石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」 第12回
贈り物 1988年2月4日 大阪
12-1 江戸堀コダマビル
マン・レイのアイロンが欲しいと長く思ってきた。シュルレアリスムを紹介する本にたびたび登場する制作の逸話と紛失の経緯に想像を膨らませ、持ってみたいと憧れにも似た感情をいだいてきた。赤瀬川原平がエッセイ「アイロンをかけた紙幣」(『ユリイカ』増頁特集「マン・レイ」1982年9月号)に書いている友人のユキノ君が「これは凄えの」といって図版を見せてくれた時の「絶句」に、「そう、そう、その通り」とあいづちを打つ状態を、30歳を過ぎても持っていた。ザブリスキー画廊のプライス・リスト(連載第11回参照)には、1970年に11点作られたマルチプルが7,500ドルで載っていたが、送料などを含めると月収4倍ほどの価格、これでは第二子の誕生が近いサラリーマン・コレクターには、手の出しようがない。
児玉画廊案内状
左から開廊1987.9
マン・レイ展1987.10
ダダ展1989.10
---
そうした時に、雑誌「版画芸術」の広告頁でマン・レイ展の開催を知った。大阪の江戸堀(市営地下鉄四つ橋線肥後橋駅下車5分)に児玉画廊と云うのが新設され、企画第一段がオブジェと版画によるマン・レイ展で、会期は1987年10月1日~31日。早速、連絡を入れて展示予定の作品を教えてもらうと、憬れのアイロンが含まれていた。
開催を待って家族と一緒に訪問すると、児玉画廊はスペイン瓦を使った三階建ての古い洋館の一階にあり、地階はレストラン、入口には演奏会の案内板が掲げられていた。建築家ヴォーリズの影響がうかがえるスパニッシュスタイルの建物で、綿布商として成功した児玉竹次郎氏の個人住宅として1935年に建てられたと云う。展示室は入って直ぐ左にある旧応接室と奥の部屋に別れて準備されていた。
12-2 マン・レイ展
マン・レイ展
左から『永久興業』
『イジドール・デュカッスの謎』など
同上
左から『長鉋』
『レイの手』
最初に目に入ったのは軍隊毛布でミシンを包んだ『イジドール・デュカッスの謎』(限定10)と、チェス盤の上に拡大した駒を置いた『永久興業』(限定8)。どちらも再制作とはいえ売り物と接するのは初体験、これはレベルの高い展覧会だと身構えた。オリジナルをマン・レイのアトリエで見た『クリケット玉の影』(限定8)は、記憶よりも大きい印象。台座の上にはアッセンブラージュ作品が3点、左から『長鉋』(限定9)、『レイの手』(限定10)、『視覚的憧景と幻影』(限定9)。これらを取り囲むように版画作品『絶対的な現実』の連作や、初期制作の小品版画『イジドール・デュカッスの肖像』と『ロートレアモンの肖像』が掛けられている。そして、奥の部屋に入ると色彩のリズムが空間を満たす版画集『回転とびら』のシリーズに挟まれ、シュワルツ版のアッセンブラージュ『Au poil』(限定50)と、欲しくてたまらない憬れのアイロンが置かれていた。
家人が横にいるので平静を装うものの、すぐに持って帰りたい気持ちが破裂しそうになって困った── 実は、購入の約束をしていたのです。
マン・レイ展
『回転とびら』など
同上
『贈り物』
展示されているアイロンは、1974年にイタリアのルチアーノ・アンセルミーノが限定300個を再制作させたもので、限定番号とマン・レイのモノグラムサインが記されたカードとセットになっており(本作は50番)、これに未亡人となったジュリエットの証明書(1982年6月3日付)コピーが付されている。制作数が多いので、わたしにも購入可能な価格となった訳だが、児玉画廊のデイレクター加藤義夫氏の様々なサポートのお陰だったと感謝している。イタリアから持ち帰るとき、空港の荷物検査で止められないよう「土産品」と言って、そのまま手に持ってゲートを潜られたと氏から聞いた。展覧会カタログの紙面でアイロンを見る度に、その姿を想像して楽しい気分に包まれる。カタログの「あとがき」で、現代美術の源泉でもあるダダを画廊の原点とすると宣言された加藤氏は、「「視覚的網膜的な楽しみ」と「観念」とが共存しているようなマン・レイの作品群を通じてダダを理解することによって現代美術理解の糸口となれば幸いと思います。」と記している。
---
12-3 贈り物
