夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」

第四回◇アンドレ・ブルトンの署名本と、「聖地」フォンテーヌ通り42番地

シュルレアリスムの「聖地」は意外な場所にあった。パリ9区にあるフォンテーヌ通り42番地。クリシー通りから一本入った路地にあり、近くにはピガール広場など歓楽街も近い下町エリア。シュルレアリスムの盟主アンドレ・ブルトンが住んでいた場所だ。シュルレアリスム関係の稀少書や資料を集めるうち、いつかこの「聖地」を訪れたいと思っていた。長年勤めていた会社を50代前半で早期退職した翌年の2005年12月、その機会がやってきた。「聖地」を訪れるにはやはり灰色の雲が低く垂れこめた冬のパリがふさわしい。フォンテーヌ通りの壁の表示を確認しながら歩くと、ほどなく劇場とキャバレーに挟まれた入り口の上に「42」の表示板を確認することができた。シュルレアリスムの精神的主導者だったアンドレ・ブルトンが思索を重ねた場所、ブルトンが長年にわたって蒐集したシュルレアリスム関係の絵画やオブジェ、アフリカなどのプリミティブな美術品が空間を埋め尽くす「驚異の部屋」、「知の水晶宮」が目の前の建物にかつてあった、と考えると気持ちが高ぶってくる。

breton1フォンテーヌ通り42番地の入り口。コメディ劇場とキャバレーに挟まれている。


breton2フォンテーヌ通り42番地のプレート。


breton3フォンテーヌ通り。奥にキャバレー「ムーラン・ルージュ」の赤い建物が見える。


住人が中に入って行くのについて行くと四面、建物に囲まれた四角い中庭に出た。一本の木がオブジェのように突っ立っている。強力なシュルレアリスム精神の「魔術的波動」を世界のシュルレアリストに向けて発信するアンテナでもあるかのように…。かつて、この入口の狭い通路や中庭をブルトンやシュルレアリストらが歩いていたかと思うと、一種不思議な感銘を覚えた。「私はと言えば、これからも私のガラスの家に住み続けるだろう。そこではいつも誰が私を訪ねてきたか見ることができ、天井や壁に吊られたすべてのものが、魔法のごとく宙にとどまり、夜になると私はガラスの寝台にガラスの敷布をかけてやすむ。やがてそこには私である誰かがダイヤモンドに刻まれ見えてくるだろう」(「アンドレ・ブルトン集成1」-「ナジャ」巖谷国士訳 人文書院 1970年)。部屋から主が消えても、「見えない」シュルレアリスムの聖なる城がここに確かに存在している。

breton4ブルトンが居住していた建物の中庭。一本の木がブルトンの指令を世界中のシュルレアリストたちに発信する「アンテナ」でもあるかのように突っ立っている。


今はもう消えてしまったブルトンの書斎。マックス・エルンストデュシャン、ピカビア、アルプ、ダリ、ミロ、カンディンスキー、モロー、アフリカのプリミティブな呪術人形やマスク…ありとあらゆる世界の「魔術的芸術」を一堂に集めた巨大なシュルレアリスム精神の書斎宇宙がここにあった。ポンピドゥーセンターにブルトンの部屋の一部が再現されているが、残念なことにブルトンの蒐集品はオークションなどでほとんど散逸してしまった。この「驚異の部屋」を写真集として残した本が『42 rue Fontaine L'atelier d'André Breton』(Julien Gracq édition Adam Biro 2003)だ。主なき超現実的な空間をすみずみまで写真映像で切り取っている。オークションの目録『André Breton 42, rue Fontaine』(Calmels Cohen 2003)に付属のDVDでは、この「驚異の部屋」の蒐集品の数々を映像で紹介している。

breton5ブルトンの「驚異の部屋」の本『42 rue Fontaine L'atelier d'André Breton』(Julien Gracq édition Adam Biro 2003 パリの古書店で入手)


