植田実のエッセイ「本との関係」第7回

高橋睦郎の「友達」


 『高橋睦郎のFriends Index友達の作り方』(1993年マガジンハウス刊)のなかで、西部版『毎日中学生新聞』の詩の欄に投稿していた頃のことが書かれている。その後は「短歌、俳句、作文の欄でも入賞が続き、三年に進級する頃には西日本の少年文壇のちょっとした星だった」。週に数通は来ていたというファン・レターのなかに大人の文字の葉書があった。差出人は、山口県萩市明倫小学校柳井正一。生徒ではなく先生である。上記の新聞などで注目した少年たちと連絡をとり、西日本少年文壇の同人誌を作ろうとしていた。1952年の大晦日にそれは実現した。40ページの『でるた』という冊子である。そこに作品を寄せている「俊秀たち」を、「アトランダムに名前を挙げれば、日野孝之、八尋舜右、植田実、小田亨・・・」と10人ばかりを列挙し、「八尋舜右氏は現在朝日新聞社図書出版室長、植田実氏は建築評論家、・・・」といま知られる消息が紹介されている。
 それによると私の作品も載ったらしい同人誌『でるた』は、手元にないばかりか、そんな冊子がつくられたこと自体まるで記憶にない。けれど、柳井正一先生から私にも来た葉書や手紙は残っている。小倉高校に入学した年、その春の運動会に先生は私を訪ねてこられた。坊主頭に白鉢巻の私と並んだ写真も残っている。『でるた』第1号刊行後、柳井先生は強度の神経衰弱に羅り他界された、と詩人は伝えている。
 ユニークな交友録によってここまで記憶をたどってきたところで、すっかり忘れ果てていたことに思い当たった。現代詩の入門書などに接して自分ははじめて詩を書きはじめたつもりでいたのだが、じつは中学1年の頃から、まぁいかにも中学生らしい詩を書きはじめ、同じように西部版『毎日中学生新聞』に投稿していたのである。(今回、資料を探していたら、中学時代の詩をまとめた手書き詩集『クレヨンの匂い』という小冊子が出てきたのでそのことを知ったのだ。ある作品には「中毎に掲載」などの但し書きが付いている。清書してしばらく放っておいたのを、高校2年の終わりにあとがきを書き、表紙を付けた。文字やデザインに、その頃は花森安治に傾倒していたことがバレている)。
 当時、高橋さんの名は同じ欄を通して知っていたに違いない。ただ直接手紙をやりとりしたことはなく、いわゆるペン・フレンドなら、高橋さんが「俊秀たち」のなかに名を挙げられた小田亨がいる。前回に触れた、寺山修司『忘れた領分』の存在を訴えたのはこの人である。彼とは長く音信が絶えていたが、そのときの新聞記事で、現在はたしか静岡あたりに住んでいることをはじめて知った。
 小田さんとは中学高校時代に会うことがあったのか定かでないが、大学に入って親交を深めた。彼は他の大学に行っていたのだが、受験時代を通過して、お互いに訪ねあえる余裕がはじめてできたのだろう、とにかくよく会った。当時私が住んでいたアパート近くの洗足池でボートを漕いだり、新宿で飲んだり。前回にも触れた「ガラスの髭」にも彼は入会し、一緒に『忘れた領分』を読む仲となる。高橋睦郎さんとはその前からとくに親しく、上記の本によれば「まるで恋文のような手紙をやりとり」していた。この頃、詩を書いたノートを貸し借りし合う習慣があり、そうして彼が高橋さんの手書き詩集を丸写しした(あるいは編集して書き写した)ノートを私が借り受け、同じ手書きでコピーのコピーをした『高橋睦郎詩集』が手元に残った。約100頁、80篇近くが万年筆で丁寧に書かれている。いまの私より格段にきれいな筆蹟だ。小田さんが高橋詩集をノートに書き写し、私がさらにそれを丸写ししたのはともに大学に入った年。
 しかし私の大学生活は1年目の夏に中断する。母の病いが重く、見舞に小倉に戻ったのだが、いつ深刻な事態になるか先が読めないという医者の見立てで、東京に帰れなくなってしまったのだ。これでは死を待っているみたいだと、病床の母を励まし東京に帰りつくや否や訃報が追いかけてきて、また小倉にとんぼ返りする破目になった。親しい人、しかももっとも親しい人の死はわが人生の最初の出来事で、結局、大学を1年休学し、一年下のクラスで授業を受けることになる。
 高橋さんとはじめて会って言葉を交わしたのはずっと後である。もちろん彼はすでに高名な詩人であった。その後、何度か会うことがあったが、例の手書きの『高橋睦郎詩集』を見せて勝手に書き写したことへの了承をいただくと同時に、さらに厚かましく、サインを乞うたときがある。苦笑とも困惑ともみえる表情をにじませながら、しかし真剣に書いてくれた名と日付は、私が彼の手書き詩集をつくった日からちょうど30年後になっている。『現代詩文庫19 高橋睦郎詩集』(1969年 思潮社刊)には「初期詩篇から 1953-1959」として9篇が収録されているが、うち2篇は、多少手を加えてはあるものの、この手書き詩集のなかにもある。当時はもちろん、彼のきらめくような言葉にこちらはなす術もなかった気持だったか、今あらためて読み返してみると、この人はやはり書く理由があってこそ詩を書いていたのだとしみじみ思う。
 前回に触れた寺山修司との出会いからはじまる、こうした一切が大学1年の春から夏までに起こった。面会謝絶となった寺山さんとはそれきりで、後年、渋谷の食べもの屋で近くの席にいた「天井桟敷」の主宰としての彼を見掛けたりするが声はかけなかった。当然、彼のほうは私を覚えていなかっただろう。しかし私の姪はいつのまにか「天井桟敷」の衣装担当になっており、海外公演にもついていっていた。そのような形でも寺山さんへの関心はいつもどこかで繋ってはいたのである。
 前回参照した、『寺山修司全詩歌句』(1986年 思潮社刊)に併載されている年譜にまた戻ると、「チェホフ祭」で短歌研究新人賞を受賞した際、「自作の俳句を短歌にアレンジしたことと、俳句の中村草田男、西東三鬼、秋元不死男の影響が強かったために俳壇で問題となる」とある。この問題はその後も彼につきまとう。ようするに規範を守らず真似ごとに終始したという寺山像がくりかえし、さまざまな論者によって描かれる。だが私の実感からすれば、そうした局面にこそ彼の天才の資質が否応なく見られ、それに圧倒されていたのである。俳句でも詩でも小説でも映画でも、寺山修司の言葉は接したもの全てにたちまち染まっていく。その自然体ともいえる同化のなかに彼独自の世界がすでに確立されている。ものを創る人間にはこうした弱点的資質が備わっていなければならないのだと、私は確信したにちがいない。なかでも俳句・短歌には誰がなんと言おうと寺山修司のエッセンスそのものがあると勝手に思っている。結局「チェホフ祭」を書いて世に知られた、ひとりのハイティーンをさいごまで私は追いつづけたのだった。

