石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」第14回
Meeting Man Ray works at Galerie Via Eight


ピンナップ 1991年7月6日 東京

14-1 バブル景気

2013年に神田うのを起用した白馬の馬車とイケメンドアマン集合で話題を集めた新宿三丁目のバーニーズ ニューヨーク 新宿店。── この高級セレクトショップが入居している猪山興業ビルの8階に、画廊があった事を記憶している人はいるだろうか? バブル景気絶頂の1990年秋に開廊し、バブル崩壊と共に活動を終えてしまったので、コアな美術愛好家であっても、訪れた人は少なかったと推測される。画廊は階数に因んでギャラリー・ビア・エイトと名付けられ、最初はニューヨークの作家とコラボしたファックス・アートショー、続いての企画第一段がマン・レイ、その後ハーブ・リッツ、アンドレ・セラーノ、森下慶三と紹介した。
 顧問をされたJ氏と面識があったので頼まれ、開廊前の9月、マン・レイについての簡単なレクチャーをスタッフの方々にさせていただいた。その折、総支配人の猪山雄司氏から準備された作品リストを拝見し、世の中にはお金持ちがいるのだと羨ましく思った。イタリアやフランスを回って買い付けされた品物らしく、巴里では未亡人のジュリエットとも会われた様子だった。

manray14-1バーニーズ ニューヨーク 新宿店 1990.11


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 バブル景気と称される期間は、内閣府によると1986年12月から1991年2月までの4年3カ月。この間の1990年がマン・レイ生誕100年に当たるので、毎日新聞社や読売新聞社が関係する大規模な展覧会の他、銀座の佐谷画廊や、すでに言及した児玉画廊(連載第12回参照)、今回報告するギャラリー・ビア・エイトなど、街の画廊でも驚くべき(価格でも)展示が行われた。展覧会を観たファンとしては、興奮の連続であり、眼の経験を積み重ねる絶好の機会となった。バブル期の新聞社や画廊商売の仕方については知りようがないが、わたしの勤務先(広告業界)では、51カ月間で売上が1.42倍となり、研究所を建てる程の積極経営に舵が切られ、わたしの給与も1.45倍となった。── もっとも、住宅ローンを抱えてしまっていたので、小遣いの増額は微々たるものだった(涙)。
 収集品を転売する発想を持たないわたしでは、キャピタルゲインの恩恵にあずかる事はなく、したがって、絵画投機を使った資金洗浄に荷担する事もなく、不動産業界の人たちから武勇伝をうかがっても眉をひそめる立ち位置だった。この頃、旧軽井沢写真美術館の玉屋やマルセル・デュシャンのビギ・アート・スペース、マン・レイを含めた現代美術のアルファーキュービックなど、美術品の収集を進め、展示スペースを開設するアパレル企業が、いくつも生まれたように思う。


14-2 マン・レイ展

manray14-2『マン・レイ展』リーフレット


manray14-3ギャラリー・ビア・エイト


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さて、1990年11月20日(火)、ギャラリー・ビア・エイトでのマン・レイ展が華やかに始まった。会場中央にはチェスセットが置かれ、取り囲んでマルコーニ版の女性写真シリーズやサボテンの連作版画類。シルバー仕上げのミクストメディア『プリアポスの文鎮』『ハープの灯り』『従順な処女』の3点に加えて、アイロンの『贈り物』もケースに入れられている。価格を尋ねるのが、恐いような嬉しいような、複雑な感情になった。
 会場の目立つ場所にパネル貼りされた『天文台の時刻に─恋人たち』が飾られている。── これは、展覧会に先立って調査協力を求められ、海外の美術館へ確認したところ、パトリック・ワルドベルグが組織した『シュルレアリスム』展(1972年)の出品作と分かったものだった。午後5時からのオープニングパーティーでは美味しいワインを頂きながら、いろいろな関係者と歓談。猪山氏は「変貌する街、新宿で新しい美術の価値をつくり出してゆく」覚悟を持っておられ、それは、バーニーズ ニューヨークの「常に新しいファッションでの冒険を提案」するという創業理念と一致すると思えた。時代の雰囲気が「新しい価値」を作りだせる気分に満ちていたとも言えるだろう。

manray14-4『マン・レイ展』at ギャラリー・ビア・エイト


manray14-5同上


manray14-6同上


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manray14-7猪山雄司氏(中央)他



14-3 ピンナップ

翌年の春に東京へ出掛けたので、ギャラリー・ビア・エイトを訪ねると、事務所に招き入れられ「石原さん、これなどいかがですか」と、洒落たコラージュ作品を見せられた。赤色ボードに重ねた黄色の台紙に、安全ピンや糸とおし、縫い針やかがり針などが銀紙に突き刺した状態で貼られ、乾いた接着剤の透明感がゾクゾクさせる。ソーイングセットを拡げたような案配で、上段のシールに『pin-up』とタイトルが手書きされている。壁などにピンで留めるポスターのエロテックな図像を連想させながら、「針」そのものの突き刺す行為が、「男の子」のいたずら心を刺激するようで、見た瞬間に欲しくなった。

