新連載・夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」

第二回 運命の本『出世をしない秘訣』と反骨の自由人・訳者椎名其二

誰でも自分の人生を思わぬ方向に導いた本が一冊ぐらいは書斎にあるはずだ。「暗い青春」の真っ只中にいた1969年、街中にシュプレヒコールが響き、新宿駅西口地下広場では「友よ…」「WE SHALL OVER COME…」の反戦フォークの歌声があふれていた。池袋のはずれの三畳一間家賃三千円の貧乏下宿で、ドストエフスキー全集や岩波文庫のフランス文学など内外の古典をかたっぱしから読み耽りながら引きこもる日々。たまに大学に行ってデモに参加したり、ジャズ喫茶に行ったり、京橋のフィルムセンターや池袋文芸坐地下で古い欧州の映画を観たり…。生きていること自体が演劇だとしたら、あのわが青春時代は「同時代」という劇場の舞台を降りていた。つまり、現実と距離を取りすぎて孤立、人生のライブ感を失い、昭和の一番面白かった時代を本当に生きていなかったのかもしれない。
そんな時代、ゴダール映画の悪漢気取りで、バルザック好きの風変わりな同世代のいとこがよく夜中、下宿に訪ねてきたものだ。大家さんが戸締りをした深夜、二階にあった下宿部屋の裏窓のすりガラスに「チン」と小石が当たる音がインターフォン代わり。そのいとこが当時、愛読していたのがフランスの作家ジャン・ポール・ラクロワの『出世をしない秘訣』(1963年新装版 理論社 椎名其二訳)だ。

「この世の出世の不運なとらわれ人」に捧げるとラクロワは読者に呼びかける。会社といった組織に入り出世競争に巻き込まれてしまうとお金や責任に押しつぶされ「金はなくとも閑と友情にめぐまれつつ幸福を小川の鮒のように釣り上げていた楽しかりし日を偲んでも、もはや追っつかない。…金を儲けたり命令を発したりする機械になりはて」惨めなロボットになってしまう。なによりも大事なのは「個人としての諸君の天職をまっとうし」自分に成功することだと、何からも誰からも不可侵の<個人>が世界の、宇宙の中心にあると力説する。

hiketsu1『出世をしない秘訣』(1963年新装版)


「なるほど!」これこそ自由で人間らしさを失わない高等遊民の処世哲学と深く納得し、どうしてもいとこが持っているこの本がほしくなった。出版社を当たったり、神保町、高田馬場あたりの古本屋を何度もめぐったが見つからない。仕方なく、いとこの現物を借りて安物のコピー機で複製し自分で製本した。ページの間には、いとこが喫っていたフランス煙草ゴロワーズの灰が残ったまコピーされた。オリジナルとはデザインが異なるが、これはこれでなかなかの出来栄え。本物を入手するまでこの手製の複製本をなんども愛読したものだ。半世紀近く前の手作りコピー版『出世をしない秘訣』は、今も書斎の棚におさまっている。

hiketsu2複製した『出世をしない秘訣』の手製本


hiketsu3いとこが喫ったたばこの灰ごとコピーされたページ。「それは、個人としての諸君の天職を全うするためであること」というくだりにアンダーラインが引かれている。


『出世をしない秘訣』の原書のタイトルは『Comment ne pas réussir』(JEAN PAUL LACROIX 1956 LES QUATRE JEUDIS)。どうしてもフランス装の原書がほしくなり、フランスの古書店から取り寄せたところ、なんと著者献呈署名本だった。そういえば、日本で手に入れた新書版の方にも訳者椎名其二の署名が入っていた。まさにシャルル・フーリエの「情念引力」か?求める力が強ければ、本やモノもそれにこたえる引力が働くのだろう。

hiketsu4『出世をしない秘訣』の著者署名の原書(1956年)


hiketsu5椎名其二が署名した『出世をしない秘訣』の新書本(1960年刊)


