本日からときの忘れものは夏休みです。
ブログは年中無休で、豪華執筆陣の皆様のおかげで発信し続けますのでご愛読ください(休み前に予約投稿しなければならないので、担当の秋葉は執筆者の皆さんに早めの原稿を懇願しまくり、てんやわんやでありました)。
スタッフにとっては正味9日間の休みですが、以前は2週間ほど休みにしていました。
だんだんスタッフが増え(仕事もも増え)、毎月の企画展のほかに海外へのアートフェア出展が頻繁になるとなかなか会社を長く休むことができなくなりました。
もちろんスタッフには年休制度があるので、留守中の代打さえきめておいてくれれば、社長も亭主も長期休暇にはモロ大賛成であります。
さて亭主と社長の夏休みは、
先ずリハビリのための病院通いが二日あります。
懸案となっていた補聴器と老眼鏡の購入にも行かねばなりません。
大事なお客様への納品がひとつ入っています。
社長はたまっていた家事の片付けに二日ほどとられるでしょう。
となると9日マイナス6日=3日が純粋の夏休みでしょうか。
例年、都内某所にこもり、美術館と映画でリフレッシュするのですが、今年はその某所がなくなってしまった、どうしよう・・・・
●臨時ニュース
シンガポール在住の森迫さんという方が、先日開催された「ART STAGE JAKARTA 2016」についてアートローグというサイトにレポートを執筆されています。インドネシアのアート事情はもちろん、ときの忘れものの出品作品についても丁寧にご紹介していただきました。ぜひご一読ください。

今年の前半を振り返ると、新しいシリーズ企画として「アートブック・ラウンジ」を始めたのがちょっとした出来事でした。
もともとは広い(はずの)倉庫を埋め尽くしている書籍(ダンボール箱)のやま、ヤマ、山を何とかせねばというはなはだ不純な動機から始まった企画でした。亭主の好きなモンドリアンをデザインした特注の本棚(請求書のゼロが5つ)を仙台の職人Kさんにわざわざつくってもらい、第1回を3月に、第2回を6月に開催しました。
「第2回アートブック・ラウンジ~画廊のしごと(南画廊のカタログ)」では、いまや伝説の画廊となった志水楠男さんの南画廊が1956年から79年に開催した199回の展覧会からフォートリエ展はじめ、ヤング・セブン展、加納光於展、中西夏之展、サム・フランシス展、山口長男展、オノサト・トシノブ展、菅井汲展などのカタログを展示頒布しました。

ご来場された方のうち、上掲の本棚の一隅に小さな本が展示してあったのをお気づきになった人はいたでしょうか。

津田青楓喜寿祝賀出版とサブタイトルのある『盲亀半生記』
津田青楓(つだ せいふう、1880年9月13日 - 1978年8月31日)は京都出身の画家、書家、随筆家、歌人としても活躍しました。
本名は津田亀治郎(旧姓は西川)。
華道の去風流家元の西川一葉の息子として京都市中京区押小路に生まれます。生家はお花やさんでもありました。兄の西川一草亭が家を継ぎ、去風流家元となります。
青楓は母方の津田家の養子となります。
はじめ四条派の升川友広に日本画を師事し、1897年京都市立染織学校に入学。傍ら、谷口香嶠に日本画を師事。同校卒業後、同校の助手を務める。1899年関西美術院に入学し、浅井忠と鹿子木孟郎に日本画と洋画を師事する。1904年には兄の西川一草亭らと共に小美術会を結成。
日露戦争には衛生兵として従軍、乃木将軍指揮の旅順攻撃に加わり悲惨きわまりない激戦を体験します。
1907年から農商務省海外実業実習生として安井曾太郎と共にパリに留学し、アカデミー・ジュリアンにてジャン=ポール・ローランスに師事。アールヌーヴォーの影響を受けます。1909年に帰朝。1913年に文展を脱退し、1914年の二科会創立に参加します。
1929年京都で津田洋画塾を開き多くの若い画家たちを指導しますが、のちに友人河上肇の影響でプロレタリア運動に加わり、1931年第18回二科展に、立派に聳え立つ国会議事堂と粗末な庶民の家屋群を対比させた「ブルジョワ議会と民衆の生活」を出品しますが警察当局の圧力により「新議会」と改題させられます。

