中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第22回

埼玉県立近代美術館「版画の景色――現代版画センターの軌跡」


「現代版画センター」では、わずか11年の間で約80名の作家により700点あまりのエディションが積み上げられたという。今回の訪問先である埼玉県立近代美術館の展示では、青山以前の綿貫氏らの活動を知る好機となったばかりか、久保貞次郎の思想が同センターの人たちの中にミームとなって受け継がれ、それがまた多く美術家やそのコレクターのもとに届いていることを知った。「熱中せよ!」と、生前の久保貞次郎が教え子に言っていた言葉のとおり、展示室のそこかしこには、良い作家を全力で紹介しようとする、熱気に包まれていた。本展では、現代版画センターの活動の一部として、学芸員の選りすぐりの45名の作家が紹介された。

埼玉県立近代美術館01埼玉県立近代美術館入口。この日はあいにく曇り空であったが、格子状の建物と窓ガラスにやわらかな光が差しこみ、見事に調和していた。

埼玉県立近代美術館02展示室入口。グレーを基調としている今回の展覧会。図録をはじめ、ヴィジュアル・ブックの地色も同じくグレーである。版画の余白部分に入れられるサインやエディションなどをトリミングせずによく見せるためであろう。出品目録も版画に特化した仕様で、刷り師の名が加えられ、サインも自筆・スタンプ・刷り込みかどうかの違いまで分かるようになっている。コレクターや玄人好みの体裁で、非常に良くできていると思う。

埼玉県立近代美術館03入口をはいってすぐ、靉嘔の作品が展示されている。先陣を切る意味合いを含むアーティスト名で、期待を裏切らない定位置と華やかさに心が躍った。《虹の花》は、岡部徳三による刷りである。靉嘔の虹色のシルクスクリーンは、この人物あっての作品ともいわれるほどで、NYまで同行したことがあったという。展示の中盤のガラスケースにも《花の時間》などがあることから、同センターと靉嘔の付き合いの深さや彼の活躍ぶりを窺い知ることが出来る。

埼玉県立近代美術館04オノサト・トシノブのシルクスクリーン。
瑛九とは宮崎時代から長く付き合っている人物である。オノサトの作品も、安定的にコレクターが付いている作家のひとりである。オノサトもまた靉嘔と同様に展示は二ヵ所にあった。

埼玉県立近代美術館05関根伸夫が展示されているコーナー。もの派として活躍する中で、同センターを通じて制作された作品や活動もあった。《絵空事―風船》は、シルクスクリーンであるが、一部手彩色で一点ものの作品というニュアンスを含む。なお、プロジェクターで映し出された映像には、若かりし頃の関根の姿が見られるため、立ち止まって観てほしい。

埼玉県立近代美術館06『画譜』第3号特装版に添えられた戸張孤雁の後刷り。「新版画」を掲げたり、頒布会を開いたり、さらにアメリカ留学を果たした気高い人物である。若くして病に倒れ、その才能が惜しまれた。版画の普及活動も行っていた孤雁に対する尊敬の念もあったのだろう。


埼玉県立近代美術館07同センターで刊行された『版画ニュース』や『print communication』がファイリングされているコーナー。実際に手に取って読むことが出来る。展覧会、オークション、講演会、シンポジウムなど様々な活動が行われていたことが分かる。


展示を担当した埼玉県立近代美術館学芸員の梅津元によると、この展覧会の準備のために約3年を掛けて聞き取り調査と、次々と出てくる膨大な作品や史料と対峙をされたという。一見すると、奇を衒った印象を持つ企画展ではあるが、そもそも、従来の展覧会という枠組みでは納まり難い、圧倒的な情報と作品の質量であったため、結果として今の形に辿りついたと梅津氏は語った。確かに、作品の傾向を紐解くと、そこには、版画家だけでなく、画家、彫刻家、建築家、工芸家、映像作家までも制作していて、セットものの作品が数十点出品されている作家がいれば、1・2点しか出品していない作家までもいて、大小さまざまな形態である。また、質に着目すれば、加山又造のような日本画の作家の他、もの派、具体、デモクラート、自由美術、フルクサスなど、まさに多種多様な作家の作品が同じ展示室内に並べられているのである。作品ひとつを見ても、各々力のある独特の世界観を宿しているが、「現代版画センター」が中心に据えられていることで、個々の作品が独り歩きすることも、衝突することもなく、一括りの対象物として鑑賞できるようになっていた。作品の展示は、非常に気をつかったようで、アートフェアのように細かく区切られたブースが、一作家の個性を引き立たせていた。版画を中心した作品展とは思えないほど、躍動的でエネルギーに満ちていた。

