橋本啓子のエッセイ「倉俣史朗の宇宙」第1回
三木富雄展ポスター(1972)
2018年10月9日(火)から倉俣史朗(1934-1991)の展覧会が駒込のギャラリー「ときの忘れもの」で始まる。ご縁があって、不相応ながら今回の出品作を中心に倉俣史朗について書かせていただくことになった。学生時代にみた倉俣の、まるで生きているような引出し《変型の家具 SIDE1》(1970)(注1)が忘れられず、その魅力の謎を解き明かしたくて研究らしきものを開始したのが十数年前。今に至るまで、多くの方々にお世話になった。
その中には哀しくも鬼籍に入られた方もいる。想い出話に花が咲き、2時間のインタビューのはずが、「これは倉俣の大河ドラマだよ。今日だけじゃ終わらないから、明日、また来なさい。何時がいいかな」と手帳をめくっておられたインテリアデザイナーの内田繁氏。「いまでも、倉俣さんだったらどう言うかな、って考えながらつくるのよ」とつぶやかれたガラス職人の三保谷友彦氏。そして、長いインタビューが夢のように瞬く間に過ぎていった批評家の多木浩二氏と造形家の山口勝弘氏。それぞれのお顔が脳裏に浮かぶたび、目頭が熱くなり、優しさに溢れた語り口が耳元に蘇る。
倉俣の周囲にいて彼を支えた人々はそのように誰もが優しかった。それは、倉俣自身が誰よりも優しい人だったから、と皆、口をそろえて仰る。それで想い出したが、倉俣の有名な肘掛椅子《ミス・ブランチ》(1988, 図1)のタイトルの由来であるT・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』(1947年ブロードウェー初演、1951年映画化)の主人公ブランチは、劇の最後にこうつぶやくのだ――「……私はいつも見ず知らずの方のご親切にすがって生きてきましたの」(小田島雄志訳、新潮文庫)。
図1
MISS BLANCHE
1988年
Photographed by HIROYUKI MORI
戯曲でも映画でも観客が一等はっとさせられるこのセリフこそ、ひょっとしたら、倉俣が《ミス・ブランチ》に込めた意味ではなかったか。この考えは今、初めて筆者の脳裏にひらめいたのだけど、そう考えると、《ミス・ブランチ》は倉俣から周囲の人々への感謝のしるしであったように思えてくる。《ミス・ブランチ》の発想から生まれたアクリルブロックのオブジェが多数出品される今回の個展にあやかって、このエッセイもまた、倉俣研究でご教示いただいた方々への感謝のしるしとなればと思う。
長い前置きになったが、それを書きたくなったのも、今回の出品目録がやはり倉俣の交流の広さを物語るものだからだ。しかもこの交流は、建築家やファッションデザイナーから小児科医に至るまで実に幅広い。今回のエッセイでは、倉俣と美術家の三木富雄(1937-1978)の交流について少し触れてみたい。
出品作のひとつである三木の耳の彫刻をモティーフとするポスター(図2)は、1972年11月20日-12月10日に東京・日本橋の南画廊で開催された三木富雄の個展のために倉俣がデザインしたもので、単純な構成だけに視覚的なインパクトに満ちている。耳はアルミ合金の鋳造彫刻で、小川隆之が撮影した。耳の作品をつくり続けたことで知られる三木だが、意外にも耳だけで構成された個展は3度しか開かれておらず、この1972年の個展はその最後の機会となった(注2)。
図2
「三木富雄展(南画廊)ポスター」
デザイン:倉俣史朗
写真:小川隆之
1972年 オフセット
103.7x73.5cm
三木富雄のサインあり
*今回の「倉俣史朗 小展示」に出品展示します。
1972年当時、クラマタデザイン事務所でアルバイトをしていたインテリアデザイナーの沖健次は、三木が倉俣の事務所にしょっちゅう遊びに来たことや、事務所に耳の作品がいくつかあったことを記憶している。それほど倉俣と三木は仲が良く、このポスターも「倉俣さんが、MIKIの書体や大きさ、位置をいろいろ検討していたことを覚えています。その横の南画廊の文字はこの当時倉俣さんがよく使っていたフーツラ・ライトの文字です」と沖は回想する(注3)。
