岡部徳三「ナムジュンパイクの版画制作始末記」
第5回
一旦は帰国するパイクさんに、約束の金銭を準備しなければならない。その日が刻々と迫っていたそんなある日、こころ当たりの友人を頭に描きながら自宅への帰りすがら、行き付けの酒屋へ立ち寄り、コップ酒をあおっていた。ふと、銀行はなかなか金を貸さないねえ、などと世間話をしていたら、酒屋の主人が、どの位の金額か?と聞くではないか。渡りに船かなと邪まに思わぬでもない。200万位というと、主人は私が保証人になってあげるからと言う。この街にすむようになって数年、普段から付き合いがあるといって、彼にナムジュン・パイクという一度も耳にしたこともないアーチストに支払うのだ、と告げるにはやや抵抗があった。酒屋の主人の度量は、はるかにそれを越えるもので、さらに私を驚かせたのは、酒屋の主人は町の信用金庫の理事でもあったのだ。
無事200万円を手にした私は、パイクさんと会うために東京のホテルのロビーで待ち会わせ、全額を渡した。パイクさんはその金を無造作に上着の外ポケットへ突っ込んだ。思わず「内ポケットへ入れた方がいいですよ」叫んでしまったが、彼は悠然と「そうね。でもね、お金は内ポケットの方が掏りにやられ易いよ」とまるで他人事なのであった。言われるまでもなく、パイクさんが札束を丁寧に内ポケットへしまう姿は、あまり似合いそうもない。私の工房では金銭の工面とは関係なく、終わりの局面に差し掛かっていた。全部4色分解で刷ることになり、シルクスクリーンでは普通敬遠される、100線という細かい網のものを使った。新聞紙上の網分解は60線ぐらいだから、それよりもはるかに密度が高いために、印刷も困難を極めることとなった。パイクさんの再来日(サイン入れのため)の日程にあわせて、工房では毎日が格闘技の連続であった。
2006年 5月(未完)
(おかべ とくぞう)
・岡部徳三「ナムジュンパイクの版画制作始末記」第1回
・岡部徳三「ナムジュンパイクの版画制作始末記」第2回
・岡部徳三「ナムジュンパイクの版画制作始末記」第3回
・岡部徳三「ナムジュンパイクの版画制作始末記」第4回

ナム・ジュン・パイク
「墓椅子 ボイス」
1984年
シルクスクリーン 1版1色
刷り:岡部徳三・岡部版画工房
52.5x41.5cm
アルシュ紙
Ed.75 サインあり




ナム・ジュン・パイク
「A TRIBUTE TO JHON CAGE」
1978年
シルクスクリーン各4版4色
刷り:岡部徳三・岡部版画工房
任天堂カード 52枚セット
Ed.250
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
■ナム・ジュン・パイク Nam June Paik 白南準(1932年7月20日 - 2006年1月29日)
1932年日本統治下の韓国京城(ソウル)に生まれる。1949年朝鮮戦争の戦禍を逃れて香港に移住、その後日本に渡り東京大学文学部美学美術史学科を卒業。西ドイツへ渡りミュンヘン大学で音楽史を学ぶ。ジョン・ケージと知り合い大きな影響を受ける。1961年フルクサス運動の創始者ジョージ・マチューナスと出会い、以後、フルクサス運動の中心的存在として活動。1963年テレビ画面を磁石で操作した世界初のビデオ・アート作品を発表。
1964年アメリカに移住。パフォーマンス「ロボット・オペラ」をシャーロット・モーマンと共演する。1977年ビデオ・アーティスト久保田成子と結婚する。1993年第45回ヴェネチア・ビエンナーレにドイツ館代表として参加、金獅子賞を受賞。1998年京都賞受賞。2000年ニューヨーク、グッゲンハイム美術館で回顧展開催。2006年マイアミの自宅で死去、享年73。

秦野の岡部版画工房にて
パイク(右)と岡部徳三(左)



