芳賀言太郎のエッセイ
「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」 第13回
Japanese on 1600km pilgrimage to Santiago Vol.13
第13話 リオハワインとクラシコ ~ログローリョからその先へ~
Episode.13: Rioja wine & Classico -From Logrono to beyond-
10/6(Sat) Viana ~ Logrono (11.0km)
10/7(Sun) Logrono ~ Navarete (12.2km)
小笠原に行ってきた。船で25時間の旅である。飛行機の便はなく、東京と小笠原を結ぶ唯一の手段が小笠原丸である。1つの乗り物に25時間も乗り続けるというのは今ではこの小笠原丸ぐらいではないか。その意味では世界で一番遠い(?)とも言える小笠原は2011年に世界自然遺産に登録され、中国船のサンゴ密漁問題があったとはいえ、そのようなことが起こるほど豊かな自然を持つ島である。
澄み切った空、ボニンブルーと呼ばれる青い海、天気にも恵まれ充実した日々を過ごした。旅というよりバカンスであった。北ヨーロッパの人々はスペイン、イタリア、南フランスにバカンスに行く。そこではただ太陽の下で寝そべり、日光に当たるだけである。一定量の日光は体と健康に良いということを知っているからである。
ヨーロッパは基本的には高緯度なので太陽の光は弱い。産業革命時代、工場の煤煙で紫外線が遮られたイギリスではクル病が多発するが、その特効治療となったのが日光浴であった。20世紀初頭、スイスのロリエ博士はアルプス山中のオールモン谷に小学校を建て、虚弱児童に対して野外教育を行ない、めざましい効果をあげている。
その意味で、私は小笠原で「太陽の治療」を行った。東京に帰国(まさに気分は帰国だった)し、親に開口一番、日に焼けたねと言われた。美白がもてはやされ、紫外線は絶対悪のように叫ばれて、大量の日焼け止めクリームを顔や手足に塗る現代の日本人。今、最も必要なのは健康増進のサプリメントなどではなく、適度な日光にあたる習慣なのではないだろうか。そう確信した小笠原への旅であった。
小笠原
朝焼けに向かって歩みを進める。日差しが心地よい。森を抜け、小さな川を渡り、ラ・リオハ県に入る。目的地のログローリョまでは10㎞ほど。この調子だとお昼前についてしまう。
朝焼けの道
道
巡礼者のための陸橋
リオハは有名なワインの産地で、スペインの原産地呼称制度の最高峰、D.O.Ca(特選原産地呼称)を初めて獲得した地域である。ブドウの栽培は紀元前に遡り、スペイン最古のワイン産地である。ローマ人の征服後生産量は徐々に増え、中世には巡礼者たちがワインの評判を各地に広めたそうである。
19世紀のフィロキセラ(ブドウ根アブラムシ)禍のために仕事を失ったボルドーのワイン職人たちが大量にスペインに流入する。伝えられた新しい醸造技術によってワインは傑出したものになっていく。リオハのワインがボルドースタイルなのはこのためである。とはいえ、現在ではクラシックなリオハタイプだけではなく、新しい技術に基づくモダンなタイプも現れているようだ。
ようだ、というのは巡礼中、そこまで微妙な比較のできるクラスのワインにはまったく縁がなかったからだ。「最高品質のリオハワインの特徴は、ふくよかな味とコクときめ細やかな口当たり。そして複雑なバニラ香を含んだ香りの高さにある」そうだが、現地で飲んだのはスーパーの一本3ユーロぐらいの安ワインやバルでの一杯1ユーロ前後のグラスワイン。もちろん自分にとっては充分以上に美味しかったので不満はみじんもなかった。
ログローリョはラ・リオハ県の州都。パンプローナ以来の大きな街である。パンプローナといえば牛追い祭りであるように、ログローニョといえばブドウの収穫祭である。この祭りはリオハ地方の守護聖人であるサン・マテオ(聖マタイ)の日である9月21日の前後一週間開催される。メインイベントは街の中心にあるエスポロン公園で行われるぶどう踏みで、伝統衣裳に身を包んだ二人の男性が樽の中に入り、裸足でぶどうを踏み潰す。一番搾りの搾汁はリオハの守護聖母バルバネラに献げられる。カテドラルの脇のメルカード広場では郷土料理祭が開催され、昔ながらのワイン造りの行事や、パレード、民族舞踊などさまざまなイベントが行われるという。
