リレー連載
建築家のドローイング 第10回
ヘルマン・フィンステルリン(Hermann Finsterlin)〔1887-1973〕
八束はじめ
ドイツにおける表現主義建築の運動は、第一次大戦後の絶望と混迷、更にその裏返しとしての強い再建への希望のもとに、一つの精神革命を志向した共同体としての体裁をとるに至った。もちろんこの熱病は間もなく引き去っていき、幾人かの残存者を残してもっと冷厳な合理主義の波にのみこまれていったのだが。この短期間の運動を主導したのはブルーノ・タウトに率いられた「芸術労働評議会」である。強いユートピア主義的色彩に染っていたこのグループは1919年にベルリンで「無名建築家」展を開催した。無名建築家ばかりでなく、建築への門外漢である美術家やはては素人までもが参加を呼びかけられた。混迷の中ではプロフェッショナルな技術の蓄積は問題にならず、ヴィジョンだけが肝要であった。参加作品の質は、当然のことながら一定の水準を示すものではなかったが、その中でとりわけ異彩を放ったのだがヘルマン・フィンステルリンの玩具とも彫刻とも建築ともつかぬ奇妙な有機的フォルムを示すドローイングであった。生物形態的なアナロジーは表現主義者の造形には多かれ少なかれ見られるものだったし、それに先行するアール・ヌーボーの主導的モチーフの一つ(といってもこの場合は植物的なモチーフが優勢だったが)であったから、必ずしもフィンステルリンの専売特許というわけではない。しかし彼の造形の特異さは一目でそれと知れる類のものであった。彼は500枚を超すドローイングを残したが、それらは様々なプログラム(例えば湖畔のヴィラ、衛生博物館といった)を与えられ、どれをとっても同じ形をしたものはなかったが、にも拘らず、どれをとっても同じ手になるものであることが歴然としていたのである。
フィンステルリンはプロの建築家ではなかった。医学、物理、化学を学び、次いで哲学と画の修業を行ったが、建築のトレーニングは受けていないし、実際にそのドローイングが建設されることはなかった。文字通り、机上の空想に留まったわけだ。他の同志たちが表現主義のロマン的な恣意性を捨て、合理主義に転じた後もフィンステルリンはそれに同乗することなく、20年代の半ばからは建築から身を引き、50年後に没するまで画と著述に専念した。73年に彼の死亡記事が新聞に載った時、建築の世界から見れば半世紀も前に過去の人となった人物がそれまで生きていたという事実に奇妙な衡撃を受けたことを筆者は未だに覚えている。

ヘルマン・フィンステルリン Hermann Finsterlin
「湖畔の別荘」
フィンステルリンが転身を行わなかった理由の一つが彼がプロフェッショナルなトレーニングを受けていなかったことにあるのは疑いを容れない。合理主義建築は近代技術から導かれた造形を第一にしたからである。しかし、それが決定的な理由とはいえない。信頼のおける協力者さえ介在すれば、例えばデオ・ファン・デースブルクのような美術家が実作をつくっている例はあるし、家具デザイナーであったリートフェルトは近代建築史上のメルクマールとなったシュレーダー邸を建て、以後プロの建築家として身を立てている。そもそも近代合理主義建築自体が、いわれるほどに高度なテクノロジーを駆使したものであったかも疑ってみる余地がある。フィンステルリンの造形的傾向(趣味)が合理主義のザッハリヒなそれと合致しなかったからという理由はもとより真実であろう。彼は後に人類が「プロメテウスの熱帯よりはミース・ファン・デル・ローエの砂漠を選んだ」ことを遺憾とする、という発言を行っている。プロメテウスは表現主義者の「ガラスの鎖」グループにおける彼自身の偽名(このグループは各々が偽名で名のることを旨としていた。)である。しかし、それは単なる恣意的な造形上の好みにとどまるものでなかった。他の建築家たちの転身の理由は、合理主義が「時代精神」を具現化するものだという信念に求められるが、フィンステルリンには、このテクノロジーに主導された進歩主義的なモダニズムのイデオロギーに対抗する思想があった。それはフォルムの自律的な発展、進化の途の上に自らの造形を位置づけるという思想で、ことばをかえていえば建築形態のダーウィニズムとでもいうべきものである。若い頃に医学を学んだフィンステルリンは建築におけるダーウィンをもって自認したのである。