■岡部徳三(おかべ・とくぞう 1932~2006)
版画刷り師。東京都出身。1964年岡部版画工房を設立。日本のシルクスクリーン版画刷り師の草分けとして、靉嘔、オノサト・トシノブ、草間彌生、横尾忠則をはじめ、多くの現代作家たちの作品を手がけた。ジョン・ケージやナム・ジュン・パイク、ジョナス・メカスなど版画に縁の無かった作家達にも積極的にアプローチして彼らの版画誕生に寄与し、美学校のシルクスクリーン教室の講師としても石田了一はじめ多くの英才を育てた。
*画廊亭主敬白
「おまえさんはもう少し落ち着いていなけりゃあ」
今でも亭主の性急さを諌める岡部さんの声が聞こえてくるようです。
岡部さんは刷り師としてはもちろん第一級の職人でしたが、自ら版元となり、多くの作家たちに版画をつくらせることを生涯の仕事としていました。
しかし、ジョン・ケージ、ナム・ジュン・パイクはもとより、あの草間彌生の版画でさえ、岡部さんの生前には売れなかった。蔵がたつどころか資金繰りに悪戦苦闘したあげく、パイクの後を追うように亡くなった直後から草間ブームに火がついたのは何とも皮肉でした。
今回、未完のエッセイの再録を許可してくれた岡部版画出版の牧嶋さんはじめ岡部さんの後を守ったスタッフの皆さんに心より御礼を申し上げます。
牧嶋さんからは、貴重な1978年のギャルリーワタリの案内状まで提供していただきました。
掲載された 靉嘔先生のメッセージも再録させていただきます。

「NAM JUNE PAIK A Tribute to John Cage」
案内状
1978年5月15日[月]~5月30日[火]
ギャルリーワタリ

「隣人 Paik」 APR.17'78 靉嘔
1963年代初めNEW YORKのCANAL st.に住み始めた頃から、今では110 MERCER st. の5階がPaik 4階が私というように、Paikは今もずうっと私の隣人です。
しかもPaikは隣人以前、出合い以前からのFluxの仲間として、そのころからヨーロッパで世界中の若いアーチストから注目されていました。
昨年夏のNEW YORKでの夕涼みの会話でした。
Paikがぽっつりといいました。「《スターウォーズ》を見た?」。
そくざに私は答えました。「Paikのロボットの方がうんといいよ」と
アメリカかにやって来た最初から現在までも彼はコンセプトのみをもってニューヨークに切り込んで来ました。
あのころコンセプトのみによって作られたPaikのロボットはグリニッチビレイジの公園で10歩ほど歩くとばったりと倒れるという具合でした。
今や歴史家は歴史書に15年も前のこのPaikのロボットを写真入りで明記しなければならなくなったと思います。
それからPaikはTVの中に彼の全べてをのめり込ませて行ったのです。
何百台かのTVが彼によってこわされつづけました。
そしてそのたびに何百倍かの新しいTVが創造されつづけて来たのです。
ジョンケージが彼の微笑と共に私達に示した新らしい道にもおとらない新世界をPaikも示し始めたと私には思われます。
今年はヨーロッパでの数々の大展覧会が彼をまっているようです。
その様子を彼に聞けるのを楽しみにしています。
私はすばらしい隣人にめぐり会えて幸福です。
*「NAM JUNE PAIK A Tribute to John Cage」案内状(1978年、ギャルリーワタリ)より転載
1978年の時点で果敢にもパイクの展覧会を開いた和多利志津子さんの慧眼にはあらためて敬服します。
●今日のお勧め作品は、ル・コルビュジエです。
ル・コルビュジエ
《雄牛#6》
1964年
リトグラフ
イメージサイズ:60.0×52.0cm
シートサイズ:71.7×54.0cm
Ed.150
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●重要なお知らせ
現在、ときの忘れもののメールアドレスより、多数の迷惑メールが発信されています。
内容は、英文の求人広告と、詳細を記載したというウェブサイトへのリンクです。
ときの忘れものが日本のお客様に英文の、または件名が無記入のメールを送ることはありません。
info@tokinowasuremono.comから上記のようなメールが届いている場合は、絶対に開かずに削除してください。
◆「今週の特集展示:白南準(ナム・ジュン・パイク)と文承根(ムン・スングン)」
会期=2017年8月8日[火]―8月19日[土] 11:00-18:00 ※日・月・祝日休廊