エブロ川に架かるピエドラ橋を渡り、旧市街に入るが、アルベルゲが見つからない。どうやら新市街の方にあるらしい。大きな町では決まってアルベルゲ探しのためにさまようことになる。30分かけてやっと見つかった。まずはシャワーを浴び、とりあえずはゆっくりする。
ログローリョ ピエドラ橋(Puente de Piedra)
町の入り口にあり、1884年再建の石橋である。
ログローリョ 看板
やはりぶどうの木がシンボルのようだ
インフォメーションセンター ロゴ
目印はぶどう
リオハ ロゴ
ぶどうの枝と葉っぱを上手くロゴに取り入れている
ログローリョ アルベルゲ
新市街のマンションが立ち並ぶ中にある
街を散策。カテドラル(サンタ・マリア・デ・ラ・レドンダ大聖堂)は15世紀にゴシック様式で建造され、18世紀の増改築で現在のバロック様式となった。
カテドラル 内部
カテドラル 天井
バロック様式の楕円形状の天井ドーム
入り口彫刻
夜、ポーと一緒にバルをはしごする。ログローリョはワインと並んで、美食の町としても知られている。ここでは、一つの店で長居するような飲み方はしない。バルにはそれぞれの店自慢のタパス(スペイン風おつまみ)があるため、それらをつまみながらバルをはしごして歩くのが通の飲み方である。このバルのはしごのことを「txikiteo:テキテオ」と呼ぶ。これはバスク地方の呼び名で、足のない小ぶりのワイングラスのこと。グラス片手に食べられるように爪楊枝にいろんなものを刺したピンチョスをつまむ。タパスのバルがある地区としてはセンダ・デ・ロス・エレファンテス(象の小道)と呼ばれるラウレル通りと、サン・ファン通りが有名だが、多くのバルが集中していて、一つの通りがそのまま大きな一つのバルといった感じである。美味しいタパスとリオハのワインで英気を養う。至福の時間である。これこそ巡礼の醍醐味なのかもしれない。
ログローリョ 路地裏
ログローリョ バル
タパス(スペイン風おつまみ)が並ぶ。
グラスワインは一杯0.80ユーロから。
翌日は日曜日、しかし、カテドラルのミサは13時からと遅い。昨日はほとんど歩いていないため、さすがに完全休養日にはできない。そこでNavareteの教会のミサに間に合うように午前中に歩くことにする。並木道、池のほとり、木の十字架の道を歩く。
ワイン畑
木の十字架
フェンスの十字架
救護院跡
Navareteの村
Navarete(ナバレッタ)の教会のミサに参加する。正面にはバロックのきらびやかな装飾で飾られている。最近はこのような教会しか見ていない気がする。
ミサ
ミサのあとはゆったりと過ごす。町を散歩して広場で『星の巡礼』を読む。すばらしい日曜日の午後である。
教会への階段
高台からの眺め
右手に教会の塔が見える
昼下がりの広場
木陰が心地よい
回廊のような道
夜、バルのテレビにはバルサとレアル・マドリーのクラシコが映されている。
エル・クラシコと呼ばれるこの試合はスペインの2大都市、マドリードとバルセロナにそれぞれ拠点をもつチーム同士の試合であり、その因縁は1902年の第1回コパ・デルレイ(スペイン国王杯)にまで遡る。この2チームはスペインの2大サッカークラブであるとともに、現在世界最高峰のチームである。
白い巨人と呼ばれ、レアルという王室の名前を持つレアル・マドリードと、クラブ以上の存在であり続ける、というスローガンを持つバルセロナ。私はバルセロナに短期留学していたこともあってバルサファンであるのだが、バルセロナは2005年まではユニフォームにスポンサーのロゴを入れず、2006年から5年間ユニセフのロゴを付けて戦っていた(現在は胸にはカタール航空のロゴを入れているが、ユニセフのロゴは今も背番号の下に入っている)。サッカークラブにとってユニフォームのロゴは大きな収入源である。メガクラブと呼ばれる世界のトップチームのスポンサー料は数十億と言われている。イングランドのプレミアリーグで今シーズン首位を走るチェルシーは日本のタイヤメーカーである「横浜ゴム」とスポンサー契約を結んだ。年間4000万ポンド(約73億6000万)という金額がユニフォームの胸のロゴにつぎ込まれているのである。しかし、バルセロナはスポンサー収入を得るのではなく、逆にユニセフに5年契約で毎年190万ドル、総額950万ドルを寄付していたのである。一方レアル・マドリードは、1982年から胸にスポンサーのロゴを入れている。現在はアラブ首長国連邦のドバイを本拠とするエミレーツ航空のロゴだがこんな所にもライバル関係が顔を出しているのかも知れない。こういった両者のアイデンティティも大きく異なる。そこには歴史を背景とした州や地方の独特の色が出ているように思う。