展覧会から四ヶ月後、なんとか資金を用意してアイロンを受け取った。二人目の娘が生まれたのに、どうして我慢出来なかったのかと問われても、わたしには答えようがない。ここでは、自己弁護になるけど、アイロン登場の逸話などについて書いておきたい。
リブレリ・シス『ダダ・マン・レイ展』1921
カタログ
同上
熱して使う平型アイロンの底面に、規則正しく14個の鋲を並べて貼り付けた本作は、ニューヨークからパリに渡ったマン・レイが、友人となったダダイストの詩人フィリップ・スーポーが始めた画廊兼書店「リブレリ・シス」を会場にして、パリでの初個展を開催した1921年12月、前日内示展が開かれた日の午後に制作された。フランス語に慣れていないマン・レイは、作曲家のエリック・サティの助けを借り(英語を話した)、近くの金物屋でアイロンと鋲と膠を買い求め、貼り付けて『贈り物』と題し、展示品に加えたと云う──その為、用意された案内状の展示品リストに本作は記載されていない(上段写真参照)。底冷えする寒い日だったらしく、サティとカフェで暖を取りながら、シャツの皺を伸ばすアイロンから実利的な部分を取り去り、シャツを切り裂き、焼き尽くせと強要するアイデアが、マン・レイに浮かんだのは、どうしてだろう?「店先にアイロンが置かれていて刺激された」と解するのが自然なのだが、両親が仕立て職人であった事に起因して、身近にあったアイロンに「自由でいたい」と云う深層心理が表れたと言える。マン・レイは「この作品を賞品にして友人たちに籤引きをやってもらおうとおもっていたのだが、午後のあいだに失くなってしまった。きっとスーポーがねこばばしたにちがいないとおもった。」と『自伝』(千葉成夫訳、美術公論社、1981年刊、121頁)で回想している。
そして、後世のわたしたちに、犯行現場の証拠写真が残された。美しく反射するアイロンの底部に並ぶ鋲に思いを馳せ、震えながら見ていると、「このアイロンは、最初の『贈り物』なのだろうか」との疑問が生まれてきた。スティーグリッツがマット氏の『泉』を撮った写真のように、マン・レイの仕組んだ「謎」が見え隠れするのである。会場を俯瞰した写真の中に『贈り物』が写っていたら納得できるのだが、わたしは、まだ見ていない。
『贈り物』ルチアーノ・アンセルミーノ版
限定300個 (L/CCC)
---
そこにあった物と、それを写した写真が密接に結び付いているのは、写真にまつわる暗黙の了解事項である。しかし、芸術家の意図と、それを表す表現行為の関係から、写っているのが最初の『贈り物』でなければならない理由はない。アイデアが表されていれば良いのである。それに、写真は軽くて持ち運びに便利だから、アイデアを流布するには好都合──などと言ってはいけないか。こうして、作者が巧みに演出した物語に取り込まれながら、他の作品の場合、マン・レイは直ぐに再制作するのだけど、どうして戦前のアトリエなどでマン・レイが撮った写真に、『贈り物』が写っていないのだろうかと気になってしまった。
マン・レイがパリに戻った1960年代以降、ダダの運動が歴史に組み込まれていくと、犯行現場の証拠写真に含まれた「謎」を解明して作家のアイデアの背景を知りたい、アイロンを「手に取って!」と強要される心理を体験したいと、人々は思うようになった。それで、作家は電気式の最新形から旧式の復元まで様々なアイロンを用意して『贈り物』を再制作する事になった。表情を変えた幾つものアイロンからは、芸術品に求められるオリジナルの神話は排除され、アイデアを再現する設計図として量産化されている。もっとも、作業を担当したリュシアン・トレイヤールによると接着剤の選定が難しいと云う。わたしはコレクター、児玉画廊で展示された最初の『贈り物』を撮った写真のイメージに近いアイロンから、犯行現場に立ち会った自分を想像して、欲しくてたまらなくなってしまったのである。
ロレ・ド・シャンポールでの筆者
---
こうして、わたしにとっての特別なアイロンを入手した。先年、家族とフランスへ旅行しロワール渓谷の古城、シャンポール城近くのレストラン、ロレ・ド・シャンポールに立ち寄った時、暖炉の上に古いアイロンが並べられているのに気が付いて嬉しくなった。数えてみると14個、アイロンは日用品なのだから、ありきたりに置かれているのが当然なのだけど、マン・レイはサティと一緒に金物屋へ入る前に、こんな風にアイロンと接していたのだろうなと思った。もちろん「手に取って!」記念写真、ここに示した写真も犯行現場を表わしていると良いのだが。