breton6オークションの目録『André Breton 42, rue Fontaine 』(Calmels Cohen 2003)に付属のDVD


いつごろからだったろうか、パリを訪れる際、まずシュルレアリストらのお墓参りをするのが習慣になっていた。パリの厳しさを忘れないために。ル・コルビュジェは「パリはあらゆる瞬間に鞭のぴしゃっという音がしていて、夢みる人にとっては死である」(『ル・コルビュジェ』 C・ジェンクス コルビュジェの手紙 佐々木宏訳 鹿島出版会 1993年)と述べている。心が浮足立っていると、「サン・メルシイ(非情)」なパリはその本来の姿を隠し何も見せてくれない。2005年7月、パリのはずれ17区にあるバティニョル墓地のブルトンのお墓を訪ねた。ブルトンのお墓は墓地のかなり奥の方にあり探し当てるのに随分時間がかかった。ブルトンのお墓はシンプルだが、墓石の上に立体的な五芒星の形のようなオブジェが置かれており一目でそれと分かる。お墓の前で写真を撮ろうと構えたとき、買ったばかりのデジタルカメラがまったく動かなくなってしまったことがあった。なにか墓の下から強力なエネルギーが働いてカメラの動作を狂わせたのか、ブルトンと対面するのにふさわしい精神状態に達していなかったのか、いったん出直さざるを得なかったことを覚えている。

breton7パリ17区バティニョル墓地にあるアンドレ・ブルトンのお墓。墓碑銘にはブルトンの『現実僅少論序説』(INTRODUCTION AU DISCOURS SUR LE PEU DE RÉALITÉ Librairie Gallimard 1927)からとられた「Je cherche l'or du temps(「私は時の黄金を探す」)」という言葉が黄金色の文字で刻まれている。ブルトンを慕い訪ねてきた人が置いたのだろうか、色とりどりの小石がお墓の端っこにオブジェのように並べられていた。


breton8ブルトンの墓碑銘「Je cherche l'or du temps(「私は時の黄金を探す」)」の言葉が載っている『現実僅少論序説』(INTRODUCTION AU DISCOURS SUR LE PEU DE RÉALITÉ, Librairie Gallimard 1927)。「現実僅少論」-現実は幻想であり、見えないもののなかにこそ真実の世界があるとも解釈できるこの本のタイトル。それがシュルレアリスムの作法のすべてを物語っているような気がして、本の内容というよりもそのタイトルに「言葉のオブジェ」として強い衝撃を受けた記憶がある。


当時シャルル・フーリエにも傾倒していた筆者はブルトンの『シャルル・フーリエへのオード』(Ode à Charles Fourier, Revue Fontaine 1947)の原書を入手したいと思っていた。初版をグランパレの大古書市で入手したものの、ブルトンの署名本がどうしてもほしいという気持ちが強くなった。パリの古書店の情報を集めているとき、予約制の古書店があることを知った。2010年6月、パリ18区のイスラム系住民が多いその地区を訪ね、住所を頼りに歩いていくと、雑然とした住宅街の一角にその場所を見つけた。看板もない隠れ家的古書店だ。呼び鈴を鳴らすと奥から店主と思しき人が現れ、中に招じ入れられた。一見外見は普通の住家に見えたが、建物の内部は「あっ」と思わず声が出るほどの巨大な書斎空間になっている。吹き抜けの天井まで埋め尽くす書物、地下にも本が整然と展示されている。一般的な古書店では見ることのできない稀少書の数々がさりげなくいたるところに置いてあり、古書蒐集家なら思わず溜息が出てしまうであろう。『シャルル・フーリエへのオード』のブルトンの署名本の有無を尋ねると、あっけなくすぐに棚から取り出してくれた。その署名本には仏語版『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル)の訳者André Bayへの献辞が書かれていた。予約制の隠れ家古書店を訪ねてみて、見えないところに秘密や美があるパリの文化の懐の深さをあらためて感じた次第であった。

breton9『シャルル・フーリエへのオード』の署名本。「エンドレスハウス」など不定形で有機的な建築で知られる建築家フレデリック・キースラーによる凝った装丁。仏語版『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル)の訳者André Bayへの献辞とブルトンの署名(写真右)。