FCバルセロナは1899年の創設で、ホームスタジアムはカンプ・ノウ。愛称はカタルーニャ語で「バルサ: Barça)」。「クラブ以上の存在」がスローガンであるが、これは単にバルセロナ市民の誇りというだけではなく、歴史的な意味が含まれている。
この「クラブ以上の存在:MÉS QUE UN CLUB」という言葉が最初に使われたのは1919年。第一次大戦後の民族自決運動の中、『カタルーニャ自治憲章』制定の運動がバルセロナを中心として起きた際である。マドリードの中央政府が難色を見せる中、FCバルセロナはこの運動にクラブ自体として参加。それゆえのスローガンなのである。
バルセロナを中心とするカタルーニャでは、新大陸との自由貿易が解禁されたことをきっかけにスペインで最も早く産業革命が起こった。富を蓄えて自信をつけた人々の間で、カタルーニャ文化の復活(「カタルーニャ・ルネサンス」)が叫ばれ、フランスのアール・ヌーボーの影響を受けてモデルニスモと呼ばれる芸術運動が華開く。その代表がサグラダ・ファミリアを設計したアントニ・ガウディである。彼はスペイン語を話さず、かたくなにカタラン語(カタルーニャ語)を話したという。
1931年にスペイン共和国が成立。カタルーニャは大幅な自治権(自治政府)が認められ、1934年には「カタルーニャ共和国」の成立が宣言されるまでになったが、1936年にスペイン内戦が勃発。内戦後のフランコ時代には、自治権は縮小され、公の場でのカタルーニャ語の使用は禁止される。その中で、劇場とならんで使用が認められていたのがサッカーのスタジアムだったのである。
FCバルセロナの特徴として、一般市民からの会費で運営していることがあげられるが、背景にはこうした経緯がある。ちなみに会員資格はバルセロナ市民に限られない。現在では世界各国から14万人に達していると言われ、日本でも2004年から会員の募集が行われている。その気になれば誰でも今日から会員になれるのである。
サッカーは戦争だと表現する人もいる。その意味では「クラシコ」はカタルーニャの独立戦争なのであろう。お互いの誇り以上のものをかけて戦っているのだ。地元のサポーターはそういった思いを込めてチームを応援する。熱がこもるのは必然である。日本のJリーグにもいつかこういった世界トップレベルのクラブが生まれるのだろうか。楽しみでもありまた心配でもある。
ここNavarete(ナバレッタ)は内陸でマドリードにも近いため、マドリーファンが圧倒的に多い。バルサファンの私にとっては完全なアウェーである。結果は2-2のドロー。レアル・マドリーはエースのクリスチアーノ・ロナウドが2ゴール、バルサも負けじとエースのリオネル・メッシの2ゴール。やはり大事な試合で最高のパフォーマンスを発揮して、活躍する。だからこそのエースなのだろう。盛り上がった。
バルからの帰り道
FCバルセロナ ユニフォーム
unicefのロゴが見える
歩いた総距離929.6km
(はがげんたろう)
コラム 僕の愛用品 ~巡礼編~
第13回 カメラ
リコー GR DIGITAL Ⅲ オープン価格
旅に出るとき必ず持っていくものがある。リコーのGRである。国内、海外を問わず、日帰りだろうが、3ヶ月であろうが、旅と呼べる行為において、いつも手元にGRがあった。
GRはリコーがつくっていた同名のフィルムカメラを直系とする高級コンパクトデジタルカメラである。GRが文字通りのメインカメラである森山大道を始めとして、小林紀晴、石川直樹・・・といった写真家が使っていることを見ても機能は折り紙つきである。28㎜F1.9の明るい単焦点レンズを搭載し、画像のクオリティは一眼レフカメラ用単焦点レンズ並みの性能を誇る。1000万画素というと今ではそれほど高い画素数ではないのだが、あえて高画素化ではなく、高感度化を優先したのためであり、暗さに強い。
単焦点のレンズはズームが効かない。したがって、遠くのもの大きく写すことはできない。柱頭彫刻の細部とか、天井画となるとお手上げである。だからといって、一眼レフにズームレンズというのは何か違うような気がする。
私が最初のデジタルカメラをGRにしてよかったと思うのは、被写体をズームを使って調整するのではなく、自分の足を使って撮ることを覚えたことである。覚えたというよりそうせざるをえなかったためであるが。
