私の人形制作第72回 井桁裕子

それが「人形」であるということ・3

前回、多くの印象を統合して「永遠」を作ろうとした高村光太郎の肖像彫刻、それとは逆に、単に「一瞬」を捕らえればかまわないのだと割り切ったにもかかわらず、その一瞬というものがどこまでも多様さを示してきて、結局は泥沼へと導かれてしまう私の作業、というなんだかフラクタルのような話を書きました。

のみならず、私は大きい方の森田さんの作品を作り始めた初期の頃に、単にリアルな再現にとどまらない造形の可能性を探って、やたらにややこしいスケッチをいくつも描いていました。
それは、体から骨格がはみだして、骨格だけ増幅して上に伸びて行くといったアクロバティックなイメージでした。
左右非対称な肋骨が螺旋状に上下逆に繰り返され、もう一つの左脚が空に突き上げられているのです。
それはおおまかな像を描く事はできても、やはり実際には肋骨がどんな形なのか判らないままということもあり、どうやったら作れるのかさっぱり判りませんでした。
そのスケッチは、12月にぎっくり腰で動けなくなった時に泉のごとく湧いたものでした。
私は「せっかく良いアイデアなのに、できないのは自分の能力が足りないから」と考えて困っていました。

年が明けて2月、東京に日帰り旅行にやってきた森田さんと、障害者の身体表現について話をしました。
できることの限られた身体でどこまで、見る側も純粋に「楽しめる」ダンス作品ができるだろうかという問題です。
「障害者の人達を応援しましょう」という態度で片付けられはしない、独自な表現について。
それには不自由な身体と動きを、思い切って見せることが必要かもしれない。
しかし、それには「障害を見世物にしている」と批判する人もいる。
見る側の興味が身体そのものへの関心でしかないとしたら、確かにそうでしょう。
私は、それは健常者が踊ることでも同じだと思いました。
いかに見応えのある裸体を持った人であっても、身体の露出が多いだけでは底の浅い表現としか言えないわけです。
しかし身体を見せなければできない表現もあって、そのような表現を「見世物」のようにしか見られない鑑賞者がいたならば、それは鑑賞の姿勢のほうが浅いということになるのです。
森田さんは「ある意味、見世物でいいと思う」、または「がんばっている障害者」という感動物語のイメージが入り口であっても、それでもかまわないと言うのでした。
少なくとも今の日本で、障害者の芸術表現はあまりに狭い世界でしかない。
たとえ同情が入り口であれ、そのための機会が用意されれば、表現者が育っていける。
しかし自分が活躍したからといっても、それは自分だけの話で、他のあらゆる障害者への理解が深まるということにはならない。
そんなような話をしたのでした。


私はその会話のあとでなぜかふいに、あの妄想の骨格の像は実現不可能だということに気がつきました。
そしていくつものイメージを一つの作品に集約することに決めて、やっと焦らずに取り組めるようになりました。
自分の能力が足りないと思っていたのですが、足りないのは透視力などの超能力だったのでしょう。


雛型として作った像に続き、大きい作品も1点、先日ようやく完成しました。
2014年末から2015年が明けてこの半年の、なんと早く過ぎ去ったことか。


私の知る限りですが、これまで障害者の身体を作った例では、ダウン症の人の巨大なヌード彫刻を作ったマーク・クイン(Marc Quinn)というイギリスの作家がいます。
作品は白い大理石で作られており、手足の短い「異形」の裸体を、高さ10メートルの巨大彫刻としたものです。
その「妊娠する女神像 (Alison Lapper Pregnant )」を、私は2005年にたまたま現地ロンドンで見ました。
広場にそびえる彫像はかなりの迫力があり、支持する人ばかりではなく非難する人もいたようです。
(参考サイト:salon de mimi「マーク・クイン展/ Marc Quinn @Giorgio Cini Foundation, Venice」

私の制作については、森田さんの「自分の身体を知りたい」という欲求があったからこそできたと言えます。
振り返れば、かつて私がセルフポートレートの作品を作った時も、「自分の身体を知りたい」という同じ動機だったのでした。
それが彫刻というパブリックな存在ではなく人形という器であったことによって、謎解きは私的な領域を越えず、表面張力を保った水面のように意味をはらんで揺れている気がします。
「自分」というものは自分にとって世界と等しい。
誰にとってもそうで、世界の中の一個人は砂漠の砂の一粒と同じではありません。
作品は森田さん個人の物語であると同時にもっと大きなイメージも重ねています。
「加速する私たち」で、あらゆる苦悩と後悔を置き去りに滅亡へと走らされる「私たち」を力一杯作った、それに続いて人類の「加速を止める」ために森田さんを作った、というような流れとなった気がしているのです。
前回の作品で発した問いへの答えが提示される、運命的な巡り合わせだったと思います。

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お知らせをいたします。
9月15日から27日まで、ときの忘れもので個展をさせていただくこととなりました。
もうすぐDMも出来上がります。
作品をご覧頂ける日を楽しみにしております。皆様どうぞよろしくお願いいたします。
(いげたひろこ)

●今日のお勧め作品は、井桁裕子です。
20150620_igeta_05_RyokoDoll井桁裕子
「錬金術 Ryoko-doll」
2009年
桐塑
H70.0cm


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