津田青楓「犠牲者」
1933年、油彩
戦前の代表作ともいうべき「犠牲者」は、1933年(昭和8年)の小説家小林多喜二(1903-1933)の虐殺に触発されて描かれたものですが、官憲のプロレタリア芸術運動への弾圧が激しさを増す中、津田自身も家宅捜索され、一時拘留されました。このとき《ブルジョア議会と民衆生活》は押収されましたが、「犠牲者」は幸いにも隠し通すことができ、いまでは東京国立近代美術館に収蔵されています。
この絵のモデルをつとめたのが津田洋画塾に学んでいたオノサト・トシノブです。
転向して二科会から脱退し、洋画から日本画に転じた青楓は良寛研究に打込みます。
目次より
(クリックしてください)
目次より
(クリックしてください)
目次より
(クリックしてください)
目次からもおわかりのように波乱の多かった半生を生き生きとした筆致で回顧しています。晩年の剛直な性格を反映した墨彩作品は、新文人画ともいうべき自由な画風で、独特の情趣を示しています。
ながながと青楓の生涯を辿りましたが、この小さな本の奥付こそが、本日の主題であります。

奥付
(クリックしてください)
発行人は当時30歳だった南画廊の志水楠男さんです。
発行年月日は志水さんが南画廊をオープンして間もない1956(昭和31年)9月7日です。
いったいどういう因縁で志水さんがこの本を刊行したのでしょうか。南画廊史である 『志水楠男と南画廊』には一言の言及もありません。
ご存知の方がいたらぜひご教示ください。
●今日のお勧めは、ともに南画廊を発表の場としたオノサト・トシノブと菅井汲です。
オノサト・トシノブ Toshinobu ONOSATO
"65-A"
1965年 リトグラフ
イメージサイズ:17.0×24.0cm
Ed.120 Signed
※レゾネ(アートスペース 1989年)No.15。レゾネにはEd.150とあるが誤記、正しくはEd.120。
オノサト・トシノブ Toshinobu ONOSATO
"65-B"
1965年 リトグラフ
30.0×40.0cm
Ed.120 Signed
※レゾネNo.16
"Silk-2"
1966年
シルクスクリーン
31.0×40.0cm
Ed.120 Signed
*レゾネNo.20
"Silk-7"
1967年
シルクスクリーン
50.2×50.2cm
Ed.150 Signed
*レゾネNo.27
"F-8"
1984年
シルクスクリーン
60.5×72.5cm
Ed.100 Signed
*レゾネNo.201
---------------------------------
菅井汲
《SIGNAL B》
1976年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
Image size: 31.3×23.0cm
Sheet size: 40.5×28.6cm
Ed.150 Signed
*レゾネNo.250(阿部出版)
菅井汲
《SIGNAL C》
1976年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
Image size: 33.0×19.0cm
Ed.150 Signed
*レゾネNo.251(阿部出版)
菅井汲
《SIGNAL D》
1976
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
Image size:
31.5×22.0cm
Ed.150 Signed
*レゾネNo.252(阿部出版)
菅井汲
《GUEST II》
1980
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
57.5×44.0cm
Ed.150 Signed
※レゾネNo299(阿部出版)
菅井汲
《GROUP 4-B》
1980
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
58.5×43.0cm
Ed.150 Signed
※レゾネNo.307(阿部出版)
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
本日から8月29日(月)までは夏休みにつき、お問合せへの返信は少々遅くなりますので、ご了承ください。
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜~土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できません。
●ときの忘れものは、ただいま夏季休廊中です(2016年8月21日[日]~8月29日[月])。
休み中のお問合せ等への返信は直ぐにはできませんので、ご了承ください。
ブログは年中無休で、豪華執筆陣の皆様のおかげで発信し続けますのでご愛読ください(休み前に予約投稿しなければならないので、担当の秋葉は執筆者の皆さんに早めの原稿を懇願しまくり、てんやわんやでありました)。
スタッフにとっては正味9日間の休みですが、以前は2週間ほど休みにしていました。
だんだんスタッフが増え(仕事もも増え)、毎月の企画展のほかに海外へのアートフェア出展が頻繁になるとなかなか会社を長く休むことができなくなりました。
もちろんスタッフには年休制度があるので、留守中の代打さえきめておいてくれれば、社長も亭主も長期休暇にはモロ大賛成であります。
さて亭主と社長の夏休みは、
先ずリハビリのための病院通いが二日あります。
懸案となっていた補聴器と老眼鏡の購入にも行かねばなりません。
大事なお客様への納品がひとつ入っています。
社長はたまっていた家事の片付けに二日ほどとられるでしょう。
となると9日マイナス6日=3日が純粋の夏休みでしょうか。
例年、都内某所にこもり、美術館と映画でリフレッシュするのですが、今年はその某所がなくなってしまった、どうしよう・・・・
●臨時ニュース
シンガポール在住の森迫さんという方が、先日開催された「ART STAGE JAKARTA 2016」についてアートローグというサイトにレポートを執筆されています。インドネシアのアート事情はもちろん、ときの忘れものの出品作品についても丁寧にご紹介していただきました。ぜひご一読ください。

