◆生誕100年 駒井哲郎展 Part1 若き日の作家とパトロン(Web展)
会期:2020年6月16日[火]―7月11日[土]
アポイントメント制: 12:00~18:00 日・月・祝日休廊
映像制作:WebマガジンColla:J 塩野哲也
栗田秀法「生誕100年 駒井哲郎展」後編(前編は6月13日のブログに掲載しました。)
「若き日の作家とパトロン」展に寄せて(後編)
栗田秀法
2 M氏コレクションで振り返る若き日の駒井の作風の変遷
駒井哲郎が新しい作風で注目を集めるのは1950年のことだが、水面下では試行錯誤が行われていた。そのきっかけのひとつが1947年に恩地孝四郎と出会い、一木会同人となって交流を深めることができたことにあることは疑いない。恩地はちょうどこのころ木版を彫らない紐や布や木の葉などを直接版にするモノタイプ的な実材版画の実験的な試みに乗り出しつつあった。ソフトグランド・エッチングを併用する1948年の《孤独な鳥》《思い出》《肖像(Portrait de Gilles de Rais)》は恩地からのかなり直接的な感化を受けた作品だといえようが、「暗中模索をし乍ら制作していて「孤独な鳥」という作品ができた時はちょっと嬉しかった。小さな作品だけどもなにかふっきれたような気がしたものだった。ちょうどその時の自分の状態を示していると思った。技法的には伝統もなにもない全く自由な仕事である。部分的に見れば失敗しているといえる所があるし、もちろん完全な作品なんかではないけれど作者の気持ちはこのような小品でも表現できると思ったりしたものであった。」(「私の技法」)という言葉からは、銅版画の表現媒体としての可能性をようやく強く意識することができたことがわかる。恩地をロールモデルとして新たな自己成型が図られたのである。
それと同時に重要だと思われるのが、恩地の実験精神に接して過去の芸術の見え方の景色も一変したであろうことである。駒井が銅版画の世界に強く惹かれたのが中学生の頃に西田武雄のエッチング研究所等でレンブラントやメリヨン、ホイッスラーらのオリジナル作品に接することができたことが一つのきっかけであったことはよく知られているが、その後の駒井にとってはムンクやホイッスラーが紹介された森口多里『異端の画家』(1920)も重要であったという。戦前の風景版画にはホイッスラーの影響は明らかであるし、戦後の制作再開直後に制作されたドライポイントやエッチングの女性像などにはムンクに通ずるものがある。
恩地からの感化と同時に前景化してきたのがクレーの芸術で、新しい表現意欲を造形化するための導きの糸として大きな役割を果たした。駒井が初めて論じた作家がクレーだったのも示唆的である(『アトリエ』1950年11月号)。本展の《化石》はクレーの直接的な影響が指摘できる最初期のものである。アクワチントにソフトグランド・エッチングを併用する《化石》では、記号化された始原的な形象が浮遊する空間がクレーを意識したものであろうことは疑いなく、固化した生命体が夢の空間に解き放たれて束の間の生を謳歌しているような印象を与えている。なお、本作品の初出は1950年の第18回日本版画協会展で、所蔵館が東京都現代美術館と埼玉県立近代美術館あたりに限られる現存数がかなり少ない作品である。
《小さな魚》の初出展は1951年の第19回日本版画協会展で、《夢の推移》、《小さな幻影》、《記号の静物》とともに出品されている。直前の28回春陽会展には《束の間の幻影》はじめ12点を出品し会員に推挙されており、この年は駒井の初期の頂点を画す年であった。本作品はこの時期にしては具象性の強い作品であるが、干からび石化したような胴をしており、化石の魚が夢の中で回遊しているような雰囲気を醸し出している。このタイプの魚表現は駒井のお気に入りのもののひとつで、本展出品の1960年の個展案内状をはじめその後何回か試みられている。