ヘルマン・フィンステルリン Hermann Finsterlin
「博物館」
「ものの形態のABC、および形態の三重性の控えめな結合は、今日に至る迄、人間の建築の、不明確な語彙であった。」原形、つまり球の三つの同素的体状態とは、次の通りだ―球は、円錐形をめざして動いていく、そして絶えることなく棒状へと進み、ついには頂点や稜の多面体の抵抗作用があらわれることになる。こうした原形の二、三の特性は、融合したり、浸透したり、あるいは分かれたりしながら、互いに形態の雌雄が結び合って最初の雑種をつくりだした。だがこの雑種は、数千年を通じて不毛であつた。多種多様な、常に豊かに分かれていく立体の絶え間ない結合による〈形態自体〉の無限の変種への決意がなされなかったのだ。建築は、今日に至るまで、形態の崩壊であった。」「カサ・ノーヴァ」(新しい家)と題された1924年の論文でフィンステルリンはこう書いている。建築形態の「種の淘汰」をめざすフィンステルリン。彼はまたこうも書く。「不十分なものと満ちたりたものとが、すべてふるい分けられていくように、汝らのふるいをその最高の意志に合わせて調節せよ、それらは受胎にむくいるものではないのだ。汝ら、立体を知るものよ、球と面とで満足するな。それは人間の遺産に対する忘恩というものだ。」
フィンステルリンの建築のドローイングがそれが置かれるべき周囲のコンテクストを一切示していないのは注意しておいてよいかもしれない。表現主義は本質的に都市的な芸術現象である。それへの反発が強い田園志向として結晶しているとしても、それは両義的なものであった。だが。フィンステルリンの場合は、周囲は都市どころか田園ですらない。むしろ建物と地盤との境界すら定かではない。土地の形すら芸術的なファンタジーの領域に編入されている。「カーサ・ノヴァ・テラ・ノヴァ」(新しい家、新しい大地)。それはあたかも遊星の上に築かれた異星人の住み家のようですらある。
フィンステルリンの造形は彼の活躍した時代の技術に合致するものではなかった。しかし、その後の技術、空気膜構造やシェル構造などの発展からすれば、それらは将来とも実現不可能な形態ではなくなりつつある。実際、ミュンヘン・オリンピックのスタジアムの屋根などで特異な形態の追求を合理的に行っているフライ・オットーはデザイナーではなく構造技術者である。それはまだフィンステルリンのイメージには追いついていないが、時代は再び彼のものとなるかもしれない。それは本当に異星の上につくられることになるかもしれないのだ。「カーサ・ノヴァ」の最後に彼はこう書いている。「この世のものとも思われぬこの建築について、その技術上の可能性、この世の手段をお尋ねになるのですか?意欲のあるところ、そこには道があるのです。」

ヘルマン・フィンステルリン Hermann Finsterlin
「科学技術高等学校」

ヘルマン・フィンステルリン Hermann Finsterlin
「アトリエ」
(やつか はじめ)
*現代版画センター 発行『PRINT COMMUNICATION No.99』(1983年12月1日発行)より再録
*作品画像は下記より転載
「湖畔の別荘」
http://www.flickriver.com/photos/quadralectics/8279863197/
「博物館」
現代版画センター 発行『PRINT COMMUNICATION No.99』より
「科学技術高等学校」
http://lizgroth.tumblr.com/post/58177497632/archiveofaffinities-hermann-finsterlin-glass
「アトリエ」
https://www.flickr.com/photos/quadralectics/82798626
■八束 はじめ Hajime Yatsuka
建築家・建築批評家
1948年山形県生れ。72年東京大学工学部都市工学科卒業、78年同博士課程中退。
磯崎新アトリエを経て、I983年(株)UPM設立。2003年から芝浦工業大学教授。2014年退職、同名誉教授。
代表作に白石市情報センターATHENS,
主要著書に『思想としての日本近代建築』。
◆八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は毎月24日の更新です。
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●今日のお勧め作品はマイケル・グレイヴスです。

