倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」
第3回「答えない男 ペサックの集合住宅」
倉方俊輔(建築史家/大阪市立大学准教授)
画:光嶋裕介(建築家)

ル・コルビュジエは善人か悪人か。世界文化遺産「ル・コルビュジエの建築作品」の構成要素の一つである「ペサックの集合住宅」は、特に判断を左右する作品だ。
前回、取り上げた「ラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸」は、コルビュジエに惚れ込んだ裕福な銀行家のロッシュ、および兄夫婦の住まいだった。生涯、幸せに暮らしましたとさ…なら最良だろうし、後に嫌いになったとしても、いい夢を見たのだから、それも結構だろう。
しかし、住み手が設計の時点で分からないとしたら、どうだろうか。赤の他人だとしたら。しかも、数十戸もある。もはや個別性ではない、群である。それらは領域を構成する。ならば、それは周辺に影響されるだけの、弱々しいものであってはならないだろう。
そんなわけで、全部で51戸からなる「ペサックの集合住宅」は「ラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸」とは随分と違う。ここではクライアントの個別性や周辺環境に頼ることができない。後年にそれらしく物語る私のような立場からすれば、困る。住み手に心づくしの設計という贈り物をしましたとか、普通だったら見放されてしまう敷地が世界でたった一つだけの宝物であることを証明しました、といった心温まる物語に持っていくことが難しい。
強いコルビュジエは、そんなことに拘泥しない。クライアントの個別性と周辺環境に加え、様式まで捨ててしまったのである。過去に頼らず、つねづね語っていた第一次世界大戦後の「新精神」を、現実の建設とする時が来た。野心に満ちた建築家は、デザインにおいても建設においても、過去とは異なる、新たなスタンダードの樹立をここで目指したのだった。
顔の見えない群であることは、「時代」に根ざした作品であるという主張には、むしろ好都合だ。周辺環境などの与条件からつくられるのではなく、新たにここから世界へとつくり出されていくもの。以前からそうなっていて、安穏とうまくやれてきたという以上に決定的な根拠がない既存の様式、すなわち使用する材料やその組み合わせ方、部屋の構成や外観といった決まりごとを捨て去り、新しい生活の基盤を構築するのはここからなのだと。
しかし、ロッシュのようではない普通の人たちは、より生活に根ざしている。生きる上で、思い出や思い入れや思い込みがある。思いが数十人分あって、家族構成も異なる。しかも入れ替わるのだ、住民は。従来の構法に良くない点があると指摘するのは容易だが、代わりの壁を現実に組み立てねばならない。それは人の手によって行われる。その土地の建設業者がおり、材料があって、一棟の建物なら目こぼしもあるかもしれないが、ある面積を占めるとなると、行政官も政治家も黙ってはいないはずだ。建築は「無重力」の中で建たない。社会に根が生え、人の心にがんじがらめにされているものにもかかわらず、スイスからパリに出て来て、いつしかル・コルビュジエというペンネームで建築まで発表し始めた彼は、それを文章や絵画のように勘違いしているのではないかと、実物を見る前にすでに嫌な予感しかしない。
*****
「ペサックの集合住宅」はフランスのボルドー近郊に位置するペサックの町に1926年に完成した。実現した敷地は線路沿いの三角形に近い形で、真っ直ぐ伸びるザヴィエ・アルノザン通りと、同様に向かいに伝統的な住宅が建ち、途中やや折れてからは線路脇の緑地に面したアンリ・フリュジェス通りによって外の世界に接している。敷地内の街路は中央を走るル・コルビュジエ通りと、土地の不整形を救済するように設けられた行き止まりのアルカード通りの2本。コルビュジエの設計した51戸は、この新設された直線路に、より対面するようにできていて、一帯で新たな生活の領域を構成している。