駒井は生涯に多数の詩画集を生み出すことになるのだが、その嚆矢となったのが青柳訳のロオトレアモン『マルドロオルの歌』で、駒井は1951年の後半に制作に取り組み、年明け早々に刊行された。《墓堀人》は『マルドロオルの歌』の第1歌12章節、青柳訳では「泣くことを知らぬ男」の章節における墓堀人夫との会話に取材したものである。駒井の『若き日の手紙』には具体的に彼が関心を頂いた章句がいくつか引用されている。
「ある晩、彼は墓場の方に歩いて行った。すると、死んで間も無い美女たちの死骸を犯すことに快楽を求める青年等は、同時に展開されようとしている行動のうちに、次の如き幽かな会話を耳にすることが出来たのであった。—墓堀りよ。僕と語ってくれないかね?」
「—野生のペリカンが人間共に恥をかかせてやろうと。雌鳥の啄むままに己の胸を提供する場合、そしてそれは、かかる愛を造り得た者のみが見るのを許されるのだが、その犠牲たるや大きい。」
「墓堀りよ、都市の廃墟を眺めることは美しい。だが然し、人間の廃墟を眺めることは一そう美麗だ。」
『手紙』には、「墓場の対話」と題された、墓堀人に話しかける場面を描いた構想スケッチが付されており、そこでは地中の棺がいくつか具体的に示されている。最終作では棺は多数の白い矩形の連なりとして暗示的に示されているのみで、画像だけを見ると具体的な場面設定は分かりにくいかもしれない。技法的には《束の間の幻影》と同じサンドペーパーによるエッチングが用いられており、ほぼ同時代の試みとして興味深い。
《鱶とマルドロオル》は、第2歌13章節、青柳訳では「自分に似てゐる人」の章節における鱶との交接の場面を表したものである。用紙の余白に”et roulant sur eux-memes vers les profondeurs inconnues de l'abime, ils reunirent dans un accouplement long, chaste et hideux!” という一節が手書きで書きこまれており、青柳訳では「深淵の方へと、上になり下になりつつ転びながら、彼らは純潔で、醜悪な、長い長い交接のうちに一体となった!」と訳されている。
『マルドロオルの歌』の挿絵印刷は都合2100枚に上る半年をかけての難業であったが、あまり上等でない日本製の洋紙を使ったこともあり刷り上がりは不揃いで、不満が残るものであったようである。その際の具体的な苦労を《鱶》に関連付けて1973年に次のように述べている。
アクワチントとエッチングの併用で、松脂を何回もかけなおしてアクワチントとしては一度腐食しただけだ。つまり松脂のまきかたとそれを銅版にどのような状態で定着させるかに気をつかったように思う。印刷は解らないままにいろいろインクを自分でつくってやったがあまりうまくいかなかった。この版は現在も残っていて、実際に本に使ったものより、いま僕が刷ったもののほうがずっと効果が良い。銅版画の印刷はどんな技法の版であってもインクが紙にくい込みしかもそのインクが紙から微妙に立ち上がっている ように見えるのが僕はよいと思う。(「私の技法」)
別刷りでは版画用のより上等な紙が用いられており、インクの立ち上がりの一端を味わっていただければと思う。
《分割された顔》は、上述したように、1953年1月の初個展に出品された作品である。この個展の主役は《夢遊病者のフーガ》全10点であったが、駒井美子氏が伝えるように、「しかしフーガは一枚も売れなかった。壁面が足りないために大急ぎで作った小さな色彩銅版画ばかり売れたのだった。」この作品は『銅版画作品集』未収録の作品で、これまで福原コレクションに収蔵されているもののみが一般には知られていた。
個展での反応に気を良くしたのだろうか、4月の春陽会展には色彩銅版画の《街(雑踏)》が出品されている。これまでの年譜では《街A Passage(終油)》《街B》《火A》《火B》が出品されたことが記されるのみで作品の特定がなされてこなかったので、本作品の自筆出品票の確認は重要な意味を持つ。なお、M氏コレクションにはこの年の版画協会展に出品された色彩銅版画《夜の風景の中の雲と子供》が含まれている(今回未出品)。