12-4 ダダ展
さて、記述を1989年の大阪に戻す。児玉画廊は開廊二周年を記念する大規模な「ダダ展」を10月30日~11月25日の会期で開催した。これは、日本の画廊でハンス・アルプ、マン・レイ、マルセル・デュシャン、ハンナ・ヘッヒ、クルト・シュヴィッタース、ラウル・ハスマン、ジャン・クロッティ、ジョン・ハートフィールドなど14作家の優品63点を展示する快挙。マン・レイについては、開廊展で並べられた版画やアイロンなどを除くラインナップで、箒を逆さまに立てたブロンズ製の『フランスの踊り II』(限定10)が新たに加えられた7点で、オープニング・レセプションに参加して心躍り拝見させて頂いた日が懐かしい。この展覧会でもカタログ(加藤義夫、林美佐編集、86頁)が発行され、テキストを寄せたジゼッペ・ポニーニが冒頭で「私より以前に誰か他の人達がいたかどうかなど知りたいとも思わない」とデカルトの言葉を引用しているのに唸った。
ダダ展
左から『レイの手』
『長鉋』
『視覚的憧景と幻影』
『フランスの踊り II』
同上
オープニング・レセプション二次会
画廊の活動は、1997年まで続いたと思う。その間、現代美術家の久保田昌孝、大久保英治、藤本由紀夫、片山雅史といった人達の個展を精力的に開催すると共に、日本ではあまり知られていなかったイタリアの美術運動アルテ・ポーヴェラや、巨匠フォンターナ、ジャコモ・バッラ、アルベルト・ブッリなどを紹介した。これらの貴重な実作に接する機会を与えられたのは、関西に住む美術ファンとして有り難い経験だった。デイレクターを努めた加藤義夫氏は、その後、独立されて展覧会企画や美術評論等で活躍しておられ、現在も美術館や画廊でお会いする事が多い。「また、マン・レイの作品を見付けてくれないかしら」と、今度、お会いしたらお願いしなくては……
続く
(いしはらてるお)
■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。
◆石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」目次
第1回「アンナ 1975年7月8日 東京」
第1回bis「マン・レイ展『光の時代』 2014年4月29日―5月4日 京都」
第2回「シュルレアリスム展 1975年11月30日 京都」
第3回「ヴァランティーヌの肖像 1977年12月14日 京都」
第4回「青い裸体 1978年8月29日 大阪」
第5回「ダダメイド 1980年3月5日 神戸」
第6回「プリアポスの文鎮 1982年6月11日 パリ」
第7回「よみがえったマネキン 1983年7月5日 大阪」
第8回「マン・レイになってしまった人 1983年9月20日 京都」
第9回「ダニエル画廊 1984年9月16日 大阪」
第10回「エレクトリシテ 1985年12月26日 パリ」
第11回「セルフポートレイト 1986年7月11日 ミラノ」
第12回「贈り物 1988年2月4日 大阪」
第13回「指先のマン・レイ展 1990年6月14日 大阪」
第14回「ピンナップ 1991年7月6日 東京」
第15回「破壊されざるオブジェ 1993年11月10日 ニューヨーク」
第16回「マーガレット 1995年4月18日 ロンドン」
第17回「我が愛しのマン・レイ展 1996年12月1日 名古屋」
第18回「1929 1998年9月17日 東京」
第19回「封印された星 1999年6月22日 パリ」
第20回「パリ・国立図書館 2002年11月12日 パリ」
第21回「まなざしの贈り物 2004年6月2日 銀座」
第22回「マン・レイ展のエフェメラ 2008年12月20日 京都」
第23回「天使ウルトビーズ 2011年7月13日 東京」
第24回「月夜の夜想曲 2012年7月7日 東京」
番外編「新刊『マン・レイへの写真日記』 2016年7月京都」
番外編─2『Reflected; 展覧会ポスターに見るマン・レイ』
番外編─2-2『マン・レイへの廻廊』
------------------------------------------
●今日のお勧め作品は、百瀬寿です。
百瀬寿
「NE. Gold to Gold by M and C」
ミクストメディア
45.0x45.0cm