埼玉県立近代美術館08島州一の作品。ジャンパー、ジーンズ、チェ・ゲバラをモチーフにしている作品もある。


埼玉県立近代美術館09(寄託含む)建築家磯崎新の作品。


埼玉県立近代美術館10菅井汲の作品。34点という本展で随一の出品数を誇る。さまざまなパターンの色面が和音を響かせながら変容する作品群で、ひとつひとつのメロディーをたどってゆくと、徐々に心が湧きたってくるような感覚があった。


埼玉県立近代美術館11山口勝弘の版画集『ANTHOLOGICAL PARINTS 1954-1981』に収録された作品。


「現代版画センター」を企画展として形成するために、梅津氏は次の3本の柱を立てたという。それは、「メーカーとしての現代版画センター」「オーガナイザーとしての現代版画センター」「パブリッシャーとしての現代版画センター」の3本である。「メーカー」としての活動は、オリジナル・エディションの制作と展覧会および頒布会であり、「パブリッシャー」としては、エディションの総目録をはじめニュースなどの刊行物の発行をしていたこと、「オーガナイザー」としては、数々の事業を自発的に行ってきたということを俯瞰してみることで浮かび上がったことで、展覧会では年譜や見取り図などでその影響力のほどを知ることができる。これは、三部構成となっている本展の図録にも「テキスト・ブック」「ヴィジュアル・ブック」「アトラス」というかたちで反映されている。要するに、現代版画センターが担った「メーカー」「パブリッシャー」「オーガナイザー」という3つの役割によって、作家だけではなく、コレクター、評論家、画廊、美術館、出版社とその他の異業種の者が分け隔てなく関わりあうことができて、それが結果として美術普及という大きな役割を果たしていたのである。まるで、台風の目のようだ。豪雨と強風により爪痕を残し、過ぎ去った後の空を仰ぐと雲一つない眩しいくらいの光で目の裏に残像をつくった。権力的・物質的なことだけではない「美術作品」を所有するという意味は、実に深いところから形成されていることを学んだ。

埼玉県立近代美術館12難波田龍起の作品。生前は瑛九を知る人物のひとりであった。


埼玉県立近代美術館13北川民次の作品。民次と次に紹介する瑛九、駒井哲郎の3作家は、現代版画センターのオリジナル・エディションではなく、特別にコレクション作品として展示している。


埼玉県立近代美術館14瑛九《海辺の孤独》1957年、リトグラフ、左下に鉛筆で「20/35」と右下に「Q Ei」のサインあり。


埼玉県立近代美術館15上の作品は、瑛九《離陸》1957年、リトグラフ、左下に鉛筆で「Epreuve d artiste」と右下に「Q Ei/57」あり。下の作品は、《着陸》1957年、リトグラフ、鉛筆により左下「1/20」と右下「Q Ei/57」とあり。


埼玉県立近代美術館16上から瑛九《作品2(works2 Yellow and Green)》1950年頃、木版、《作品1(works1 Yellow)》1950年頃、木版。
ともにインクで「瑛九作 谷口都」とあり。谷口都は、瑛九のパートナーである。瑛九が48歳という若さで逝去したあと、サインの無い作品にこのような署名をいれて、美術館や知人に預けた。

埼玉県立近代美術館17駒井哲郎の作品。

オリジナル・エディションではない3作家である北川民次、瑛九、駒井哲郎が本展に含まれているのは、その根底に好きな作家を後世に伝えるという意思とコレクターとして作品を所有する喜びを伝える上で、欠くことのできない存在なのだろう。

一方、現代版画センターがこれらの運動の軸としていた「オリジナル・エディション」づくりには、誰に版画制作の依頼をするかの会議を開き、様々な人に意見を募って決めていたという。この制作側と鑑賞者側(コレクター)が接点を持つ切っ掛けを「作品」を通じてつくるスタイルは、久保貞次郎が行っていた「小コレクター運動」が元になっていたと考えられ、梅津氏はこの運動が現代版画センターにスピリットとなって宿っているという。

ところで、小コレクター運動が本格始動するのは、1958(昭和33)年5月に真岡市の久保貞次郎邸で行われたのを第一回目とされているが、実はその一年前の1957年6月に「版画友の会」が発足し、頒布会が行われている。おそらく、これで手応えを感じ、継続的な運動へ発展することになったのであろう。丁度、久保が企てた小コレクター運動発足前の「会議」の様子を窺える書簡があるため、以下に紹介したい。