白南準(ナム・ジュン・パイク)と文承根(ムン・スングン)の作品約10点をご覧いただきます。
●ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
営業時間=火曜~土曜の平日11時~18時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

第5回
一旦は帰国するパイクさんに、約束の金銭を準備しなければならない。その日が刻々と迫っていたそんなある日、こころ当たりの友人を頭に描きながら自宅への帰りすがら、行き付けの酒屋へ立ち寄り、コップ酒をあおっていた。ふと、銀行はなかなか金を貸さないねえ、などと世間話をしていたら、酒屋の主人が、どの位の金額か?と聞くではないか。渡りに船かなと邪まに思わぬでもない。200万位というと、主人は私が保証人になってあげるからと言う。この街にすむようになって数年、普段から付き合いがあるといって、彼にナムジュン・パイクという一度も耳にしたこともないアーチストに支払うのだ、と告げるにはやや抵抗があった。酒屋の主人の度量は、はるかにそれを越えるもので、さらに私を驚かせたのは、酒屋の主人は町の信用金庫の理事でもあったのだ。
無事200万円を手にした私は、パイクさんと会うために東京のホテルのロビーで待ち会わせ、全額を渡した。パイクさんはその金を無造作に上着の外ポケットへ突っ込んだ。思わず「内ポケットへ入れた方がいいですよ」叫んでしまったが、彼は悠然と「そうね。でもね、お金は内ポケットの方が掏りにやられ易いよ」とまるで他人事なのであった。言われるまでもなく、パイクさんが札束を丁寧に内ポケットへしまう姿は、あまり似合いそうもない。私の工房では金銭の工面とは関係なく、終わりの局面に差し掛かっていた。全部4色分解で刷ることになり、シルクスクリーンでは普通敬遠される、100線という細かい網のものを使った。新聞紙上の網分解は60線ぐらいだから、それよりもはるかに密度が高いために、印刷も困難を極めることとなった。パイクさんの再来日(サイン入れのため)の日程にあわせて、工房では毎日が格闘技の連続であった。
2006年 5月(未完)
(おかべ とくぞう)
・岡部徳三「ナムジュンパイクの版画制作始末記」第1回
・岡部徳三「ナムジュンパイクの版画制作始末記」第2回
・岡部徳三「ナムジュンパイクの版画制作始末記」第3回
・岡部徳三「ナムジュンパイクの版画制作始末記」第4回

ナム・ジュン・パイク
「墓椅子 ボイス」
1984年
シルクスクリーン 1版1色
刷り:岡部徳三・岡部版画工房
52.5x41.5cm
アルシュ紙
Ed.75 サインあり




ナム・ジュン・パイク
「A TRIBUTE TO JHON CAGE」
1978年
シルクスクリーン各4版4色
刷り:岡部徳三・岡部版画工房
任天堂カード 52枚セット
Ed.250
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
■ナム・ジュン・パイク Nam June Paik 白南準(1932年7月20日 - 2006年1月29日)
1932年日本統治下の韓国京城(ソウル)に生まれる。1949年朝鮮戦争の戦禍を逃れて香港に移住、その後日本に渡り東京大学文学部美学美術史学科を卒業。西ドイツへ渡りミュンヘン大学で音楽史を学ぶ。ジョン・ケージと知り合い大きな影響を受ける。1961年フルクサス運動の創始者ジョージ・マチューナスと出会い、以後、フルクサス運動の中心的存在として活動。1963年テレビ画面を磁石で操作した世界初のビデオ・アート作品を発表。
1964年アメリカに移住。パフォーマンス「ロボット・オペラ」をシャーロット・モーマンと共演する。1977年ビデオ・アーティスト久保田成子と結婚する。1993年第45回ヴェネチア・ビエンナーレにドイツ館代表として参加、金獅子賞を受賞。1998年京都賞受賞。2000年ニューヨーク、グッゲンハイム美術館で回顧展開催。2006年マイアミの自宅で死去、享年73。

秦野の岡部版画工房にて
パイク(右)と岡部徳三(左)