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
贈り物 1988年2月4日 大阪
12-1 江戸堀コダマビル
マン・レイのアイロンが欲しいと長く思ってきた。シュルレアリスムを紹介する本にたびたび登場する制作の逸話と紛失の経緯に想像を膨らませ、持ってみたいと憧れにも似た感情をいだいてきた。赤瀬川原平がエッセイ「アイロンをかけた紙幣」(『ユリイカ』増頁特集「マン・レイ」1982年9月号)に書いている友人のユキノ君が「これは凄えの」といって図版を見せてくれた時の「絶句」に、「そう、そう、その通り」とあいづちを打つ状態を、30歳を過ぎても持っていた。ザブリスキー画廊のプライス・リスト(連載第11回参照)には、1970年に11点作られたマルチプルが7,500ドルで載っていたが、送料などを含めると月収4倍ほどの価格、これでは第二子の誕生が近いサラリーマン・コレクターには、手の出しようがない。
児玉画廊案内状左から開廊1987.9
マン・レイ展1987.10
ダダ展1989.10
---
そうした時に、雑誌「版画芸術」の広告頁でマン・レイ展の開催を知った。大阪の江戸堀(市営地下鉄四つ橋線肥後橋駅下車5分)に児玉画廊と云うのが新設され、企画第一段がオブジェと版画によるマン・レイ展で、会期は1987年10月1日~31日。早速、連絡を入れて展示予定の作品を教えてもらうと、憬れのアイロンが含まれていた。
開催を待って家族と一緒に訪問すると、児玉画廊はスペイン瓦を使った三階建ての古い洋館の一階にあり、地階はレストラン、入口には演奏会の案内板が掲げられていた。建築家ヴォーリズの影響がうかがえるスパニッシュスタイルの建物で、綿布商として成功した児玉竹次郎氏の個人住宅として1935年に建てられたと云う。展示室は入って直ぐ左にある旧応接室と奥の部屋に別れて準備されていた。
12-2 マン・レイ展
マン・レイ展左から『永久興業』
『イジドール・デュカッスの謎』など
同上左から『長鉋』
『レイの手』
最初に目に入ったのは軍隊毛布でミシンを包んだ『イジドール・デュカッスの謎』(限定10)と、チェス盤の上に拡大した駒を置いた『永久興業』(限定8)。どちらも再制作とはいえ売り物と接するのは初体験、これはレベルの高い展覧会だと身構えた。オリジナルをマン・レイのアトリエで見た『クリケット玉の影』(限定8)は、記憶よりも大きい印象。台座の上にはアッセンブラージュ作品が3点、左から『長鉋』(限定9)、『レイの手』(限定10)、『視覚的憧景と幻影』(限定9)。これらを取り囲むように版画作品『絶対的な現実』の連作や、初期制作の小品版画『イジドール・デュカッスの肖像』と『ロートレアモンの肖像』が掛けられている。そして、奥の部屋に入ると色彩のリズムが空間を満たす版画集『回転とびら』のシリーズに挟まれ、シュワルツ版のアッセンブラージュ『Au poil』(限定50)と、欲しくてたまらない憬れのアイロンが置かれていた。
家人が横にいるので平静を装うものの、すぐに持って帰りたい気持ちが破裂しそうになって困った── 実は、購入の約束をしていたのです。
マン・レイ展『回転とびら』など
同上『贈り物』
展示されているアイロンは、1974年にイタリアのルチアーノ・アンセルミーノが限定300個を再制作させたもので、限定番号とマン・レイのモノグラムサインが記されたカードとセットになっており(本作は50番)、これに未亡人となったジュリエットの証明書(1982年6月3日付)コピーが付されている。制作数が多いので、わたしにも購入可能な価格となった訳だが、児玉画廊のデイレクター加藤義夫氏の様々なサポートのお陰だったと感謝している。イタリアから持ち帰るとき、空港の荷物検査で止められないよう「土産品」と言って、そのまま手に持ってゲートを潜られたと氏から聞いた。展覧会カタログの紙面でアイロンを見る度に、その姿を想像して楽しい気分に包まれる。カタログの「あとがき」で、現代美術の源泉でもあるダダを画廊の原点とすると宣言された加藤氏は、「「視覚的網膜的な楽しみ」と「観念」とが共存しているようなマン・レイの作品群を通じてダダを理解することによって現代美術理解の糸口となれば幸いと思います。」と記している。
---
12-3 贈り物
展覧会から四ヶ月後、なんとか資金を用意してアイロンを受け取った。二人目の娘が生まれたのに、どうして我慢出来なかったのかと問われても、わたしには答えようがない。ここでは、自己弁護になるけど、アイロン登場の逸話などについて書いておきたい。
