新連載・夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」

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薄っすらと霧に覆われた海辺に、果てしない旅をしてきたさまざまな漂流物が累々と横たわる。ひととき身体を休めているかのように…。異国の古書店で遭遇した稀少本や、蚤の市で見つけた珍奇ながらくた、ノイズだらけの古レコード、旅先の道端で拾った小石まで、果てしない時間の海と、さまざまな人たちの人生を漂流し、わが書斎にたどり着いた知の漂着物の数々。偶然と必然の引力によって引き寄せられた本やモノが、ひとつのコレクション宇宙となって書斎を形作っている。部屋の片隅でひっそりと眠り、出番を待つ書物や品々に「目覚めよ!」と号令をかけ、しばし生の息吹を与えたい。


第一回 トワイヤン-グラン・パレで逃がした「大魚」

狙いを定めたターゲットを必ず手に入れたいと思うのは蒐集家なら誰しも思うことだろう。逃したら二度と手に入らないものならなおさら。落手寸前の獲物が手の平にのりながら、するりと抜け落ちた苦い思い出話から始めたい。
2011年4月、セーヌ川のほど近くにあるグラン・パレでは、大規模な古書市が開かれていた。その年の3月11日に起きた東北地方の大地震と福島原発事故の直後に東京を立ち、パリのアパルトマンにしばらく滞在していたころで、そろそろ古本探しの虫が騒ぎはじめ、この大古書市に狙いを定めていた。
広大な会場には眼もくらむ価格帯の貴重な古書が所狭しと並ぶ。当時、シュルレアリスム関連の文献を熱心に集めていて、古書店のブースの棚をざっと眺めわたすと、めぼしい「獲物」がありそうかどうかはなんとなくわかるものだ。書棚を物色しながら、会場の中央よりややはずれたあたりのガラスケースでぴたりと足が止まった。豹が向かい合った図柄のどこか見覚えのある小さなドローイングが飾られている。チェコの女性シュルレアリスト・トワイヤンの『塔のなかの井戸-夢の断片』(RADOVAN IVSIC『LE PUITS DANS LA TOUR』-TOYEN『DÉBRIS DE RÊVES』 1967)の中にある図版の一部とそっくりだ。
急いで店の人に尋ねると、まさしくトワイヤンの一点もののドローイングだという。サインもある。おそらく『夢の断片』の下書きに違いない。価格は700ユーロ弱。有り得ないぐらいに安く普通なら即座に買い付けるところだが、「今はこれから数年にわたるであろう長期の旅の途上で散財していいものか」「はたしてこの作品は本物だろうか?」などとネガティブな弱気な心理がどういうわけか働いた。いったん気持ちをクールダウンしようと、別の古書市をのぞいて戻ってきてまだあったら、買おうと決めた。メトロを乗り継いでヴァンブの蚤の市にほど近いジョルジュ・ブラッサンス公園の古書市に行ったものの、トワイヤンのドローイングがどうも気になって、すぐに踵を返した。戻った会場で、くだんのコーナーの店員を見かけると「あれ買い…」と言いかけたところで、ガラスケースの「獲物」は消え、もぬけの殻だった。店員は「さきほどお客さんが、このドローイングは掘り出し物だと嬉々として買っていきましたよ」とのこと。

toyen1ガラスケースに入ったトワイヤンのドローイング。売れる直前、ガラスケースにあったドローイングを撮影しておいたのはせめてもの救いだった(パリ グラン・パレの古書市会場で)


toyen2『塔のなかの井戸-夢の断片』のドローイングと似た図柄


ほぼ手中にしかけた「大魚」は目の前でするりと逃げて行った。「作品が日本の無名の一コレクターの書斎に埋もれるより、パリで人の目に触れ、いずれどこかの美術館にでも展示されたほうが作品のためにいいんだ」などと自分を慰めてみても、どうにも割り切れない。それ以来、豹の絵や写真を見ると、この苦い出来事を思い出すようになってしまった。

トワイヤンは1902年、プラハに生まれ、パートナーとなるインドリッヒ・シュティルスキーらと前衛芸術グループを立ち上げた。ナチスの暗い影がチェコを覆った1939年、チェコのシュルレアリストらは公の活動を制限された。トワイヤンはインドリッヒ・ハイズレルらとともに地下出版を続け「猛禽の爪の封印をもつ多くのマルドロール的『コラージュ』」(『トワイヤンの作品への序』アンドレ・ブルトン 1953年 巖谷國士訳)とも評される作品を次々と創り出した。戦後、トワイヤンはパリに移り、1953年に『封印された星』画廊でトワイヤン展を開くなどブルトンらとシュルレアリスムの活動を続けた。

toyen3トワイヤン
孤高と深い憂愁の影に包まれたトワイヤン。アンドレ・ブルトンは『トワイヤンの作品への序』でトワイヤンについて「高貴のしるしをおびたその顔、どんなにはげしい襲撃にも深く身をふるわせながら岩のように抵抗しつづける人」(巖谷國士訳)と述べている。


toyen4チェコのシュルレアリスト(「『Toyen』une femme surréaliste ARTHA 2002より) 左から シュティルスキー、カレル・タイゲ、トワイヤン。トワイヤンとシュティルスキーはパートナーで、チェコシュルレアリスムを支える同志だった。


toyen5パリのギャラリー l'Étoile Scellée(『封印された星』画廊)での「手」の形をしたトワイヤン展招待状(Galerie l'Étoile Scellée 1953 )。プラハの古書店で入手。