他方、想像力に身をゆだねるだけではなく、着実な銅版画の技量の習得の必要性を駒井は強く意識していた。実際1951年には「長谷川潔氏の銅版画―主としてその技術について」という文章を『みづゑ』6月号に寄せている。「あらゆる造形芸術は、素材によって思考する時、その表現と技術が一致する可能性を最も可能性を最も多く持っていると私には感じられるのです。」(「素材と表現」)と渡仏前に述べたように、伝統的銅版画の豊かな遺産を自らのものとすべくフランス留学への思いが高まっていたのであった。
しかしながら現実は厳しく、1954年4月から翌11月までパリに滞在し、ロスチャイルド・コレクション展等で銅版画の名作に触れ、パリ国立美術学校でカミ教授のもとでビュランを学んだものの、帰国後の滞在報告記事が「自信喪失の記」と題されたように、パリ滞在は決して充実したものとはならなかった。実際、制作もあまりはかどらなかったらしい。《仏国風景》は滞仏中に制作された数少ない作品の一つで、駒井のビュランへの真摯な取り組みがうかがわれる作品である。
帰国後も制作はしばらく低調であったが、樹木を描いた透明感あふれる写実的な一連の作品は好評であったようで、1957年の第1回東京国際版画ビエンナーレには《樹木》を出品している。滞仏で傷ついた内面はぽっかり穴が開いたままであったことの現れだろうか、同年の春陽会展には《樹木》の作品と並んで全く対照的で晦渋な《ある空虚》が出品されている。
それが一変するのが翌58年で、女子美術大学で非常勤講師を務めたり、新たに大岡信や安東次男らの文学者との交流が始まったりするなど、新たな環境の変化に促されるかのように再び旺盛な制作活動が開始された。本展に出品されている《夜の森》と《樹木》は昼と夜とでネガポジの関係になるなど対をなす意欲的なもので、第3回現代日本美術展で初めて展示されている。写実的な樹木の描写とは真逆に、ここでは樹木が角錐状にデフォルメされて並置され、音楽的なリズムが刻まれている。《樹木》では鋭角的な形象が水平方向に展開し、《夜の森》では、闇の中で浮かび上がる形象と明滅する灯体状のものが垂直方向に漂っている。実験工房の湯浅譲二がウェーベルンの音楽と《夜の森》とを比較したのは慧眼である。両者には《束の間の幻影》を生み出した駒井の代名詞ともいえるサンドペーパーによるエッチングが採用されており、作家に実験的な精神が回復しつつあることがうかがわれる。「オーストラリア・ニュージーランド巡回日本現代美術展」に《夜の森》とともに《束の間の幻影》が出品された背後には、駒井の心にある種の自己肯定感がよみがえった証を読み取れよう。
《青い家》(1960)は、翌年の春陽会展が初出の作品である。《クラブのA》(1958)から始まる、クレーの《パルナッソス山へ》を思い起こさせる一版多色でディープエッチの技法を用いた点描風の色彩銅版画の試みに連なるものである。福原コレクションには、同じ版を用いた色違いの《黄色い風景》が存在している。こうした一連の作品群への評価は高かったようで、《クラブのA》は1959年の『みづゑ』2月号の表紙を飾るとともに、同年の『美術手帖』2月号でも瀧口修造がその批評で取り上げている。こうしてみると、今回展示のM氏コレクションの大部分は、駒井が節目節目で強い思いを託してM氏に供した作品のように思えてくるのである。
おわりに
恩地とクレーに触発されて独自の世界を切り開いた駒井であったが、「この頃美術雑誌などで僕の仕事をめちゃめちゃにくさされるのですっかり参っています。例えば、「彼の仕事からポール・クレエを引いたらなんにも残らない」とかなんとかいう評です。やきもちだと思って我慢しています。」(『若き日の手紙』)との苦悩をそのころ懇意にしていたR夫人に1950年に打ち明けている。