今年の前半を振り返ると、新しいシリーズ企画として「アートブック・ラウンジ」を始めたのがちょっとした出来事でした。
もともとは広い(はずの)倉庫を埋め尽くしている書籍(ダンボール箱)のやま、ヤマ、山を何とかせねばというはなはだ不純な動機から始まった企画でした。亭主の好きなモンドリアンをデザインした特注の本棚(請求書のゼロが5つ)を仙台の職人Kさんにわざわざつくってもらい、第1回を3月に、第2回を6月に開催しました。
「第2回アートブック・ラウンジ~画廊のしごと(南画廊のカタログ)」では、いまや伝説の画廊となった志水楠男さんの南画廊が1956年から79年に開催した199回の展覧会からフォートリエ展はじめ、ヤング・セブン展、加納光於展、中西夏之展、サム・フランシス展、山口長男展、オノサト・トシノブ展、菅井汲展などのカタログを展示頒布しました。

ご来場された方のうち、上掲の本棚の一隅に小さな本が展示してあったのをお気づきになった人はいたでしょうか。

津田青楓喜寿祝賀出版とサブタイトルのある『盲亀半生記』
津田青楓(つだ せいふう、1880年9月13日 - 1978年8月31日)は京都出身の画家、書家、随筆家、歌人としても活躍しました。
本名は津田亀治郎(旧姓は西川)。
華道の去風流家元の西川一葉の息子として京都市中京区押小路に生まれます。生家はお花やさんでもありました。兄の西川一草亭が家を継ぎ、去風流家元となります。
青楓は母方の津田家の養子となります。
はじめ四条派の升川友広に日本画を師事し、1897年京都市立染織学校に入学。傍ら、谷口香嶠に日本画を師事。同校卒業後、同校の助手を務める。1899年関西美術院に入学し、浅井忠と鹿子木孟郎に日本画と洋画を師事する。1904年には兄の西川一草亭らと共に小美術会を結成。
日露戦争には衛生兵として従軍、乃木将軍指揮の旅順攻撃に加わり悲惨きわまりない激戦を体験します。
1907年から農商務省海外実業実習生として安井曾太郎と共にパリに留学し、アカデミー・ジュリアンにてジャン=ポール・ローランスに師事。アールヌーヴォーの影響を受けます。1909年に帰朝。1913年に文展を脱退し、1914年の二科会創立に参加します。
1929年京都で津田洋画塾を開き多くの若い画家たちを指導しますが、のちに友人河上肇の影響でプロレタリア運動に加わり、1931年第18回二科展に、立派に聳え立つ国会議事堂と粗末な庶民の家屋群を対比させた「ブルジョワ議会と民衆の生活」を出品しますが警察当局の圧力により「新議会」と改題させられます。