トワイヤンの作品のなかでも特に印象深く記憶に刻まれたのは、壁に描かれた狼が路上の鳥を捕まえている『ラコストの城にて』(1946年)。本物を見たのは、1997年にパリで開かれた『シュルレアリスムと愛(Le surréalisme et l'amour)展』だった。壁の向こう側の彼岸、死者の世界からやすやすと壁を乗り越え、生者の世界に越境するラコストの城の主サドの孤高な反逆精神のメタファーを感じた。

toyen6トワイヤン「ラコストの城にて」(『シュルレアリスムと愛(Le surréalisme et l'amour)展』図録より)


トワイヤンに惹かれたのはいつごろからだったろうか。さかさまになった少女が壁と一体化してぶらさがっている不思議な『やすらぎ(休息)』(1943年)や、補虫網を持った透明な少女が大地にたたずむ『眠る女』(1937年)を目にしたのがきっかけだったと思う。フランス語の市民「citoyen」から名前をとったTOYEN。陰翳のある夢幻の景色が展開し、静謐な闇のエロティシズムが漂う。登場する人物は消えかかった夢の古層から立ち上ってきたかのように悪夢の原野に浮遊している。フュースリ的な幻覚の悪夢。超現実の暗黒の夢の迷路に踏み込んだかのような絵画空間だ。宙吊りになった不思議な感覚。迷宮の穴に落ちていくかのような錯覚。トワイヤンは「広がる自問の前で自己をとりもどすために、かえって涯しなく迷うことを彼女に許すアリアドネの糸」(アンドレ・ブルトン『トワイヤンの作品への序』 1953年 巖谷國士訳)をたぐりよせ続けている。

toyen7ブルトンらによる共著「Toyen」(TOYEN. Breton / Benjamin Péret / Jindrich Heisler, Editions Sokolova 1953)。パリの古書店で入手。


toyen8トワイヤンの署名入りオリジナルドライポイント二点が入った限定版『TIR』(RADOVAN IVSIC and TOYEN ,CYCLE DE DOUZE DESSINS 1939-1940 ET DEUX POINTES SÈCHES 1973. PARIS,ÉDITIONS MAINTENANT)。パリの古書店にて入手。値段の安い普及版と高価な限定版か悩んだ末、限定版を選択。同じものがおととし、Sotheby's のオークションに出品されていたようだ。


toyen9書棚のトワイヤン関連の本(上中央の表紙は『やすらぎ』、右上の表紙は『眠る女』)


蒐集家とは不思議なものである。手に入らなかったものは決して忘れることがない。人やモノなど大切な何かを失ってみてはじめて、それらが強烈なイメージで「記憶の断層」の奥深くに埋め込まれる。コレクションとは「失われたもの」を埋め続ける果てしないシーシュポスの神話のような永遠の反復運動。蒐集とは精神にぽっかりとあいた穴をふさごうとする代償行為で、トラウマとなった心の「欠如」「欠落」をひたすら「蒐集」することで埋め合わせしようとしているのではないだろうか。『書斎の漂流物』と題したこのエッセイのなかで、書物や「モノ」へのフェティッシュな異常愛、蒐集パラノイアの尋常ならざる深層心理と逸脱した行動を、自ら実験台にして解き明かしていきたい。
よるの ゆう

■夜野 悠 Yu YORUNO
通信社記者を50代前半で早期退職後、パリを中心にカナダ、ドイツ、モロッコなど海外を中心に滞在、シュルレアリスム関係を中心に稀少書や作品などを蒐集する。2015年5月に国際写真祭『KYOTO GRAPHIE』のサテライトイベント『KG+』で、モノクロの写真・映像、キューバの詩で構成した写真展『古巴(キューバ)-モノクロームの午後』を開催。同年12月には京都写真クラブ主催の『第16回京都写真展 記憶論Ⅲ』で、『北朝鮮1987-消えゆく夢幻の風景』を展示。京都市在住。

●今日のお勧め作品は、ワシリー・カンディンスキーです。
20160405_kandinsky_11_compositionワシリー・カンディンスキー
デリエール・ル・ミロワール
133-134より
「コンポジション 11」
1962年
リトグラフ
マーグによるエスタンプ
37.7x44.0cm


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従来企画展開催中は無休で営業していましたが、今後は企画展を開催中でも、日曜、月曜、祝日は休廊します。