リレー連載
建築家のドローイング 第13回
イワン・レオニドフ(Ivan Leonidov)〔1902-1959〕
八束はじめ
20世紀のアヴァンギャルド芸術は政治、思想上のアヴァンギャルドとの両義的な結びつきをその大きな特徴としている。新しい芸術言語の獲得が、新しい社会空間への熱望と重ったというわけだが、こうした特質が建築というジャンルにある特権性を与えた。このことは芸術言語の最も透徹した革新者であったピエト・モンドリアンやカシミール・マレヴィッチらが建築に対して抱いていた感情によっても証し立てられるのだが、その意味で革命ロシアの建築とはアヴァンギャルド運動全体の精華たるべき位置を担っていた。しかし建築は、絵画や音楽とは違って、その実現に社会的、経済的及び技術的な制約が課せられる。最初のものは熟しすぎていたとすらいえるが、後二者はそれに反して革命後のソヴィエト=ロシアには充分備っていたとはいい難いものであった。無論ソヴィエト=アヴァンギャルド建築にも少ないとはいっても全体を合計すればかなりの数にのぼる実現例をさがすことはできる。しかし、傑出した作品もあるにせよ、そのうちのすべてが成功作とはいえないし、前述の制約から充分な効果を挙げているとはいえないものも少なくはない。多くのイマジネーションは――この時代のロシアにはきら星の如く才能が輩出したのだった――紙の上にとどまらざるを得なかったのである。構成主義に代表されるロシア・アヴァンギャルド建築は、そうした理由もあって、夥しい数のドローイングを産み出した。質、量共に圧倒的なものであるといってよい。彼らのスタイルは、西欧の新建築と基本的には同じ途を辿るものではあったが、幾何学的なモンタージュによるよりダイナミックな機械の隠喩性が強い。ドローイングもそうした修辞的な特性に呼応して、大胆に面のコントラストを強調したロシア的迫力に満ちたものが多い。革命の熱気とプロレタリアートを主役とする機械文明へのロマンティックな期待感がそこには漲っている、といってもよいだろう。
イワン・レオニドフ Ivan Leonidov
「重工業省計画」
しかし、これらのアヴァンギャルドたちの多士済々の中でもとりわけ異彩を放つ人物がいた。1902年生れの若いレオニドフである。彼は師匠格のヴェスニン兄弟や構成主義の理論的指導者であったギンズブルグらとは違って、革命後にその建築教育を受けた世代に属する。彼はドイツのバウハウスに相当するモダニズムの拠点、高等芸術技術学院(Vchutemas)でトレーニングを受けた。前述のヴェスニン兄弟の他に、構成主義とは一線を画すもう一つのアヴァンギャルドの潮流フォルマリストたちの領袖ラドフスキーもまた彼の教師の一人であった。彼は構成主義/フォルマリスト両派の特質を新たな言語の統一へと導くロシア・アヴァンギャルドの文字通り希望の星であった。彼の才能が喧伝されたのは、その卒業制作レーニン研究所計画(1927年)である。モスクワ市街を見おろす丘上に想定されたこの建築群の計画において、レオニドフはそれまでの構成主義者たちのスタイルとは全く違った独創的スタイルを呈示した。各々の機能によって分節された建築群は、一つ一つが極めて簡略化された幾何学的なエレメントにまで還元されている。そこには大きなオーディトリウムを内包する球形の建物が宙に浮かぶかの如き状態で設置されるという驚くべきヴィジョンまでもが示されていた。機械の隠喩やダイナミッタだがやや過多ぎみでもある構成主義特有の分節癖はそこではもはやマレヴィッチのシュプレマティズム的な「至高の言語」に場所を譲っている。マレヴィッチ自身が建築デザイン(といっても抽象的なプログラムの)に手を染めた作品がむしろアール・デコ的な装飾に近いものになっていったのに比べても、レオニドフの厳格な言語構成は全く新しいものであった。師のヴェスニンがこの計画案の模型を、讃嘆のあまり自宅にもち帰ってしまったというエピソードもうなずけるデザインである。このスタイル上での革新性はまたドローイングのスタイルの上でも共通している。レオニドフのドローイングでは、一切のディテールやテクスチャーや陰影は省略され、最も本質的な輪郭のみに限定されてしまっている。彼が好んで用いる白黒反転の手法はそれをより強調している。そこではもはやドローイングのメチエ的な要素、手の痕跡もまた一掃されているのだが、にも拘らず全体としてのスタイルは全く個性的である。
イワン・レオニドフ Ivan Leonidov
