「瑛九について」
Tatsuoki NANBADA writes on Q Ei.

難波田龍起
(1981年執筆)

 「前衛の砦・瑛九」という文を「みづゑ」の瑛九特集に寄せてからもはや13年の歳月がたった。もっとも前衛の砦としては、何人かの先達がいるけれども、このたび現代版画センターの主催で瑛九展が催されるということで、また文を書くことになった。
 作家は過去を振返るより今を大事にして前進すべきであろう。瑛九はいつも前向きで、様々な造形の実験を試みてうむことを知らなかった。晩年の油彩の大作はその集大成であったのにちがいない。そこに到達するまでの瑛九の歩みを、私なりにいささか辿ってみたいと思うのである。
 瑛九のフォトデッサンの作品を新時代展の会場で見た時の、一種ショッキングなおどろきは忘れがたいものである。新時代展(昭和8年結成)は、画壇に旋風を巻き起こすほどの絵画運動とはいえなかったが、若い作家達の共感を大いに呼んで、さわやかな緑風が胸に通うといった思いは、私にもあった。当時団体展で最も活気のあったのは独立美術協会で、創立のメンバーはフランスからの新帰朝者であった。そしてこれまでの印象派的絵画を否定するフォービズムのかがやかしい場を作っていた。従ってその洗礼をうけた若い作家達が少なくなかった。しかし私のごときフォービズムの洗礼をうけなかった者は、むしろ新時代展の新風に共感して、やがて創立された自由美術家協会に参じるようになった。長谷川三郎村井正誠山口薫、矢橋六郎、津田正周といった新時代展のメンバーはやはり当時の新帰朝者であった。ところで、瑛九は新帰朝者ではなく、ついに生涯海外に足を延ばすことはなく、前衛の砦を日本で固守していた。
 新時代展は、その頃盛んになってきた街頭展のはしりであって、私たちも国画会をやめて昭和10年にフォルム展を結成したし、小野里利信らの黒色展もその前後に出発したグループ展であった。瑛九は上野の団体展から脱出して、街頭でグループ展を開始した新時代に共感を抱いたのにちがいない。そして昭和12年には自由美術家協会が創立されて第1回展を開催した。その協会構想は、さらに多くの新進作家を糾合して大同団結しようというのだった。われわれも創立の準備に会友として加わった。

