普後均のエッセイ「写真という海」第6回

『見る人』

 車を運転する時、交通標識の指示に従う。運転する人は、それぞれの標識が意味するところを知っている。そうでなければ、免許証を取得できなかっただろうから。シンプルな意味を持つ標識のようなものは、人によって違う解釈をすることはない。
 写真は伝えにくいメディアだという思いから出発している僕にとって、それがどうしてなのかそして見るということがどういうことなのかずっと考えてきた。その過程のなかでまとめたのが『見る人』である。
 『見る人』は『滝を見る人』と『都市を見る人』の二つシリーズで構成している。『滝を見る人』はナイアガラの滝と華厳の滝を見る人の後ろ姿を撮った写真を2枚一組にして23組、『都市を見る人』はニューヨークと東京を見る人の後ろ姿の写真も同じように2枚一組にして23組、合わせて46組の作品である。

Kegon 1-1_600Niagara 1-1_600
普後均
左)〈WATERFALL WATCHERS〉「Kegon1-1」 1994年 C-プリント Image size: 27.5x41.4cm、Sheet size: 35.0x43.0cm
右)〈WATERFALL WATCHERS〉「Niagara1-1」 1994年 C-プリント Image size: 27.5x41.4cm、Sheet size: 35.0x43.0cm

Tokyo 1-1_600New York 1-1_600
普後均
左)〈CITY WATCHERS〉「Tokyo 1-1」 2008年 C-プリント Image size: 27.5x41.4cm、Sheet size: 35.0x43.0cm
右)〈CITY WATCHERS〉「New York 1-1」 2008年 C-プリント Image size: 27.5x41.4cm、Sheet size: 35.0x43.0cm

 滝を見ることと、交通標識を見ることと同じだろうか。一つの意味を持つ標識と人によって見出す意味が違う滝では、見るという行為は同じでも全く違う状況といえる。水や滝を神聖なものとしてとらえるような文化で育ったものとそうでないものが見る滝は違う心の動きをするだろう。華厳の滝でかつて入水自殺者が多数いたことを知る人は、死者の思いと重ねて見るかもしれない。共通の文化を持つ同じ国に生まれ育ったとしても、世代や個人個人の環境の違いよっても見ることに差が生まれる。
 華厳の滝もナイアガラの滝も同じ滝の字を当てるが、それらを目の前にした時、全く違う反応をしたことを覚えている。ナイアガラの滝では、毎秒数千トンもの水が落下し、砕け弾ける音が絶え間なく響き渡る。自然の驚異を感じながら、その音に圧倒され言葉を失った状態で暫く滝を見ていた。自然にしてもある出来事にしても想像を超えるような驚愕するものに直面した時、対象がストレートに視覚や聴覚などに突き刺さり、思考が停止する。隠れていた原始的なものが呼び覚まされ、視線に纏わり付いているものが剥がれ落ちる。
 二つのシリーズで構成する予定はなかったのに、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が起きた後、ニューヨークと東京で都市を見る人を撮ることに決めた。異なる滝を見る時の感覚の落差もあれば、滝のような自然のものと人工的な都市を見ることの違いもある。住んでいる人にとっても観光で訪れた人にとってもそれぞれの思いの中で都市を見る。滝のように実体として見る対象があるのと違い、都市は人間を包み込む抽象的な空間であるが故に、その視線の先には人の数だけの都市の物語があるのかもしれない。
 『見る人』のシリーズは、全てが見ている人の後ろ姿とその場の様子を人越しに写した写真である。滝や都市を見ている人がいて、写し手の僕がその後ろにいることになり、そうやって撮られた写真を誰かが見る。このシリーズを見る時、直線上に見る人が三人並ぶ図式になる。一点一点の写真の構図は実に単純ではあるけれども、視線が層をなしている。具体的に写し手の姿は見えないにしても。
 スーパーマーケットのチラシに使われている写真に撮った人の気配は皆無である。人参は人参、大根は大根としてわかればいいのであり、交通標識に似て、意味は明確である。チラシの写真だけではなく、多くの写真は、使い古された記号の範疇で撮られたものなので、写し手の世界のことを思うようなことはほとんどないといっていい。美しいバラ、神々しい山、鮮やかな紅葉などの写真は、写し手を素通りして対象への視線のみでその先は行き止まりである。
 馴染みのある記号を使い、表層をなぞったような写真ではなく、例えば、内省的な世界を表現しようとした作品は、見る側に写真家の意図を正確に伝えるのは、かなり難しいことだ。
 見ることは視覚の構造以外の身体的要素とも文化的、制度的なものとも密接に結びついているがために、見る側に作品を読み取ってもらうには、写真家自身が一つのシリーズとしていかに構築するかを考え、全体の形を明確に提示することが必要である。
 見る側が自分自身の視点と写真家の視点を往還しつつ、写真家の思考をも写真を通してすくい取ってもらえるような作品、困難を極めるにしても、それを目指していきたいと思っている。
ふご ひとし

普後均 Hitoshi FUGO(1947-)
1947年生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業後、細江英公に師事。1973年に独立。2010年伊奈信男賞受賞。国内、海外での個展、グループ展多数。主な作品に「遊泳」「暗転」「飛ぶフライパン」「ゲームオーバー」「見る人」「KAMI/解体」「ON THE CIRCLE」(様々な写真的要素、メタファーなどを駆使しながら65点のイメージをモノクロで展開し、普後個人の世界を表現したシリーズ)他がある。
主な写真集:「FLYING FRYING PAN」(写像工房)、「ON THE CIRCLE」(赤々舎)池澤夏樹との共著に「やがてヒトに与えられた時が満ちて.......」他。パブリックコレクション:東京都写真美術館、北海道立釧路芸術館、京都近代美術館、フランス国立図書館、他。

◆ときの忘れものは2017年2月15日(水)~2月25日(土)「普後均写真展―肉体と鉄棒―」を開催します。

●本日のお勧め作品は、根岸文子です。
20170114_negishi_69_fuun_yuushi
根岸文子 「FUUN YUUSHI」
2008年、アクリル・板  130x388cm サインあり
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