夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」

第三回 路上の幻視者アッジェ-手焼きのオリジナルプリント

早朝、パンとミルクと砂糖という質素な朝食を終えると、男はいつものように大型の写真機材をかかえて人影もまだまばらなパリの街に出る。男の名はジャン・ウジェーヌ・オーギュスト・アッジェ(Jean-Eugène-Auguste Atget 1857-1927)。パリの路地やときには郊外まで歩いて、消えゆく古きパリの風景の断片を、たんねんに写真に撮り約30年間に8000枚もの貴重な映像記録を残した。
若き日のアッジェは商船の給仕として欧州、北アフリカ、南米などをまわった。1880年代後半から1890年代後半にかけて、アッジェは生涯の伴侶となったヴァランティーヌ・ドラフォスとともに旅役者をしていたが解雇され1897年に失意のうちに単身パリへ。41歳で画家を志すも断念、1898年ごろから「芸術家のための資料」(Documents pour artistes)として、生活の糧を得るため写真を撮り始め、画家のアトリエを訪ね、売り歩いた。
18センチ×24センチのガラス乾板を使う大型の木製の暗箱カメラを使用。ガラス乾板の感度が低く露光時間との関係で、街角から動くものは半ば消え、アッジェの写真特有の人物の「ブレ」が現実感を奪い不思議な陰翳のあるポエジーを生み出している。ヴァルター・ベンヤミンはアッジェの写真について「ほとんどすべてに人影がない。…どこも寂しい場所というのではない。気分というものが欠如しているのだ。都市はこれらの写真の上では、まだ新しい借り手が見つからない住居のように、きれいにからっぽである。…アッジェの写真が犯行現場のそれに比せられたのは故なきことではない」と『写真小史』(1931年 久保哲司訳)のなかで述べている。写真から生きているものは消え、生命のないものは生き残る。時が止まり、永遠の時間の粒子が印画紙に定着する。
すでに19世紀に、ボードレールは詩集『悪の華』の中で「古いパリはもはやない」と言い切っているが、アッジェは今、まさに消え行こうとしている古きパリの最後の残滓を写真で掬い取ろうとしていた。アッジェは「大都会が投げ出したもの、すて去ったもの、軽べつしたもの、うち砕いたもの等すべてのものを目録につくり、蒐集する」(「『人工楽園』ボードレール 松井好夫訳)ことを天職にした。

atget1ショーウインドウのアッジェの写真(ゴブラン通り 1926年)


瀧口修造は「ただ怪奇な物を漁って撮ったり、砂漠で貝殻や流木を撮ることだけがオブジェでなく、このアトジェ(アッジェ)のような卑近な事物の非情な記録からも物の精、物の妖気のようなものが感じられる」と『新しい写真の考え方』(毎日新聞社 1957年)の中で述べている。人影の消えた路地や古色蒼然としたパサージュ、ショーウインドウで虚無の微笑をたたえるマネキン…。「アッジェは行方知らずになったもの、漂流物のようなもの」(『写真小史』ベンヤミン)を、だれもが見過ごしていた風景から救出しようとしていたのかもしれない。

アッジェの写真と原版を蒐集、再評価に貢献したベレニス・アボット。彼女が撮ったアッジェ晩年の写真と、壮年期のアッジェの写真(パリ国立図書館)とでは人物のイメージに大きな違いを感じる。アッジェというと晩年の老いたポートレートを思い浮かべるが、若き日のアッジェの写真を見ると、体格もがっしりしていて、エネルギッシュな印象を受ける。40代から写真を撮り始めたアッジェ。毎日のように12キロ近くもある重い機材をかかえ、パリの街中を歩きまわって撮影することができたのも、この体格なら納得できる。