ロバート・キャパは戦場で一歩前へ、一歩前へと踏み込むことによってあの見た人の魂を揺さぶる戦場写真を撮った。それに比べれば私は日々、いかにも平和で安全な旅をしているということになるのであろうが、写真を撮るときぐらいは自分の足で、自分の目で見たものをそのまま撮りたいと思う。自分の立ち位置は変えないで、機械の力で対象を都合良く切り取って手元に引き寄せるのではなく、自分の立ち位置を放棄して、対象が一番その対象であり得る場所に自分の身を置くことが、写真を撮ることの魅力なのだと思う。そして、それが世界を認識するということなのだと思う。
マグネシウムに黒い塗装のシンプルな外装。ゴムが巻かれた手に馴染むグリップ、撮る人の身体と一体化し、「一歩前へ」踏み出すことを強制し、そして「一歩前に」踏み込む勇気を与えてくれるカメラ。余計なことを考えさせず、「見る」ことと「撮る」ことが極限まで近いカメラ。それがGRである。写真の神経を研ぎ澄ます力をこのカメラは持っている。優れた道具は使い手の意志に呼応するのである。そして手の一部、身体の延長となって、認識を拡大し、行為を支えてくれるかけがえのない相棒となる。むしろ、ここで問われているのは使う側の方である。
これから、もし、必要に迫られて一眼レフを買ったとしてもGRだけはいつも必ず自分の手の届くところにおいておくつもりである。そして、いつの日かGRにふさわしい相棒になりたいと思う。
GR
残念ながらiPhone4による画像である。
■芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2008年 芝浦工業大学工学部建築学科入学。
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了。
2013年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業。
2015年 立教大学大学院キリスト教学専攻キリスト教学研究科博士課程前期
2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行う。
◆芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
●今日のお勧め作品は、倉俣史朗です。
倉俣史朗
「鏡」
1983年
H80.0xW50.0xD5.5cm
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」 第13回
Japanese on 1600km pilgrimage to Santiago Vol.13
第13話 リオハワインとクラシコ ~ログローリョからその先へ~
Episode.13: Rioja wine & Classico -From Logrono to beyond-
10/6(Sat) Viana ~ Logrono (11.0km)
10/7(Sun) Logrono ~ Navarete (12.2km)
小笠原に行ってきた。船で25時間の旅である。飛行機の便はなく、東京と小笠原を結ぶ唯一の手段が小笠原丸である。1つの乗り物に25時間も乗り続けるというのは今ではこの小笠原丸ぐらいではないか。その意味では世界で一番遠い(?)とも言える小笠原は2011年に世界自然遺産に登録され、中国船のサンゴ密漁問題があったとはいえ、そのようなことが起こるほど豊かな自然を持つ島である。
澄み切った空、ボニンブルーと呼ばれる青い海、天気にも恵まれ充実した日々を過ごした。旅というよりバカンスであった。北ヨーロッパの人々はスペイン、イタリア、南フランスにバカンスに行く。そこではただ太陽の下で寝そべり、日光に当たるだけである。一定量の日光は体と健康に良いということを知っているからである。
ヨーロッパは基本的には高緯度なので太陽の光は弱い。産業革命時代、工場の煤煙で紫外線が遮られたイギリスではクル病が多発するが、その特効治療となったのが日光浴であった。20世紀初頭、スイスのロリエ博士はアルプス山中のオールモン谷に小学校を建て、虚弱児童に対して野外教育を行ない、めざましい効果をあげている。
その意味で、私は小笠原で「太陽の治療」を行った。東京に帰国(まさに気分は帰国だった)し、親に開口一番、日に焼けたねと言われた。美白がもてはやされ、紫外線は絶対悪のように叫ばれて、大量の日焼け止めクリームを顔や手足に塗る現代の日本人。今、最も必要なのは健康増進のサプリメントなどではなく、適度な日光にあたる習慣なのではないだろうか。そう確信した小笠原への旅であった。
小笠原朝焼けに向かって歩みを進める。日差しが心地よい。森を抜け、小さな川を渡り、ラ・リオハ県に入る。目的地のログローリョまでは10㎞ほど。この調子だとお昼前についてしまう。