12月27日の夜、浦和の武さし野荘に、画家、蒐集家などのメンバーが集まり、良い画家を育てる方法とか、絵を集める話など、皆で一晩話し会いたいと云うプランをたてました。/27日の夜武さし野荘に10人位泊れるかどうか都合を聞いて、岩瀬さん宛返事を知らせて下さい。宿泊の金額も、その時知らせて下さいませんか。/大変ごめんどうなお願いですがよろしくお願いします。宿舎がOKなら通知はぼくの方でだします。その通知の時に印刷物に、発起人として、あなたとぼくの名前を使いたいと思いますが、よろしいでしょうか。要項は次の通りです。
①通知を出すメンバー
アイオー、池田〔満寿夫〕、磯辺〔行久〕、木村利三郎、瑛九、尾崎〔正教〕、野々目〔桂三〕、大野〔元明〕、高森〔俊〕、砂山、ミセス野々目、岩瀬〔久江〕、長尾、高山和孝、伊藤善〔市〕、島崎〔清海〕、久保〔貞次郎〕、片岡(新潮社有望なる蒐集家の卵)
②期日  12月27日午後1時~28日昼解散
③費用  宿泊費自己負担、会費150円
④テーマ 最近の情報交換及び絵画の蒐集についての話し合い
⑤出席者の諸君に見せたい作品があったら、ご持参下さい。
以上の通りです。どうぞよろしくおねがいいたします。返事は折り返し至急お願いします。
久保貞次郎
m ikeda〔池田満寿夫〕
磯辺行久
岩瀬久江

(1957年12月20日付、久保貞次郎書簡より)※〔 〕は筆者による



上記のなかには、現代版画センターの創立に関わり、わたくし美術館運動を提唱した尾崎正教の名前があり、瑛九、池田満寿夫磯辺行久、靉嘔、木村利三郎の名前も確認することができる。この「武さし野荘」とは、浦和市常磐町(現在のひなぎく幼稚園のあたり)にあった公立学校共済組合による宿泊施設である。瑛九が浦和に移り住みついたころから、久保は、創造美育協会事務局を瑛九宅として、島崎清海を通じて重要な会議の場に武蔵野荘を選んでいた。小コレクターの会を発足するために話し合われた場が、埼玉県立近代美術館と同じ町内(常盤)というのは、やはりスピリットとしてこの土地に依拠しているからかもしれない。現代版画センターは、このような久保貞次郎の意志を引き継いだ持続可能な活動拠点となったことで、安定した作家支援と美術普及の形を実現した。

埼玉県立近代美術館18大沢昌助《机上の空論 黒》《机上の空論 赤》1982年、リトグラフ。
菅井汲竹田鎮三郎などの刷りも担当した森仁志(森版画工房)によるもの。世界最大級のプレス機を入れた2年後に制作された横2mを超す作品である。

埼玉県立近代美術館19右が内間安瑆の木版、左3点は藤江民のリトグラフである。共に版画とは思えないほど、色の表情が豊かである。


埼玉県立近代美術館20彫刻家舟越保武の石版画集に収録された作品。


埼玉県立近代美術館21資料閲覧および休憩スペース。展示室内に現代版画センターの関係資料が設置されているところは、3か所もあった。


埼玉県立近代美術館22柳澤紀子の銅版画。手彩色が施されている。


埼玉県立近代美術館23草間彌生の作品が展示されている風景。


埼玉県立近代美術館24建築家安藤忠雄のシルクスクリーン。


埼玉県立近代美術館25アンディ・ウォーホルのシルクスクリーンと1983年に行われた展覧会ポスターが展示されている。


埼玉県立近代美術館26映画作家ジョナス・メカスの作品。展覧会実行委員会との共同エディション。
常に新しいイメージを追い求め、新しい試みに挑戦していたことがわかる。

梅津氏によると、展覧会が始まると、当時勤めていた同センターのスタッフがあちこちから集まり、同窓会のように喜んでいたという。また、私のように当時を知らない鑑賞者は、ここまで熱く、ダイナミックな活動を展開していたことに驚く声も多かったという。

それから、本展図録の「A.テキスト・ブック」には、梅津元氏の論考に加え、細かく丁寧に取られた基本情報が収録されている。コレクターや初心者でも親しみ易い体裁にまとまっていて、『現代版画センターニュース』をはじめとする主要刊行物の総目録は、手元に置いておきたいものである。では、最後に1974年現代版画センターの創立後ほどなくして『版画センターニュース』(Vol.1,No.6、1975年7月20日)に掲載されていた「没後15年先駆者瑛九を囲む人々展」の開催文を下記に引用したい。