 これまでに展覧会などで知っていた作品で、1970年にイタリアのスタジオ・マルコーニが版元となって29個作らせた内の本作は4番。売り物と出会って嬉しかったのは、子供時代のマン・レイが真鍮板を使ったランプの模様を釘と金槌で描いた時、速く楽に仕上げるために母親の目を盗んでミシンを使った逸話を覚えていたからである。「母のミシンの所へ行き、糸巻きをはずして、まるで刺繍でもするみたいに図案を縫い出した。この方が速かったが、針は何度も折れた。作品が仕上がった時には予備の針をみんな使ってしまっていた。」(『自伝』千葉成夫訳、美術公論社、1981年刊、16頁)と続けて、作品の評判に満足しながら、ミシンの調子が悪くなったようだけど、母親には内緒にしたと、仕立て職人の息子であったマン・レイは書いている。

manray14-8「石原さん、これなどいかがですか」


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 この逸話がわたしを奮い立たせたるのは(入手したいと云う意味です)、真鍮板ではないけれど、ボール紙を使って同じような悪さを子供の時にしたからである。『pin-up』が母親との思い出に繋がるのも不思議であるが、ウィキによると「日本では、終戦後・昭和30年代には女性が内職できる仕事として洋裁が広く行われた。」とあり、ミシンを夜なべで踏む母親の姿がおぼろげな記憶として蘇る。アパレルメーカーになる事は、もちろん無かったけど、子供たちに洒落た服を作った母親。包装紙を再利用して型紙を取り、裁ちばさみでザクザク、シャキシャキ。ミシンの音もリズミカルで気持ち良く、上下に動き出して透明になった針の動きを熱心に見ていたと思う。部屋の隅に「針」が落ちていて「危ない、危ない」と言われたっけ。 ── アクリルケースを手に取っていると、子供時代の自分と「ミシンの調子が悪い」と油を差していた母親の姿が重なってしまうのである。


14-4 テレビ出演

コレクターは、欲しくなってからが大変だけど、数カ月後に、再び東京へ出掛ける機会がおとずれた。メインキャスターを国谷裕子が努めるNHK教育テレビの『現代ジャーナル』という番組(現在も続いています)でマン・レイを取りあげる事になり、「ONとOFF」の切り口からマン・レイに魅せられたサラリーマン・コレクターを紹介するコーナーを用意したい意向だった。番組のプロデューサーから「石原さんの、一番、話のしやすい場所で撮らせてもらいたい」と提案されたので、これ幸いにと渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムを指定させていただいた。

manray14-9『マン・レイと友だち展』at Bunkamura ザ・ミュージアム


manary14-10中村隆夫氏(左)と筆者


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 収録が行われたのは、1991年7月5日の夜で、同日から始まった読売新聞社等が主催する『マン・レイと友だち』展の終了後だった。同館の学芸員で、マン・レイ展を担当された中村隆夫氏を古くから知っていたし、ギャラリー・ビア・エイトのコレクションから4点が出展されているのも楽しみだった。初日の会場で自由に振る舞えるのだから、これ以上の幸せはない。マン・レイ作品を見ながら会場に入ってきたわたしが、お喋りする雰囲気での演出は、楽しく有り難いものだった。

manray14-11テレビ収録


 『現代ジャーナル』は時代のトレンドや文化の状況を分かりやすく解説していて「マン・レイの100年」と題した放送(25分程)の大半は、マン・レイ作品の紹介とレイヨグラフの制作プロセスを説明する構成。わたしが映し出されるのはわずかと聞いており、「マン・レイ狂い」の思いを伝えるのだから、いつも、話している事柄だと気楽に考えていたところ、テレビカメラを前に緊張し、スタッフの皆さんに迷惑を掛けてしまった。「目線を定め、話しに抑揚を付け、3分間で纏める」と云うのは難つかしいですね。── 後日いただいた「放送料内訳書」には出演料の他にリハーサル料の記載もあって恐縮した。番組は7月11日(木)午後8時から放送されたが、これを覚えている人はいませんよね(恥ずかしい)。