朝焼けの道
道
巡礼者のための陸橋リオハは有名なワインの産地で、スペインの原産地呼称制度の最高峰、D.O.Ca(特選原産地呼称)を初めて獲得した地域である。ブドウの栽培は紀元前に遡り、スペイン最古のワイン産地である。ローマ人の征服後生産量は徐々に増え、中世には巡礼者たちがワインの評判を各地に広めたそうである。
19世紀のフィロキセラ(ブドウ根アブラムシ)禍のために仕事を失ったボルドーのワイン職人たちが大量にスペインに流入する。伝えられた新しい醸造技術によってワインは傑出したものになっていく。リオハのワインがボルドースタイルなのはこのためである。とはいえ、現在ではクラシックなリオハタイプだけではなく、新しい技術に基づくモダンなタイプも現れているようだ。
ようだ、というのは巡礼中、そこまで微妙な比較のできるクラスのワインにはまったく縁がなかったからだ。「最高品質のリオハワインの特徴は、ふくよかな味とコクときめ細やかな口当たり。そして複雑なバニラ香を含んだ香りの高さにある」そうだが、現地で飲んだのはスーパーの一本3ユーロぐらいの安ワインやバルでの一杯1ユーロ前後のグラスワイン。もちろん自分にとっては充分以上に美味しかったので不満はみじんもなかった。
ログローリョはラ・リオハ県の州都。パンプローナ以来の大きな街である。パンプローナといえば牛追い祭りであるように、ログローニョといえばブドウの収穫祭である。この祭りはリオハ地方の守護聖人であるサン・マテオ(聖マタイ)の日である9月21日の前後一週間開催される。メインイベントは街の中心にあるエスポロン公園で行われるぶどう踏みで、伝統衣裳に身を包んだ二人の男性が樽の中に入り、裸足でぶどうを踏み潰す。一番搾りの搾汁はリオハの守護聖母バルバネラに献げられる。カテドラルの脇のメルカード広場では郷土料理祭が開催され、昔ながらのワイン造りの行事や、パレード、民族舞踊などさまざまなイベントが行われるという。
エブロ川に架かるピエドラ橋を渡り、旧市街に入るが、アルベルゲが見つからない。どうやら新市街の方にあるらしい。大きな町では決まってアルベルゲ探しのためにさまようことになる。30分かけてやっと見つかった。まずはシャワーを浴び、とりあえずはゆっくりする。
ログローリョ ピエドラ橋(Puente de Piedra)町の入り口にあり、1884年再建の石橋である。
ログローリョ 看板やはりぶどうの木がシンボルのようだ
インフォメーションセンター ロゴ目印はぶどう
リオハ ロゴぶどうの枝と葉っぱを上手くロゴに取り入れている
ログローリョ アルベルゲ新市街のマンションが立ち並ぶ中にある
街を散策。カテドラル(サンタ・マリア・デ・ラ・レドンダ大聖堂)は15世紀にゴシック様式で建造され、18世紀の増改築で現在のバロック様式となった。
カテドラル 内部
カテドラル 天井バロック様式の楕円形状の天井ドーム
入り口彫刻夜、ポーと一緒にバルをはしごする。ログローリョはワインと並んで、美食の町としても知られている。ここでは、一つの店で長居するような飲み方はしない。バルにはそれぞれの店自慢のタパス(スペイン風おつまみ)があるため、それらをつまみながらバルをはしごして歩くのが通の飲み方である。このバルのはしごのことを「txikiteo:テキテオ」と呼ぶ。これはバスク地方の呼び名で、足のない小ぶりのワイングラスのこと。グラス片手に食べられるように爪楊枝にいろんなものを刺したピンチョスをつまむ。タパスのバルがある地区としてはセンダ・デ・ロス・エレファンテス(象の小道)と呼ばれるラウレル通りと、サン・ファン通りが有名だが、多くのバルが集中していて、一つの通りがそのまま大きな一つのバルといった感じである。美味しいタパスとリオハのワインで英気を養う。至福の時間である。これこそ巡礼の醍醐味なのかもしれない。
ログローリョ 路地裏
ログローリョ バルタパス(スペイン風おつまみ)が並ぶ。
グラスワインは一杯0.80ユーロから。
翌日は日曜日、しかし、カテドラルのミサは13時からと遅い。昨日はほとんど歩いていないため、さすがに完全休養日にはできない。そこでNavareteの教会のミサに間に合うように午前中に歩くことにする。並木道、池のほとり、木の十字架の道を歩く。
ワイン畑
木の十字架
フェンスの十字架
救護院跡
Navareteの村Navarete(ナバレッタ)の教会のミサに参加する。正面にはバロックのきらびやかな装飾で飾られている。最近はこのような教会しか見ていない気がする。
