倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」

第7回 停泊させられた船 イムーブル・クラルテ


倉方俊輔(建築史家/大阪市立大学准教授)


画:光嶋裕介(建築家)
原画

 船のメタファーに、彼はなぜこれほど執着したのだろうか。最小限であること、動くこと、組み立てられていること、共同体であること。あるいは、水に触れること、水平線から顔を出していること、国境から自由であること、規格化されながら一品生産であること。
 第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期、石炭から重油へと燃料が変わって大型化した客船はさまざまな建築家たちにイメージを提供した。中でもル・コルビュジエの関心はほかにない次元だった。表面に流線型を用いるといったような直喩ではなく、多義的に建築の本質を揺らがせる隠喩(メタファー)として、挑戦を推進する内燃機関の一つとなった。
 1932年、スイスのジュネーブに姿を見せたイムーブル・クラルテは、そのかつてない達成である。9階建ての中に50戸の住宅や店舗などを納めた建物は、彼が実現した最初の本格的な鉄骨構造だ。
 コルビュジエは従来の建築の「つくり」だけでなく、「つくりかた」も問題の俎上に載せていた。これまでの連載では前者、つまり建築の構成に光を当ててきた。だが、後者の構法も問うていたことは言うまでもない。1914年に考案されたドミノシステムが初期の代表的なものだ。鉄筋コンクリートで水平な床と柱をつくる。その概念図に階段は描かれているが、窓も壁もない。別に階段だって、この位置になくても良さそうなものだが、規則的な根太のピッチに合わせて提案している。構造から解き放たれた窓や壁はどんな形でも取れ、階段も建築的プロムナードを構成するといった自由な「つくり」よりも、ここでは「つくりかた」に関心がある。構造とそれ以外という順序立ての問題なのだ。ドミノシステムは第一次世界大戦が始まって数カ月で、戦後復興のために考案されたという。当初、戦いは数カ月でかたがつくと両陣営の大多数が考えていた。にもかかわらず、長期化し、甚大な犠牲を払った大戦の後、コルビュジエの関心は、体験の集積による構成という「つくり」の方に向かっていったように見える。
 機会に恵まれなかったということがある。1925年にパリで開かれた現代産業装飾芸術国際博覧会に出品されたヴォアザン計画は鉄骨造で構想された。ヴォアザンの名は、資金の一部を提供したガブリエル・ヴォアザンにちなんでいる。第一次世界大戦中に航空機製造で成功した人物であり、大戦後は自動車の製造に軸足を移した。
 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、新しい「つくり」と「つくりかた」を展開してみせたのは鉄材だった。クリスタル・パレス(1851)やエッフェル塔(1889)が建ち、ヴィオレ=ル=デュクは鉄による構法が彼が信じるゴシック建築と同様に真実性の高い構成を可能にすることを著作を通じて流布させた。だが、第一次世界大戦中の鉄材の高騰は鉄骨造建築の可能性をゼロに近づけた(※1)。そんな中でもコルビュジエは鉄骨による乾式工法の研究に励んでいた。ヴォアザン計画もその一つだった。鉄筋コンクリートに対して、より規格化され、順序立てられた構法を視野に入れていたのだ。

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 イムーブル・クラルテは好機到来。クライアントであるエドモン・ヴァーネルは、ジュネーブの企業家で金属製造業を営んでいた。コルビュジエの規格化のアイデアに賛同し、この賃貸住宅の開発を手掛けただけでなく、彼自らが施工を受け持ち、技術的な実現を助けた。
 現在、訪れて目にした光景は楽しげだ。見た目の開放感は、多くの住戸がメゾネット形式であることにも由来している。東西方向に細長く、2層分のガラス窓が連続する中で、テラスの手すりは低く一直線に見える。いかにも鉄材であるように薄く、住戸間の仕切りも線による構成で、部材の集積でつくられている様子が強調されている。
 より根底的な開放感は「つくりかた」が目に見えていることによるだろう。窓の日よけが思い思いに開いて、生活の雰囲気が外に現れる。南側の1階部分にはガレージが並んでいて、鉄板を跳ね上げた奥に車が格納される。即物的な素材と即物的な行動が、全体の見た目をつくり出す。同じ船に乗る共同体としての意識が建築化されたのだ。鉄骨の接合は当時一般的なリベットではなく、溶接によって行われた。金属加工に通じたクライアントのおかげで、技術的にも船に追いつくという夢が実現した。
 階段も、もう一つのコルビュジエを見せている。平面としては東西方向に二分され、左右対称に2つ配置された共用階段かエレベーターで各住戸に入るようになっている。階段は単純な折り返しのつくりで、手すりもパイプを曲げたもの。変化に富んだ動線や手すりは、ここに導入されることはない。その代わりに最小限のスペースで連なり、積層の居住を可能にする理想の船の階段が設計されている。階段の脇に吹き抜けがあり、最上部に天窓が開く。階段も廊下も床がガラスブロックだ。上からの光がまばゆい。設計者は垂直の空間構成と明快な部材構成にスポットライトを当てている。1920年代を中心にコルビュジエが求めていた建築の無重力が、ここでは美学の助けを借りなくても、構法的な種明かしで達成されている。あっけらかんと、楽しげに。
 上がった先は広い屋上である。地平線からはるかに顔を出し、光を浴びて長椅子でくつろぐ女性の姿を作品集は捉えている。イムーブル・クラルテはコルビュジエの作品集第2巻の中で最も、人物が入った写真が多く掲載されている作品となっている。床から天井までのガラスからの光を受けて佇む子ども。テラスの椅子でくつろぐ父娘をサッシを開けた室内から見る母。装飾のない半透明のカーテンやテラスの庇が光線を調整している様子。鉄骨の柱は室内にむき出しになっている。コルビュジエは壁紙の色見本を用意し、住民が選択できるようにした。可動式間仕切りやつくり付け設備が準備され、コンパクトに暮らせるようにした。彼の常として水周りには特に配慮された。住まいを所有するのではなく、借りて選べることの自由が、物が配列された写真に現れている。同様の軽やかさが現在も感じられる。部材の構成も使われ方も透明で、大地に錨を下ろしていない感覚は、21世紀の今の社会のありようにいっそう共鳴しているのではないだろうか。
 とはいえ、現在の変わらず幸せであり続けているような姿は、困難を乗り越えたものである。新規の技術を用いたため、建物はすぐに大規模な修復を必要とした。1970年代初めには取り壊しの危機が生じ、当地の2人の建築家が建物を取得することで辛うじて救われた。1986年に歴史的記念物となり、2007年から2009年の本格的な復元工事を経て、今つくられたかのような軽快な姿を見せている。2016年、国境から自由であるというコルビュジエのインターナショナリズムを示す作品の一つとして世界文化遺産に登録された。