パリの路地裏を探索していると、ふとブルトンの『ナジャ』のような女性に出会わないか密かなときめきを感じることがある。「ナジャ」とは霊感を呼ぶ妖精のような謎の女性で、想像力の宇宙の住人にとっては守護天使のような存在である。「私とは誰か?」という言葉で始まるブルトンの「自伝的」小説『ナジャ』(Nadja)は自動筆記(オートマティスム)の手法で1928年に書かれた。突然目の前に現れた謎の女性ナジャは一見不可解で不思議な暗号に満ちた詩やデッサンをブルトンに示す。都会のセイレーンのように、あるいは旅人に謎をかけるスフィンクスのように…。『ナジャ』は「どこまでも、扉のように開いたままの、鍵をさがさないですむ書物」(『ナジャ』アンドレ・ブルトン 巖谷国士訳)である。一行の裏に潜む言葉の路地裏が通底器のようにあらゆる人々の精神の地下世界とつながっている。シュルレアリスム、それは精神の永続革命である。「美しく憂鬱な女王たる思考」(『現実僅少論序説』アンドレ・ブルトン)の磁場のなかで、思想の路地裏にひっそりと遍在する日常精神からの逸脱、浮遊を求める超現実の隠者たち、精神の永続革命を模索するシュルレアリスムの逸民たちに向けて、アンドレ・ブルトンの「ガラスの城」から超現実の言葉の電波が今も発信続けられている。シュルレアリスムの聖地・フォンテーヌ通り42番地―そこから世界に…。

breton10ブルトンの小説『ナジャ』の表紙と、『ナジャ』の中に出てくるジャック=アンドレ・ボワファールの写真。2015年1月にパリを訪れた際、ボワファールの写真展がポンピドゥーセンター地下にオープンしたばかりのギャラリーで開かれていた。何気ない日常のパリの路上風景を撮影したものだが、不思議とそれがシュルレアリスムの超現実感覚とつながっている。ボワファールはシュルレアリストの一員だったが、のちに本業の医学の世界に戻った。強力な「日常」という磁場に張りつけられている人々に社会の重力を脱し精神の浮遊を促すのがシュルレアリスムのひとつの作用ではないだろうか。有用性のある伝達可能なものではなく、見えないもの、「伝達不可能なものの役割こそが、たぐいない快楽の源泉となるのである」(『ナジャ』アンドレ・ブルトン巖谷国士訳)。『ナジャ』は、「日常」の裏側にある超現実の見えない想像力の扉を可視化する。


breton11ブルトン関係の蒐集した本、映像、レコードの一部。主にパリの古書店やレコード店で入手したものが多い。写真中央のブルトンの肖像画が描かれたガリマール社発行の小さな本は、パリ15区ブラッサンス公園内にある行きつけの古書店主がプレゼントしてくれたもの。


作成日: 2016年1月9日(土)

よるの ゆう

■夜野 悠 Yu YORUNO
通信社記者を50代前半で早期退職後、パリを中心にカナダ、ドイツ、モロッコなど海外を中心に滞在、シュルレアリスム関係を中心に稀少書や作品などを蒐集する。2015年5月に国際写真祭『KYOTO GRAPHIE』のサテライトイベント『KG+』で、モノクロの写真・映像、キューバの詩で構成した写真展『古巴(キューバ)-モノクロームの午後』を開催。同年12月には京都写真クラブ主催の『第16回京都写真展 記憶論Ⅲ』で、『北朝鮮1987-消えゆく夢幻の風景』を展示。京都市在住。

●今日のお勧め作品は、ジョゼフ・コーネルです。
20160705_cornell_01ジョゼフ・コーネル
「アンドレ・ブルトン」
1960年頃
Collage by Joseph CORNELL on the photo by Man Ray
24.6x17.9cm
サインあり

マン・レイが撮影したブルトンの肖像のうちでもっとも著名なソラリゼーションによる写真に、コーネルがブルーの水彩で縁どりを施したもの。 裏面全体もブルーに塗られ、コーネルによるサインとタイトルが記されている。


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