芳賀言太郎のエッセイ
「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」
第26話 テンプル騎士団の拠点から赦しの門へ
マンハリンで一夜を過ごし、朝を迎える。山の朝は空気がピンと張りつめて気持ちの良いものである。登山の魅力は自分の足で登り、頂上に立つことだろうが、朝を山の上で迎えることもそれと等しく魅力的なことであると思う。山であろうが海であろうが、自然の中で日の出を享受することは人間にとって必要なことなのかもしれない。
朝日を背に受け、次の町を目指して峠を下る。
山の朝
道
岩場
いくつかの小さな村を通り過ぎ、山を下り終えるとモリナセカに着いた。この町は峠を越えた巡礼者にとってはホッと一息つけるオアシスのような場所なのだろう。7つのアーチがかかる中世の「巡礼者の橋」を渡れば村の入り口である。
日本とも関係があり、ここのアルベルゲのオーナーがかつて四国八十八カ所巡礼を行ったことなどから今は香川県の歌津町や愛媛県の愛南町と町ぐるみの交流があるようである。
モリナセカ
巡礼像
道2
ポンフェラーダはローマ時代にさかのぼる歴史と由緒のある巡礼の街である。ここには12世紀に建てられたテンプル騎士団に由来する城が残っている。
ポンフェラーダとは「鉄の橋(Pons Ferrata)」という意味であり、巡礼者の増加に伴って1082年にアストルガの司教オスムンドがそれまで木製であったシル川の橋を、この周辺で採掘される鉄を使って補強するように命じた事に由来している。今でこそ鉄の橋は珍しくないが、当時において橋は木や石でつくられることが一般的であり、鉄の橋は豪華なものであった。鉄の豊富な地域であり、なおかつ国力のある場所にしか鉄の橋をつくることができなかったことを考えると、当時のボンフェラーダがいかに栄えていたのかが想像できる。
ポンフェラーダ城は1178年にレオン国王フェルナンド2世がテンプル騎士団にこの鉱業と商業の町を守るよう防備令を出し、城を築かせたものである。その後、1312年にテンプル騎士団が解体させられるまで、ポンフェラーダ城はテンプル騎士団の拠点として機能し、巡礼者の警護を請け負っていた。
テンプル騎士団の解体後はレオン王国によって管理されたが、19世紀には石材の不足に対応するため、一部が取り壊されたりもした。しかし、近年に修復が行われ、中世当時の城が再現され、見る事ができる。城内の一部には博物館もあり、テンプル騎士団ゆかりのアイテムを見ることもできる。城内を散策することもできるため入場料を払う価値はある。
テンプル騎士団の城
入り口
サン・アンドレス教会
ポンフェラーダから先はぶどう畑が広がる道を歩いていく。ここビエルソ地方は近年、おいしいワインで注目を集めている。固有のぶどうの品種であるメンシアを用い、オリジナリティのあるワインを生み出している。このメンシアは中世にサンティアゴ・デ・コンポステーラへと向かう巡礼者によってもたらされたとも言われるが、山間という立地もあり、固有品種としては注目されてこなかった。しかし2000年代以降、新進気鋭の生産者によって注目を集め、現在では、注目を集める産地の一つとなっている。
道の途中、木から帆立貝の彫刻を彫っている青年と出会った。思い出として一つ買うことにした。この木彫りの帆立貝を見るたびにこの時の記憶を思い起こすことになるのだろう。
道3
木工職人
木から一つ一つ帆立貝を掘っている
道4
ぶどう畑
ビジャフランカ・デル・ビエルソには巡礼者にとって大切な教会がある。町の入り口にあるサンティアゴ教会は12~13世紀につくられたロマネスクの教会であるが、そこには、ここまでくればサンチャゴ・デ・コンポステーラに到達できなくても巡礼が果たされるとされた「許しの門」があるからである。その昔、巡礼が今とは異なり大変に困難であった頃、病や怪我を負い、これ以上の巡礼の継続が困難な巡礼者に対してサンティアゴ教会の赦しの門が開かれ、そこをくぐるとサンティアゴ・デ・コンポステーラにある聖ヤコブの墓を詣でたことと同等の価値のある巡礼証明書が与えられた。なぜ、それほどまでに巡礼を証明することが必要なのかということについては当時のローマ・カトリック教会の教義が大きく関係している。
聖ヤコブの祝日である7月25日が日曜日に当たる年は聖年と呼ばれ、6、5、6、11年の周期で訪れる。この年に聖ヤコブの墓を詣でると全ての罪が赦されるとされた。そのことから、多くの人々がこの聖年に当たる年に、西の果てのサンティアゴ・デ・コンポステーラを目指した。
巡礼路の整備も巡礼の装備も十分ではなく、食事も質素だった当時においては、サンティアゴ・デ・コンポステーラに辿り着くことは非常に困難であった。さらに昔は降雪量も多く、雪でセブレイロ峠を越えることができなかったり、雪解け水で巡礼路自体が閉ざされたりする事があった。巡礼路の再開を待つうちに路銀の尽きる場合もあったに違いない。そのため12世紀前半から教皇の命によって、セブレイロ峠のふもとのこの町にある赦しの門をくぐることで、サンティアゴ・デ・コンポステーラの聖ヤコブの墓を詣でた場合と同様に全ての罪が赦されるとされるようになったのである。現在では特別な時にしか開かない許しの門であるが、ロマネスクの美しいプロポーションのアーチと彫刻が見事である。
