小林美香のエッセイ「写真歌謡論」第5回

写真歌謡論 大瀧詠一「君は天然色」(1981)

98915824(図1)大瀧詠一 「君は天然色」シングル盤ジャケット

スクリーンショット 2018-12-18 16.47.51(図2)大瀧詠一 「君は天然色」ライブ映像より


今回紹介するのは、大瀧詠一(1948-2013)の「君は天然色」です(図1、2)。1981年に発表されたこの曲は、同年のアルバム 「A LONG VACATION」にも収録され、大瀧詠一の代表曲の一つとして知られるとともに、数々のミュージシャンがカバーされたり、CM曲に使われたりするなど、現在も幅広く親しまれていま す。作詞を手がけたのは、はっぴいえんど(活動期間1969~1972)として共に活動していた作詞家の松本隆(1949-)、1970年代後半から様々な歌手の楽曲の作詞を手がけ、阿久悠に並び、 昭和の歌謡史に残る数々の名作を残しています。 松本隆の手掛けたヒット曲の歌詞の中には、写真やカメラに関わる言葉が登場するものが多く、 歌い手が歌の中で相手に寄せる恋慕や、感情の交差が、写真やカメラが存在する情景の中に描き出されています。ちなみに、この曲の発表と同年にレコード大賞を受賞した寺尾聰の「ルビーの指環」も松本隆による作詞ですが、「くもりガラスの向こうは風の街」と始まる歌詞が喚起する情景の映像的な鮮やかさには目を見張るものがあります。松本隆の詞は、聴き手が、歌い手が差し出す情景の中に瞬時に引き込み、自分が 登場人物になったような気持ちにさせる力を具えています。 「君は天然色」の前後で、写真やカメラが登場する松本隆作詞のヒット曲として、太田祐美の「木綿のハンカチーフ」(1975) 、松田聖子の「制服」 (1982 「真っ赤な定期入れと 隠していた小さな写真」) や「蒼いフォトグラフ」(1983「光りと影の中で 腕を組んでい る 一度破ってテープで貼った蒼いフォトグラフ)、YMO「君に胸キュン」(1983 「夏の印画紙 太陽だけ焼きつけて」)、中山美穂「クローズアップ」 (1986 「Close Up 望遠レンズ覗くみたいに あなたしか見えないの」)が挙げられます。いずれも、自分と想いを寄せる相手との間の関係を証し立てるもの、時間の経過を示すもの、相手と自分の間の視線の交差や関係性を暗示する装置として、写真やカメラが用いられています。
数々の「写真歌謡」の名曲を生み出してきた松本隆ですが、その中でも「君は天然色」は、写真のメディウム(霊媒)として性格が十全に描き出されているところに特徴があると言えます。
まず、「君は天然色」の歌詞全体の構成を見てみましょう。

唇つんと尖らせて 何かたくらむ表情は
別れの気配を ポケットに匿していたから
机の端の ポラロイド写真に話しかけてたら
過ぎ去った過去(とき) しゃくだけど今より眩しい

想い出はモノクローム 色をつけてくれ
もう一度 そばに来て
はなやいで うるわしのColor Girl

夜明けまで長電話して 受話器持つ手がしびれたね
耳もとに触れたささやきは 今も忘れない

想い出はモノクローム 色をつけてくれ
もう一度 そばに来て
はなやいで うるわしのColor Girl

開いた雑誌(ほん)を顔に乗せ 一人うとうと眠るのさ
今 夢まくらに君と会う トキメキを願う
渚を滑るディンキーで 手を振る君の小指から
流れ出す虹の幻で 空を染めてくれ