瑛九とはそもそも何者なのでしょう。瑛九には多くの友人と呼ばれる人、そして多くの弟子と伝える人々がいました。彼らは瑛九から学び、瑛九に何かを教えた人々です。その多彩な人間関係の中に、あのドロドロとした、洗練という言葉からは程遠い作品群があり、人間瑛九をめぐるドラマに尽きない興味が湧いて来るのは何故でしょう。靉嘔はじめ池田満寿夫、磯辺行久ら瑛九の教える人達のそのはじまりは、瑛九のタッチそのままであり、その後彼らは、各々の道を歩みながら着実にその世界を築いて行きました。作家瑛九は、同時に教育者、指導者瑛九でもあったわけです。

本展は、「現代版画センター」の活動全体を45名の作品から見るものであり、瑛九が特別に扱われていたわけではない。しかし、上記のように同センターの刊行物を参照すると、活動の起爆装置として、瑛九が挙げられていたことがわかる。この他にも尾崎正教、針生一郎、ヨシダ・ヨシエ、細江英公、北川フラム、難波田龍起などによる瑛九の関連記事が認められ、また、「ギャラリー方寸」のオープン企画も瑛九であったことも付け加えておきたい。(http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53192197.html

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ちょっと寄道…


今回の取材先は版画に特化した展覧会であり、埼玉であることから、以前から伺いたいと思っていた金森茂のご遺族のところにおじゃました。瑛九が旧浦和市に越してきて、リトグラフ(石版画)を学んだのが常磐町1丁目にあった金森茂の印刷工場であった。金森茂(1911年8月12日~1976年6月27日)は東京に生まれ、もとは京橋の印刷屋に勤めていた。太平洋戦争で焼け落ちたあと、浦和に疎開し、そのまま工場の拠点とした。

埼玉県立近代美術館27瑛九のアトリエとゆかりの地。瑛九は1951年9月~1952年2月までは、仲町の関口留吉の借家に住み、1952年3月からは本太に戸建てのアトリエに落ち着き、晩年をここで過ごした。線路を挟んで、現在のうらわ幼稚園向かいのマンションあたりに金森茂の印刷工場があった。金森と知り合った翌年の1957年には、寺内萬治郎らによって進められた美術館建設運動が功を奏し、別所沼のほとりには「埼玉県立美術館」が開館している。建設前から行われていた埼玉県展では、瑛九が審査員に加わっていることから、美術館建設に向けて何らかの形で協力、もしくは作品の展示計画があった可能性も考えられる。なお、久保貞次郎の書簡にあった「武蔵野荘」の位置はポイントしたところで、都夫人が買い物にいっていた「太陽堂薬局」「魚屋(魚徳 新井)」や浦和での初の個展会場「コバルト画房」は、それぞれ店構えが変わっているものの現存している。浦和には、戦前から美術家が集まりはじめて、活動しやすい環境作りが地元美術家や美術教師によって行われていた。瑛九にとっても浦和での生活は、充実していたことが窺える。
(出典:山田志麻子「瑛九のアトリエ――浦和での足跡をたどって」、『公済時報』12巻5号、参考:「浦和市全図」1958年)


瑛九は、1956年3月頃から工場に来るようになった。そのきっかけを与えたのは、瑛九と共著(『やさしい銅版画の作り方』1956年、門書店)を執筆した美術教師島崎清海の紹介であった。瑛九は、昼過ぎくらいにいつも妻都を連れ立って工場に現れたという。金森茂は、名刺や賞状などの印刷の依頼を受けていた職人で、美術関係に通じる仕事はしていない。そのため、工場では、口数の多い方でもない金森から特別に瑛九が教わっている様子ではなかった。瑛九は、黙々と作業をする金森の背中を見て、技術を学んでいたようである。瑛九も特に話しかける様子もなく、お互い無口だった。瑛九は、2・3人の職人が仕事をしている横で、自身の制作の機会を伺っているようでもあったという。制作中、都は現場を見るわけでもなく、金森の妻と奥の掘り炬燵に入って「おしゃべり」を楽しんでいたという。また、瑛九と都は、時々金森家でご飯を食べて帰る家族ぐるみの付き合いをしていた。巨大な口のようなイメージのリトグラフ《拡声器》《森の中》《大喰い》は、金森家に足を運んで着想を得たのかもしれない。