デザイナーである倉俣と、美術家である三木とがいつ、どのようにして知り合ったのかは不明だが、やはり倉俣と親しかった彫刻家、田中信太郎は、1967年の倉俣のインテリアデザインによるサパークラブ《カッサドール》(東京・新宿)の開店祝いのパーティで三木富雄が田中を倉俣に紹介したと語っているから(注4)、遅くともそれまでにはふたりは出会っていた。もっとも、1960年代後半という時期を直に経験した人々に言わせれば、デザインと美術のような異分野に属する人同士がどこでどのように知り合ったのか等ということを訊くこと自体、まったくの愚問らしい。なぜなら、この時代には異分野の交流がまったく自然に行われていたからだという。アバンギャルドなクリエイターたちや批評家たちは必ず、話題の展覧会やイベントに顔を出し、馴染みの画廊やバーやクラブ等、特定のスポットに常に集っていた。それゆえ、アートや建築、インテリア、音楽といったジャンルの垣根を超える活動は、今では想像できないほど、自然発生的に行われたのだ。南画廊も皆の常連スポットのひとつだった。1956年から1979年まで一貫して現代美術を紹介し続けたこの画廊は、戦後日本の前衛美術の展開に大きく貢献したのだ。
そのような時代だったからこそ、倉俣が三木や田中、そして《カッサドール》の壁画を担当した高松次郎のような美術家と出会う機会はいくらでもあり、まして駒込林町に家があった倉俣は中学の時分から上野の読売アンデパンダン展を見ていたから、「反芸術」の作家とは出会ってすぐに意気投合したはずだ。三木は1957年から1963年まで読売アンデパンダン展に出品したほか、銀座界隈の画廊で作品を発表している。彼より3才年長の倉俣はその間、銀座の三愛の店舗設計やウィンドウ・ディスプレイを担当しており、上野は無論のこと、銀座や日本橋の画廊で発表される前衛芸術はおそらくすべて見ていただろう。
子どもの頃から接触、吸収した前衛美術は、アメリカンセンターの図書館に通い、『ARTFORUM』等の雑誌から得た海外の美術動向の情報とともに、終生にわたり倉俣のデザインにさまざまに作用することになる。いかなる作用を及ぼしたのかについては、あまりに多くの事が考えられるため、今ここでは三木と田中がその作用のあり方に深く関わったと指摘するにとどめよう。1986年に雑誌『SD』の企画で沖健次が行ったインタビューでも、倉俣はふたりの名をアートとの関わりをもたらした人物として挙げている(注5)。
倉俣は三木を尊敬してやまなかったと聞くが、事実、建築批評家の長谷川堯が1973年に『商店建築』に寄せた記事には、倉俣が折に触れて三木と論議を交わしていたらしい部分が垣間見える。この長谷川の記事には長谷川と倉俣の会話が含まれているが、その中で三木の名前が次のように登場する。
倉俣「昨日あれからずっと考えてみたんだけど あの何で透明な素材を使って家具を作るかというギョーさんの質問 あれ。……この間三木富雄と話していたことから思いだしたんだけれど 結局すべてのことが「引力」に帰着するんじゃないかと考えたんです。」(注6)
(中略)
長谷川「引力ってあのニュートンの引力ですか(中略)でもどうしてそんなものを考えるようになったんだろう」
倉俣「だから直接には三木富雄なんかと話しているうちにそう思うようになったわけだけど 別ないいかたをすれば ぼくがいつもいうゼロからスタートして ゼロから発想して行くというやりかたで土を掘っていたら「引力」が出てきたということなのかもしれない。……」(注7)
倉俣と三木がどのような会話をしたのかはこの記事を読むだけでは分からないが、この連載記事全体の内容から察するに、彼らが話題にしたのは、引力のような、人間を支配するものでありながら、身近に自然に存在するものであるがゆえに、それが人間の自由さを制限するものであることに気づかないことについてだったのだろうか。気づかず、支配するものという点では、耳も引力も同列であるかもしれない。
いずれにせよ、この長谷川との会話を契機として、倉俣は引力(のちに重力、浮遊に言い換えられる)からの解放を終生、己のデザイン思想の根幹のひとつとして語ることになる。本エッセイの冒頭に挙げた《ミス・ブランチ》も例外ではない。倉俣は1989年に、パリで展示した《ミス・ブランチ》を含む一連の透明アクリルに色や羽根やバラを鋳込んだ作品について次のように語った。
「透明性だとか、浮遊性とか、重力の自由に対する願望っていうのはまず一番強いんじゃないか。重力という人間の法則を絶つところから、本当に解放されるんじゃないかな。それで気がつくと、結果として形となるような気がするんですけど。」(注8)