サンティアゴ教会
赦しの門
アヴェ・フェニックスはオーナーでありオスピタレロであるハト夫妻が中心となって労力と資金を提供し、巡礼者のボランティアと共につくり上げたセルフビルドのアルベルゲである。建設途中に一度火事に見舞われるという困難に直面するも、再度、力を合わせて建設を続け、その名の如く新たに蘇ったアルベルゲである。
アヴェ・フェニックス 外観
マーク
アヴェ・フェニックス 中庭から建物を望む
太陽光パネルも設置されている。
中庭
このアヴェ・フェニックスは、昔の巡礼救護所跡に建てられたものであるが、まるで小さな山小屋が利用者の増加に伴い増築を繰り返し、徐々に規模が大きくなったようなアルベルゲであり、そこここに手の痕跡が残っている。この場所で生活するために必要なものは何かということが根本にあり、それに対する答えとして、必要な部屋や機能が一つ一つ付加されていったように思う。そして、その結果として現在の姿になったのだと感じる。巡礼者のための宿をこの場所につくること、その本質がぶれることなく、日々、巡礼者と共に生活することによって必要な要素が生まれ、それが付加されていく。不要になった要素は削られて必要なものに取り代えられる。それを体現しているのがこのアヴェ・フェニックスであり、だからこそ魅力的なアルベルゲなのだろう。
洗濯物
洗い場
リビング
屋根裏
歩いた総距離1356.7km
(はが げんたろう)
■芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了
2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業
2015年 立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程所属
2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行っている。
●今日のお勧めは、靉嘔です。
靉嘔
「つる」
2002年
シルクスクリーン
22.0x16.0cm
Ed.200
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜~土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。
●本日の瑛九情報!
~~~
ときの忘れものは2011年9月に開催した「第21回瑛九展 46の光のかけら/フォトデッサン型紙」の折に、出品全46点の型紙の裏表両面を掲載した大判のポスター(限定200部、番号入り)を製作しました。
瑛九展ポスター(表)
限定200部
デザイン:DIX-HOUSE
サイズ:84.1x59.4cm(A1)
価格:1,500円(税込)
+梱包送料:1,000円
瑛九展ポスター(裏
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから)
瑛九の造語である「フォトデッサン」は、先行するマン・レイやモホリ=ナギが印画紙上に物を置き、直接光をあてて制作した「フォトグラム(レイヨグラム)」と同じ技法ですが、これに自らの進むべき道を見出した若き日の瑛九の自負をうかがわせる言葉であると言えます。マン・レイたち先行者と異なり、瑛九は自ら切り抜いた「型紙」を使って膨大な点数を制作しました。その作品群を見れば、それらが絵画性の強い独創的なものであったことは一目瞭然です。瑛九が「型紙」に使ったのは、普通の「紙」や 「セロファン」のほかに、一度は完成させたフォトデッサン(印画紙)を次の作品を作るために「型紙」として切り抜いてしまったものも多数存在します。 従来は、「フォトデッサン」の失敗作を「型紙」に転用したと言われてきましたが、ときの忘れものが入手した46点からなる「フォトデッサン型紙コレクション」の中には、きちんと瑛九自筆のサインや年記が記入されているものも少なくありません。 失敗作などではなく、完成作品を惜しげもなく、切り抜いてしまったのはどのような意図だったのでしょうか。 それら型紙に鉛筆で下書きされた線や切り抜いたラインからは、瑛九の手の痕跡が感じられます。まだ残部がありますので、どうぞお申込みください。
~~~
<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(11月22日~2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