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イムーブル・クラルテ
竣工年│1932年
所在地│2 et 4, rue Saint-Laurent Genève,Suisse
(撮影:倉方俊輔)
店舗の部分は立ち入り可能。毎年9月の文化遺産の日の期間中は内部が公開される

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 だが、建築は動かない。イムーブル(Immeuble)は建物、不動産の意味。家具(meuble)とは違って、動かせない。その名を受け入れたコルビュジエだ。そんなことは分かっている。だから一層、船のメタファーが開花することも。
 どこでも可能なことと、ここでしかできないこと。イムーブル・クラルテは組み立てと着地とが互いの効果を高め合っている。2つの階段・エレベーターに対応して、2つのホールが1階に設けられている。高くくっきりと開いた北側のエントランスは打ち放しコンクリートで、反対側のガラスブロックに落ちる天窓からの明かりをのぞかせながら、この地面に接続する場所であることを明示している。先が行き止まりになった北側の小道はここに引き込まれ、意味が与えられる。店舗として用意された円形の張り出しも同様に、街路のいびつな交わり方を正当化する。浮いたような上部は、この1階部分でまちに停泊しているのである。そして、張り出しは上部に、船の甲板のようなテラスを生み出す。岸壁は船上でもあるかのように、メタファーに加担する。
 イムーブル・クラルテはどこにでも、あるいは、どこかで可能な漂泊する技術のサンプルである。同時に周辺の伝統的な建物にも増して、この都市のつくりに結び付けられた建築でもある。設計はいくぶん現実的なヴァーネルの意見も受け入れて進められた。そのことが良い建築を生んでいるのは確かだ。
 第一次世界大戦の勃発時にコルビュジエが夢見ていた技術的な新たな構築物は、現実に着地することができた。決して理想へと行き着けない運命は美学的に示され、なおさら感慨を呼ぶ。
 しかし、このような即物的ロマンティシズムは、いつまで可能なのだろうか。再びの大戦が迫っていた。コルビュジエももう若くはなかった。自らが悪を引き受けない、停泊させられた理想という悪いスタンスも、そのままではもう続けられないだろう。

※1…山名善之「ル・コルビュジエと鉄」『建築文化』1996年10月号、p.180-183

くらかた しゅんすけ

■倉方俊輔 Shunsuke KURAKATA
建築史家。大阪市立大学大学院工学研究科准教授。1971年東京都生まれ。著書に『東京レトロ建築さんぽ』『ドコノモン』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』、編著に『吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方』ほか。
生きた建築ミュージアム大阪実行委員会委員

表紙
『建築ジャーナル』
今年の『建築ジャーナル』誌の1月~12月号の表紙を光嶋裕介さんが担当することになりました。
テーマはル・コルビュジエ。
一年間にわたり、倉方俊輔さんのエッセイ「『悪』のコルビュジエ」と光嶋裕介さんのドローイング「コルビュジエのある幻想都市風景」が同誌に掲載されます。ときの忘れものが企画のお手伝いをしています。
月遅れになりますが、気鋭のお二人のエッセイとドローイングをこのブログにも再録掲載します。毎月17日が掲載日です。どうぞご愛読ください。

●今日のお勧め作品は、光嶋裕介です。
20170817_03
光嶋裕介 "幻想都市風景2016-03"
2016年 和紙にインク
45.0×90.0cm   Signed
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