このデザイン哲学は長谷川堯が倉俣にインタビューをした1972年から少しも変わっていない。三木の訃報を事務所の電話で聞き、所員がいるにもかかわらず、声をあげて泣いたという倉俣。彼が生涯、貫いた「引力」の哲学は三木富雄との強い絆の証でもあったのだ。
(はしもと・けいこ)
注1:1970年作の《変型の家具》は「Side 1」「Side 2」の2種類あり、1996年に原美術館で行われた回顧展図録では、正面の引き出し面が波打っている方が「Side 1」になっているが、その後、クラマタデザイン事務所で発見された倉俣によるスケッチ(カッシーナ社への指示として描いたスケッチ)では、側面が波打っている方に「Side 1」の記載があるため、筆者が作品カタログを執筆した英国ファイドン社から出されたモノグラフ(Deyan Sudjic, Shiro Kuramata, London: Phaidon Press, 2013)、側面が波打っている方を「Side 1」としている。
注2:耳の作品のみの個展は1963年の内科画廊(東京・新橋)、1965年と1972年の南画廊の3つである。三木富雄の活動の変遷については次の1992年の回顧展図録が詳しい。渋谷区立松濤美術館編『特別展 三木富雄』東京:渋谷区立松濤美術館、1992年。
注3:2018年9月29日付の沖健次氏から筆者あての電子メールによる。
注4:2006年4月29日に筆者が行った田中信太郎氏へのインタビューによる。
注5:倉俣史朗「インタビュー 内部からの風景4 倉俣史朗」(沖健次によるインタビュー)『SD』1986年5月号(no. 260)、42頁。
注6:長谷川堯「『伝説』にただようクラマタの秘境」『商店建築』1973年5月号(vol. 18, no. 5)、200頁。
注7:長谷川堯「ショーケースの悲哀――あるいは沈黙するクラマタの財産」『商店建築』1973年6月号(vol. 8, no. 6)、205頁。
注8:「浮遊する名作 ミス・ブランチ 倉俣史朗」(1989年に行われた前田宏によるインタビュー)『室内』2000年5月号(no. 545)、29頁。
■橋本啓子
近畿大学建築学部准教授。慶應義塾大学文学部英米文学専攻、英国イースト・アングリア大学美術史音楽学部修士課程修了後、東京都現代美術館、兵庫県立近代美術館学芸員を務める。神戸大学大学院総合人間科学研究科博士後期課程において博士論文「倉俣史朗の主要デザインに関する研究」を執筆。以来、倉俣史朗を中心に日本の商環境デザインの歴史研究を行っている。神戸学院大学人文学部専任講師(2011-2016)を経て、2016年から現職。倉俣に関する共著に関康子、涌井彰子ほか編『21_21 DESIGN SIGHT 展覧会ブック 倉俣史朗とエットレ・ソットサス』東京:株式会社ADP、2010年(「倉俣クロニクル」執筆)、Deyan Sudjic, Shiro Kuramata, London: Phaidon Press, 2013(Book 2: Catalogue of Works全執筆)、埼玉県立美術館・平野到、大越久子、前山祐司編著『企画展図録 浮遊するデザイン―倉俣史朗とともに』東京:アートプラニング レイ、2013年(エッセイ「倉俣史朗と美術」執筆)など。
●本日のお勧め作品は、倉俣史朗です。
倉俣史朗 Shiro KURAMATA
「Perfume Bottle No. 3」
2008年
ボディ:クリスタル
キャップ:アルマイト仕上げ
6.8x5.0x5.0cm
Ed.30
保証書付き(倉俣美恵子夫人のサイン入り)
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆ときの忘れものは「倉俣史朗 小展示 」を開催します。
会期:2018年10月9日[火]―10月31日[水]11:00-19:00 ※日・月・祝日休廊
倉俣史朗(1934-1991)の 美意識に貫かれた代表作「Cabinet de Curiosite(カビネ・ド・キュリオジテ)」はじめ立体、版画、オブジェ、ポスター他を展示。 同時代に倉俣と協働した磯崎新、 安藤忠雄のドローイングも合わせて ご覧いただきます。

●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18~24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

三木富雄展ポスター(1972)