■岡部徳三(おかべ・とくぞう 1932~2006)
版画刷り師。東京都出身。1964年岡部版画工房を設立。日本のシルクスクリーン版画刷り師の草分けとして、靉嘔、オノサト・トシノブ、草間彌生、横尾忠則をはじめ、多くの現代作家たちの作品を手がけた。ジョン・ケージやナム・ジュン・パイク、ジョナス・メカスなど版画に縁の無かった作家達にも積極的にアプローチして彼らの版画誕生に寄与し、美学校のシルクスクリーン教室の講師としても石田了一はじめ多くの英才を育てた。
*画廊亭主敬白
「おまえさんはもう少し落ち着いていなけりゃあ」
今でも亭主の性急さを諌める岡部さんの声が聞こえてくるようです。
岡部さんは刷り師としてはもちろん第一級の職人でしたが、自ら版元となり、多くの作家たちに版画をつくらせることを生涯の仕事としていました。
しかし、ジョン・ケージ、ナム・ジュン・パイクはもとより、あの草間彌生の版画でさえ、岡部さんの生前には売れなかった。蔵がたつどころか資金繰りに悪戦苦闘したあげく、パイクの後を追うように亡くなった直後から草間ブームに火がついたのは何とも皮肉でした。
今回、未完のエッセイの再録を許可してくれた岡部版画出版の牧嶋さんはじめ岡部さんの後を守ったスタッフの皆さんに心より御礼を申し上げます。
牧嶋さんからは、貴重な1978年のギャルリーワタリの案内状まで提供していただきました。
掲載された 靉嘔先生のメッセージも再録させていただきます。

「NAM JUNE PAIK A Tribute to John Cage」
案内状
1978年5月15日[月]~5月30日[火]
ギャルリーワタリ

「隣人 Paik」 APR.17'78 靉嘔
1963年代初めNEW YORKのCANAL st.に住み始めた頃から、今では110 MERCER st. の5階がPaik 4階が私というように、Paikは今もずうっと私の隣人です。
しかもPaikは隣人以前、出合い以前からのFluxの仲間として、そのころからヨーロッパで世界中の若いアーチストから注目されていました。
昨年夏のNEW YORKでの夕涼みの会話でした。
Paikがぽっつりといいました。「《スターウォーズ》を見た?」。
そくざに私は答えました。「Paikのロボットの方がうんといいよ」と
アメリカかにやって来た最初から現在までも彼はコンセプトのみをもってニューヨークに切り込んで来ました。
あのころコンセプトのみによって作られたPaikのロボットはグリニッチビレイジの公園で10歩ほど歩くとばったりと倒れるという具合でした。
今や歴史家は歴史書に15年も前のこのPaikのロボットを写真入りで明記しなければならなくなったと思います。
それからPaikはTVの中に彼の全べてをのめり込ませて行ったのです。
何百台かのTVが彼によってこわされつづけました。
そしてそのたびに何百倍かの新しいTVが創造されつづけて来たのです。
ジョンケージが彼の微笑と共に私達に示した新らしい道にもおとらない新世界をPaikも示し始めたと私には思われます。
今年はヨーロッパでの数々の大展覧会が彼をまっているようです。
その様子を彼に聞けるのを楽しみにしています。
私はすばらしい隣人にめぐり会えて幸福です。
*「NAM JUNE PAIK A Tribute to John Cage」案内状(1978年、ギャルリーワタリ)より転載
1978年の時点で果敢にもパイクの展覧会を開いた和多利志津子さんの慧眼にはあらためて敬服します。
●今日のお勧め作品は、ル・コルビュジエです。
ル・コルビュジエ《雄牛#6》
1964年
リトグラフ
イメージサイズ:60.0×52.0cm
シートサイズ:71.7×54.0cm
Ed.150
サインあり
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内容は、英文の求人広告と、詳細を記載したというウェブサイトへのリンクです。
ときの忘れものが日本のお客様に英文の、または件名が無記入のメールを送ることはありません。
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◆「今週の特集展示:白南準(ナム・ジュン・パイク)と文承根(ムン・スングン)」
会期=2017年8月8日[火]―8月19日[土] 11:00-18:00 ※日・月・祝日休廊

白南準(ナム・ジュン・パイク)と文承根(ムン・スングン)の作品約10点をご覧いただきます。
●ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
営業時間=火曜~土曜の平日11時~18時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

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