521年の天災で失われている。後陣方向から教会に沿って柱頭にキリストの生涯と聖人の受難が刻まれ、9本目にこの聖堂が献げられている聖ペテロが彫られている。」という触れ込みであったが、そのすばらしい回廊はまさかの現在改装中。残念であったが、礼拝堂内部に入れただけでも感謝である。
 サン・ペドロ・デ・ラ・ルア教会のロマネスクの空間に身を置くと、先のサン・ミゲール教会のゴシックの空間にいた時よりも無意識のうちに体の重心が低くなっているように感じる。天を見上げるのではなく、自分の中を見つめるイメージである。それはつまり、ロマネスク時代の人々は自分の心の中に神を感じ、その後のゴシック時代を生きた人々は天に神を求めたということではないだろうかとふと思った。

16サン・ペドロ・デ・ラ・ルア教会 外観
丘の上に建っており、長い階段が印象的


17サン・ペドロ・デ・ラ・ルア教会 正面ファサード


18サン・ペドロ・デ・ラ・ルア教会 内部
半円アーチの開口部が三段につながっているのが特徴的


19回廊側アプローチとガラスのエレベーター
モダンに改装工事中


20エステーリャの街並み
美しい街並みが広がる


 「エステーリャでは、エーガ川が流れているがその水は優しく健康的ですばらしい」と中世の巡礼案内書にある。トニーとケヴィンと共に訪れた町の中央広場にあるレストランの夕食はまさに案内書の記述どおり素晴らしく、とても美味であった。巡礼仲間と共にする夕食こそ巡礼において最もすばらしい時間なのではないかと今では思う。時間はあっという間に過ぎていった。

21レストラン


22ディナーのメインディッシュ 牛肉の煮込み
サラダとデザート(もちろんパンとワインも)がついて15ユーロ


23バル


歩いた総距離857.1km

(はがげんたろう)


コラム 僕の愛用品 ~巡礼編~
第10回 ノート
MOLESKINE モレスキン ルールドノートブック 1,890円


 ゴッホ、ピカソ、ヘミングウェイ、名だたる人物が愛した伝説のノート、それが『モレスキン』である。撥水加工されたオイルドクロスの硬い表紙、環境保全に適した上質な中性紙、開きたいページにアクセス可能なしおり、丸みのある角とノートをまとめるゴムバンド、そして内側のマチ付きポケットというシンプルであるが、これ以上デザインすることがない完成されたノートである。
 オリジナルは19世紀後半、フランス・トゥールの小さな製本業者によって1世紀以上の間に渡ってつくられ、パリの文具店で販売された。そこには世界中の革命的芸術家や作家が訪れ、購入したという。1986年に家族経営の小さな製造業者が倒産してしまい、伝説のノートは絶版となった。イギリスの作家のブルース・チャトウィンは、オーストラリア旅行に備え、手に入る全てのノートを買い漁ったというエピソードまで残っている。チャトウィンは、オーストラリアの旅をまとめた遺作『ソングライン』の中でこのノートを取り上げ「モレスキン」と呼んだ。
 生産が終了し、長らく入手不可能であったが、1997年にミラノにある出版社が復刻し、モレスキンを甦らせた。アーティストたちの心を捉えて離さなかったモレスキンは現在でも世界中の人々を魅了している。

パスポートをなくすことなど心配のうちに入らない。
しかしノートを失うようなことがあれば、それは大惨事である。

ブルース・チャトウィン『ソングライン』

 モレスキンは私の巡礼旅の相棒である。巡礼中の日記はこのモレスキンに書かれている。道具とは買った日が最高でなく、共に過ごした時間やモノに込めた思いとともに、その人自身の断片を表すものであると思う。共に旅した私の「モレスキン」は唯一無二であり、池袋のデパートにある文房具コーナーで買ったこのモレスキンはカミーノを通して私にとっての最高の道具となった。今は部屋の本棚に並んでおり、このエッセイを書くときに手に取るのである。

24モレスキン


芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂を設計。

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