他方、不惑を超えて後の1963年には、「その[1951年]頃の斎藤清さんは、日本的な作品が多いんですが、この時の出品画はむしろバタ臭いものを創ろうとしていたように思います。僕だってそうでした。クレーかなにか真似でバタ臭いものをつくって出したけれど、向うの人が提灯が光っているって風に受け取るんですね。だから、伝統や民族性ってものは作為がなくても自然に出る者だと思うんです」との当時の西洋かぶれについて冷静に振り返っている。
駒井の若き日々は、自己意識の高揚と挫折、自尊感情の回復の歴史でもあった。長期にわたって駒井に伴走したM氏の手元に遺された珠玉のコレクションが展示される本展には作家の苦闘の跡が映し出されている。本稿が駒井の生涯と作品にアプローチするための補助線として多少ともお役に立てば幸いである。
(くりた ひでのり)
■栗田秀法(くりた ひでのり)
1963年愛知県生まれ。 1986年名古屋大学文学部哲学科(美学美術史専攻)卒業。1989年名古屋大学大学院文学研究科哲学専攻(美学美術史専門)博士後期課程中途退学。 愛知県美術館主任学芸員、名古屋芸術大学美術学部准教授を経て、現在、名古屋大学大学院人文学研究科教授(博物館学担当)。博士(文学)。専門はフランス近代美術史、日本近現代美術史、美術館学。
著書、論文:『プッサンにおける語りと寓意』(三元社、2014)、編著『現代博物館学入門』(ミネルヴァ書房、2019)、「 戦後の国際版画展黎明期の二つの版画展と日本の版画家たち」『名古屋芸術大学研究紀要』37(2016)など。
展覧会:「没後50年 ボナール展」(1997年、愛知県美術館、Bunkamura ザ・ミュージアム)、「フランス国立図書館特別協力 プッサンとラファエッロ 借用と創造の秘密」(1999年、愛知県美術館、足利市立美術館)、「大英博物館所蔵フランス素描展」(2002年、国立西洋美術館、愛知県美術館)など
●展示風景
左から
No.14 駒井哲郎「青い家」
No.2 駒井哲郎「木版」
No.11 駒井哲郎「樹木」
※1958年現代日本美術展のシール付き

左から
No.1 駒井哲郎「1969年の賀状 クルト・セリグマン作「ロマンチックの産業」の模刻」
No.13 駒井哲郎「1960年の南画廊案内状」
No.8 駒井哲郎「街(雑踏)」
※春陽会第30回展出品の自筆シール付き
No.12 駒井哲郎「夜の森」
※1958年オーストラリア、ニュージーランド巡回日本現代美術展のシール付き


左から
No.7 駒井哲郎「分割された顔」
※自筆シール付き
No.3 駒井哲郎「化石」
※鎌倉近代美術館・現代創作版画6人展出品の自筆シール付き
No.4 駒井哲郎「小さな魚」
※鎌倉近代美術館・現代創作版画6人展出品の自筆シール付き
No.15 駒井哲郎「誕生祝い」
No.9 駒井哲郎
作品
キャンバス・油彩
32.8×52.8cm(M10号)
Signed
No.14 駒井哲郎
青い家
都美No.141 美術出版no.141
1960
銅版(アクアチント、カラー)
イメージサイズ:13.0×18.5cm
紙サイズ:32.5×25.0cm
Ed.12
Signed
No.8 駒井哲郎
街(雑踏)
都美No.69, 美術出版no.72
※春陽会第30回展のシール付き
1953
銅版(アクアチント、カラー)
14.0×15.5cm
紙サイズ:28.5×26.5cm
Ed.25
Signed
No.13 駒井哲郎
南画廊案内状
都美No.124, 125
美術出版no.125. 126
1960
銅版二点同時刷り(エッチング)
シートサイズ:各4.0×15.0cm
紙サイズ:15.0×38.0cm
各Ed.37
No.5 駒井哲郎
墓堀人
都美No.48, 美術出版no.50
※1952年、パリ、サロン・ド・メイのシール付き
1951
銅版(アクアチント、ソフトグランド・エッチング)
イメージサイズ:16.2×11.3cm
紙サイズ:28.0×20.0cm
