森本悟郎のエッセイ その後・第15回
渡辺好明(1955~2009) お別れのキャンドルサービス
2008年12月、C・スクエア開設時からの会場での最後となる展覧会開催中、おもいがけなく渡辺好明さんが訪ねてきた。何年ぶりかの対面だったが、とりとめもないことばを交わしただけで、再会を約して別れた。その翌年11月、渡辺さんは自ら関わっていた、解体前の旧フランス大使館を会場とする大規模な現代美術展「No Man’s Land」準備中に、心不全のため急逝した。展覧会開幕3週間ほど前のことだった。もちろん渡辺さんにそんなつもりがある筈ないのに、あの不意の訪問は別れのあいさつだったのでは? と思ったものだ。
訃報を耳にしたとき、心身の過労が原因だろうとぼくは直感した。そう思わせるほど根を詰め、仕事に集中する人だった。渡辺さんは作家活動にとどまらず、教員として教育はもちろん、東京芸大の取手移転や先端芸術表現科設置に携わり、海外大学との交流展や「取手アートプロジェクト」をプロデュースし、若いアーティストたちのための共同アトリエ「井野アーティストヴィレッジ」の代表を務めるなど多忙を極めていた。八面六臂の活躍ぶりに見えたが、激務に耐えていたというのが実態だったかもしれない。
C・スクエアでの渡辺好明展は1999年の掉尾となるもので、「光ではかられた時」と題された蝋燭によるインスタレーションだった。外光の入る第1会場では、級数的に広がっていく曲線上に整然と立ち並んだ蝋燭に次々と火が燃え移っていく「フィナボッチの薔薇」。外光を遮断した第2会場内には円筒状の小部屋をしつらえ、その中央に直径1メートルほどの円形の穴をあけて大量のパラフィン・ワックスを敷き詰め、その真ん中に灯心を据えて開場時間中火を点し続ける「真夜中の太陽」。古代から天文学者が、わが国の陰陽師が、星辰の観測から暦をつくり時間を計ったように、渡辺さんは蝋燭の灯りによって非日常的な時間を体験させた。ともに作品の炎だけを灯りとし、照明器具は一切不使用。まことにシンプルな展示だが、じっと目を凝らし、いつまでも見続けたくなる魅力をもっていた。
渡辺好明氏
「光ではかられた時―フィナボッチの薔薇」1(C・スクエア)1999
「光ではかられた時―フィナボッチの薔薇」2(C・スクエア)1999
「光ではかられた時―フィナボッチの薔薇」3(C・スクエア)1999
「光ではかられた時―真夜中の太陽(部分)」(C・スクエア)1999
前者は点火して放っておくと全部燃えてしまうため、毎日1時間だけ火をつけ、最終日まで保たせた。最終日は12月25日、燃えつきようとする蝋燭の炎を眺めていた会場の人たちには、クリスマスのキャンドルサービスと映ったかもしれない。日没とほぼ同じ頃に消えたのは、クリスマスがらみでいえば、ユダヤ暦の1日の終わりを告げるものであり、イベントの幕の閉じ方として完璧だった。
渡辺さん死去の2年後で東日本大震災の直後に、同じ1955年生まれの美術評論家・鷹見明彦さんが亡くなった。それは鷹見さんによる渡辺好明遺作展開催準備さなかでのことだった。偶然とはいえ、同志的結びつきの二人が同じような状況のもとで死を迎えたのである。渡辺好明遺作展は2012年12月、東京藝術大学の陳列館で開催されたが、それは彼らへお別れを告げるにふさわしい展観だった。
(もりもと ごろう)
■森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。
●今日のお勧め作品は、倉俣史朗です。
倉俣史朗
「鏡(木地)」
1983年
H80.0xW50.0xD5.5cm
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渡辺好明(1955~2009) お別れのキャンドルサービス
2008年12月、C・スクエア開設時からの会場での最後となる展覧会開催中、おもいがけなく渡辺好明さんが訪ねてきた。何年ぶりかの対面だったが、とりとめもないことばを交わしただけで、再会を約して別れた。その翌年11月、渡辺さんは自ら関わっていた、解体前の旧フランス大使館を会場とする大規模な現代美術展「No Man’s Land」準備中に、心不全のため急逝した。展覧会開幕3週間ほど前のことだった。もちろん渡辺さんにそんなつもりがある筈ないのに、あの不意の訪問は別れのあいさつだったのでは? と思ったものだ。
訃報を耳にしたとき、心身の過労が原因だろうとぼくは直感した。そう思わせるほど根を詰め、仕事に集中する人だった。渡辺さんは作家活動にとどまらず、教員として教育はもちろん、東京芸大の取手移転や先端芸術表現科設置に携わり、海外大学との交流展や「取手アートプロジェクト」をプロデュースし、若いアーティストたちのための共同アトリエ「井野アーティストヴィレッジ」の代表を務めるなど多忙を極めていた。八面六臂の活躍ぶりに見えたが、激務に耐えていたというのが実態だったかもしれない。
C・スクエアでの渡辺好明展は1999年の掉尾となるもので、「光ではかられた時」と題された蝋燭によるインスタレーションだった。外光の入る第1会場では、級数的に広がっていく曲線上に整然と立ち並んだ蝋燭に次々と火が燃え移っていく「フィナボッチの薔薇」。外光を遮断した第2会場内には円筒状の小部屋をしつらえ、その中央に直径1メートルほどの円形の穴をあけて大量のパラフィン・ワックスを敷き詰め、その真ん中に灯心を据えて開場時間中火を点し続ける「真夜中の太陽」。古代から天文学者が、わが国の陰陽師が、星辰の観測から暦をつくり時間を計ったように、渡辺さんは蝋燭の灯りによって非日常的な時間を体験させた。ともに作品の炎だけを灯りとし、照明器具は一切不使用。まことにシンプルな展示だが、じっと目を凝らし、いつまでも見続けたくなる魅力をもっていた。
渡辺好明氏
「光ではかられた時―フィナボッチの薔薇」1(C・スクエア)1999
「光ではかられた時―フィナボッチの薔薇」2(C・スクエア)1999
「光ではかられた時―フィナボッチの薔薇」3(C・スクエア)1999
「光ではかられた時―真夜中の太陽(部分)」(C・スクエア)1999前者は点火して放っておくと全部燃えてしまうため、毎日1時間だけ火をつけ、最終日まで保たせた。最終日は12月25日、燃えつきようとする蝋燭の炎を眺めていた会場の人たちには、クリスマスのキャンドルサービスと映ったかもしれない。日没とほぼ同じ頃に消えたのは、クリスマスがらみでいえば、ユダヤ暦の1日の終わりを告げるものであり、イベントの幕の閉じ方として完璧だった。
渡辺さん死去の2年後で東日本大震災の直後に、同じ1955年生まれの美術評論家・鷹見明彦さんが亡くなった。それは鷹見さんによる渡辺好明遺作展開催準備さなかでのことだった。偶然とはいえ、同志的結びつきの二人が同じような状況のもとで死を迎えたのである。渡辺好明遺作展は2012年12月、東京藝術大学の陳列館で開催されたが、それは彼らへお別れを告げるにふさわしい展観だった。
(もりもと ごろう)
■森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。
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倉俣史朗「鏡(木地)」
1983年
H80.0xW50.0xD5.5cm
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