ミサミサのあとはゆったりと過ごす。町を散歩して広場で『星の巡礼』を読む。すばらしい日曜日の午後である。
教会への階段
高台からの眺め右手に教会の塔が見える
昼下がりの広場木陰が心地よい
回廊のような道夜、バルのテレビにはバルサとレアル・マドリーのクラシコが映されている。
エル・クラシコと呼ばれるこの試合はスペインの2大都市、マドリードとバルセロナにそれぞれ拠点をもつチーム同士の試合であり、その因縁は1902年の第1回コパ・デルレイ(スペイン国王杯)にまで遡る。この2チームはスペインの2大サッカークラブであるとともに、現在世界最高峰のチームである。
白い巨人と呼ばれ、レアルという王室の名前を持つレアル・マドリードと、クラブ以上の存在であり続ける、というスローガンを持つバルセロナ。私はバルセロナに短期留学していたこともあってバルサファンであるのだが、バルセロナは2005年まではユニフォームにスポンサーのロゴを入れず、2006年から5年間ユニセフのロゴを付けて戦っていた(現在は胸にはカタール航空のロゴを入れているが、ユニセフのロゴは今も背番号の下に入っている)。サッカークラブにとってユニフォームのロゴは大きな収入源である。メガクラブと呼ばれる世界のトップチームのスポンサー料は数十億と言われている。イングランドのプレミアリーグで今シーズン首位を走るチェルシーは日本のタイヤメーカーである「横浜ゴム」とスポンサー契約を結んだ。年間4000万ポンド(約73億6000万)という金額がユニフォームの胸のロゴにつぎ込まれているのである。しかし、バルセロナはスポンサー収入を得るのではなく、逆にユニセフに5年契約で毎年190万ドル、総額950万ドルを寄付していたのである。一方レアル・マドリードは、1982年から胸にスポンサーのロゴを入れている。現在はアラブ首長国連邦のドバイを本拠とするエミレーツ航空のロゴだがこんな所にもライバル関係が顔を出しているのかも知れない。こういった両者のアイデンティティも大きく異なる。そこには歴史を背景とした州や地方の独特の色が出ているように思う。
FCバルセロナは1899年の創設で、ホームスタジアムはカンプ・ノウ。愛称はカタルーニャ語で「バルサ: Barça)」。「クラブ以上の存在」がスローガンであるが、これは単にバルセロナ市民の誇りというだけではなく、歴史的な意味が含まれている。
この「クラブ以上の存在:MÉS QUE UN CLUB」という言葉が最初に使われたのは1919年。第一次大戦後の民族自決運動の中、『カタルーニャ自治憲章』制定の運動がバルセロナを中心として起きた際である。マドリードの中央政府が難色を見せる中、FCバルセロナはこの運動にクラブ自体として参加。それゆえのスローガンなのである。
バルセロナを中心とするカタルーニャでは、新大陸との自由貿易が解禁されたことをきっかけにスペインで最も早く産業革命が起こった。富を蓄えて自信をつけた人々の間で、カタルーニャ文化の復活(「カタルーニャ・ルネサンス」)が叫ばれ、フランスのアール・ヌーボーの影響を受けてモデルニスモと呼ばれる芸術運動が華開く。その代表がサグラダ・ファミリアを設計したアントニ・ガウディである。彼はスペイン語を話さず、かたくなにカタラン語(カタルーニャ語)を話したという。
1931年にスペイン共和国が成立。カタルーニャは大幅な自治権(自治政府)が認められ、1934年には「カタルーニャ共和国」の成立が宣言されるまでになったが、1936年にスペイン内戦が勃発。内戦後のフランコ時代には、自治権は縮小され、公の場でのカタルーニャ語の使用は禁止される。その中で、劇場とならんで使用が認められていたのがサッカーのスタジアムだったのである。
FCバルセロナの特徴として、一般市民からの会費で運営していることがあげられるが、背景にはこうした経緯がある。ちなみに会員資格はバルセロナ市民に限られない。現在では世界各国から14万人に達していると言われ、日本でも2004年から会員の募集が行われている。その気になれば誰でも今日から会員になれるのである。
サッカーは戦争だと表現する人もいる。その意味では「クラシコ」はカタルーニャの独立戦争なのであろう。お互いの誇り以上のものをかけて戦っているのだ。地元のサポーターはそういった思いを込めてチームを応援する。熱がこもるのは必然である。日本のJリーグにもいつかこういった世界トップレベルのクラブが生まれるのだろうか。楽しみでもありまた心配でもある。