話を伺っていた中で、特に気になったのは、金森茂がたとえ中古であっても仕事道具の石板を譲るつもりになったことである。出会ってすぐに譲ったわけではないことから、瑛九のリトグラフに対する真摯な姿勢を認めたからではないかと想像する。瑛九が福井の美術教師木水育夫に送った書簡の中では、熱っぽく自らを「リト病」「職人のよう」と表現するほど、リトグラフにのめり込んでいた時期である。

埼玉県立近代美術館28金森茂のご遺族が所蔵するエッチング1点とリトグラフ2点。右上《赤いシグナル》1956年、リトグラフ、左下「7/10」、裏に「瑛九内 谷口都」サイン
右下は、《鳥と女》後刷り、エッチング、1953制作(版画集『瑛九・銅版画 SCALE II』1975)、鉛筆で左下に「48/60」と右下にスタンプサイン、裏に「瑛九内 谷口都」サイン
《太陽の下で》1956年、リトグラフ、左下に「5/14」、裏に「瑛九内 谷口都」サイン


調査には、長女久枝氏と孫孝司氏にご協力いただいた。また、今回は、金森茂の調査から突然に瑛九のアトリエの話に大きく飛躍し、特別にアトリエにも訪問することとなった。

埼玉県立近代美術館29瑛九のアトリエ兼住宅の外観。
孝司氏は、瑛九に会ったことは無かったが、小さい頃、犬に会うために来ていたという。瑛九はもともと犬嫌いであったが、犬の本を読んだら克服できて、犬を飼うようになった。

埼玉県立近代美術館30表から玄関に向かう敷石。
瑛九や池田満寿夫、靉嘔、細江英公、河原温、磯辺行久等も歩いたのだろう。

埼玉県立近代美術館31「アトリエでくつろぐ瑛九」(出典:「思わず誰かに話したくなるアートの話 美のひととき展」)

埼玉県立近代美術館32宮崎県立美術館で作成されたアトリエ内の見取り図(出典:「思わず誰かに話したくなるアートの話 美のひととき展」)瑛九が使用していた画材道具などは、宮崎で保管されている。常設展には瑛九のコーナーが設置され、アトリエ内の再現展示を行うこともある。


埼玉県立近代美術館33現在の瑛九のアトリエ内部。瑛九の作品は一点もない。瑛九が逝去して58年が経過し、都夫人の居住空間になっている。展示で使用したであろうパネルを捨てずに立てかけているところをみると、都夫人は人を招いたときの解説用として使用していたのだろうか。また、瑛九のいないアトリエにならないために写真を置いて、寂しさを紛らわしているのかもしれない。


埼玉県立近代美術館34梁と壁面の間には、珍しい細工が施してある。真っすぐではない自然のままの木材も親しみやすくて良いと思った。


埼玉県立近代美術館35今回、撮影に同行いただいた久枝氏は、アトリエがじきに無くなると話していた。
お皿の網目模様が、瑛九のフォト・デッサンに入れられた模様と重なって見えた。光を通さない皿の模様が印画紙に写るわけはないが、困惑しながら瑛九の痕跡を探そうとシャッターを切った。
瑛九のアトリエについては、うらわ美術館学芸員の山田志麻子「瑛九のアトリエ――浦和での足跡をたどって」(『生誕100年記念瑛九展』2011)に詳しく書かれている。

埼玉県立近代美術館36この戸を開けると、すぐに庭が続いている。瑛九がいた頃、ここはよく開け放たれていた。久枝氏が若かったころ、瑛九のいるこの前を通るとき、緊張してしまい避けていたと語った。右側に設置されている蛇口は、フォト・デッサンを現像するときに使っていたようだ。

埼玉県立近代美術館37室内で手鏡が掛かっているのを見つけた。おそらく、瑛九の次のフォト・デッサンのモチーフになっていたものである。

埼玉県立近代美術館38《お化粧》1954年、フォト・デッサン、宮崎県立美術館蔵(出典:『瑛九フォト・デッサン展』2005)

瑛九のアトリエをこのまま取り壊してしまうのは惜しいと、長年思い続けていただけに、今回このような形で紹介できて良かったと思う。2011年の3館共同の「生誕100年記念瑛九展」開催時にも周りからの勧めもあって、意見を伺うためにあちこちの瑛九関係者を尋ね歩いたことがあった。元は手元に置いておくための記録だが、今回のアトリエの話題に関連するものとして、一部公開することにした。なお、都夫人の他はすべて名前を伏せ、プライベートに関わるところは割愛した。