建物はパターン化されている。伝統破壊のありようでは甲乙つけがたい4タイプの中でも、見た目の新奇性は2戸1棟になった3階建ての住居が頭一つ抜けているだろう。ほかのタイプに比べて1階分しか頭が抜けていないのに愛称が「tour」(塔、摩天楼)とは大げさに思えるが、実際、ル・コルビュジエ通りの西側に一定の間隔で規則的に箱が建ち並んでいるのを目にすると、なぜこの牧歌的な田園の中に、こんなに高く、画一的な建物が必要なのかと疑問に思わせるインパクトは十分だ。地上階は車庫や洗濯場なので実質は2階建てで、中央の壁をはさんだ2戸の平面は同一である。3階室内から屋上テラスに上がる外部階段は、2戸が対称形だという法則性を強調すると同時に、人間の具体的な動きも感じさせ、これが抽象的な箱としての摩天楼―できた当時はまだ地球上に1棟も実現していないが―であるという連想から引き戻す。なぜ、この建築家は、趣味の良い田園の住まいという快適な微睡みの中から私たちを連れ去っておきながら、それに従っていれば良い類の「正解」も与えないのか。心を安穏とさせてくれない。悪い奴である。
主に通りの向かい側に、居室の長手方向の壁を共有した2階建ての連続タイプの住居が分布している。玄関の向きを1戸ごとに逆にしていることが、通常の長屋やタウンハウスと違う。正面はない。しかも、1戸の中での手前から奥へ、という階層性も裏切られている。入り口の扉を開けた途端、居間が広がる。正面に横向きに鎮座するのは、またもいまいましい階段。こんな四角く囲われていない部屋で、人は落ち着けるだろうか。向かって左手、上昇した階段の奥のドアを開けると台所がある。それは良い。問題は右手だ。階段の奥に中途半端なスペースがある。その先のドアを期待して開ければ、再び外部に放り出される。吹き抜けから、2階のテラスが覗ける。窓に面した寝室も。これは悪くない。だが、ここは何に使うのか…正面に壁で囲われた場所を見つける。またドアを開ける。窓のない小部屋である。これらのスペースや場所や小部屋はいったい何のためなのか。そうだ、西洋では部屋の機能を名称で表すのだった。コルビュジエの図面に「正解」を探すことにしよう。そこに記されているのは、それぞれ「parloir」(談話室)、「buanderie」(洗濯場)、「chai」(酒蔵)の文字。こんなに思わせぶりな空間に、これほど特殊な用途名を付けるなど、その場しのぎの正当化に過ぎないではないか。彼の本心はどこにあるのかと、またも途方に暮れる。
ほかに2つのタイプがあること、4タイプとも5m×5mのモデュールを基にしていること、壁面ごとに異なる色が塗られていることも付け加えておこう。
*****
ペサックの集合住宅
竣工年│1926年
所在地│4, rue Le Corbusier 33600 Pessac ,France
用途│集合住宅
3階建て住居の1棟は現在、博物館として公開されている
(撮影:倉方俊輔)
では、設問。コルビュジエは善人だろうか。もちろんだ。ペサックの集合住宅は社会改良の試みである。証拠は竣工式で現地を訪れた公共事業大臣に語った、次のような意図だ。
「フルジェ氏は私たちにこう言った。『あなた方の理論をここで実施に移すことを許可します。その極端な所までつめてよろしい。私は低廉住宅の改革のために、ほんとに結論的な成果に達したいと思っている。ペサックは実験室となるべきだ。私は、一切の慣習を断ち、伝統的手法を放棄してよいと許可する。はっきりいって、私は住宅の間取りの問題、標準型を探し、壁、床、屋根は機械を用いて本式にテーラー方式でつくれるような効率と強度をもったものとし、そのための機械は買ってよろしい〈後略〉(※1)』」
冒頭の「フルジェ氏」とは誰か。アンリ・フリュジェスはボルドーの工場経営者で、芸術にも造詣が深かった。建築も未来に向けた実験であることを理解し、それに金を支払った。彼がいなかったら、このコルビュジエにとって初めての面的な広がりを持つ実験は存在しなかった。この人が偉い。
しかし、先の作品解説の特に後半は、コルビュジエの耳にそう聞こえたのだろうという意味で、正しい。実際には彼はフリュジェスの反対を押し切って無装飾にこだわり、工場の科学的管理法であるテイラーシステムにかぶれて新たな機械や構法を導入し、それが現場ではうまくいかずにやり直して出費がかさみ、ようやく当初の予定を縮小して1926年に完成した建物には現地の行政官の反対で3年間入居が許されず、その間に神経衰弱を患ったフリュジェスは、当時フランスの植民地だった北アフリカのアルジェに移住してしまった。住み始めた人々は水平窓を伝統的な縦長窓に変え、装飾を付け、多過ぎる外部空間を室内に変えた。これらは「ペサックの失敗」と呼ばれる。