atget2ベレニス・アボットが撮影した晩年のアッジェの写真


atget3若いころのエネルギッシュなアッジェの姿(パリ国立図書館資料)。老写真師というアッジェに抱くイメージとの落差を感じる。


消えゆくパリ風景の単なる記録を超えた「何か」を感じさせ、見るたびに新しい発見があるアッジェの写真。いつか、アッジェ自身が焼いたオリジナルプリントを間近で見たい、できることなら手に入れたいという気持ちが強くなった。その願いがついにかなうときがやってきた。2007年の初めごろだったろうか、日本ではなかなかない写真専門のオークションが東京で開催された。そこにはアッジェの写真が数点、出品されていたが、なかでもアッジェらしい特徴が良く出ている路地の写真にくぎ付けとなった。パリ1区のバイユール通りからアルブル・セック通りのホテルTrudonに向かって撮影された『L'Hôtel de Trudon La rue de l'Arbre-Sec vue depuis la rue Baileul 1903』だ。迷うことなく入札、落とすことができるか心配だったが無事落札した。アルビューメン(鶏卵紙)のアッジェ自身による手焼きプリントで、やや褐色を帯びている。写真の裏にアッジェの手書きで、撮影場所がインクで書かれている。ホテルの窓から覗く人影、通りの街角に佇む親子らしい消えかかった残像のような姿が認められる。

atget4オークションで手に入れたアッジェのオリジナルプリント


atget5オリジナルプリントの裏に書かれたアッジェ自身による撮影場所のメモ
パリ国立図書館(BNF)で、アッジェの大回顧展があることを知り、2007年6月、この回顧展を見るためにだけパリに飛んだ。所有する同じオリジナルプリントの写真を見つけ、手に入れたものがまがうべくもない「本物」だったという安堵感を覚えた。後で調べると、アッジェの写真集(『アッジェ 巴黎』 リブロポート 1993年)のなかにも同じ写真が掲載されていた。「google street」で見ると、バイユール通りから見た「ホテルTrudon」の建物は現在も残っており、オリジナルプリントの写真の風景が当時とほぼ変わっていないことがわかる。


atget6パリ国立図書館であったアッジェ回顧展のカタログに掲載されていたオリジナルプリントと同じ写真


atget7「google street」で、バイユール通りから見た現在の風景。ほとんど当時と同じ姿。
アッジェの作品の価値を最初に見抜いたのはパリのシュルレアリストだった。シュルレアリスムの機関紙『REVOLUTION SURRÉALISTE』(1926)には、橋の上で煤(すす)をつけたガラス板をかざし一斉に日食を見る人たちの不思議な写真が使われた。アッジェは名前が載るのを好まず撮影者名はない。


atget8アッジェとシュルレアリスム―機関紙の写真 (『REVOLUTION SURRÉALISTE』 1926)-アッジェ回顧展(BNF)のカタログより。


atget9アッジェ関連の本の一部。左上の『写真集アッジェのパリ』(朝日新聞社 1979年)はパリでマン・レイら著名な写真家のプリンターとして知られるピエール・ガスマンがアッジェの乾板を使って焼き付けた写真を集めている。


ある写真展で、ピエール・ガスマンが焼いたアッジェの写真のリプリントが展示されているのを見て吃驚したのを覚えている。アッジェが自身で焼いたオリジナルプリントの当時の鶏卵紙独特の仕上がりとは異なるモダンで緻密なプリントで、ディテールや豊かな諧調が余すところなく再現されていて、写真の技術はアッジェの時代にすでに完成されていたことを改めて思い知らされた。

アッジェは撮影の際、エッフェル塔など観光的なモニュメントを意識的に避けた。古きパリの残像だけを抽出し、風景やモノ、人々の日常の営みを写真として図鑑化、カタログ化した。路上の幻視者アッジェは消えかかった古きパリを透視し、「カメラオブスキュラ」という魔術的な暗箱の中で、パリという巨大な都市を映像によって腑分けをしたと言えよう。
よるの ゆう

■夜野 悠 Yu YORUNO
通信社記者を50代前半で早期退職後、パリを中心にカナダ、ドイツ、モロッコなど海外を中心に滞在、シュルレアリスム関係を中心に稀少書や作品などを蒐集する。2015年5月に国際写真祭『KYOTO GRAPHIE』のサテライトイベント『KG+』で、モノクロの写真・映像、キューバの詩で構成した写真展『古巴(キューバ)-モノクロームの午後』を開催。同年12月には京都写真クラブ主催の『第16回京都写真展 記憶論Ⅲ』で、『北朝鮮1987-消えゆく夢幻の風景』を展示。京都市在住。

●今日のお勧め作品は、マン・レイです。
20160605_ray_44マン・レイ
「KIKI」
ペンと水彩
イメージサイズ:36.0×24.0cm
ペンサインあり


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