2018年10月9日(火)から倉俣史朗(1934-1991)の展覧会が駒込のギャラリー「ときの忘れもの」で始まる。ご縁があって、不相応ながら今回の出品作を中心に倉俣史朗について書かせていただくことになった。学生時代にみた倉俣の、まるで生きているような引出し《変型の家具 SIDE1》(1970)(注1)が忘れられず、その魅力の謎を解き明かしたくて研究らしきものを開始したのが十数年前。今に至るまで、多くの方々にお世話になった。
その中には哀しくも鬼籍に入られた方もいる。想い出話に花が咲き、2時間のインタビューのはずが、「これは倉俣の大河ドラマだよ。今日だけじゃ終わらないから、明日、また来なさい。何時がいいかな」と手帳をめくっておられたインテリアデザイナーの内田繁氏。「いまでも、倉俣さんだったらどう言うかな、って考えながらつくるのよ」とつぶやかれたガラス職人の三保谷友彦氏。そして、長いインタビューが夢のように瞬く間に過ぎていった批評家の多木浩二氏と造形家の山口勝弘氏。それぞれのお顔が脳裏に浮かぶたび、目頭が熱くなり、優しさに溢れた語り口が耳元に蘇る。
倉俣の周囲にいて彼を支えた人々はそのように誰もが優しかった。それは、倉俣自身が誰よりも優しい人だったから、と皆、口をそろえて仰る。それで想い出したが、倉俣の有名な肘掛椅子《ミス・ブランチ》(1988, 図1)のタイトルの由来であるT・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』(1947年ブロードウェー初演、1951年映画化)の主人公ブランチは、劇の最後にこうつぶやくのだ――「……私はいつも見ず知らずの方のご親切にすがって生きてきましたの」(小田島雄志訳、新潮文庫)。
図1MISS BLANCHE
1988年
Photographed by HIROYUKI MORI
戯曲でも映画でも観客が一等はっとさせられるこのセリフこそ、ひょっとしたら、倉俣が《ミス・ブランチ》に込めた意味ではなかったか。この考えは今、初めて筆者の脳裏にひらめいたのだけど、そう考えると、《ミス・ブランチ》は倉俣から周囲の人々への感謝のしるしであったように思えてくる。《ミス・ブランチ》の発想から生まれたアクリルブロックのオブジェが多数出品される今回の個展にあやかって、このエッセイもまた、倉俣研究でご教示いただいた方々への感謝のしるしとなればと思う。
長い前置きになったが、それを書きたくなったのも、今回の出品目録がやはり倉俣の交流の広さを物語るものだからだ。しかもこの交流は、建築家やファッションデザイナーから小児科医に至るまで実に幅広い。今回のエッセイでは、倉俣と美術家の三木富雄(1937-1978)の交流について少し触れてみたい。
出品作のひとつである三木の耳の彫刻をモティーフとするポスター(図2)は、1972年11月20日-12月10日に東京・日本橋の南画廊で開催された三木富雄の個展のために倉俣がデザインしたもので、単純な構成だけに視覚的なインパクトに満ちている。耳はアルミ合金の鋳造彫刻で、小川隆之が撮影した。耳の作品をつくり続けたことで知られる三木だが、意外にも耳だけで構成された個展は3度しか開かれておらず、この1972年の個展はその最後の機会となった(注2)。
図2「三木富雄展(南画廊)ポスター」
デザイン:倉俣史朗
写真:小川隆之
1972年 オフセット
103.7x73.5cm
三木富雄のサインあり
*今回の「倉俣史朗 小展示」に出品展示します。
1972年当時、クラマタデザイン事務所でアルバイトをしていたインテリアデザイナーの沖健次は、三木が倉俣の事務所にしょっちゅう遊びに来たことや、事務所に耳の作品がいくつかあったことを記憶している。それほど倉俣と三木は仲が良く、このポスターも「倉俣さんが、MIKIの書体や大きさ、位置をいろいろ検討していたことを覚えています。その横の南画廊の文字はこの当時倉俣さんがよく使っていたフーツラ・ライトの文字です」と沖は回想する(注3)。