さあ、「悪人」と解答欄に書き入れよう。理由は「時代」の反映者を自称することで、目の前のクライアントや住民を犠牲にしたから。
*****
まさにコルビュジエの思う壺である。ル・コルビュジエ財団の委員長を務めたジャン・ジャンジェは、彼の欲望を的確に指摘する。
「革新者であり、理解されない人物であり、一徹な仕事人であるだけでル・コルビュジエは満足しない。革新者であり、理解されない人物であり、一徹な仕事人であるという虚像を自らつくりあげようとする(※2)」
革新的であり、理解されない自分。そんなイメージに「ペサックの失敗」はぴったりだ。悪名は無名に勝るのである。
『ル・コルビュジエのペサック集合住宅』は、住民による改変の優れた記録だ。原著が1969年に出版された時、著者はまだ28歳だった。「建築家は悪。一般人の住みこなしが善」といった凡庸で世間に受ける結論を警戒する知性によって、今も十分に読むに耐える。インテリア、エクステリア、街区といった多層的な観察に、インタビューを組み合わせ、建築専門家と住民双方の内的な矛盾に焦点を絞って導き出される結論は、推理小説のようにスリリングだ。
「あなた、道理にかなっているのは、いつも生活のほうで、まちがっているのは建築家なんですよ」。この本に収められたコルビュジエの言葉である。これを理由に建築家を悪とするお人好しがいるだろうか。話しているのは建築家だ。嘘つきのクレタ人だ。本心を明かさない、建築家である。
この男は何も答えない。堪えてもいない。だから、次号以降に続く展開が存在している。
*****
後日談としては『ル・コルビュジエのペサック集合住宅』の方が、すでに歴史的な資料だという点がある。同書が記録したような姿は現在、ほとんど目にできない。竣工後、約40年間の暮らしで追加された要素は刊行後、同じくらいの時間をかけて、特に今世紀に入ってからの世界文化遺産への登録の動きとともに急速に消去された。さまざまな色彩も復元され、竣工時のモダニズムが復活した。世界的建築家の作品の中で暮らすことが、今や住民の幸せなのだ。こうして、コルビュジエの作品であることと、住民の生活は一致を見た。
あなたの革新がついに理解されました。世界文化遺産に決まって素晴らしいですね。そう尋ねたら、彼はどうはぐらかすだろう。
(くらかた しゅんすけ)
※1…ウィリ・ボジガー/オスカル・ストノロフ編、吉阪隆正訳『ル・コルビュジエ全作品集 第1巻』(A.D.A EDITATokyo、1979)p.70
※2…ジャン・ジャンジェ編・序、千代章一郎訳・註解『ル・コルビュジエ書簡撰集』(中央公論美術出版、2016) p.31
※3…フィリップ・ブードン著、山口知之・杉本安弘訳『ル・コルビュジエのペサック集合住宅』(鹿島出版会、1976)
■倉方俊輔 Shunsuke KURAKATA
建築史家。大阪市立大学大学院工学研究科准教授。1971年東京都生まれ。著書に『東京レトロ建築さんぽ』『ドコノモン』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』、編著に『吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方』『これからの建築士』ほか

『建築ジャーナル』2017年3月号
今年の『建築ジャーナル』誌の1月~12月号の表紙を光嶋裕介さんが担当することになりました。
テーマはル・コルビュジエ。
一年間にわたり、倉方俊輔さんのエッセイ「『悪』のコルビュジエ」と光嶋裕介さんのドローイング「コルビュジエのある幻想都市風景」が同誌に掲載されます。ときの忘れものが企画のお手伝いをしました。
月遅れになりますが、気鋭のお二人のエッセイとドローイングをこのブログにも再録掲載します。毎月17日が掲載日です。どうぞご愛読ください。
倉方俊輔さんが参加している生きた建築ミュージアム事業が今年の日本建築学会賞を受賞されました。倉方さん、おめでとうございます。
以下のメッセージは倉方さんのfacebookからの再録です。
<大阪市「生きた建築ミュージアム事業」による建築文化の振興(橋爪紳也、嘉名光市、倉方俊輔、高岡伸一、大阪市都市整備局)が、2017年日本建築学会賞(業績)を受賞しました。
大阪発のみんなで作ったムーブメントが評価を受けました。関わってくれた全ての方々と、感謝と祝福の拍手をしあいたい!