 私は未だ抽象絵画の運動に身を投じる態勢ではなかったが、自由美術をおいて他に作品を発表する場はないと思った。それに街頭展をへて結成された自由美術家協会は、他の都美術館で開催されていた団体展と趣を異にしていた。しかし大同団結のためにはやはり公募展の形式をとらざるを得なかった。そして日本におけるはじめての抽象絵画の公募展の出発となった。
 瑛九も創立会員に加わって、第1回自由美術展にはフォトコラージュ「レアル」のシリーズを発表して好評だったが、会場に姿を現さなかった。従って私が彼に会ったのは、第2回展の折だったにちがいない。しかし山田光春編の年譜によると、第2回展後に会員を辞したとある。第4回展の昭和15年頃にはますます戦時体制が強化されて、自由という文字は弾圧の対象になるというので、美術創作家協会に改称した。その年に瑛九は再び出品して、会友に推されたとある。その後また協会を去って自由の身になっている。その間の事情はよくわからないが、自由美術の会員達と無条件に行動を共にしていたわけではなく、絵画思想の上の違和感もあったのかもしれない。
 ところで、瑛九はマン・レイを思わせるようなハイカラな制作をしながら、また一方きわめてバンカラを好んだ風がある。それは私に頗る人間的な興味を抱かせたのである。ここで面白い話を述べてみよう。自由美術家協会が旗上げした日本美術協会は、天井に鉄骨があらわな明治期の古風な建物だった。またその頃は下駄ばきで来る人場者もあって、石畳の床には不適当だったから、年よりの下足番がいてわら草履に履きかえさせた。瑛九はその下足番の、日本美術協会と染めぬいたハッピを着用して、少し 悪びれず会場を歩いていた姿は、いかにも瑛九らしかった。ハッピ姿が瑛九と違和感がなかったのは、自然と身についた野人ぶりを発揮していたからで、蒼白きインテリでは決してなかった証拠であるといえる。彼には人に気がねしない天衣無逢の生き方があったのだろう。また制作も抽象から具象へ、具象から抽象へとゆれうごいたようである。あるいは近代的知性とバンカラが瑛九の魅力であったというべきで、戦後には多くの後進が彼のものに集まり、瑛九を中心にしたデモクラートの広汎なグループ組織が生まれたりした。
 昭和16年(その年12月、太平洋戦争が始まる)には、瑛九は東京に移ったが、美術創作を退会して、8月には故郷の宮崎に帰り、風景画の制作に専心していたそうである。私の「前衛の砦」の文の中には、次のようなことが書いてある。「戦争が暫く苛烈の度を加えてきた昭和17年頃のある日、瑛九は西郷南洲ゆかりの地、城山に登って、日本の状勢を慨嘆したときいている。それは自由美術そのものへの疑問符を投げかけることでもあったらしい。その時期はもちろんインターナショナルな抽象絵画を制作する心境ではなかったろう」と。また瑛九は「その年八月には姉の看病のために京都へ行ったが、(中略)十月には宮崎に帰って、風景画に専心、画風は点描的となる」と昭和17年の年譜にあるから、その頃の心境がとうであったかは推察できよう。そして美術創作家協会に対してもひどく批判的になっていたと考えられる。その当時の美術創作では、「日本民族の営み」という主旨で展覧会を開催しているので、たとえ戦争画は描かなかったにせよ、全然戦時での日本の状勢に背を向けていたのではなかった。
 ここまで辿ってくると、もはや戦後になって、自由美術家協会はその名の通りの「自由」を獲得したのである。そしてこんどは都美術館で開催するので、団体のメンバーを拡張したことが、やがて分裂の危機をもたらした。それはともかく、昭和22年7月は自由美術展の再出発であった。また同年6月には、団体派閥解消の意味もあってか、毎日新聞主催の第1回美術団体連合展が開かれた。瑛九は昭和24年に再び自由美術の会員になって、連合展にも出品している。私が「前衛の砦」の中で「彼の作品であざやかに印象づけられているのは、戦後の毎日連合展の出品作である」と書いているのは、おそらくこの年の連合展に出品した油彩の作品を指しているのだと思う。また、「瑛九の抽象絵画は非常な色面の構成による幾何学的抽象であったから、批評に取り上げられることは少なかったように思う。抽象絵画でも抒情詩的な要素のこい情感のあるものが好まれる傾向があった」とも書いているが、戦後の抽象絵画は表現主義的といわれる「熱い抽象」に変貌していって、やがてアンフォルメル旋風が画壇に巻きおこって、多くの公募展やグループ展にはその種の抽象絵画が氾濫するようになった。そうした事態を瑛九は冷静に見守っていたのにちがいない。瑛九のリトグラフやエッチングの作品を今日見ていると、シュールレアリズムの要素が多分にあって、彼を単に抽象画家として規定するのは誤りのように思われる。むしろ執拗に多角形的に小宇宙の人間を追求していたのではあるまいか。
 いよいよ瑛九の晩年の作品にふれることになるが、昭和32年に自由美術家協会の創立につくした長谷川三郎がアメリカで客死し、その2年あとに、山口正城を含んだ六名の会員が自由美術を離脱した。それには日本抽象作家協会の構想があったのである。山口正城は、自由美術第1回展に「形態第三番」を出品して、彼自身のユニークな抽象絵画を作り上げていった。このほど国立国際美術館で戦後の先駆、瑛九・山口正城の二人展が開かれた。山口正城は昭和34年1月に、悪性腫瘍のために右足切断という不幸に遭遇していたけれども、山口宅を仮事務所に提供してくれて、われわれはしばしば日本抽象作家協会をどのような形にするかで談合を重ねた。そのメンバーは、山口正城、小野忠弘、昆野恒、西田信一、稲田三郎、難波田であった。西田信一は瑛九と小野里利信にはどうしても入ってもらいたいと主張していた。われわれももちろん賛成であった。新しいメンバーの獲得など度々の談合も時に危機におちいり、新しい会を作ることの困難を痛感した。結局小野里利信は入会しないと表明してきた。瑛九はあの晩年の大作に取組んでいて、第1回展に瑛九の特陳をしようと、アトリエを訪れた西田信一は張りきっていた。瑛九自身もこの協会の成立に協力する意志は持っていたようだが、健康を害していた。しかし日本抽象作家協会の成立は、ついに頓座のやむなきに至った。山口正城をはじめわれわれはこの協会に大きい夢を託していただけに、そしてその年の12月に山口正城が気管支肺炎のために死去したのだから、あとまで痛恨の思いが残った。
 昭和35年2月に瑛九は兜屋画廊で近作の油彩展を催したが、すでに前年発病して慢性腎炎のため入院していたので、個展の会場にはもちろん姿を現さなかった。彼自身の創造力を集中したそれらの作品は、思い切り自己の内部のヴィジョンを展開させたもので、色彩の流動感が強くわれわれに伝ってきた。また彼は長い沈黙を破ったように多弁であった。点描派のようにおかれたこまかいタッチの集合は、生き生きした大きい渦のマスを作っていた。その画面の緊張感は異常なものにさえ思えたが、彼自身のこのすばらしい絵画精神の開花は、肉体の死減につながっていた。瑛九が急性心不全で死去したのは、その年の三月であった。