 上の文には、2006年7月28日の日付が入っている。「ときの忘れもの」のホームページに書いたのだ。今回、表現には多少の手が入っているが内容はそのままで再録している。これを読んだ人が高橋さんに知らせ、結局は大学ノートに手書きの『高橋睦郎詩集』を表紙から裏表紙までそっくりゼロックスコピーでとって高橋さんにさしあげることになった。当画廊社長の綿貫令子さんがその仲介と作業を引き受けて下さり、彼女の手になる立派な造本(ルリュール)によって、ノートのたんなるコピーではなく、貴重な図書が残されたのである。すなわち、高橋睦郎詩稿ノート→小田享の編集・書き写しによるノート(1955年3月)→植田による丸写しノート(1955年7月)→それに高橋さんの署名をいただく(1985年7月)→綿貫令子造本によるゼロックスコピーを高橋さんに進呈。といった流れのなかに『高橋睦郎詩集』という「本」が漂っている。1字1字に敬意をこめた写しであり、いつどこでもだれでも再生産できるが、目的は本をつくることではなく「読む」ことの身体化であり、それは元のかたちに向き合い生き続ける「本」でもある。
 もしこれが高橋さんの詩業を残す印刷・出版物に加えられるとすれば、この流れを遡って小田享ノート(彼はたぶん保管している)にまで、可能ならさらに高橋睦郎詩稿にまで辿りつく必要があるだろう。もっとも現実に近い「本」はそこから始まる。いまのところ最終的なコピー本(日付を入れ忘れたのは残念だが)は私も1部いただき、綿貫令子さんの手元にも控えとして1部同じ造本で残されているらしい。興味のあるかたは駒込に来廊された折に申し込めば、手にとって見ることができるかもしれない。


001002『高橋睦郎詩集』大学ノートに手書きの表紙と本文の一部
発行:1955年 限定1部
サイズほか:21.0×15.0cm、100頁


DSC_0952ルリュール:綿貫令子

003『クレヨンの匂い』手書きの表紙
発行:1953年 限定1部
サイズほか:17.5×13.0cm、54頁

うえだ まこと

●今日のお勧め作品は、植田実です。
ueda_76_hashima_06植田実 Makoto UYEDA
《端島複合体》(6)
1974年撮影(2014年プリント)
ゼラチンシルバープリント
26.9×40.4cm
Ed.5
サインあり
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阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18~24頁>に特集されています。
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