この間も高岡伸一さんと話していたのだけど、オープンハウスなんて西洋くさい・文化くさいものが、ここまで大阪にフィットするなんて、確信していませんでした。このように成長するとは正直、誰も。
けれど、始めれば、数年で日本を代表する建築と社会を接続するイベントの1つに。大阪の文化と歴史の蓄積、人の器量が、見事に合っていたのです。
建物オーナーの方々の器と情に泣けてくる!
イケフェスに訪れる方々の笑顔と文化度がすごい!
ボランティアの方々のホスピタリティ、随一!
そして大阪市の職員の仕事への情熱と力量、これがないと絶対に今の状態はなかった。
信じて切り拓いたこのイケフェスから、私個人も多くを学びました。この事業でのさまざまな経験が、東京などでの最近の仕事の質も左右しているように思います。
関わることができたのは、大阪市立大学のおかげ。採用して、大阪に私を呼び寄せてくれたのですから、感謝です。>
◆倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」は毎月17日の更新です。
●今日のお勧め作品は、光嶋裕介です。

光嶋裕介 「幻想都市風景2016-02」
2016年 和紙にインク
45.0×90.0cm サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜~土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。
◆ときの忘れものの次回企画は「植田正治写真展―光と陰の世界―Part I」です。
会期:2017年5月13日[土]―5月27日[土] *日・月・祝日休廊

初期名作から晩年のカラー写真など約15点をご覧いただきます。どうぞご期待ください。
●イベントのご案内
5月13日(土)17時より、写真史家の金子隆一さんによるギャラリートークを開催します(要予約/参加費1,000円)。
必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申し込みください。
info@tokinowasuremono.com
第3回「答えない男 ペサックの集合住宅」
倉方俊輔(建築史家/大阪市立大学准教授)
画:光嶋裕介(建築家)

ル・コルビュジエは善人か悪人か。世界文化遺産「ル・コルビュジエの建築作品」の構成要素の一つである「ペサックの集合住宅」は、特に判断を左右する作品だ。
前回、取り上げた「ラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸」は、コルビュジエに惚れ込んだ裕福な銀行家のロッシュ、および兄夫婦の住まいだった。生涯、幸せに暮らしましたとさ…なら最良だろうし、後に嫌いになったとしても、いい夢を見たのだから、それも結構だろう。
しかし、住み手が設計の時点で分からないとしたら、どうだろうか。赤の他人だとしたら。しかも、数十戸もある。もはや個別性ではない、群である。それらは領域を構成する。ならば、それは周辺に影響されるだけの、弱々しいものであってはならないだろう。
そんなわけで、全部で51戸からなる「ペサックの集合住宅」は「ラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸」とは随分と違う。ここではクライアントの個別性や周辺環境に頼ることができない。後年にそれらしく物語る私のような立場からすれば、困る。住み手に心づくしの設計という贈り物をしましたとか、普通だったら見放されてしまう敷地が世界でたった一つだけの宝物であることを証明しました、といった心温まる物語に持っていくことが難しい。
強いコルビュジエは、そんなことに拘泥しない。クライアントの個別性と周辺環境に加え、様式まで捨ててしまったのである。過去に頼らず、つねづね語っていた第一次世界大戦後の「新精神」を、現実の建設とする時が来た。野心に満ちた建築家は、デザインにおいても建設においても、過去とは異なる、新たなスタンダードの樹立をここで目指したのだった。
顔の見えない群であることは、「時代」に根ざした作品であるという主張には、むしろ好都合だ。周辺環境などの与条件からつくられるのではなく、新たにここから世界へとつくり出されていくもの。以前からそうなっていて、安穏とうまくやれてきたという以上に決定的な根拠がない既存の様式、すなわち使用する材料やその組み合わせ方、部屋の構成や外観といった決まりごとを捨て去り、新しい生活の基盤を構築するのはここからなのだと。