1989
紙に鉛筆、色鉛筆
Image size:13.0x81.0cm
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建築家のドローイング 第10回
ヘルマン・フィンステルリン(Hermann Finsterlin)〔1887-1973〕
八束はじめ
ドイツにおける表現主義建築の運動は、第一次大戦後の絶望と混迷、更にその裏返しとしての強い再建への希望のもとに、一つの精神革命を志向した共同体としての体裁をとるに至った。もちろんこの熱病は間もなく引き去っていき、幾人かの残存者を残してもっと冷厳な合理主義の波にのみこまれていったのだが。この短期間の運動を主導したのはブルーノ・タウトに率いられた「芸術労働評議会」である。強いユートピア主義的色彩に染っていたこのグループは1919年にベルリンで「無名建築家」展を開催した。無名建築家ばかりでなく、建築への門外漢である美術家やはては素人までもが参加を呼びかけられた。混迷の中ではプロフェッショナルな技術の蓄積は問題にならず、ヴィジョンだけが肝要であった。参加作品の質は、当然のことながら一定の水準を示すものではなかったが、その中でとりわけ異彩を放ったのだがヘルマン・フィンステルリンの玩具とも彫刻とも建築ともつかぬ奇妙な有機的フォルムを示すドローイングであった。生物形態的なアナロジーは表現主義者の造形には多かれ少なかれ見られるものだったし、それに先行するアール・ヌーボーの主導的モチーフの一つ(といってもこの場合は植物的なモチーフが優勢だったが)であったから、必ずしもフィンステルリンの専売特許というわけではない。しかし彼の造形の特異さは一目でそれと知れる類のものであった。彼は500枚を超すドローイングを残したが、それらは様々なプログラム(例えば湖畔のヴィラ、衛生博物館といった)を与えられ、どれをとっても同じ形をしたものはなかったが、にも拘らず、どれをとっても同じ手になるものであることが歴然としていたのである。
フィンステルリンはプロの建築家ではなかった。医学、物理、化学を学び、次いで哲学と画の修業を行ったが、建築のトレーニングは受けていないし、実際にそのドローイングが建設されることはなかった。文字通り、机上の空想に留まったわけだ。他の同志たちが表現主義のロマン的な恣意性を捨て、合理主義に転じた後もフィンステルリンはそれに同乗することなく、20年代の半ばからは建築から身を引き、50年後に没するまで画と著述に専念した。73年に彼の死亡記事が新聞に載った時、建築の世界から見れば半世紀も前に過去の人となった人物がそれまで生きていたという事実に奇妙な衡撃を受けたことを筆者は未だに覚えている。

ヘルマン・フィンステルリン Hermann Finsterlin
「湖畔の別荘」
フィンステルリンが転身を行わなかった理由の一つが彼がプロフェッショナルなトレーニングを受けていなかったことにあるのは疑いを容れない。合理主義建築は近代技術から導かれた造形を第一にしたからである。しかし、それが決定的な理由とはいえない。信頼のおける協力者さえ介在すれば、例えばデオ・ファン・デースブルクのような美術家が実作をつくっている例はあるし、家具デザイナーであったリートフェルトは近代建築史上のメルクマールとなったシュレーダー邸を建て、以後プロの建築家として身を立てている。そもそも近代合理主義建築自体が、いわれるほどに高度なテクノロジーを駆使したものであったかも疑ってみる余地がある。フィンステルリンの造形的傾向(趣味)が合理主義のザッハリヒなそれと合致しなかったからという理由はもとより真実であろう。彼は後に人類が「プロメテウスの熱帯よりはミース・ファン・デル・ローエの砂漠を選んだ」ことを遺憾とする、という発言を行っている。プロメテウスは表現主義者の「ガラスの鎖」グループにおける彼自身の偽名(このグループは各々が偽名で名のることを旨としていた。)である。しかし、それは単なる恣意的な造形上の好みにとどまるものでなかった。他の建築家たちの転身の理由は、合理主義が「時代精神」を具現化するものだという信念に求められるが、フィンステルリンには、このテクノロジーに主導された進歩主義的なモダニズムのイデオロギーに対抗する思想があった。それはフォルムの自律的な発展、進化の途の上に自らの造形を位置づけるという思想で、ことばをかえていえば建築形態のダーウィニズムとでもいうべきものである。若い頃に医学を学んだフィンステルリンは建築におけるダーウィンをもって自認したのである。