 収録の翌日、ギャラリー・ビア・エイトに顔を出して『pin-up』を受け取った。前夜の会場では、パリのギャラリー・マリオン・メイエから出品された『pin-up』(別番号)が、『ガラスの星』と『革でできた影』に囲まれ展示されていたので、会場から持ち帰ったような気分になったのも嬉しい偶然だった。支払いに関しては苦労があるものの、安全ピンが動かないよう注意しつつ、新幹線の車中で抱きしめるのは、最高に幸せだった。

manray14-12『ピンナップ』限定番号4/29



14-5 面白かった。

バブル景気の時代が終わって久しい。旧軽井沢写真美術館も神宮道のビギ・アート・スペースも、その他、多くの夢と同じように姿を消してしまった。アルファーキュービックに至っては旧蔵品が市場を転々と流れているように思う。しかし、「失われた20年」を経た、この数年をみるとバーニーズ ニューヨークの場合では、前述した新宿店の23年ぶり全面改装や、写真を愉しむ家とする「&ima」を開設した横浜店7階などの明るい兆しがみられ、また、新しいコレクターたちがアパレル業界から多数登場しているとの噂も聞く。投機ではなく文化への発信、愛着をもった作品理解による社会貢献への姿勢を期待したいものである。

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 異論はあるだろうが、わたし個人としては「バブルの時代は面白かった」と告白したい。東京との程良い距離の地に住んでいたお陰と思うが、「巴里へ買い付けに行きましょう」なんていう誘いに乗ることもなく(仕事を休めなかった為だけど)、画廊でご一緒した美しい女性たちに入れあげることもなく(マン・レイに狂っているから)、地道に可処分所得の範囲内で収集を続け今日に至っている。
 昨年、新宿の某所で冒頭のJ氏とお会いした折、猪山雄司氏のその後についてお聞きした。── ギャラリー・ビア・エイトが輸入したマン・レイ作品はどこに消えてしまったのか? 買えないけれど、気になってしまうのは、コレクターの悲しい性だとお許し願いたい。

続く

(いしはらてるお)

■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。

石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」目次
第1回「アンナ 1975年7月8日 東京」
第1回bis「マン・レイ展『光の時代』 2014年4月29日―5月4日 京都」
第2回「シュルレアリスム展 1975年11月30日 京都」
第3回「ヴァランティーヌの肖像 1977年12月14日 京都」
第4回「青い裸体 1978年8月29日 大阪」
第5回「ダダメイド 1980年3月5日 神戸」
第6回「プリアポスの文鎮 1982年6月11日 パリ」
第7回「よみがえったマネキン 1983年7月5日 大阪」
第8回「マン・レイになってしまった人 1983年9月20日 京都」
第9回「ダニエル画廊 1984年9月16日 大阪」
第10回「エレクトリシテ 1985年12月26日 パリ」
第11回「セルフポートレイト 1986年7月11日 ミラノ」
第12回「贈り物 1988年2月4日 大阪」
第13回「指先のマン・レイ展 1990年6月14日 大阪」
第14回「ピンナップ 1991年7月6日 東京」
第15回「破壊されざるオブジェ 1993年11月10日 ニューヨーク」
第16回「マーガレット 1995年4月18日 ロンドン」
第17回「我が愛しのマン・レイ展 1996年12月1日 名古屋」
第18回「1929 1998年9月17日 東京」
第19回「封印された星 1999年6月22日 パリ」
第20回「パリ・国立図書館 2002年11月12日 パリ」
第21回「まなざしの贈り物 2004年6月2日 銀座」
第22回「マン・レイ展のエフェメラ 2008年12月20日 京都」
第23回「天使ウルトビーズ 2011年7月13日 東京」
第24回「月夜の夜想曲 2012年7月7日 東京」
番外編「新刊『マン・レイへの写真日記』 2016年7月京都」
番外編─2『Reflected; 展覧会ポスターに見るマン・レイ』
番外編─2-2『マン・レイへの廻廊』
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●今日のお勧め作品は、森下慶三です。
20150505_morishita_souzou_0918_3森下慶三
〈想像の風景〉より
水彩
イメージサイズ:20.1x29.5cm
シートサイズ:35.0x44.0cm
サインあり


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