しかし、ロッシュのようではない普通の人たちは、より生活に根ざしている。生きる上で、思い出や思い入れや思い込みがある。思いが数十人分あって、家族構成も異なる。しかも入れ替わるのだ、住民は。従来の構法に良くない点があると指摘するのは容易だが、代わりの壁を現実に組み立てねばならない。それは人の手によって行われる。その土地の建設業者がおり、材料があって、一棟の建物なら目こぼしもあるかもしれないが、ある面積を占めるとなると、行政官も政治家も黙ってはいないはずだ。建築は「無重力」の中で建たない。社会に根が生え、人の心にがんじがらめにされているものにもかかわらず、スイスからパリに出て来て、いつしかル・コルビュジエというペンネームで建築まで発表し始めた彼は、それを文章や絵画のように勘違いしているのではないかと、実物を見る前にすでに嫌な予感しかしない。
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「ペサックの集合住宅」はフランスのボルドー近郊に位置するペサックの町に1926年に完成した。実現した敷地は線路沿いの三角形に近い形で、真っ直ぐ伸びるザヴィエ・アルノザン通りと、同様に向かいに伝統的な住宅が建ち、途中やや折れてからは線路脇の緑地に面したアンリ・フリュジェス通りによって外の世界に接している。敷地内の街路は中央を走るル・コルビュジエ通りと、土地の不整形を救済するように設けられた行き止まりのアルカード通りの2本。コルビュジエの設計した51戸は、この新設された直線路に、より対面するようにできていて、一帯で新たな生活の領域を構成している。
建物はパターン化されている。伝統破壊のありようでは甲乙つけがたい4タイプの中でも、見た目の新奇性は2戸1棟になった3階建ての住居が頭一つ抜けているだろう。ほかのタイプに比べて1階分しか頭が抜けていないのに愛称が「tour」(塔、摩天楼)とは大げさに思えるが、実際、ル・コルビュジエ通りの西側に一定の間隔で規則的に箱が建ち並んでいるのを目にすると、なぜこの牧歌的な田園の中に、こんなに高く、画一的な建物が必要なのかと疑問に思わせるインパクトは十分だ。地上階は車庫や洗濯場なので実質は2階建てで、中央の壁をはさんだ2戸の平面は同一である。3階室内から屋上テラスに上がる外部階段は、2戸が対称形だという法則性を強調すると同時に、人間の具体的な動きも感じさせ、これが抽象的な箱としての摩天楼―できた当時はまだ地球上に1棟も実現していないが―であるという連想から引き戻す。なぜ、この建築家は、趣味の良い田園の住まいという快適な微睡みの中から私たちを連れ去っておきながら、それに従っていれば良い類の「正解」も与えないのか。心を安穏とさせてくれない。悪い奴である。
主に通りの向かい側に、居室の長手方向の壁を共有した2階建ての連続タイプの住居が分布している。玄関の向きを1戸ごとに逆にしていることが、通常の長屋やタウンハウスと違う。正面はない。しかも、1戸の中での手前から奥へ、という階層性も裏切られている。入り口の扉を開けた途端、居間が広がる。正面に横向きに鎮座するのは、またもいまいましい階段。こんな四角く囲われていない部屋で、人は落ち着けるだろうか。向かって左手、上昇した階段の奥のドアを開けると台所がある。それは良い。問題は右手だ。階段の奥に中途半端なスペースがある。その先のドアを期待して開ければ、再び外部に放り出される。吹き抜けから、2階のテラスが覗ける。窓に面した寝室も。これは悪くない。だが、ここは何に使うのか…正面に壁で囲われた場所を見つける。またドアを開ける。窓のない小部屋である。これらのスペースや場所や小部屋はいったい何のためなのか。そうだ、西洋では部屋の機能を名称で表すのだった。コルビュジエの図面に「正解」を探すことにしよう。そこに記されているのは、それぞれ「parloir」(談話室)、「buanderie」(洗濯場)、「chai」(酒蔵)の文字。こんなに思わせぶりな空間に、これほど特殊な用途名を付けるなど、その場しのぎの正当化に過ぎないではないか。彼の本心はどこにあるのかと、またも途方に暮れる。
ほかに2つのタイプがあること、4タイプとも5m×5mのモデュールを基にしていること、壁面ごとに異なる色が塗られていることも付け加えておこう。