瑛九のアトリエ保存に関する聞き取り> 
実施期間:2011年6月6日~11月6日
2011年7月4日 谷口ミヤ子(瑛九夫人):アトリエを残すことは、賛成。本当なら茅葺き屋根のまま残しておきたかったと話す。屋根が傷んでから、本当は葺き直したかった。今は、瓦屋根になっている。アトリエには、池田満寿夫や靉嘔たちが来て、電車が無くなるギリギリまでおしゃべりしていて、いつも走って帰っていった。皆、若かったから、「私が食べさせなければいけない」と思って、都は自転車で野菜を安く売ってくれるところまで買いに行っていた。満寿夫は、珍しく生魚が食べられず、都が漬けた漬物は喜んで食べた。

その他、瑛九関係者及び瑛九の作品を扱う美術関係者11名:アトリエに関して聞き取りを行ったところ、概ね4本の課題があることがわかった。
①権利関係の明確化/②修理、移築、管理するための資金源/③組織づくり/④活用方法について。以下には、簡単にまとめたものを掲載する。

①権利関係の明確化
・現在、アトリエの所有者や権利関係は誰にあり、その後は、どこで所有することにするのか。遺族か、近所の世話人か、市・県か? 権利が遺族や世話人にあるのなら、解放して利用して良いか交渉する必要がある。
・敷地(アトリエ)が担保になっている可能性がある。
・瑛九のアトリエに関して、(他人が)動くべきではないのでは。
・今はプライバシーの関係で、個人に踏み込んで聞くことができない。そのため、所有権がどこにあるのかわからない。著作権については、以前、親族関係ではない人が持っていた。(数年前に切れている)
・谷口ミヤ子さんが万が一亡くなったとして、そのあとの所有者がはっきりしないと保存会も立ち上げられない。
・ミヤ子さんの世話人に事情を伺う必要がある。

②修理、移築、管理するための資金源
・おそらく、アトリエの運営・管理を行政に頼むと、断られるだろう。
・市や県は、財政上負担したくないはず。
・民間(ボランティア)で運営・管理するとして、行政には補助金や広報のバックアップを頼むなどの方法がある。ただし、民間で運営・管理を負担する場合、市・県には「土地利用」として申請することになり、商品等の販売ができなくなる。
・募金をつのる。アトリエの修復・維持管理費。また光熱・水道・人件費。これらを賄えるだけの資金が回収できるのか。
・埼玉が無理なら宮崎に移築してもいいのでは。
・アトリエにものがなく、都さんの生活した跡が色濃く残っている。もし、アトリエを開放するのであれば、瑛九が現存していた当時を再現しなければならない。
・宮崎県立美術館でアトリエを移築する計画があった。現在はわからない。
・アトリエを残すなら埼玉でしか意味をなさない。
・アトリエの状態がとても悪い。シロアリやネズミの被害がある。
・宮崎に移築する計画はあったが、県民の同意を得るのは、現状として難しく、動くことは不可能。
・「わの会」に瑛九の作品を所有するコレクターがいて、資金があるのでは。
・美術館の経営も難しい昨今、アトリエを市で管理するのは難しい。
・公開したときに誰がアトリエを管理するのか。
・ヒアシンスハウスと違い、(移築したとしても)広い土地が必要。
・アトリエの維持管理という面だけではなく、建物と庭の時価が相当上がっているはずである。買い取るとなると億単位になるのではないか。少なく見積もっても1億。以前、レイモンドの建築を保存するため民間団体で活動したことがある。そのときは、3億で落としたが、結局、維持管理が難しく、市に寄付することになった。建築の管理を民間で行うのは、今のご時世では無理だろう。

③組織づくり
・さいたま市では、ヒアシンスハウスの前例がある。ヒアシンスハウスの建設に関わった人に相談すること。市とどのように話し合ったのか。人と資金はどのように集めたのか。
・ヒアシンスハウス設立までの経緯。文芸と建築の団体が協力している。建築の団体はボランティアにも定期的に入り、運営に大きく関わっているという。
・市または県に何を求めるか、説得をどうするのか。
・保存活動をするならば、組織を明確にしたほうがいい。どういう団体なのか。具体的な活動内容をまとめ、客観的に見えやすくする必要がある。また、著名人を募り、どのような職種の人物が組織にいるのか、外から見ても分かりやすくするといい。
・実際に動ける若い人を集める。美術に限らなくてもいい。地域の人。学生、建築家、行政に詳しい人物。
・アトリエの保存には賛成だが、主要メンバーとして活動するのは無理。
・有名な人を先に味方につければ、鶴の一声で実行可能でしょう。
・立場上、保存会に参加するのは難しいが、できるだけ協力はしたい。
・今は無理でも地域で呼びかけがあれば県も動くかもしれない。青木繁のアトリエ保存が現在進んでいる。ほかにも実現したケースはあるはず。