『出世をしない秘訣』を訳した椎名其二は究極の自由人だった。秋田出身の1887年生まれ。1916年にフランスに渡り農業問題や文学に没頭、1922年に帰国後、早稲田大学仏文科の教授をつとめた。その後渡仏、第二次大戦中はパリにとどまり対独レジスタンス運動にも協力した反骨の人。椎名其二は『出世をしない秘訣』のあとがきで、出世にとりつかれた会社など組織に属する人たちについて「彼等は流れる雲や軽やかなスカートや幼児の思い出などに注意深い自由人のそぞろ歩きの自由さも、又離脱とよばれる単純な魂のあの柔らかさも失っている。一言でいえば、彼等は生きることを忘れてしまったのである」と、「自分が自分自身のものである」という当たり前のことを忘れた人々に警告する。椎名は晩年、パリのマビヨン通りにあり、近所の人から「熊洞(ラ・グロット・デ・ウール)」と呼ばれた暗い半地下室で、本の革装丁をしながら細々と生計をたてていた。

hiketsu6パリのマビヨン通りを歩き回り、椎名其二が住んでいた「熊穴」を探したが、それらしい場所が地面より一段下にあるレストラン横の入り口にあった。確証はなく、あくまで「熊穴」のイメージということで…。どなたかご存知の方がいらっしゃったらご教示願いたい。


画家佐伯祐三や作家森有正、画家野見山曉治らとの交流も知られており、多くの作家や画家らが反骨の自由人・椎名の人柄を慕い訪れたという。椎名は1958年に『出世をしない秘訣』を訳し理論社から出版後パリに戻った。一人暮らしを続けていたが1962年4月、パリの病院でひっそりと息をひきとった。

hiketsu7椎名其二(撮影年不詳)


『出世をしない秘訣』のウィットのきいた挿絵を描いているのがアンリ・モニエ。フランスの新聞に「永い間うがった漫画をのせていた。ドーミエ以来の伝統の中にある優秀なカリカチュリストである。…彼のデッサンはひきしまった構図、博識、妥当の注釈に支えられた談義に、それを浮き彫りにするのに実にもってこいの照明をなげている」(訳者あとがき)。一見かわいいコミカルな絵のなかにも辛辣なユーモアがにじみでる。パリの古書店で以前、アンリ・モニエの本を探し何冊か入手。手彩色と見間違うほどの美しい印刷のものや、かつての風刺新聞の仲間らが、酒好きでユーモアのある自由人アンリ・モニエを讃えるユニークな追悼本も見つけた。

hiketsu8パリの古書店で入手したアンリ・モニエの本。


書斎で、学生時代の愛読書『出世をしない秘訣』の背表紙を見ると、世間から孤立し、ほろ苦くせつない三畳一間の学生時代をいつも思い起こす。そして、この本を知るきっかけを与えてくれたいとこのことも。ジャン・ギャバンとフランソワーズ・アルヌールが出演した仏映画『ヘッドライト』(1956年 アンリ・ヴェルヌイユ監督)をこよなく愛し、バルザック文学にのめりこんだいとこは、自由を求めすぎて波乱と苦難に陥った人生を突然の病気のため53歳で終えた。筆者はといえば、この愛読書の精神を全うすべく53歳で会社という組織から離脱、「遊びをせんとや生まれけむ」と、軽みと実験の精神をわきまえた自由人、高等遊民たるべく世界を逍遥、一瞬一瞬「日々是好日」、「高貴なる無為」(ベンヤミン)の境地を模索中である。
よるの ゆう

■夜野 悠 Yu YORUNO
通信社記者を50代前半で早期退職後、パリを中心にカナダ、ドイツ、モロッコなど海外を中心に滞在、シュルレアリスム関係を中心に稀少書や作品などを蒐集する。2015年5月に国際写真祭『KYOTO GRAPHIE』のサテライトイベント『KG+』で、モノクロの写真・映像、キューバの詩で構成した写真展『古巴(キューバ)-モノクロームの午後』を開催。同年12月には京都写真クラブ主催の『第16回京都写真展 記憶論Ⅲ』で、『北朝鮮1987-消えゆく夢幻の風景』を展示。京都市在住。

●今日のお勧め作品は駒井哲郎です。
駒井哲郎_mebae駒井哲郎
「芽生え」
1955年
アクアチント、エングレーヴィング
15.5x28.0cm  Signed

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