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ペサックの集合住宅竣工年│1926年
所在地│4, rue Le Corbusier 33600 Pessac ,France
用途│集合住宅
3階建て住居の1棟は現在、博物館として公開されている
(撮影:倉方俊輔)
では、設問。コルビュジエは善人だろうか。もちろんだ。ペサックの集合住宅は社会改良の試みである。証拠は竣工式で現地を訪れた公共事業大臣に語った、次のような意図だ。
「フルジェ氏は私たちにこう言った。『あなた方の理論をここで実施に移すことを許可します。その極端な所までつめてよろしい。私は低廉住宅の改革のために、ほんとに結論的な成果に達したいと思っている。ペサックは実験室となるべきだ。私は、一切の慣習を断ち、伝統的手法を放棄してよいと許可する。はっきりいって、私は住宅の間取りの問題、標準型を探し、壁、床、屋根は機械を用いて本式にテーラー方式でつくれるような効率と強度をもったものとし、そのための機械は買ってよろしい〈後略〉(※1)』」
冒頭の「フルジェ氏」とは誰か。アンリ・フリュジェスはボルドーの工場経営者で、芸術にも造詣が深かった。建築も未来に向けた実験であることを理解し、それに金を支払った。彼がいなかったら、このコルビュジエにとって初めての面的な広がりを持つ実験は存在しなかった。この人が偉い。
しかし、先の作品解説の特に後半は、コルビュジエの耳にそう聞こえたのだろうという意味で、正しい。実際には彼はフリュジェスの反対を押し切って無装飾にこだわり、工場の科学的管理法であるテイラーシステムにかぶれて新たな機械や構法を導入し、それが現場ではうまくいかずにやり直して出費がかさみ、ようやく当初の予定を縮小して1926年に完成した建物には現地の行政官の反対で3年間入居が許されず、その間に神経衰弱を患ったフリュジェスは、当時フランスの植民地だった北アフリカのアルジェに移住してしまった。住み始めた人々は水平窓を伝統的な縦長窓に変え、装飾を付け、多過ぎる外部空間を室内に変えた。これらは「ペサックの失敗」と呼ばれる。
さあ、「悪人」と解答欄に書き入れよう。理由は「時代」の反映者を自称することで、目の前のクライアントや住民を犠牲にしたから。
*****
まさにコルビュジエの思う壺である。ル・コルビュジエ財団の委員長を務めたジャン・ジャンジェは、彼の欲望を的確に指摘する。
「革新者であり、理解されない人物であり、一徹な仕事人であるだけでル・コルビュジエは満足しない。革新者であり、理解されない人物であり、一徹な仕事人であるという虚像を自らつくりあげようとする(※2)」
革新的であり、理解されない自分。そんなイメージに「ペサックの失敗」はぴったりだ。悪名は無名に勝るのである。
『ル・コルビュジエのペサック集合住宅』は、住民による改変の優れた記録だ。原著が1969年に出版された時、著者はまだ28歳だった。「建築家は悪。一般人の住みこなしが善」といった凡庸で世間に受ける結論を警戒する知性によって、今も十分に読むに耐える。インテリア、エクステリア、街区といった多層的な観察に、インタビューを組み合わせ、建築専門家と住民双方の内的な矛盾に焦点を絞って導き出される結論は、推理小説のようにスリリングだ。
「あなた、道理にかなっているのは、いつも生活のほうで、まちがっているのは建築家なんですよ」。この本に収められたコルビュジエの言葉である。これを理由に建築家を悪とするお人好しがいるだろうか。話しているのは建築家だ。嘘つきのクレタ人だ。本心を明かさない、建築家である。
この男は何も答えない。堪えてもいない。だから、次号以降に続く展開が存在している。
*****
後日談としては『ル・コルビュジエのペサック集合住宅』の方が、すでに歴史的な資料だという点がある。同書が記録したような姿は現在、ほとんど目にできない。竣工後、約40年間の暮らしで追加された要素は刊行後、同じくらいの時間をかけて、特に今世紀に入ってからの世界文化遺産への登録の動きとともに急速に消去された。さまざまな色彩も復元され、竣工時のモダニズムが復活した。世界的建築家の作品の中で暮らすことが、今や住民の幸せなのだ。こうして、コルビュジエの作品であることと、住民の生活は一致を見た。
あなたの革新がついに理解されました。世界文化遺産に決まって素晴らしいですね。そう尋ねたら、彼はどうはぐらかすだろう。