「文化宮殿計画」


レオニドフはこの独自のスタイルを建築から更に都市のスケールにまで展開した。彼の20年代後半のプロジェクトは、無限に延伸していくロシアの大地の上に展開される至高のオブジェの構成として示される。それは都市と田園との対立を超えた新しい地平のイメージを具体的に示すものであり、ピラミッドのような古代の言語と飛行船に代表される最新鋭のテクノロジーのイメージとが、あらゆる対立の彼岸のうちで融解していた。
レオニドフのスタイルが建築のスタイルなのかドローイングのそれなのか殆んど見分けがつかないものであったという事実が、技術、経済性と並んで、彼のプロジェクトの実現性をあやぶませるものであったことは否定できない。しかし彼は短いその実質的なキャリアの最後期に、実際の建物のデザイナーとしても比類のない天才であることを呈示してみせた。重工業省のコンペ応募案がそれである。ここでも基本的なコンポジションはそれまでと同様にシュプレマテイスト的であり、その幾つかのタワーのシルエットは隣接するクレムリンの聖ワシリー寺院と著しい対照を示してはいるのだが、これまでのプロジェクトとは違って建築的な細部が克明に画きこまれている。おそらくは、実現性をめぐって既に声高く叫ばれていた彼への批判に対する答として提出されたこの計画は、モダユテイと口シア的なイコン性との異様な結合を示している。それをモダンでないということは誰にもできはしないが、ただモダンであるとだけいうこともできない。一切が比類のない造型力のうちに昂進されてしまっている。そのドローイングもそれまでの線描主義とは当然違っているが極めて美しく構図化され、淡い彩色が付され、彼のドラフトマンとしてのメチエの高さを示している。
この時代の寵児の不運はあまりに遅くかあまりに早くかに生まれすぎたことであった。その独創的なプロジェクトを実現する機会を殆んどもたぬまま、レオニドフの名はスターリン独裁下の建築分野での覇権をめざす者たちの第一の標的となった。構成主義とフォルマリズムの統合としての彼のスタイルは、その悪しき部分の統合であると烙印を押された。レオニドフのキャリアは実質的に10年にも満たず、彼はその人生の残りをアルコールに溺れることで過した。時折描かれるスケッチも、それ以上のまとまった形への展開は許されなかった。道路を隔てた酒屋へ運ぶ定まらぬ足元と一台の車の不幸な出会いが、この天才の満たされぬ後半生を断ち切った。その損失の大きさに気づいた者は、当時誰もいなかったはずである。
イワン・レオニドフ Ivan Leonidov
「レーニン図書館計画」
(やつか はじめ)
*現代版画センター 発行『Ed 第103号』(1984年9月1日発行)より再録
*作品画像は下記より転載
「重工業省計画」
http://lost-vanguard.livejournal.com/3267.html
「文化宮殿計画」
https://www.google.co.jp/url?sa=i&rct=j&q=&esrc=s&source=images&cd=&ved=0ahUKEwjpkvfT-8fPAhUDmJQKHSOACrMQjhwIBQ&url=http%3A%2F%2Fdavidhannafordmitchell.tumblr.com%2Fpost%2F97467492123%2Fivan-leonidov-kulturpalast-moskau&psig=AFQjCNG60YbEi2_Td9OE9stvK_xiaUVPXQ&ust=1475904678699173
「レーニン図書館計画」
現代版画センター 発行『Ed 第103号』
■八束 はじめ Hajime Yatsuka
建築家・建築批評家
1948年山形県生れ。72年東京大学工学部都市工学科卒業、78年同博士課程中退。
磯崎新アトリエを経て、I983年(株)UPM設立。2003年から芝浦工業大学教授。2014年退職、同名誉教授。
代表作に白石市情報センターATHENS,
主要著書に『思想としての日本近代建築』。
●本日のお勧め作品は、内間安瑆の珍しい銅版と木版の併用作品です。
内間安瑆
《WINDOW NUANCE (ROSE)》
1978年
銅版+木版
イメージサイズ:30.0×22.0cm
シートサイズ:37.5×28.5cm
A.P. サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●本日の瑛九情報!
