リレー連載
建築家のドローイング 第8回
ハンス・ペルツィヒ(Hans Poelzig)〔1869―1936〕

八束はじめ


 前々回にオットー・ワグナーのドローイングと実作とのスタイルの上での一致が、確かなメチエの介在の上に可能になったと述べたが、ユーゲント・シュティルにも何がしかのものを負っていることは疑い得ないにも拘らず、表現主義における――ここでは主にドイツのそれに限定しておく――ドローイングのスタイルは、そうした職人的なテクネーの延長上に確保されたものとは全く違っている。ワグナーの線描が、工作技術によって保証され、辿り得るものであったのに対して、表現主義者の作家たちのドローイングでは、線は実対化したものの境界というようなものではなく、つまり自律的なオブジェの構成要素というカテゴリーに入るものではなく、むしろある運動のプロセスであり、勢いという、本来定着して目に見えないものの行跡でしかない。主役を演ずるのは不動の客観物=オブジェではなく、その勢いを生じずにはおかないもの、つまりはその呼称にもあらわれている「表現」である。それが具体性に先行していることは、この運動ともまんざら無関係ではなかったヴォーリンガーの有名なゴシック芸術に関わるテーゼ、つまり「抽象」と「感情移入」に簡潔に要約されている。

第一次室内パースハンス・ペルツィヒ Hans Poelzig
「第1次室内パース」

 軽率の謗りを敢えて覚悟でいってしまうならば、「表現主義」と「表現主義的なるもの」との区別が可能であると思われる。この区分をひとまずしておくことによって、何故前者がオランダを除けば基本的にはドイツ固有の運動であったかを理解し得る。ラテン民族が表現主義的なアモルフのカオスを好まなかったという議論は、通俗的には説得性ありげに見えるが、ガウディ(スペイン)はアール・ヌーボーというより表現主義的な激しさすらもっているし、ル・コルビュジエ(スイスーフランス)の戦後のロンシャンの礼拝堂や、ミケルッチ(イタリア)の太陽の教会などはそれに対する反証となり得る。それが熱病のように共同化されて、時代の渦を形成していった所に、「表現主義」が一時代のスタイルとして成立し、またハンス・シャローンのような例外は別とすれば、作家たちがやがて病から治癒したかのようにそれから身を遠ざけていった一過性の理由を探ることができる。それはドイツの第一次大戦前後の社会的な大変動期のみに生じ得た、巨大な芸術と表現とのトランス状態であり、極度の個人主義と極度の集団主義、前進性と後進性とが不可分な形で煮つめられている坩堝であった。ヴォルテージの高さだけが問題であって、何であれ中途半端なもの、現状維持的なものは存在の余地がなかった。ペルツィヒの神話的な原始の共同体へのノスタルジーとルックハルト兄弟の有機的なファンタジーへの憧憬とメンデルゾーンの喧騒に満ちたダイナミズムとの間には、この変換期の作用の大きさ以外に共通するものを見つけるのは、必ずしも容易ではない。