想い出はモノクローム 色をつけてくれ
もう一度 そばに来て
はなやいで うるわしのColor Girl

タイトルの「君は天然色」は、言葉としては歌詞の中には登場せず、曲の中で三度繰り返されるサビの最後に登場する「うるわしのColor Girl」として表現されています。「天然色」とは「自然そのものの色」ではなく、「色をつけられ、華やいだイメージ」の色を意味しています。日本では、第二次世界大戦後に導入されたカラー映画作品は、白黒映画がまだ主流だった時代において「総天然色」としてその色鮮やかさが喧伝され、1960年に放送が開始されたカラーテレビは、当初「総天然色テレビジョン」と呼ばれていました。最初のフレーズの中に登場するポラロイド写真は1960 年代から広く普及し、1972年に簡便に撮影できるSX-70が発売されて流行したという時代背景があるように、大滝詠一や松本隆のような戦後世代生まれの世代にとって、カラー写真、映画のイメージは、現実の光景をそのまま再現したものというよりも、色鮮やかで華やかさを体現するものだったでしょう。 「机の端の ポラロイド写真に話しかけてたら 過ぎ去った過去(とき) しゃくだけど今より眩しい」とあるように、ここで言う「机」は、食卓のような複数の人で囲むテーブルではなく、個室の中の勉強机やデスクのことを指しているのだろうと思われます。つまり、一人で過ごす部屋の中で、アルバムの中に収められているのではなく、いつも見える場所に置かれている小さなポラロイドは、フィルムで撮影された写真のように複製(焼き増し)されるものではなく、ただ一枚だけ、自分の手元に残っている「うるわしのColor Girl」の姿を映し出したものだと想像できます。写真の次に描き出されるのは、女性の声です。「夜明けまで長電話して 受話器持つ手がしび れたね 耳もとに触れたささやきは 今も忘れない」というフレーズは、「長電話」や「受話器」 という言葉がもはや使われなくなったスマートフォンや通信の時代には、懐かしく響くのですが、 女性が近くにいるのではなく、遠くに存在する人が通信手段を介して召喚され「耳元に触れる」 ことの親密さ、生々しさを想起させます。 さらに、「開いた雑誌(ほん)を顔に乗せ 一人うとうと眠るのさ 今 夢まくらに君と会う  トキメキを願う」というフレーズでは、雑誌(ほん)を顔に乗せて眠ることで、雑誌に掲載される グラビア写真のイメージが夢の中に出てくるような展開も想起させます。歌詞全体の流れを通して聴いてみると、「うるわしのColor Girl」は、歌い手にとって身近な女性、女優やモデルのような 手の届かない憧れ、ファンタジーを具現化した女性、あるいは「夢枕に立つ」亡くなってしまっ た女性、その何れもが入り混じったような存在として聴き手の想像の中で像を結ぶのではないで しょうか。 「君は天然色」の誕生のエピソードとして、大瀧詠一が楽曲を制作していた時に松本隆が自身の妹を病気で亡くしたという経緯があり、詞の中に病気で若くして亡くなった妹への追憶が込めら れているということが知られています。楽曲全体と しては、音色も多く華やいだ雰囲気を備えながらも、歌詞は悲しみの中で世界が色彩を失い、モノクロームに映る心情が反映されているということを鑑みると(ちなみに、「君は天然色」のイントロのメロディは、写真歌謡論の第2回で紹介したThe Honeycombsの「Color Slide」から引用されています。)「うるわしのColor Girl」がただ華やでな色彩に満ちているのではなく、透明感と儚さを湛えた存在のようにも思われ てきます。また、その存在感がひときわ記憶に残るのは、ポラロイド写真が、机の端に佇み、掌の中に収まるような「ささやかで小さなもの」だからなのかもしれません。
こばやし みか

●小林美香のエッセイ「写真歌謡論」は毎月25日の更新です。

■小林美香 Mika KOBAYASHI
写真研究者・東京国立近代美術館客員研究員。国内外の各種学校/機関で写真に関するレクチャー、ワークショップ、展覧会を企画、雑誌に寄稿。2007-08年にAsian Cultural Councilの招聘、及び Patterson Fellow としてアメリカに滞在し、国際写真センター(ICP)及びサンフランシスコ近代美術館で日本の写真を紹介する展覧会/研究活動に従事。
2010年より東京国立近代美術館客員研究員、2014年から東京工芸大学非常勤講師を務める。

*画廊亭主敬白
昨日のクリスマス・イブはジョナス・メカスさんの96歳のお誕生日でした。はるか離れたNYに「お誕生日おめでとうございます、ますますのご活躍を」とエールを贈りました。
私たちが初めてメカスさんを日本にお招きしたのが1983年、今から35年前のことでした。
20180226_mekas_mmca_seoulジョナス・メカス Jonas MEKAS
"Andy Warhol at Montauk, 1971"

2000年
C-print
30.5×20.2cm
Ed.10
signed
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JONAS MEKAS(ジョナス・メカス)
1922年12月24日リトアニアのセメニスキアイの農家に生まれる。1936年初めての詩集を出版。1940・42年ソ連軍(赤軍)、ナチス・ドイツのリトアニア占領。反ナチ新聞の発行が発覚し、強制収容所に送られる。1945年収容所を脱走、難民キャンプを転々とするが、マインツ大学で哲学を学ぶ。1949年ハンブルク港から出航、アメリカ・ブルックリンに移り住む。1950年様々な仕事をしながら、当時住んでいたウィリアムズバーグやリトアニア系移民を撮り始める。1954年『フィルム・カルチャー』誌を発行。1955年詩集「セメニスキウ・イディレス」第2版がヴィンカス・クレーヴ詩賞を受ける。1958年『ヴィレッジ・ヴォイス』誌に「ムービー・ジャーナル(映画日記)」を連載、後に出版(76年まで継続)。「ニュー・アメリカン・シネマ・グループ」の設立に協力、60年設立。1961年「フィルムメーカーズ・コーペラティブ(映画作家協同組合)」を組織。1964年「フィルムメーカ一ズ・シネマテーク」を組織。1965年『営倉』(1964年、68分)がヴェネツィア映画祭ドキュメンタリー部門で最優秀賞受賞。1968年ユダヤ博物館のフィルム・キュレーターを務める(~71年)。1969年アンソロジー・フィルム・アーカイブスの設立準備を開始。1971年夏、リトアニアを訪問。1975年ベルリン映画祭、ロンドン映画祭、アムステルダム映画祭参加。1983年アンソロジー・フィルム・アーカイブス設立計画アピールのために初来日。原美術館他で「アメリカ現代版画と写真展―ジョナス・メカスと26人の仲間たち」開催。初のシルクスクリーンによる版画を制作。1989年アンソロジー・フィルム・アーカイブス開館。1991年・96年来日。1999年パリ・ギャラリ・ドゥ・アニエスで「JONAS MEKAS―“this side of paradise”fragmentof an unfinished biography」展を開催。2000年「ジョナス・メカス映像展―[thisside of paradise]」が愛知芸術文化センター他で開催。

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JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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