(くらかた しゅんすけ)
※1…ウィリ・ボジガー/オスカル・ストノロフ編、吉阪隆正訳『ル・コルビュジエ全作品集 第1巻』(A.D.A EDITATokyo、1979)p.70
※2…ジャン・ジャンジェ編・序、千代章一郎訳・註解『ル・コルビュジエ書簡撰集』(中央公論美術出版、2016) p.31
※3…フィリップ・ブードン著、山口知之・杉本安弘訳『ル・コルビュジエのペサック集合住宅』(鹿島出版会、1976)
■倉方俊輔 Shunsuke KURAKATA
建築史家。大阪市立大学大学院工学研究科准教授。1971年東京都生まれ。著書に『東京レトロ建築さんぽ』『ドコノモン』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』、編著に『吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方』『これからの建築士』ほか

『建築ジャーナル』2017年3月号
今年の『建築ジャーナル』誌の1月~12月号の表紙を光嶋裕介さんが担当することになりました。
テーマはル・コルビュジエ。
一年間にわたり、倉方俊輔さんのエッセイ「『悪』のコルビュジエ」と光嶋裕介さんのドローイング「コルビュジエのある幻想都市風景」が同誌に掲載されます。ときの忘れものが企画のお手伝いをしました。
月遅れになりますが、気鋭のお二人のエッセイとドローイングをこのブログにも再録掲載します。毎月17日が掲載日です。どうぞご愛読ください。
倉方俊輔さんが参加している生きた建築ミュージアム事業が今年の日本建築学会賞を受賞されました。倉方さん、おめでとうございます。
以下のメッセージは倉方さんのfacebookからの再録です。
<大阪市「生きた建築ミュージアム事業」による建築文化の振興(橋爪紳也、嘉名光市、倉方俊輔、高岡伸一、大阪市都市整備局)が、2017年日本建築学会賞(業績)を受賞しました。
大阪発のみんなで作ったムーブメントが評価を受けました。関わってくれた全ての方々と、感謝と祝福の拍手をしあいたい!
この間も高岡伸一さんと話していたのだけど、オープンハウスなんて西洋くさい・文化くさいものが、ここまで大阪にフィットするなんて、確信していませんでした。このように成長するとは正直、誰も。
けれど、始めれば、数年で日本を代表する建築と社会を接続するイベントの1つに。大阪の文化と歴史の蓄積、人の器量が、見事に合っていたのです。
建物オーナーの方々の器と情に泣けてくる!
イケフェスに訪れる方々の笑顔と文化度がすごい!
ボランティアの方々のホスピタリティ、随一!
そして大阪市の職員の仕事への情熱と力量、これがないと絶対に今の状態はなかった。
信じて切り拓いたこのイケフェスから、私個人も多くを学びました。この事業でのさまざまな経験が、東京などでの最近の仕事の質も左右しているように思います。
関わることができたのは、大阪市立大学のおかげ。採用して、大阪に私を呼び寄せてくれたのですから、感謝です。>
◆倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」は毎月17日の更新です。
●今日のお勧め作品は、光嶋裕介です。

光嶋裕介 「幻想都市風景2016-02」
2016年 和紙にインク
45.0×90.0cm サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜~土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。
◆ときの忘れものの次回企画は「植田正治写真展―光と陰の世界―Part I」です。
会期:2017年5月13日[土]―5月27日[土] *日・月・祝日休廊

初期名作から晩年のカラー写真など約15点をご覧いただきます。どうぞご期待ください。
●イベントのご案内
5月13日(土)17時より、写真史家の金子隆一さんによるギャラリートークを開催します(要予約/参加費1,000円)。
必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申し込みください。
info@tokinowasuremono.com
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