◆芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」
第26話 テンプル騎士団の拠点から赦しの門へ
マンハリンで一夜を過ごし、朝を迎える。山の朝は空気がピンと張りつめて気持ちの良いものである。登山の魅力は自分の足で登り、頂上に立つことだろうが、朝を山の上で迎えることもそれと等しく魅力的なことであると思う。山であろうが海であろうが、自然の中で日の出を享受することは人間にとって必要なことなのかもしれない。
朝日を背に受け、次の町を目指して峠を下る。
山の朝
道
岩場いくつかの小さな村を通り過ぎ、山を下り終えるとモリナセカに着いた。この町は峠を越えた巡礼者にとってはホッと一息つけるオアシスのような場所なのだろう。7つのアーチがかかる中世の「巡礼者の橋」を渡れば村の入り口である。
日本とも関係があり、ここのアルベルゲのオーナーがかつて四国八十八カ所巡礼を行ったことなどから今は香川県の歌津町や愛媛県の愛南町と町ぐるみの交流があるようである。
モリナセカ
巡礼像
道2ポンフェラーダはローマ時代にさかのぼる歴史と由緒のある巡礼の街である。ここには12世紀に建てられたテンプル騎士団に由来する城が残っている。
ポンフェラーダとは「鉄の橋(Pons Ferrata)」という意味であり、巡礼者の増加に伴って1082年にアストルガの司教オスムンドがそれまで木製であったシル川の橋を、この周辺で採掘される鉄を使って補強するように命じた事に由来している。今でこそ鉄の橋は珍しくないが、当時において橋は木や石でつくられることが一般的であり、鉄の橋は豪華なものであった。鉄の豊富な地域であり、なおかつ国力のある場所にしか鉄の橋をつくることができなかったことを考えると、当時のボンフェラーダがいかに栄えていたのかが想像できる。
ポンフェラーダ城は1178年にレオン国王フェルナンド2世がテンプル騎士団にこの鉱業と商業の町を守るよう防備令を出し、城を築かせたものである。その後、1312年にテンプル騎士団が解体させられるまで、ポンフェラーダ城はテンプル騎士団の拠点として機能し、巡礼者の警護を請け負っていた。
テンプル騎士団の解体後はレオン王国によって管理されたが、19世紀には石材の不足に対応するため、一部が取り壊されたりもした。しかし、近年に修復が行われ、中世当時の城が再現され、見る事ができる。城内の一部には博物館もあり、テンプル騎士団ゆかりのアイテムを見ることもできる。城内を散策することもできるため入場料を払う価値はある。
テンプル騎士団の城
入り口
サン・アンドレス教会ポンフェラーダから先はぶどう畑が広がる道を歩いていく。ここビエルソ地方は近年、おいしいワインで注目を集めている。固有のぶどうの品種であるメンシアを用い、オリジナリティのあるワインを生み出している。このメンシアは中世にサンティアゴ・デ・コンポステーラへと向かう巡礼者によってもたらされたとも言われるが、山間という立地もあり、固有品種としては注目されてこなかった。しかし2000年代以降、新進気鋭の生産者によって注目を集め、現在では、注目を集める産地の一つとなっている。
道の途中、木から帆立貝の彫刻を彫っている青年と出会った。思い出として一つ買うことにした。この木彫りの帆立貝を見るたびにこの時の記憶を思い起こすことになるのだろう。
道3
木工職人木から一つ一つ帆立貝を掘っている
道4
ぶどう畑ビジャフランカ・デル・ビエルソには巡礼者にとって大切な教会がある。町の入り口にあるサンティアゴ教会は12~13世紀につくられたロマネスクの教会であるが、そこには、ここまでくればサンチャゴ・デ・コンポステーラに到達できなくても巡礼が果たされるとされた「許しの門」があるからである。その昔、巡礼が今とは異なり大変に困難であった頃、病や怪我を負い、これ以上の巡礼の継続が困難な巡礼者に対してサンティアゴ教会の赦しの門が開かれ、そこをくぐるとサンティアゴ・デ・コンポステーラにある聖ヤコブの墓を詣でたことと同等の価値のある巡礼証明書が与えられた。なぜ、それほどまでに巡礼を証明することが必要なのかということについては当時のローマ・カトリック教会の教義が大きく関係している。
聖ヤコブの祝日である7月25日が日曜日に当たる年は聖年と呼ばれ、6、5、6、11年の周期で訪れる。この年に聖ヤコブの墓を詣でると全ての罪が赦されるとされた。そのことから、多くの人々がこの聖年に当たる年に、西の果てのサンティアゴ・デ・コンポステーラを目指した。
巡礼路の整備も巡礼の装備も十分ではなく、食事も質素だった当時においては、サンティアゴ・デ・コンポステーラに辿り着くことは非常に困難であった。さらに昔は降雪量も多く、雪でセブレイロ峠を越えることができなかったり、雪解け水で巡礼路自体が閉ざされたりする事があった。巡礼路の再開を待つうちに路銀の尽きる場合もあったに違いない。そのため12世紀前半から教皇の命によって、セブレイロ峠のふもとのこの町にある赦しの門をくぐることで、サンティアゴ・デ・コンポステーラの聖ヤコブの墓を詣でた場合と同様に全ての罪が赦されるとされるようになったのである。現在では特別な時にしか開かない許しの門であるが、ロマネスクの美しいプロポーションのアーチと彫刻が見事である。