リブレリ・シス『ダダ・マン・レイ展』1921カタログ
同上熱して使う平型アイロンの底面に、規則正しく14個の鋲を並べて貼り付けた本作は、ニューヨークからパリに渡ったマン・レイが、友人となったダダイストの詩人フィリップ・スーポーが始めた画廊兼書店「リブレリ・シス」を会場にして、パリでの初個展を開催した1921年12月、前日内示展が開かれた日の午後に制作された。フランス語に慣れていないマン・レイは、作曲家のエリック・サティの助けを借り(英語を話した)、近くの金物屋でアイロンと鋲と膠を買い求め、貼り付けて『贈り物』と題し、展示品に加えたと云う──その為、用意された案内状の展示品リストに本作は記載されていない(上段写真参照)。底冷えする寒い日だったらしく、サティとカフェで暖を取りながら、シャツの皺を伸ばすアイロンから実利的な部分を取り去り、シャツを切り裂き、焼き尽くせと強要するアイデアが、マン・レイに浮かんだのは、どうしてだろう?「店先にアイロンが置かれていて刺激された」と解するのが自然なのだが、両親が仕立て職人であった事に起因して、身近にあったアイロンに「自由でいたい」と云う深層心理が表れたと言える。マン・レイは「この作品を賞品にして友人たちに籤引きをやってもらおうとおもっていたのだが、午後のあいだに失くなってしまった。きっとスーポーがねこばばしたにちがいないとおもった。」と『自伝』(千葉成夫訳、美術公論社、1981年刊、121頁)で回想している。
そして、後世のわたしたちに、犯行現場の証拠写真が残された。美しく反射するアイロンの底部に並ぶ鋲に思いを馳せ、震えながら見ていると、「このアイロンは、最初の『贈り物』なのだろうか」との疑問が生まれてきた。スティーグリッツがマット氏の『泉』を撮った写真のように、マン・レイの仕組んだ「謎」が見え隠れするのである。会場を俯瞰した写真の中に『贈り物』が写っていたら納得できるのだが、わたしは、まだ見ていない。
『贈り物』ルチアーノ・アンセルミーノ版限定300個 (L/CCC)
---
そこにあった物と、それを写した写真が密接に結び付いているのは、写真にまつわる暗黙の了解事項である。しかし、芸術家の意図と、それを表す表現行為の関係から、写っているのが最初の『贈り物』でなければならない理由はない。アイデアが表されていれば良いのである。それに、写真は軽くて持ち運びに便利だから、アイデアを流布するには好都合──などと言ってはいけないか。こうして、作者が巧みに演出した物語に取り込まれながら、他の作品の場合、マン・レイは直ぐに再制作するのだけど、どうして戦前のアトリエなどでマン・レイが撮った写真に、『贈り物』が写っていないのだろうかと気になってしまった。
マン・レイがパリに戻った1960年代以降、ダダの運動が歴史に組み込まれていくと、犯行現場の証拠写真に含まれた「謎」を解明して作家のアイデアの背景を知りたい、アイロンを「手に取って!」と強要される心理を体験したいと、人々は思うようになった。それで、作家は電気式の最新形から旧式の復元まで様々なアイロンを用意して『贈り物』を再制作する事になった。表情を変えた幾つものアイロンからは、芸術品に求められるオリジナルの神話は排除され、アイデアを再現する設計図として量産化されている。もっとも、作業を担当したリュシアン・トレイヤールによると接着剤の選定が難しいと云う。わたしはコレクター、児玉画廊で展示された最初の『贈り物』を撮った写真のイメージに近いアイロンから、犯行現場に立ち会った自分を想像して、欲しくてたまらなくなってしまったのである。
ロレ・ド・シャンポールでの筆者---
こうして、わたしにとっての特別なアイロンを入手した。先年、家族とフランスへ旅行しロワール渓谷の古城、シャンポール城近くのレストラン、ロレ・ド・シャンポールに立ち寄った時、暖炉の上に古いアイロンが並べられているのに気が付いて嬉しくなった。数えてみると14個、アイロンは日用品なのだから、ありきたりに置かれているのが当然なのだけど、マン・レイはサティと一緒に金物屋へ入る前に、こんな風にアイロンと接していたのだろうなと思った。もちろん「手に取って!」記念写真、ここに示した写真も犯行現場を表わしていると良いのだが。
12-4 ダダ展
