植田実のエッセイ「本との関係」第11回~その2

「過程」を生きる家々(承前)


 そろそろ同時代の建築家がどんな家をつくったか。そのことに触れなければならない。といっても編集者として自分が身近かに見聞きした範囲でのいくつかの例に限る。
 『都市住宅』という、私の関わった雑誌が創刊されたのは一九六八年五月だが、その年のうちに「アメリカの草の根」と題した特集を二号続けてまとめた。(注1)六〇年代に入ってその特性が急にめざましく見えてきた、アメリカの若い建築世代の住宅を紹介している。今はもう高名な存在となったヴェンチューリ、ミッチェルとジョゴラのコンビ、MLTW(ムーア、リンドン、ターンブル、ウィテカーの四人組)、エシェリックをはじめとして、職業建築家、プロフェッサー・アーキテクト、学生にまで及ぶ六十人以上から送られてきた資料をさらに選び抜いて、ある傾向をはっきりさせようとしたのである。それは何かといえば、例えば山小屋や農家の納屋、町なかのありふれたタウンハウスに似た外形をもち、内部は親しみやすい吹き抜けやロフトや梯子、スカイライトやスーパーグラフィックで演出された垂直志向の強い空間で、気楽な雰囲気が横溢している一方、都会的な感覚のハイスタイルにも結びついている。
 日本ではこの前年に出現した、東孝光さんの自邸「塔の家」を代表とする若い建築家たちの手掛ける住宅が、こうしたアメリカの動きとなぜか共振しているように思われた。それで、「草の根派」とか「都市住宅派」とかの呼称が出てくる。私自身はこういう形容をむしろ避けてきたのではあるが。
 ここで名を挙げた建築家たちのつくったものは手づくり住宅ではない。しかしこうした形態や空間が求められた核心の部分に、それはあった。イェール大学を卒業したかしないかの建築家の卵だったピーター・ホップナー、ウィリアム・ライネック、デイビッド・セラーズ、ルイス・マッコールたちが次々とスキー小屋や山荘を自分たちの手でつくったのである。それらは折紙でつくったかのような単純で鋭い形態に、内部では剥き出しのままのダクトをそれも装飾の一つと見なしたり、熊手をネクタイ掛けにしたり、木製のサラダボールを台所の流しにしたりという、さまざまな既製品を転用した当意即妙の「巣づくり」だった。この辺の事情にくわしい山田弘康さん(当時・横浜国立大学助手)は「多くの建築家はすぐれた考えを持っているのに、それを投げ出して、美しい図面を描くことに熱中している。行動していない」というライネックのコメントを紹介しながら、「彼等(学生たち)は、建築家―計画家―施工者という伝統的な建設のパターンをここで捨てようとしている。建築家がオフィスに閉じこもり、見失っていた建設と創造の喜び」を「積極的な建設行為全体への参加」によってとり戻そうとした、と説明している。(注2)
 こうした動向の意味を、当時のアメリカの建築状況を見ながら、評論家の小能林宏城さんは次のように指摘した。例えば近代建築を社会学や心理学を含めた深い問題意識のなかで再構成しようとしたルイス・カーン、一方、近代建築のリーダー格でありながらその終焉を敏感に予知して逸早く方向転換したフィリップ・ジョンソンの存在。(注3)
 この二人の建築家の名を出しただけでも、その後のネオ・クラシシズムからポストモダンへ、そして再びモダニズムの再評価に戻る現在までの、アメリカの同時代建築の流れの基点がまざまざと見えてくる。それは世界の建築状況にも連動している。右の学生たちの名がジャーナリズムの表面に顕著になったのはほんの短期間だけれど、時代を確実に動かした一シーンとして組み込まれていることは間違いない。ということは今後もなお、時代の状況に応じて繰り返し参照されうるということだろう。