サンティアゴ教会
赦しの門アヴェ・フェニックスはオーナーでありオスピタレロであるハト夫妻が中心となって労力と資金を提供し、巡礼者のボランティアと共につくり上げたセルフビルドのアルベルゲである。建設途中に一度火事に見舞われるという困難に直面するも、再度、力を合わせて建設を続け、その名の如く新たに蘇ったアルベルゲである。
アヴェ・フェニックス 外観
マーク
アヴェ・フェニックス 中庭から建物を望む太陽光パネルも設置されている。
中庭このアヴェ・フェニックスは、昔の巡礼救護所跡に建てられたものであるが、まるで小さな山小屋が利用者の増加に伴い増築を繰り返し、徐々に規模が大きくなったようなアルベルゲであり、そこここに手の痕跡が残っている。この場所で生活するために必要なものは何かということが根本にあり、それに対する答えとして、必要な部屋や機能が一つ一つ付加されていったように思う。そして、その結果として現在の姿になったのだと感じる。巡礼者のための宿をこの場所につくること、その本質がぶれることなく、日々、巡礼者と共に生活することによって必要な要素が生まれ、それが付加されていく。不要になった要素は削られて必要なものに取り代えられる。それを体現しているのがこのアヴェ・フェニックスであり、だからこそ魅力的なアルベルゲなのだろう。
洗濯物
洗い場
リビング
屋根裏歩いた総距離1356.7km
(はが げんたろう)
■芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了
2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業
2015年 立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程所属
2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行っている。
●今日のお勧めは、靉嘔です。
靉嘔「つる」
2002年
シルクスクリーン
22.0x16.0cm
Ed.200
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜~土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。
●本日の瑛九情報!
~~~
ときの忘れものは2011年9月に開催した「第21回瑛九展 46の光のかけら/フォトデッサン型紙」の折に、出品全46点の型紙の裏表両面を掲載した大判のポスター(限定200部、番号入り)を製作しました。
瑛九展ポスター(表)限定200部
デザイン:DIX-HOUSE
サイズ:84.1x59.4cm(A1)
価格:1,500円(税込)
+梱包送料:1,000円
瑛九展ポスター(裏こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから)
瑛九の造語である「フォトデッサン」は、先行するマン・レイやモホリ=ナギが印画紙上に物を置き、直接光をあてて制作した「フォトグラム(レイヨグラム)」と同じ技法ですが、これに自らの進むべき道を見出した若き日の瑛九の自負をうかがわせる言葉であると言えます。マン・レイたち先行者と異なり、瑛九は自ら切り抜いた「型紙」を使って膨大な点数を制作しました。その作品群を見れば、それらが絵画性の強い独創的なものであったことは一目瞭然です。瑛九が「型紙」に使ったのは、普通の「紙」や 「セロファン」のほかに、一度は完成させたフォトデッサン(印画紙)を次の作品を作るために「型紙」として切り抜いてしまったものも多数存在します。 従来は、「フォトデッサン」の失敗作を「型紙」に転用したと言われてきましたが、ときの忘れものが入手した46点からなる「フォトデッサン型紙コレクション」の中には、きちんと瑛九自筆のサインや年記が記入されているものも少なくありません。 失敗作などではなく、完成作品を惜しげもなく、切り抜いてしまったのはどのような意図だったのでしょうか。 それら型紙に鉛筆で下書きされた線や切り抜いたラインからは、瑛九の手の痕跡が感じられます。まだ残部がありますので、どうぞお申込みください。
~~~
<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(11月22日~2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
◆芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
コメント