デザイナーである倉俣と、美術家である三木とがいつ、どのようにして知り合ったのかは不明だが、やはり倉俣と親しかった彫刻家、田中信太郎は、1967年の倉俣のインテリアデザインによるサパークラブ《カッサドール》(東京・新宿)の開店祝いのパーティで三木富雄が田中を倉俣に紹介したと語っているから(注4)、遅くともそれまでにはふたりは出会っていた。もっとも、1960年代後半という時期を直に経験した人々に言わせれば、デザインと美術のような異分野に属する人同士がどこでどのように知り合ったのか等ということを訊くこと自体、まったくの愚問らしい。なぜなら、この時代には異分野の交流がまったく自然に行われていたからだという。アバンギャルドなクリエイターたちや批評家たちは必ず、話題の展覧会やイベントに顔を出し、馴染みの画廊やバーやクラブ等、特定のスポットに常に集っていた。それゆえ、アートや建築、インテリア、音楽といったジャンルの垣根を超える活動は、今では想像できないほど、自然発生的に行われたのだ。南画廊も皆の常連スポットのひとつだった。1956年から1979年まで一貫して現代美術を紹介し続けたこの画廊は、戦後日本の前衛美術の展開に大きく貢献したのだ。
そのような時代だったからこそ、倉俣が三木や田中、そして《カッサドール》の壁画を担当した高松次郎のような美術家と出会う機会はいくらでもあり、まして駒込林町に家があった倉俣は中学の時分から上野の読売アンデパンダン展を見ていたから、「反芸術」の作家とは出会ってすぐに意気投合したはずだ。三木は1957年から1963年まで読売アンデパンダン展に出品したほか、銀座界隈の画廊で作品を発表している。彼より3才年長の倉俣はその間、銀座の三愛の店舗設計やウィンドウ・ディスプレイを担当しており、上野は無論のこと、銀座や日本橋の画廊で発表される前衛芸術はおそらくすべて見ていただろう。
子どもの頃から接触、吸収した前衛美術は、アメリカンセンターの図書館に通い、『ARTFORUM』等の雑誌から得た海外の美術動向の情報とともに、終生にわたり倉俣のデザインにさまざまに作用することになる。いかなる作用を及ぼしたのかについては、あまりに多くの事が考えられるため、今ここでは三木と田中がその作用のあり方に深く関わったと指摘するにとどめよう。1986年に雑誌『SD』の企画で沖健次が行ったインタビューでも、倉俣はふたりの名をアートとの関わりをもたらした人物として挙げている(注5)。
倉俣は三木を尊敬してやまなかったと聞くが、事実、建築批評家の長谷川堯が1973年に『商店建築』に寄せた記事には、倉俣が折に触れて三木と論議を交わしていたらしい部分が垣間見える。この長谷川の記事には長谷川と倉俣の会話が含まれているが、その中で三木の名前が次のように登場する。
倉俣「昨日あれからずっと考えてみたんだけど あの何で透明な素材を使って家具を作るかというギョーさんの質問 あれ。……この間三木富雄と話していたことから思いだしたんだけれど 結局すべてのことが「引力」に帰着するんじゃないかと考えたんです。」(注6)
(中略)
長谷川「引力ってあのニュートンの引力ですか(中略)でもどうしてそんなものを考えるようになったんだろう」
倉俣「だから直接には三木富雄なんかと話しているうちにそう思うようになったわけだけど 別ないいかたをすれば ぼくがいつもいうゼロからスタートして ゼロから発想して行くというやりかたで土を掘っていたら「引力」が出てきたということなのかもしれない。……」(注7)
倉俣と三木がどのような会話をしたのかはこの記事を読むだけでは分からないが、この連載記事全体の内容から察するに、彼らが話題にしたのは、引力のような、人間を支配するものでありながら、身近に自然に存在するものであるがゆえに、それが人間の自由さを制限するものであることに気づかないことについてだったのだろうか。気づかず、支配するものという点では、耳も引力も同列であるかもしれない。
いずれにせよ、この長谷川との会話を契機として、倉俣は引力(のちに重力、浮遊に言い換えられる)からの解放を終生、己のデザイン思想の根幹のひとつとして語ることになる。本エッセイの冒頭に挙げた《ミス・ブランチ》も例外ではない。倉俣は1989年に、パリで展示した《ミス・ブランチ》を含む一連の透明アクリルに色や羽根やバラを鋳込んだ作品について次のように語った。
「透明性だとか、浮遊性とか、重力の自由に対する願望っていうのはまず一番強いんじゃないか。重力という人間の法則を絶つところから、本当に解放されるんじゃないかな。それで気がつくと、結果として形となるような気がするんですけど。」(注8)
このデザイン哲学は長谷川堯が倉俣にインタビューをした1972年から少しも変わっていない。三木の訃報を事務所の電話で聞き、所員がいるにもかかわらず、声をあげて泣いたという倉俣。彼が生涯、貫いた「引力」の哲学は三木富雄との強い絆の証でもあったのだ。