 日本の学生たちはどうしていたのか。突然とんでもない手づくり住宅にぶつかった。それが鯨井勇さんと佳子さん、仲間たちが実現した「プーライエ」(注4)である。本号の特集でも紹介されているので、ここではくわしく触れるつもりはないが、イェール大学の若者たちがスキー場と避暑地に好適なバーモント州のブリックリー・マウンテンに土地を求めたのに対して、日本大学の卒業論文としての家づくりは、東京郊外の典型的なひな壇状の造成宅地のなかで行われた。独創的な形態を自力建設のなかから生み出すというよりは、大工さんの指導を仰ぎつつ、むしろ伝統的な工法や仕上げを学習しながら、結果としては郊外住宅団地のあり様を、その団地のなかで真っ向から批判する小さく魅力的な家を完成させてしまった。このことはとくに強調しておきたい。彼等の行動力とライフスタイルには、私自身も大きな影響を受けたのである。
 鯨井さんが当時の建築状況をどう読んでいたのか、設計―計画―建設の一体化について何か触発されるものがあったのか、今まで訊いたこともないが、彼にはもっとも素朴な衝動だけがあったとしか、私には思えない。でなければ、あれほど何気なく、しかし住宅の存在形式を一八〇度転換する仕事はできなかったにちがいない。
 同じ時期にもうひとつ、やはり『都市住宅』で紹介した住宅がある。山根鋭二の「カラス城」(注5)は四階建ての、母と息子二人の仕事場と住まいだが、二階までをドラム缶を型枠としてコンクリート打設し、それから上はロシア産の電柱用カラ松の丸太を組み上げた。近所の子供たちにカラス城と呼ばれるほどの、廃墟のようにも黒々とした砦のようにも見える異様で、しかしヒューマンなディテールやしつらえに満ち満ちている。三、四階の外壁工事がまだ始まっていない、構造柱だけが組み上がった時に、息子たちは母親をリュックに入れて背負い、周辺の屋根々々を見下ろす家の天辺によじ登ったという。物語のなかでしか見ることができないような行動力だが、このエピソードひとつを見ても、この若者たちの強さと優しさを、家そのものからも感じることができる。
 山根さんは、いわば町の工事屋さんである。そういうこともあって建築界には顔が出ない。意外なところで出くわしたりして、その行動範囲の広さに驚かされる。モーターサイクルを駆るシャイな青年だが、二番目に手掛けた家は、バイク仲間の山荘で、伊豆の現場小屋に三年あまり生活しながら、ひとりでコツコツと設計施工の日々を送っていた。家族ができてからは、ユーラシア大陸横断の旅を計画していたが、それも親子で日常生活を普通に送りながら何ヵ月も何年もかけて車で移動していく、旅と生活が同義語のプランだった。
 一九六〇、七〇年代は「自分の家を自分で建てる」ことにどう関わる時代であったかを問うよりも、ひとりひとりの時間の持ちかたを問うべきなのだと思う。時間とはつまり生活のことであり、生活とは無償行為なのだと、今までに会ってきた手づくり建築の人々について、そう考えてしまう。人生がまるごと、生活でおおわれている。それが普通なのだ。
「生鬪學舎・자립」は六〇、七〇年代が過ぎた、一九八〇年に出現する。いやその建設に至るまでのある闘争の期間を入れると、この二〇年間のほぼ全期間にまたがる自力建設の時間がかかっているというべきだ。つまりこの建設に参加した人々の時間は、同時にその時代とも重なっていた。
 当時は国鉄の線路に使われていた枕木六千三百九十九本を一年かけて集め、一本五十キロの重さのそれを、外壁、柱梁、床、内部壁、天井に廃物利用した。合掌づくりの屋根まで枕木をスライスしてトントン葺きで仕上げている。三宅島に建つこの学舎・宿舎は、枕木を組み上げたというより、地下に石炭層を掘り抜いて空間を獲得したような異様な迫力に満ちているが、その建設記録(注6)を読むと、出来たものだけを見ての感想などいえなくなってしまう。設計は建築家の高須賀晋さんであり、現場には大工さんもやってくる。しかし建物の全構成材としての枕木は、重さも硬さも精度もあまりにも危険でコントロールしきれない。参加した仲間たちの人間関係にも、枕木は割って入りこんでくる。
 この自力建設が発足したそもそもの事情は到底ここでは説明できないので、建設記録に当たってほしいが、施主がいて設計者と施工者が受けてという、現代社会における制度をいったん外してしまったとき、家づくりにはどれほど大きな問題が関わってくるか、それを知る究極の自力建設であり記録であると思う。参加者たちは、この学舎には「敗者の城」という名がふさわしいといっている。
 最近、また「自分の家を自分で建てる」ことが再びクローズアップされてきたようだ。やっぱり大変そうだが、どれもキレイだし楽しい雰囲気も伝わってきて、なんだかホッとしている。だからといって六〇、七〇年代の頃に戻れることは決してない。その意味ではあの二十年間の回路は今も開かれてはいるが、それを必要とした都市はもう、ない。たとえ記録が残っているとしても、その光景が失われたことを覚えてさえいない。

