2月21日ギャラリートーク
「メカスさんを語る」レポート


 読者の皆様こんにちは。三月に入ってようやく寒さが和らいできたかと思いきや、瞬く間に花粉が世を席捲する中、いかがお過ごしでしょうか。このブログ記事が皆様の目に触れる頃にはアートフェア東京2019ART BASEL HONG KONG 2019の準備にヒーヒー言っているであろう、スタッフSこと新澤です。

 本日は2月21日に駒込で開催した、「メカスさんを語る」をご紹介します。
 去る1月23日に96歳で亡くなった映像芸術界の雄、ジョナス・メカスについて、その著書を日本で出版するに当たり尽力されたお三方に、タイトル通り語っていただきました。

mekas
 左からメカス日本日記の会、『ジョナス・メカス―ノート、対話、映画』の翻訳者・木下哲夫先生。フリージャーナリスト、『メカスの映画日記』『メカスの難民日記』の翻訳者・飯村昭子先生。そして『都市住宅』創刊編集長、『メカスの映画日記』の装丁者・植田実先生。

 元々は2月9日に飯村先生、木下先生のお二人で開催予定でしたが、悪天候で急遽延期となった結果、植田先生にも参加していただける運びとなりました。

20190306_mekas01 植田先生は建築分野で名の知られた方ですが、何故ジョナス・メカスの本の装丁を? と思う方もおられそうですが、実は飯村先生と植田先生は早稲田大学文学部のクラスメートで、そのご縁だとか。もっとも、植田先生がメカス氏本人に会うのは本の装丁を手掛けてから30年以上後のことだったそうです。

 トークはそれぞれメカス氏とどのような付き合いがあったのか、また氏のどんなところが素晴らしかったのか、それぞれの視点から語っていただくところから始まりました。

 トップバッターは飯村昭子先生。
 飯村先生がメカス氏を知ったのは、渡米してから毎週購読し、後に自らが『メカスの映画日記』として翻訳することになる、ニューヨークのカルチャー誌『ヴィレッジボイス』で20年間に渡り寄稿した連載『ムービー・ジャーナル』でした。資本主義が大手を振るアメリカで、金になるからではなく、やりたいからやるという思いで無名の映画人たちを取り上げ続け、ついにはタイムズスクエアのど真ん中(にある雑居ビルの小さい部屋だったそうですが)で有料の作品上映会を開催したり、以前は有名映画しか取り扱っていなかったニューヨーク・フィルム・フェスティバルに、投書などではなく、直接会場に出向いて「それだけが映画ではない」と演説をぶち上げ、最終的に個人映画部門を設立させてしまうバイタリティに、夫(飯村隆彦)も同様に映像作品制作を行っていた飯村昭子先生は強く感銘を受けたと語られました。
 他にも、ご本人と知り合った後には、メカス氏が毎日2時間は散歩を行い、10分の逆立ちを行っていたことや、キノコや野菜を使った、日本人からするとちょっと美味しそうには見えない料理を食べていたこと。本人的にやりたい事と出来る事に食い違いがあり、常々一人で何かを行いたいと思うも、最後には皆を取りまとめる役に収まってしまっていた事など、付き合いが長く、またご本人もメカス氏と同じくNY在住だったこともあり、映画人ではない等身大のジョナス・メカスという人間を聞かせてくださいました。

 続く木下哲夫先生は1991年にメカス氏が二度目の来日をした際に印象に残った、名前についての思い出を話してくださいました。Jonas Mekasをジョナス・メカスと発音するのは英語圏での場合ですが、故郷であるリトアニアではヨナス・ミャッカスと発音するのが正しいそうです。帯広に滞在した際に名前の正しい発音を訊かれたことがメカス氏の印象にも残ったらしく、後にアメリカ合衆国ホロコースト記念博物館のインタビューを受けた際に、このことについてメカス氏自身が言及されています。公式ホームページの動画は6時間と大長編ですが、他にもインタビューをテキストデータ化したものもありますので(英語ですが)ご興味のある方は上記リンクを辿ってみてください。