(はしもと・けいこ)
注1:1970年作の《変型の家具》は「Side 1」「Side 2」の2種類あり、1996年に原美術館で行われた回顧展図録では、正面の引き出し面が波打っている方が「Side 1」になっているが、その後、クラマタデザイン事務所で発見された倉俣によるスケッチ(カッシーナ社への指示として描いたスケッチ)では、側面が波打っている方に「Side 1」の記載があるため、筆者が作品カタログを執筆した英国ファイドン社から出されたモノグラフ(Deyan Sudjic, Shiro Kuramata, London: Phaidon Press, 2013)、側面が波打っている方を「Side 1」としている。
注2:耳の作品のみの個展は1963年の内科画廊(東京・新橋)、1965年と1972年の南画廊の3つである。三木富雄の活動の変遷については次の1992年の回顧展図録が詳しい。渋谷区立松濤美術館編『特別展 三木富雄』東京:渋谷区立松濤美術館、1992年。
注3:2018年9月29日付の沖健次氏から筆者あての電子メールによる。
注4:2006年4月29日に筆者が行った田中信太郎氏へのインタビューによる。
注5:倉俣史朗「インタビュー 内部からの風景4 倉俣史朗」(沖健次によるインタビュー)『SD』1986年5月号(no. 260)、42頁。
注6:長谷川堯「『伝説』にただようクラマタの秘境」『商店建築』1973年5月号(vol. 18, no. 5)、200頁。
注7:長谷川堯「ショーケースの悲哀――あるいは沈黙するクラマタの財産」『商店建築』1973年6月号(vol. 8, no. 6)、205頁。
注8:「浮遊する名作 ミス・ブランチ 倉俣史朗」(1989年に行われた前田宏によるインタビュー)『室内』2000年5月号(no. 545)、29頁。
■橋本啓子
近畿大学建築学部准教授。慶應義塾大学文学部英米文学専攻、英国イースト・アングリア大学美術史音楽学部修士課程修了後、東京都現代美術館、兵庫県立近代美術館学芸員を務める。神戸大学大学院総合人間科学研究科博士後期課程において博士論文「倉俣史朗の主要デザインに関する研究」を執筆。以来、倉俣史朗を中心に日本の商環境デザインの歴史研究を行っている。神戸学院大学人文学部専任講師(2011-2016)を経て、2016年から現職。倉俣に関する共著に関康子、涌井彰子ほか編『21_21 DESIGN SIGHT 展覧会ブック 倉俣史朗とエットレ・ソットサス』東京:株式会社ADP、2010年(「倉俣クロニクル」執筆)、Deyan Sudjic, Shiro Kuramata, London: Phaidon Press, 2013(Book 2: Catalogue of Works全執筆)、埼玉県立美術館・平野到、大越久子、前山祐司編著『企画展図録 浮遊するデザイン―倉俣史朗とともに』東京:アートプラニング レイ、2013年(エッセイ「倉俣史朗と美術」執筆)など。
●本日のお勧め作品は、倉俣史朗です。
倉俣史朗 Shiro KURAMATA「Perfume Bottle No. 3」
2008年
ボディ:クリスタル
キャップ:アルマイト仕上げ
6.8x5.0x5.0cm
Ed.30
保証書付き(倉俣美恵子夫人のサイン入り)
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆ときの忘れものは「倉俣史朗 小展示 」を開催します。
会期:2018年10月9日[火]―10月31日[水]11:00-19:00 ※日・月・祝日休廊
倉俣史朗(1934-1991)の 美意識に貫かれた代表作「Cabinet de Curiosite(カビネ・ド・キュリオジテ)」はじめ立体、版画、オブジェ、ポスター他を展示。 同時代に倉俣と協働した磯崎新、 安藤忠雄のドローイングも合わせて ご覧いただきます。

●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18~24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

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