*『瑛九 その夢の方へ』展カタログ(1981年3月 ギャラリー方寸)より再録
(なんばたたつおき)
19810301ギャラリー方寸オープニング 瑛九展
1981年3月1日
ギャラリー方寸の瑛九展で挨拶する難波田龍起先生。
左端が綿貫令子。
右から3人目が綿貫不二夫。

瑛九油彩吹付け600出品No.1)
瑛九
「手」
1957年 板に油彩吹き付け
46.4×38.3cm(F8号)
*1981年3月ギャラリー方寸「瑛九 その夢の方へ」展出品作品
※山田光春『私家版・瑛九油絵作品写真集』(1977年刊)No.286
※宮崎県立美術館他『生誕100年記念 瑛九展』図録所収・油彩画カタログレゾネ(2011年刊)No.346

RIMG0732瑛九水彩1958年600出品No.4)
瑛九
作品
1958年 水彩
26.2×19.2cm
サイン、年記あり
*1981年3月ギャラリー方寸「瑛九 その夢の方へ」展出品作品


*画廊亭主敬白
ときの忘れもの開廊20周年を迎えての第26回瑛九展ですが、思えば1974年の現代版画センター創立時から数多くの瑛九作品を扱ってきました。
今から34年前の1981年3月には現代版画センターの直営画廊として渋谷区松濤に「ギャラリー方寸」をつくり、その開廊記念展も「瑛九 その夢の方へ」でした。
カタログには難波田龍起先生と北川フラムさんに執筆していただきましたが、ご遺族の許可を得て難波田先生のテキストを再録掲載させていただきます。

●今日のお勧め作品は難波田先生が旧友瑛九の作品集のために制作した最後の銅版画です。

nambata_42_morinonaka難波田龍起 Tatsuoki NAMBATA
森の中の生物
1997年
銅版
22.5×22.5cm
サインあり
※レゾネNo.144(阿部出版)

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臨時ニュース
早稲田大学 會津八一記念博物館(新宿区西早稲田)にて「難波田龍起・史男の世界」展が 開催されます
会期:2015年5月20日(水)~6月26日(金)
会場:1階 企画展示室
時間:10:00~17:00(入場は16:30まで)
※金曜日は18:00まで開室
閉館日 日曜・祝日(例外あり)
入館無料
難波田龍起・史男親子は共に早稲田大学出身で、日本現代絵画史における新たな抽象絵画の道を切り開いた画家です。2012年度、會津八一記念博物館は彼等の日記、詩作ノートや蔵書などの資料の寄贈を受けました。これらの資料は画家の制作プロセスを辿る貴重な資料となっています。本展では絵画作品と共にこれらの資料を展示し、両作家の思考や制作の秘密に迫ります。

◆ときの忘れものは2015年5月16日[土]―5月30日[土]「第26回瑛九展 光を求めて」を開催しています(*会期中無休)。
262_qei261995年の開廊以来、シリーズ企画として取り組んできた「瑛九展」ですが、第26回となる今回は「光を求めて」と題して、フォトデッサンを中心に、油彩、水彩、フォトデッサンの制作材料とした型紙など約30点を展示します。