津田青楓「犠牲者」
1933年、油彩
戦前の代表作ともいうべき「犠牲者」は、1933年(昭和8年)の小説家小林多喜二(1903-1933)の虐殺に触発されて描かれたものですが、官憲のプロレタリア芸術運動への弾圧が激しさを増す中、津田自身も家宅捜索され、一時拘留されました。このとき《ブルジョア議会と民衆生活》は押収されましたが、「犠牲者」は幸いにも隠し通すことができ、いまでは東京国立近代美術館に収蔵されています。
この絵のモデルをつとめたのが津田洋画塾に学んでいたオノサト・トシノブです。
転向して二科会から脱退し、洋画から日本画に転じた青楓は良寛研究に打込みます。
目次より(クリックしてください)
目次より(クリックしてください)
目次より(クリックしてください)
目次からもおわかりのように波乱の多かった半生を生き生きとした筆致で回顧しています。晩年の剛直な性格を反映した墨彩作品は、新文人画ともいうべき自由な画風で、独特の情趣を示しています。
ながながと青楓の生涯を辿りましたが、この小さな本の奥付こそが、本日の主題であります。

奥付
(クリックしてください)
発行人は当時30歳だった南画廊の志水楠男さんです。
発行年月日は志水さんが南画廊をオープンして間もない1956(昭和31年)9月7日です。
いったいどういう因縁で志水さんがこの本を刊行したのでしょうか。南画廊史である 『志水楠男と南画廊』には一言の言及もありません。
ご存知の方がいたらぜひご教示ください。
●今日のお勧めは、ともに南画廊を発表の場としたオノサト・トシノブと菅井汲です。
オノサト・トシノブ Toshinobu ONOSATO"65-A"
1965年 リトグラフ
イメージサイズ:17.0×24.0cm
Ed.120 Signed
※レゾネ(アートスペース 1989年)No.15。レゾネにはEd.150とあるが誤記、正しくはEd.120。
オノサト・トシノブ Toshinobu ONOSATO"65-B"
1965年 リトグラフ
30.0×40.0cm
Ed.120 Signed
※レゾネNo.16
"Silk-2"1966年
シルクスクリーン
31.0×40.0cm
Ed.120 Signed
*レゾネNo.20
"Silk-7"1967年
シルクスクリーン
50.2×50.2cm
Ed.150 Signed
*レゾネNo.27
"F-8"1984年
シルクスクリーン
60.5×72.5cm
Ed.100 Signed
*レゾネNo.201
---------------------------------
菅井汲《SIGNAL B》
1976年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
Image size: 31.3×23.0cm
Sheet size: 40.5×28.6cm
Ed.150 Signed
*レゾネNo.250(阿部出版)
菅井汲《SIGNAL C》
1976年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
Image size: 33.0×19.0cm
Ed.150 Signed
*レゾネNo.251(阿部出版)
菅井汲《SIGNAL D》
1976
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
Image size:
31.5×22.0cm
Ed.150 Signed
*レゾネNo.252(阿部出版)
菅井汲《GUEST II》
1980
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
57.5×44.0cm
Ed.150 Signed
※レゾネNo299(阿部出版)
菅井汲《GROUP 4-B》
1980
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
58.5×43.0cm
Ed.150 Signed
※レゾネNo.307(阿部出版)
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
本日から8月29日(月)までは夏休みにつき、お問合せへの返信は少々遅くなりますので、ご了承ください。
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜~土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できません。
●ときの忘れものは、ただいま夏季休廊中です(2016年8月21日[日]~8月29日[月])。
休み中のお問合せ等への返信は直ぐにはできませんので、ご了承ください。
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