ヘルマン・フィンステルリン Hermann Finsterlin
「博物館」
「ものの形態のABC、および形態の三重性の控えめな結合は、今日に至る迄、人間の建築の、不明確な語彙であった。」原形、つまり球の三つの同素的体状態とは、次の通りだ―球は、円錐形をめざして動いていく、そして絶えることなく棒状へと進み、ついには頂点や稜の多面体の抵抗作用があらわれることになる。こうした原形の二、三の特性は、融合したり、浸透したり、あるいは分かれたりしながら、互いに形態の雌雄が結び合って最初の雑種をつくりだした。だがこの雑種は、数千年を通じて不毛であつた。多種多様な、常に豊かに分かれていく立体の絶え間ない結合による〈形態自体〉の無限の変種への決意がなされなかったのだ。建築は、今日に至るまで、形態の崩壊であった。」「カサ・ノーヴァ」(新しい家)と題された1924年の論文でフィンステルリンはこう書いている。建築形態の「種の淘汰」をめざすフィンステルリン。彼はまたこうも書く。「不十分なものと満ちたりたものとが、すべてふるい分けられていくように、汝らのふるいをその最高の意志に合わせて調節せよ、それらは受胎にむくいるものではないのだ。汝ら、立体を知るものよ、球と面とで満足するな。それは人間の遺産に対する忘恩というものだ。」
フィンステルリンの建築のドローイングがそれが置かれるべき周囲のコンテクストを一切示していないのは注意しておいてよいかもしれない。表現主義は本質的に都市的な芸術現象である。それへの反発が強い田園志向として結晶しているとしても、それは両義的なものであった。だが。フィンステルリンの場合は、周囲は都市どころか田園ですらない。むしろ建物と地盤との境界すら定かではない。土地の形すら芸術的なファンタジーの領域に編入されている。「カーサ・ノヴァ・テラ・ノヴァ」(新しい家、新しい大地)。それはあたかも遊星の上に築かれた異星人の住み家のようですらある。
フィンステルリンの造形は彼の活躍した時代の技術に合致するものではなかった。しかし、その後の技術、空気膜構造やシェル構造などの発展からすれば、それらは将来とも実現不可能な形態ではなくなりつつある。実際、ミュンヘン・オリンピックのスタジアムの屋根などで特異な形態の追求を合理的に行っているフライ・オットーはデザイナーではなく構造技術者である。それはまだフィンステルリンのイメージには追いついていないが、時代は再び彼のものとなるかもしれない。それは本当に異星の上につくられることになるかもしれないのだ。「カーサ・ノヴァ」の最後に彼はこう書いている。「この世のものとも思われぬこの建築について、その技術上の可能性、この世の手段をお尋ねになるのですか?意欲のあるところ、そこには道があるのです。」

ヘルマン・フィンステルリン Hermann Finsterlin
「科学技術高等学校」

ヘルマン・フィンステルリン Hermann Finsterlin
「アトリエ」
(やつか はじめ)
*現代版画センター 発行『PRINT COMMUNICATION No.99』(1983年12月1日発行)より再録
*作品画像は下記より転載
「湖畔の別荘」
http://www.flickriver.com/photos/quadralectics/8279863197/
「博物館」
現代版画センター 発行『PRINT COMMUNICATION No.99』より
「科学技術高等学校」
http://lizgroth.tumblr.com/post/58177497632/archiveofaffinities-hermann-finsterlin-glass
「アトリエ」
https://www.flickr.com/photos/quadralectics/82798626
■八束 はじめ Hajime Yatsuka
建築家・建築批評家
1948年山形県生れ。72年東京大学工学部都市工学科卒業、78年同博士課程中退。
磯崎新アトリエを経て、I983年(株)UPM設立。2003年から芝浦工業大学教授。2014年退職、同名誉教授。
代表作に白石市情報センターATHENS,
主要著書に『思想としての日本近代建築』。
◆八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は毎月24日の更新です。
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●今日のお勧め作品はマイケル・グレイヴスです。

1989
紙に鉛筆、色鉛筆
Image size:13.0x81.0cm
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