ザルツブルグハンス・ペルツィヒ Hans Poelzig
「ザルツブルグの祝典劇場・第1次案外観」

 1869年に生まれたペルツィヒは、この時代の嵐とも痙攣ともいうべき運動に巻きこまれた建築家たちの中では最年長に属する。2才年上にはユーゲント・シュティルのオルプリヒ、1才年上には表現主義者にも影響を受けたべーレンスがおり、ウィーンのロースやホフマンよりは1才年長になる。後の近代建築運動の旗手となったグロピウス、ミース、ル・コルビュジエらよりは一世代半ばほど上にあたる。表現主義に身を投じた中でもタウト兄弟やメンデルゾーンにしても80年代の生まれである。この5年の違いは、彼らの原イメージとでもいうべきものに決定的な相違を与えている。ペルツィヒは、古いドイツの森林や山の深い響きに身を委ねながら育ち得た最後の世代である。彼は、同世代の建築家たちの多くとちがって、より若いアヴァンギャルドの運動にも理解と助力を与えたが、コンラード・ワックスマンのような技術者を育てたにも拘らず、本質的にはドイツの――後にはナチスの「血と大地」理論をも触発する――風土に根ざした神話的=ロマン的な共同体のイメージの上に生い立った建築家である。事実、こうしたイメージは、ペルツィヒのようにナチスから排除された建築家にも、5才下の、ナチスの寵を得たヴィルヘルム・クライスのような人物にも、またその中間にあったパウル・ボナッツなどにも共に通底している。ペルツィヒの最も著名な実現された建物、演出家マックス・ラインハルトのためのベルリンの大劇場はつららのような突起物が天井から無数に垂れ下がる幻想的なインテリアで一世を風靡したが、ドローイングに留まったビスマルク記念碑、コンスタンチノープルの友好の家、そしてザルツブルクの祝典劇場などのプロジェクトでは、こうした幻想性は更に著しく亢進されている。建築のマッスは鬱然としたうねりのうちに溶解されていて、もはやはっきりとした輪郭をもたない。それは霧の中から茫漠とした偉容をあらわしつつある塊のようでも、黒々と先端をうかがいしることもできない様子で濃厚に生い茂る森のようでも、底知れぬ深い洞窟のようでも、更にはまた巨大な蟻塚のようでもある。ワグナーの華麗なユーゲント・シュティルのドローイングがペンの鋭利な線(ハード・エッジ)を必要としたのとは対照的に、ペルツィヒはスケッチでは木炭を、詳細なレンダリングでは鉛筆を多く用いた。それらでつくられる線の柔らかさ、あるいはあらゆる方向に広がり蔓延していく曲面の微妙なテクスチャーが、ペルツィヒにとっては是非とも必要なものであった。そこに現出するものは南方の強い日ざしとは全く違った、ドイツの北方的な神話の空間であり、そうした古代の記憶を背負った共同体のイメージである。ここでは建築家はむしろ祭司なのである。柔らかいが大地に根ざした重さをたたえたその曲面の流れは、その祭儀をつつみこむ聖なる衣であり、時代の激動をその壁の厚みの外側で塞ぎとめている。ペルツィヒのドローイングほど、20世紀ドイツ社会の奥底に潜められた共同体への憧憬を能く表現し得ているものは他にない。

ビスマルクハンス・ペルツィヒ Hans Poelzig
「ビンゲルブリュッケのビスマルク記念碑―第1次案」

やつか はじめ

*現代版画センター 発行『PRINT COMMUNICATION No.97』(1983年10月1日発行)より再録
*作品画像は下記より転載
「第1次室内パース」
https://thecharnelhouse.org/2015/08/17/return-to-the-horrorhaus-hans-poelzigs-nightmare-expressionism-1908-1935/hans-poelzig-festspielhaus-salzburg-1920-1922e/
「ザルツブルグの祝典劇場・第1次案外観」
http://socks-studio.com/2014/11/19/hans-poelzigs-festspielhaus-in-salzburg/
「ビンゲルブリュッケのビスマルク記念碑―第1次案」
現代版画センター 発行『PRINT COMMUNICATION No.97』より

八束 はじめ Hajime Yatsuka
建築家・建築批評家
1948年山形県生れ。72年東京大学工学部都市工学科卒業、78年同博士課程中退。
磯崎新アトリエを経て、I983年(株)UPM設立。2003年から芝浦工業大学教授。2014年退職、同名誉教授。
代表作に白石市情報センターATHENS,
主要著書に『思想としての日本近代建築』。

●今日のお勧め作品は、磯崎新です。
礒崎新「闇2」小磯崎新 Arata ISOZAKI
「闇 2」
1999年 シルクスクリーン
イメージサイズ:58.3×77.0cm
シートサイズ:70.0×90.0cm
Ed.35 サインあり

礒崎新「影1」600磯崎新 Arata ISOZAKI
「影 1」
1999年 シルクスクリーン
イメージサイズ:58.3×77.0cm
シートサイズ:70.0×90.0cm
Ed.35 サインあり

礒崎新「霧1」600磯崎新 Arata ISOZAKI
「霧 1」
1999年 シルクスクリーン
イメージサイズ:58.3×77.0cm
シートサイズ:70.0×90.0cm
Ed.35 サインあり

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◆八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は毎月24日の更新です。