ここNavarete(ナバレッタ)は内陸でマドリードにも近いため、マドリーファンが圧倒的に多い。バルサファンの私にとっては完全なアウェーである。結果は2-2のドロー。レアル・マドリーはエースのクリスチアーノ・ロナウドが2ゴール、バルサも負けじとエースのリオネル・メッシの2ゴール。やはり大事な試合で最高のパフォーマンスを発揮して、活躍する。だからこそのエースなのだろう。盛り上がった。
バルからの帰り道
FCバルセロナ ユニフォームunicefのロゴが見える
歩いた総距離929.6km
(はがげんたろう)
コラム 僕の愛用品 ~巡礼編~
第13回 カメラ
リコー GR DIGITAL Ⅲ オープン価格
旅に出るとき必ず持っていくものがある。リコーのGRである。国内、海外を問わず、日帰りだろうが、3ヶ月であろうが、旅と呼べる行為において、いつも手元にGRがあった。
GRはリコーがつくっていた同名のフィルムカメラを直系とする高級コンパクトデジタルカメラである。GRが文字通りのメインカメラである森山大道を始めとして、小林紀晴、石川直樹・・・といった写真家が使っていることを見ても機能は折り紙つきである。28㎜F1.9の明るい単焦点レンズを搭載し、画像のクオリティは一眼レフカメラ用単焦点レンズ並みの性能を誇る。1000万画素というと今ではそれほど高い画素数ではないのだが、あえて高画素化ではなく、高感度化を優先したのためであり、暗さに強い。
単焦点のレンズはズームが効かない。したがって、遠くのもの大きく写すことはできない。柱頭彫刻の細部とか、天井画となるとお手上げである。だからといって、一眼レフにズームレンズというのは何か違うような気がする。
私が最初のデジタルカメラをGRにしてよかったと思うのは、被写体をズームを使って調整するのではなく、自分の足を使って撮ることを覚えたことである。覚えたというよりそうせざるをえなかったためであるが。
ロバート・キャパは戦場で一歩前へ、一歩前へと踏み込むことによってあの見た人の魂を揺さぶる戦場写真を撮った。それに比べれば私は日々、いかにも平和で安全な旅をしているということになるのであろうが、写真を撮るときぐらいは自分の足で、自分の目で見たものをそのまま撮りたいと思う。自分の立ち位置は変えないで、機械の力で対象を都合良く切り取って手元に引き寄せるのではなく、自分の立ち位置を放棄して、対象が一番その対象であり得る場所に自分の身を置くことが、写真を撮ることの魅力なのだと思う。そして、それが世界を認識するということなのだと思う。
マグネシウムに黒い塗装のシンプルな外装。ゴムが巻かれた手に馴染むグリップ、撮る人の身体と一体化し、「一歩前へ」踏み出すことを強制し、そして「一歩前に」踏み込む勇気を与えてくれるカメラ。余計なことを考えさせず、「見る」ことと「撮る」ことが極限まで近いカメラ。それがGRである。写真の神経を研ぎ澄ます力をこのカメラは持っている。優れた道具は使い手の意志に呼応するのである。そして手の一部、身体の延長となって、認識を拡大し、行為を支えてくれるかけがえのない相棒となる。むしろ、ここで問われているのは使う側の方である。
これから、もし、必要に迫られて一眼レフを買ったとしてもGRだけはいつも必ず自分の手の届くところにおいておくつもりである。そして、いつの日かGRにふさわしい相棒になりたいと思う。
GR残念ながらiPhone4による画像である。
■芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2008年 芝浦工業大学工学部建築学科入学。
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了。
2013年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業。
2015年 立教大学大学院キリスト教学専攻キリスト教学研究科博士課程前期
2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行う。
◆芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
●今日のお勧め作品は、倉俣史朗です。
倉俣史朗「鏡」
1983年
H80.0xW50.0xD5.5cm
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
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