待望の<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日~2017年2月12日)。瑛九命の亭主としては大宣伝して顕彰に少しでもお役に立ちたい。会期終了まで瑛九情報を毎日発信したいと思います。
国立近代美術館が瑛九単独の回顧展を開くのは今回が初めてですが、瑛九が死去した1960年3月10日から僅か2ヶ月にも満たない4月28日から急遽瑛九回顧の展示を敢行したのが今泉篤男率いる国立近代美術館でした。

「四人の作家」展目録
会期:1960年4月28日―6月5日
国立近代美術館
出展作家:菱田春草、瑛九、上阪雅人、高村光太郎
*没後直後のドキュメントをお読みください。
◆八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は毎月24日の更新です。
建築家のドローイング 第13回
イワン・レオニドフ(Ivan Leonidov)〔1902-1959〕
八束はじめ
20世紀のアヴァンギャルド芸術は政治、思想上のアヴァンギャルドとの両義的な結びつきをその大きな特徴としている。新しい芸術言語の獲得が、新しい社会空間への熱望と重ったというわけだが、こうした特質が建築というジャンルにある特権性を与えた。このことは芸術言語の最も透徹した革新者であったピエト・モンドリアンやカシミール・マレヴィッチらが建築に対して抱いていた感情によっても証し立てられるのだが、その意味で革命ロシアの建築とはアヴァンギャルド運動全体の精華たるべき位置を担っていた。しかし建築は、絵画や音楽とは違って、その実現に社会的、経済的及び技術的な制約が課せられる。最初のものは熟しすぎていたとすらいえるが、後二者はそれに反して革命後のソヴィエト=ロシアには充分備っていたとはいい難いものであった。無論ソヴィエト=アヴァンギャルド建築にも少ないとはいっても全体を合計すればかなりの数にのぼる実現例をさがすことはできる。しかし、傑出した作品もあるにせよ、そのうちのすべてが成功作とはいえないし、前述の制約から充分な効果を挙げているとはいえないものも少なくはない。多くのイマジネーションは――この時代のロシアにはきら星の如く才能が輩出したのだった――紙の上にとどまらざるを得なかったのである。構成主義に代表されるロシア・アヴァンギャルド建築は、そうした理由もあって、夥しい数のドローイングを産み出した。質、量共に圧倒的なものであるといってよい。彼らのスタイルは、西欧の新建築と基本的には同じ途を辿るものではあったが、幾何学的なモンタージュによるよりダイナミックな機械の隠喩性が強い。ドローイングもそうした修辞的な特性に呼応して、大胆に面のコントラストを強調したロシア的迫力に満ちたものが多い。革命の熱気とプロレタリアートを主役とする機械文明へのロマンティックな期待感がそこには漲っている、といってもよいだろう。
イワン・レオニドフ Ivan Leonidov「重工業省計画」
しかし、これらのアヴァンギャルドたちの多士済々の中でもとりわけ異彩を放つ人物がいた。1902年生れの若いレオニドフである。彼は師匠格のヴェスニン兄弟や構成主義の理論的指導者であったギンズブルグらとは違って、革命後にその建築教育を受けた世代に属する。彼はドイツのバウハウスに相当するモダニズムの拠点、高等芸術技術学院(Vchutemas)でトレーニングを受けた。前述のヴェスニン兄弟の他に、構成主義とは一線を画すもう一つのアヴァンギャルドの潮流フォルマリストたちの領袖ラドフスキーもまた彼の教師の一人であった。彼は構成主義/フォルマリスト両派の特質を新たな言語の統一へと導くロシア・アヴァンギャルドの文字通り希望の星であった。彼の才能が喧伝されたのは、その卒業制作レーニン研究所計画(1927年)である。モスクワ市街を見おろす丘上に想定されたこの建築群の計画において、レオニドフはそれまでの構成主義者たちのスタイルとは全く違った独創的スタイルを呈示した。各々の機能によって分節された建築群は、一つ一つが極めて簡略化された幾何学的なエレメントにまで還元されている。そこには大きなオーディトリウムを内包する球形の建物が宙に浮かぶかの如き状態で設置されるという驚くべきヴィジョンまでもが示されていた。機械の隠喩やダイナミッタだがやや過多ぎみでもある構成主義特有の分節癖はそこではもはやマレヴィッチのシュプレマティズム的な「至高の言語」に場所を譲っている。マレヴィッチ自身が建築デザイン(といっても抽象的なプログラムの)に手を染めた作品がむしろアール・デコ的な装飾に近いものになっていったのに比べても、レオニドフの厳格な言語構成は全く新しいものであった。師のヴェスニンがこの計画案の模型を、讃嘆のあまり自宅にもち帰ってしまったというエピソードもうなずけるデザインである。このスタイル上での革新性はまたドローイングのスタイルの上でも共通している。レオニドフのドローイングでは、一切のディテールやテクスチャーや陰影は省略され、最も本質的な輪郭のみに限定されてしまっている。彼が好んで用いる白黒反転の手法はそれをより強調している。そこではもはやドローイングのメチエ的な要素、手の痕跡もまた一掃されているのだが、にも拘らず全体としてのスタイルは全く個性的である。
イワン・レオニドフ Ivan Leonidov「文化宮殿計画」