④活用方法
・瑛九展開催中にアトリエを保存するよう呼びかけてはどうか。まだあるのに勿体ない。地域で残すべき。
・瑛九のアトリエは残すべきだと思っている。
・瑛九のアトリエの保存には賛同したい。浦和には画家のアトリエが点在しているが、親族が抱えきれなくなり壊された例が数件ある。瑛九のアトリエと奥瀬英三のアトリエは残していきたい。
・活用方法を明確にしないと難しい。
・将来的にアトリエをどのように活用するのか。
・修繕・保存するだけではいけない。利用価値と目的を明確にする必要がある。
・かつて「瑛九のサロン」と呼ばれていたアトリエ。議論の場を提供、都さんの漬物を再現。アトリエに通っていた芸術家には、池田満寿夫、細江英公、AY-O、河原温、磯辺行久がいる。聞き取り調査等が必要だが、これらを売りにできるのでは。
・瑛九のアトリエを宮本三郎記念館のように、美術館の別館として存在させるのが理想ではないか。
・財産(作品等)がない状態で何を売りとするのか。
・アトリエにあった作品は、すべて埼玉や宮崎の美術館へ寄贈されている。その他、画材やエッチングプレス機は、宮崎県立美術館が所蔵しているため、展示は無理ではないか。ものがないとアトリエとして公開する価値はない。
・瑛九は埼玉の画家であり、アトリエは地域の財産である。

以上

なかむら まき


◆埼玉県立近代美術館で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展が開催されています。現代版画センターと「ときの忘れもの」についてはコチラをお読みください。
詳細な記録を収録した4分冊からなるカタログは、ときの忘れもので扱っています。
会期:2018年1月16日(火)~3月25日(日)
埼玉チラシAY-O600現代版画センターは会員制による共同版元として1974年~1985年までの11年間に約80作家、700点のエディションを発表し、全国各地で展覧会、頒布会、オークション、講演会等を開催しました。本展では45作家、約280点の作品と、機関誌等の資料、会場内に設置した三つのスライド画像によりその全軌跡を辿ります。

○<(西洋美術館)新館の版画素描展示室で開催中の「マーグ画廊と20世紀の画家たちー美術雑誌『デリエール・ル・ミロワール』を中心に」
なにか埼玉県立近代美術館で開催中の『版画の景色 現代版画センターの軌跡』と通じるものがありましたね。

(20180316/タカハシさんのtwitterより)>

○<#埼玉県立近代美術館 の#版画の景色 展覧会を見てきましたよ〜
版画オールスター展覧会みたいで、とても面白かったです!

(20180121/uma_kunさんのinstagramより)>

○<日本に請われてウォーホルが描いた原画を元に日本の職人が摺ったキクが何とも言えない色合いで素敵でした。「版画の景色 現代版画センターの軌跡(埼玉県立近代美術館)」
(20180317/k_2106さんのtwitterより)>

西岡文彦さんの連載エッセイ「現代版画センターという景色は1月24日、2月14日、3月14日の全3回掲載しました。
草創期の現代版画センターに参加された西岡さんが3月18日14時半~トークイベント「ウォーホルの版画ができるまでー現代版画センターの軌跡」に講師として登壇されます。

光嶋裕介さんのエッセイ「身近な芸術としての版画について(1月28日ブログ)

荒井由泰さんのエッセイ「版画の景色―現代版画センターの軌跡展を見て(1月31日ブログ)

スタッフたちが見た「版画の景色」(2月4日ブログ)

倉垣光孝さんと浪漫堂のポスター(2月8日ブログ)

嶋﨑吉信さんのエッセイ~「紙にインクがのっている」その先のこと(2月12日ブログ)

大谷省吾さんのエッセイ~「版画の景色-現代版画センターの軌跡」はなぜ必見の展覧会なのか(2月16日ブログ)

植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ 第47回(3月4日ブログ)

土渕信彦さんのエッセイ<埼玉県立近代美術館「版画の景色ー現代版画センターの軌跡」展を見て(3月8日ブログ)