さて、記述を1989年の大阪に戻す。児玉画廊は開廊二周年を記念する大規模な「ダダ展」を10月30日~11月25日の会期で開催した。これは、日本の画廊でハンス・アルプ、マン・レイ、マルセル・デュシャン、ハンナ・ヘッヒ、クルト・シュヴィッタース、ラウル・ハスマン、ジャン・クロッティ、ジョン・ハートフィールドなど14作家の優品63点を展示する快挙。マン・レイについては、開廊展で並べられた版画やアイロンなどを除くラインナップで、箒を逆さまに立てたブロンズ製の『フランスの踊り II』(限定10)が新たに加えられた7点で、オープニング・レセプションに参加して心躍り拝見させて頂いた日が懐かしい。この展覧会でもカタログ(加藤義夫、林美佐編集、86頁)が発行され、テキストを寄せたジゼッペ・ポニーニが冒頭で「私より以前に誰か他の人達がいたかどうかなど知りたいとも思わない」とデカルトの言葉を引用しているのに唸った。
ダダ展左から『レイの手』
『長鉋』
『視覚的憧景と幻影』
『フランスの踊り II』
同上オープニング・レセプション二次会
画廊の活動は、1997年まで続いたと思う。その間、現代美術家の久保田昌孝、大久保英治、藤本由紀夫、片山雅史といった人達の個展を精力的に開催すると共に、日本ではあまり知られていなかったイタリアの美術運動アルテ・ポーヴェラや、巨匠フォンターナ、ジャコモ・バッラ、アルベルト・ブッリなどを紹介した。これらの貴重な実作に接する機会を与えられたのは、関西に住む美術ファンとして有り難い経験だった。デイレクターを努めた加藤義夫氏は、その後、独立されて展覧会企画や美術評論等で活躍しておられ、現在も美術館や画廊でお会いする事が多い。「また、マン・レイの作品を見付けてくれないかしら」と、今度、お会いしたらお願いしなくては……
続く
(いしはらてるお)
■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。
◆石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」目次
第1回「アンナ 1975年7月8日 東京」
第1回bis「マン・レイ展『光の時代』 2014年4月29日―5月4日 京都」
第2回「シュルレアリスム展 1975年11月30日 京都」
第3回「ヴァランティーヌの肖像 1977年12月14日 京都」
第4回「青い裸体 1978年8月29日 大阪」
第5回「ダダメイド 1980年3月5日 神戸」
第6回「プリアポスの文鎮 1982年6月11日 パリ」
第7回「よみがえったマネキン 1983年7月5日 大阪」
第8回「マン・レイになってしまった人 1983年9月20日 京都」
第9回「ダニエル画廊 1984年9月16日 大阪」
第10回「エレクトリシテ 1985年12月26日 パリ」
第11回「セルフポートレイト 1986年7月11日 ミラノ」
第12回「贈り物 1988年2月4日 大阪」
第13回「指先のマン・レイ展 1990年6月14日 大阪」
第14回「ピンナップ 1991年7月6日 東京」
第15回「破壊されざるオブジェ 1993年11月10日 ニューヨーク」
第16回「マーガレット 1995年4月18日 ロンドン」
第17回「我が愛しのマン・レイ展 1996年12月1日 名古屋」
第18回「1929 1998年9月17日 東京」
第19回「封印された星 1999年6月22日 パリ」
第20回「パリ・国立図書館 2002年11月12日 パリ」
第21回「まなざしの贈り物 2004年6月2日 銀座」
第22回「マン・レイ展のエフェメラ 2008年12月20日 京都」
第23回「天使ウルトビーズ 2011年7月13日 東京」
第24回「月夜の夜想曲 2012年7月7日 東京」
番外編「新刊『マン・レイへの写真日記』 2016年7月京都」
番外編─2『Reflected; 展覧会ポスターに見るマン・レイ』
番外編─2-2『マン・レイへの廻廊』
------------------------------------------
●今日のお勧め作品は、百瀬寿です。
百瀬寿「NE. Gold to Gold by M and C」
ミクストメディア
45.0x45.0cm
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
コメント