森本悟郎のエッセイ その後・第19回

東松照明(1930~2012) (4)転回点としての沖縄


2011年6月12日、名古屋市美術館で開催された「写真家・東松照明 全仕事」展はついに作家が会場に姿を見せぬまま閉会した。その年の9月初め頃か、東松さんから「東松照明と沖縄 太陽へのラブレター」展(沖縄県立博物館・美術館、9月23日~11月20日)の招待状が届いた。沖縄なら東松さんに会えるかもしれないと思った。ぼくが企画した展覧会を間近に控えていたため、オープニングは無理であるとしても、2か月ある会期中には出掛ける心積もりだった。
東松さんの沖縄との関わりは、全国で学園闘争が激しさを増し東大入試が中止となった1969年、『アサヒカメラ』特派としての渡沖にはじまる(当時、東松さんは東京造形大助教授でもあった)。米軍による「占領」にこだわり、日本全国の米軍基地をめぐった写真家は、その仕上げとして当時まだアメリカ占領下にあった沖縄を訪れたのだ。成果は同年、「沖縄に基地があるのではなく基地の中に沖縄がある」と太ゴチックのキャプションをつけた写真集『OKINAWA 沖縄 OKINAWA』(写研)となった。ここには嘉手納基地を飛び立ち北ベトナムに向かうB-52爆撃機や「象の檻」と呼ばれた楚辺通信所をはじめ、米軍基地とその周辺がさまざまな手法でとらえられているが、興味深いのは、後に『太陽の鉛筆』(毎日新聞社、1975)としてまとめられることになる島嶼の写真が顔を出していることである。

戦後日本の特質を、「占領」とそれがもたらした急激な「アメリカニゼーション」と考えていた東松さんは、本島から島々に足を伸ばすことで、その最たる典型となるはずだった沖縄に、意外にも「ついに『占領』されることのない、アメリカニゼーションを拒みつづける強靱かつ広大な精神」(『太陽の鉛筆』)を発見する。これは写真家に大きな転回をもたらす。プライベートな視点とはいえ、社会的コンテクストに基づいたルポルタージュ写真家が、『太陽の鉛筆』では風通しのいい、心たゆたうような表現をみせた。この写真集の後半、東南アジア編はカラーで撮影されており、それを機に以後モノクロームをやめた。東松さんはモティーフから自由になったばかりでなく、シリアス写真はモノクロームという神話からも自由になったようだ。

東松さんのカラー作品はどれも魅力的だが、わけても晩年の「長崎」「沖縄」両シリーズにある強烈な色調にぼくは惹かれる。東松さんのカラリストぶりは年齢を重ねる毎に旺盛となったが、おそらくぼくは作家の生命力の強靱さと重ねて見ていたのだろう。

そんなことからか、ぼくは油断していた。東松展も会期半ば過ぎ、大判の展覧会図録が届いた。急ぎ沖縄行きの日程を組もうとしたが、すでに身動きの取れない状態だった。東松さんには手紙で図録のお礼と、展覧会に行けなくなった非礼をお詫びした。その時点ではまた次の機会に、との思いだった。だから翌年の訃報には愕然とした。こう書いている先から、悔やみきれない不義理を犯したものだと、暗澹たる気分におそわれる……。

『写真家・東松照明 全仕事』『写真家・東松照明 全仕事』


『東松照明と沖縄 太陽へのラブレター』『東松照明と沖縄 太陽へのラブレター』


『OKINAWA_沖縄_OKINAWA』『OKINAWA_沖縄_OKINAWA』


『太陽の鉛筆』『太陽の鉛筆』


もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。

●今日のお勧め作品は、殿敷侃です。
20151028_18_saw3殿敷侃
「ノコ」(3)
銅版
Image size: 23.3x32.0cm
Sheet size: 35.4x42.5cm
Ed.30
サインあり


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