現代版画センターに参加した刷り師たち(3月11日ブログ)

現代版画センターの生みの親 井上房一郎と久保貞次郎(3月13日ブログ)

塩野哲也さんの編集思考室シオング発行のWEBマガジン[ Colla:J(コラージ)]2018 2月号が展覧会を取材し、87~95ページにかけて特集しています。

毎日新聞2月7日夕刊の美術欄で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展が紹介されました。執筆は永田晶子さん、見出しは<「志」追った運動体>。

○3月4日のNHK日曜美術館のアートシーンで紹介されました。

朝日新聞3月13日夕刊の美術欄で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展が紹介されました。執筆は小川雪さん、見出は<版画に込めた情熱と実験精神>。

○月刊誌『建築ジャーナル』2018年3月号43ページに特集が組まれ、見出しは<運動体としての版画表現 時代を疾走した「現代版画センター」を検証する>。

○埼玉県立近代美術館の広報誌 ソカロ87号1983年のウォーホル全国展が紹介されています。

○同じく、同館の広報誌ソカロ88号には栗原敦さん(実践女子大学名誉教授)の特別寄稿「現代版画センター運動の傍らでー運動のはるかな精神について」が掲載されています。
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現代版画センターエディションNo.643~No.650 岡田隆彦・柳澤紀子 詩画集『海へ』
現代版画センターのエディション作品を展覧会が終了する3月25日まで毎日ご紹介します。
表紙奥付

岡田隆彦・柳澤紀子 詩画集『海へ』
岡田隆彦:詩8篇
柳澤紀子:版画(銅版+手彩色)8点
刷り:山村兄弟版画工房
装幀:五十嵐恵子
発行日:1984年5月23日
発行者:綿貫不二夫、原勝雄
発行所:現代版画センター、浜松アートデューン
印刷・製本:クリキ企画印刷株式会社

サイン岡田隆彦サイン

I
I 詩

I
また海へ出るのだ、
荒れ狂う心をしずめるために。
おれの小舟よ、涙をぬぐえ!
行方知れずの母よ、
おれはいま、波を押しかえす。

II
II 詩

II
自分を洗っている海へ。
(語るなかれ) 海へ。
時が結晶してゆく、
したたかな器官のような
石のごとく物言わぬかたちへ
泳ぎついて、おれはつかむ。

III
III 詩

III
港の灯はクイーンズ・ネックレス。
船は和音を静かに食べている。
青い風は嗚呼、若い草を吹く。
溺れてしまいたい、だが
必ず浮上する。

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パンフレット_05
出品作家45名:靉嘔/安藤忠雄 /飯田善国/磯崎新/一原有徳/アンディ・ウォーホル/内間安瑆/瑛九/大沢昌助/岡本信治郎/小田襄/小野具定/オノサト・トシノブ/柏原えつとむ/加藤清之/加山又造/北川民次/木村光佑/木村茂/木村利三郎/草間彌生/駒井哲郎/島州一/菅井汲/澄川喜一/関根伸夫/高橋雅之/高柳裕/戸張孤雁/難波田龍起/野田哲也/林芳史/藤江民/舟越保武/堀浩哉 /堀内正和/本田眞吾/松本旻/宮脇愛子/ジョナス・メカス/元永定正/柳澤紀子/山口勝弘/吉田克朗/吉原英雄

◆ときの忘れものは「植田正治写真展ー光と陰の世界ーPart Ⅱ」を開催しています。
会期:2018年3月13日[火]―3月31日[土] 11:00-19:00
※日・月・祝日休廊(但し3月25日[日]は開廊
昨年5月に開催した「Part I」に続き、1970年代~80年代に制作された大判のカラー作品や新発掘のポラロイド写真など約20点をご覧いただきます。
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●書籍・カタログのご案内
表紙植田正治写真展―光と陰の世界―Part II』図録
2018年3月8日刊行
ときの忘れもの 発行
24ページ
B5判変形
図版18点
執筆:金子隆一(写真史家)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
価格:800円(税込)※送料別途250円

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植田正治写真展―光と陰の世界―Part I』図録
2017年
ときの忘れもの 発行
36ページ
B5判
図版33点
執筆:金子隆一(写真史家)
デザイン:北澤敏彦(DIX-HOUSE)
価格:800円(税込)※送料別途250円


●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
20170707_abe06新天地の駒込界隈についてはWEBマガジン<コラージ12月号>をお読みください。18~24頁にときの忘れものが特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。