《木下哲夫》ジョナス・メカス Jonas MEKAS
《木下哲夫》
2009年
CIBA print
35.4×27.5cm
signed

 そこから話は前後して、1980年代初頭に木下先生がメカス氏との知己を得たのは偶然で、氏の人となりは全く知らなかったことや、現在NYのソーホー地区にあるアンソロジー・フィルム・アーカイブスが、元は留置所が併設された市裁判所であった事、多くの作家が金銭ではなく現物(版画や写真作品)で支援を行っていた事、フィルム・アーカイブスの上映会で使われているスクリーンが、実はオノ・ヨーコとジョン・レノンの寄贈品であり、それを明確に示す物はないが、そのスクリーンに向けて設置された3つの人形の頭部がメカス氏、オノ・ヨーコとジョン・レノンを表現している事などに話が及びました。

《ジョン・レノンとヨーコ・オノ、ハドソン川を上るフラクサスの船旅、1971年7月(時を数えて...)》ジョナス・メカス Jonas MEKAS
《ジョン・レノンとヨーコ・オノ、ハドソン川を上るフラクサスの船旅、1971年7月(時を数えて...)》
2009年
CIBA print
35.4×27.5cm
signed

 最後の植田実先生はメカス氏に会ったことはあるものの、付き合いはなかったため、以降はもっぱら氏の作品について話が盛り上がりました。植田先生のイチオシは『リトアニアへの旅の追憶』で、この作品の中で「リトアニアは世界の中心である」というナレーションがあり、その時に画面に映っているのは氏の年老いた母が藪の中で一人腰かけに座っているシーンなのですが、作品やナレーションの雰囲気もあって「確かに世界の中心とはこういうものなのかもしれない」と思わせられたと絶賛されました。

《エルズビエータ・メカス、わたしの母、リトアニア、1971(リトアニアへの旅の追憶)》ジョナス・メカス Jonas MEKAS
《エルズビエータ・メカス、わたしの母、リトアニア、1971(リトアニアへの旅の追憶)》
2009年
CIBA print
35.4×27.5cm
signed

 この後もトークはお三方が入れ代わり立ち代わり話を盛り上げられ、トーク終了後も懇親会、食事会と賑やかな一晩となりました。

DSC_0841トーク終了後の集合写真

DSC_0843亡きメカスさんへのメッセージを書き記す参加者。

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(しんざわ ゆう)

2月28日 1983年のインタビュー(再録)
2月19日 井戸沼紀美「東京と京都で Sleepless Nights Stories 上映会」
2月16日 佐伯誠「その人のこと、少しだけ_追憶のジョナス・メカス」
2月13日 「メカスさんの版画制作」
2月6日 井戸沼紀美「メカスさんに会った時のこと」
2月4日 植田実『メカスの映画日記 ニュー・アメリカン・シネマの起源1959―1971』
2月2日 初めてのカタログ
1月28日 木下哲夫さんとメカスさん

ジョナス・メカスさん_600初来日から22年後の2005年10月14日「ジョナス・メカス展」のオープニングの夜、
左から、植田実先生、「メカスの映画日記」を手にするジョナス・メカスさん、詩人の吉増剛造先生、メカスさんの詩集の翻訳者・村田郁夫さん。
この夜の宴については原茂さんのエッセイ「天使の謡う夜に」をお読みください。


本日のオススメはジョナス・メカスです。
Sam Fuller, 1977ジョナス・メカス Jonas MEKAS
"Sam Fuller, 1977"
1977年 (2013年プリント)
アーカイバルインクジェットプリント
イメージサイズ:34.0×22.8cm
シートサイズ :39.8×29.1cm
Ed.7   サインあり

■サミュエル・フラー Samuel(Sam) Fuller(1912~1997)
アメリカ人映画監督。1949年にわずか10日間で撮影が終了したという『地獄の挑戦』で監督デビュー。自らの裏社会での経験、戦争中の困難な体験、そして米国南部での人種差別への取材などから、独特のエキセントリックな作風を生み出している。ほとんどの作品が独立プロダクションの中で低予算で早撮りで作られた。アメリカではB級映画監督と見なされていたが、フランスなどでは高く評価され、後に米国本土でも再評価された。 晩年は、製作の本拠地をヨーロッパに移し、時にはヴィム・ヴェンダースやアキ・カウリスマキの作品などにゲスト出演した。

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TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com 
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JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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