Ed.350
Signed
No.4 駒井哲郎
小さな魚
都美No.25, 美術出版no.26
※鎌倉近代美術館・現代創作版画6人展のシール付き
1950
銅版(エッチング、メゾチント(雁皮刷))
イメージサイズ:5.0×12.0cm
紙サイズ:16.5×25.5cm
Ed.20
Signed
No.3 駒井哲郎
化石
都美No.14, 美術出版no.15
※鎌倉近代美術館・現代創作版画6人展のシール付き
1948
銅版(アクアチント、ソフトグランド・エッチング)
イメージサイズ:13.7×5.5cm
紙サイズ:30.2×22.0cm" Ed.20
Signed
No.7 駒井哲郎
分割された顔
1953
銅版(カラー)
イメージサイズ:7.5×7.5cm
紙サイズ:18.8×17.1cm
Signed
No.10 駒井哲郎
仏国風景
都美No.75 美術出版no.78
1954
銅版(エングレーヴィング)
イメージサイズ:9.5×6.7cm
紙サイズ:32.6×25.0cm
Ed.50
Signed
No.12 駒井哲郎
夜の森
都美No.99, 美術出版no.101
※1958年オーストラリア、ニュージーランド巡回日本現代美術展のシール付き
1958
銅版(アクアチント)
イメージサイズ:21.4×19.2cm
紙サイズ:33.0×25.5cm
Ed.25
Signed
No.6 駒井哲郎
鱶とマルドロオル
都美No.49, 美術出版no.51
※1952年、パリ、サロン・ド・メイのシール付き
1951
銅版(アクアチント、エッチング)
イメージサイズ:16.2×11.3cm
紙サイズ:38.0×28.5cm
Ed.350 Signed
No.11 駒井哲郎
樹木
都美No.91 美術出版no.91
※1958年現代日本美術展のシール付き
1958
銅版(アクアチント、ドライポイント)
イメージサイズ:26.0×36.5cm
紙サイズ:32.0×45.5cm
Signed
No.15 駒井哲郎
誕生祝い
1962
銅版
イメージサイズ:9.5×7.1cm
Ed.30
Signed
No.2 駒井哲郎
木版
イメージサイズ:40.0×30.4cm
紙サイズ:49.5×44.5cm
Signed
No.1 駒井哲郎
1969年の賀状 クルト・セリグマン作「ロマンチックの産業」の模刻
都美No.3 美術出版no.4
1936年頃
銅版(エッチング)
イメージサイズ:11.5×9.7cm
紙サイズ:16.5×25.2cm
エンボスあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆ときの忘れものでは「生誕100年 駒井哲郎展 Part1 若き日の作家とパトロン」(アポイントメント制/WEB展)を開催中です。
会期=2020年6月16日[火]―7月11日[土]
皆様がご自宅でも楽しんでいただけるよう前回瑛九展に続き動画を制作しYouTubeで公開しています。

栗田秀法さんの特別寄稿(前編、後編)をあわせてお読みください。
※アポイント制にてご来廊いただける日時は、火曜~土曜の平日12:00~18:00となります。前日までにメールでご予約ください。日・月・祝日休廊。
◆「没後60年 第29回瑛九展」は終了しましたが、今回初めて制作した動画・第一部と第二部は引き続きYouTubeでご覧になれます。
特別寄稿・大谷省吾さんの「ウェブ上で見る瑛九晩年の点描作品」も併せてお読みください。
今まで研究者やコレクターの皆さんが執筆して下さったエッセイや、瑛九情報は2020年5月18日のブログ「81日間<瑛九情報!>総目次(増補再録)」にまとめて紹介しています。
◆ときの忘れものは版画・写真のエディション作品などをアマゾンに出品しています。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