レオニドフはこの独自のスタイルを建築から更に都市のスケールにまで展開した。彼の20年代後半のプロジェクトは、無限に延伸していくロシアの大地の上に展開される至高のオブジェの構成として示される。それは都市と田園との対立を超えた新しい地平のイメージを具体的に示すものであり、ピラミッドのような古代の言語と飛行船に代表される最新鋭のテクノロジーのイメージとが、あらゆる対立の彼岸のうちで融解していた。
レオニドフのスタイルが建築のスタイルなのかドローイングのそれなのか殆んど見分けがつかないものであったという事実が、技術、経済性と並んで、彼のプロジェクトの実現性をあやぶませるものであったことは否定できない。しかし彼は短いその実質的なキャリアの最後期に、実際の建物のデザイナーとしても比類のない天才であることを呈示してみせた。重工業省のコンペ応募案がそれである。ここでも基本的なコンポジションはそれまでと同様にシュプレマテイスト的であり、その幾つかのタワーのシルエットは隣接するクレムリンの聖ワシリー寺院と著しい対照を示してはいるのだが、これまでのプロジェクトとは違って建築的な細部が克明に画きこまれている。おそらくは、実現性をめぐって既に声高く叫ばれていた彼への批判に対する答として提出されたこの計画は、モダユテイと口シア的なイコン性との異様な結合を示している。それをモダンでないということは誰にもできはしないが、ただモダンであるとだけいうこともできない。一切が比類のない造型力のうちに昂進されてしまっている。そのドローイングもそれまでの線描主義とは当然違っているが極めて美しく構図化され、淡い彩色が付され、彼のドラフトマンとしてのメチエの高さを示している。
この時代の寵児の不運はあまりに遅くかあまりに早くかに生まれすぎたことであった。その独創的なプロジェクトを実現する機会を殆んどもたぬまま、レオニドフの名はスターリン独裁下の建築分野での覇権をめざす者たちの第一の標的となった。構成主義とフォルマリズムの統合としての彼のスタイルは、その悪しき部分の統合であると烙印を押された。レオニドフのキャリアは実質的に10年にも満たず、彼はその人生の残りをアルコールに溺れることで過した。時折描かれるスケッチも、それ以上のまとまった形への展開は許されなかった。道路を隔てた酒屋へ運ぶ定まらぬ足元と一台の車の不幸な出会いが、この天才の満たされぬ後半生を断ち切った。その損失の大きさに気づいた者は、当時誰もいなかったはずである。
イワン・レオニドフ Ivan Leonidov「レーニン図書館計画」
(やつか はじめ)
*現代版画センター 発行『Ed 第103号』(1984年9月1日発行)より再録
*作品画像は下記より転載
「重工業省計画」
http://lost-vanguard.livejournal.com/3267.html
「文化宮殿計画」
https://www.google.co.jp/url?sa=i&rct=j&q=&esrc=s&source=images&cd=&ved=0ahUKEwjpkvfT-8fPAhUDmJQKHSOACrMQjhwIBQ&url=http%3A%2F%2Fdavidhannafordmitchell.tumblr.com%2Fpost%2F97467492123%2Fivan-leonidov-kulturpalast-moskau&psig=AFQjCNG60YbEi2_Td9OE9stvK_xiaUVPXQ&ust=1475904678699173
「レーニン図書館計画」
現代版画センター 発行『Ed 第103号』
■八束 はじめ Hajime Yatsuka
建築家・建築批評家
1948年山形県生れ。72年東京大学工学部都市工学科卒業、78年同博士課程中退。
磯崎新アトリエを経て、I983年(株)UPM設立。2003年から芝浦工業大学教授。2014年退職、同名誉教授。
代表作に白石市情報センターATHENS,
主要著書に『思想としての日本近代建築』。
●本日のお勧め作品は、内間安瑆の珍しい銅版と木版の併用作品です。
内間安瑆《WINDOW NUANCE (ROSE)》
1978年
銅版+木版
イメージサイズ:30.0×22.0cm
シートサイズ:37.5×28.5cm
A.P. サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●本日の瑛九情報!
待望の<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日~2017年2月12日)。瑛九命の亭主としては大宣伝して顕彰に少しでもお役に立ちたい。会期終了まで瑛九情報を毎日発信したいと思います。
国立近代美術館が瑛九単独の回顧展を開くのは今回が初めてですが、瑛九が死去した1960年3月10日から僅か2ヶ月にも満たない4月28日から急遽瑛九回顧の展示を敢行したのが今泉篤男率いる国立近代美術館でした。

「四人の作家」展目録
会期:1960年4月28日―6月5日
国立近代美術館
出展作家:菱田春草、瑛九、上阪雅人、高村光太郎
*没後直後のドキュメントをお読みください。
◆八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は毎月24日の更新です。
コメント