(注1) 「都市住宅」六八一〇、六八一一号「アメリカの草の根」「続・アメリカの草の根」
(注2)(注3) 「都市住宅」六八一〇号「アメリカの草の根」
(注4) 「都市住宅」七四〇五臨増「住宅第六集」ここに書いた拙文はのちに「真夜中の家」住まいの図書館出版局 一九八九年に再録。
(注5) 「都市住宅」別冊一九七五夏「住宅第一〇集」(山根鋭二は、現在は海老原鋭二)
(注6) 「敗者復活戦 生鬪學舎・자립建設記録」修羅書房 一九八二年

うえだ まこと

●今日のお勧め作品は、植田実です。
ueda_91_dojun_aoyama_01植田実 Makoto UYEDA
《同潤会アパートメント 青山》(1)
(2014年プリント)
ラムダプリント
24.4×16.3cm
Ed.7
サインあり
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ときの忘れものは新春の特集展示:生きものたち~宮脇愛子、嶋田しづ、谷口靖、永井桃子を開催しています。
会期:2019年1月29日(火)~2月2日(土) 11:00-19:00※日・月・祝日休廊
小さい魔方陣
画廊コレクションから、世代もキャリアも異なる4人の作家の生命力あふれる作品を展示いたします。ぜひご高覧ください。
出品作家:宮脇愛子嶋田しづ、谷口靖、永井桃子


「第27回瑛九展 」は1月26日に終了しましたが、3月末のアートバーゼル香港2019に「瑛九展」で初出展します。
・瑛九の資料・カタログ等については1月11日ブログ「瑛九を知るために」をご参照ください。
・現在、各地の美術館で瑛九作品が展示されています。
埼玉県立近代美術館:「特別展示:瑛九の部屋」で120号の大作「田園」を公開、他に40点以上の油彩、フォトデッサン、版画他を展示(4月14日まで)。
横浜美術館:「コレクション展『リズム、反響、ノイズ』」で「フォート・デッサン作品集 眠りの理由」(1936年)より6点を展示(3月24日まで)。
宮崎県立美術館<瑛九 -宮崎にて>で120号の大作「田園 B」などを展示(4月7日まで)。

ジョナス・メカスさんが1月23日亡くなられました。
2005年10月メカス追悼の心をこめてジョナス・メカス上映会(DVD)を開催します。
会期:2019年2月5日[火]―2月9日[土]
代表作「リトアニアへの旅の追憶」は毎日上映するほか、「ショート・フィルム・ワークス」、「営倉」、「ロスト・ロスト・ロスト」、「ウォルデン」の4本を日替わりで上映します。
上映時間他、詳しくはホームページをご覧ください。
2月9日17時よりのトーク「メカスさんを語る」(要予約、ゲスト:飯村昭子さん、木下哲夫さん)は既に満席となり受付を終了しました。


●東京神田神保町の文房堂ギャラリーで「版画のコア core2」展が開催されています(~2月2日[土])、会期中無休)。ときの忘れものは日和崎尊夫を出品協力しています。

●ときの忘れもののブログは年中無休です。昨年ご寄稿いただいた方は全部で51人。年末12月30日のブログで全員をご紹介しました。

●2019年のときの忘れもののラインナップはまだ流動的ですが、昨2018年に開催した企画展、協力展覧会、建築ツアー、ギャラリーコンサートなどは年末12月31日のブログで回顧しました。

●ときの忘れものは〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com 
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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