会期:2020年6月16日[火]―7月11日[土]
アポイントメント制: 12:00~18:00 日・月・祝日休廊
映像制作:WebマガジンColla:J 塩野哲也
栗田秀法「生誕100年 駒井哲郎展」後編(前編は6月13日のブログに掲載しました。)
「若き日の作家とパトロン」展に寄せて(後編)
栗田秀法
2 M氏コレクションで振り返る若き日の駒井の作風の変遷
駒井哲郎が新しい作風で注目を集めるのは1950年のことだが、水面下では試行錯誤が行われていた。そのきっかけのひとつが1947年に恩地孝四郎と出会い、一木会同人となって交流を深めることができたことにあることは疑いない。恩地はちょうどこのころ木版を彫らない紐や布や木の葉などを直接版にするモノタイプ的な実材版画の実験的な試みに乗り出しつつあった。ソフトグランド・エッチングを併用する1948年の《孤独な鳥》《思い出》《肖像(Portrait de Gilles de Rais)》は恩地からのかなり直接的な感化を受けた作品だといえようが、「暗中模索をし乍ら制作していて「孤独な鳥」という作品ができた時はちょっと嬉しかった。小さな作品だけどもなにかふっきれたような気がしたものだった。ちょうどその時の自分の状態を示していると思った。技法的には伝統もなにもない全く自由な仕事である。部分的に見れば失敗しているといえる所があるし、もちろん完全な作品なんかではないけれど作者の気持ちはこのような小品でも表現できると思ったりしたものであった。」(「私の技法」)という言葉からは、銅版画の表現媒体としての可能性をようやく強く意識することができたことがわかる。恩地をロールモデルとして新たな自己成型が図られたのである。
それと同時に重要だと思われるのが、恩地の実験精神に接して過去の芸術の見え方の景色も一変したであろうことである。駒井が銅版画の世界に強く惹かれたのが中学生の頃に西田武雄のエッチング研究所等でレンブラントやメリヨン、ホイッスラーらのオリジナル作品に接することができたことが一つのきっかけであったことはよく知られているが、その後の駒井にとってはムンクやホイッスラーが紹介された森口多里『異端の画家』(1920)も重要であったという。戦前の風景版画にはホイッスラーの影響は明らかであるし、戦後の制作再開直後に制作されたドライポイントやエッチングの女性像などにはムンクに通ずるものがある。
恩地からの感化と同時に前景化してきたのがクレーの芸術で、新しい表現意欲を造形化するための導きの糸として大きな役割を果たした。駒井が初めて論じた作家がクレーだったのも示唆的である(『アトリエ』1950年11月号)。本展の《化石》はクレーの直接的な影響が指摘できる最初期のものである。アクワチントにソフトグランド・エッチングを併用する《化石》では、記号化された始原的な形象が浮遊する空間がクレーを意識したものであろうことは疑いなく、固化した生命体が夢の空間に解き放たれて束の間の生を謳歌しているような印象を与えている。なお、本作品の初出は1950年の第18回日本版画協会展で、所蔵館が東京都現代美術館と埼玉県立近代美術館あたりに限られる現存数がかなり少ない作品である。
《小さな魚》の初出展は1951年の第19回日本版画協会展で、《夢の推移》、《小さな幻影》、《記号の静物》とともに出品されている。直前の28回春陽会展には《束の間の幻影》はじめ12点を出品し会員に推挙されており、この年は駒井の初期の頂点を画す年であった。本作品はこの時期にしては具象性の強い作品であるが、干からび石化したような胴をしており、化石の魚が夢の中で回遊しているような雰囲気を醸し出している。このタイプの魚表現は駒井のお気に入りのもののひとつで、本展出品の1960年の個展案内状をはじめその後何回か試みられている。
駒井は生涯に多数の詩画集を生み出すことになるのだが、その嚆矢となったのが青柳訳のロオトレアモン『マルドロオルの歌』で、駒井は1951年の後半に制作に取り組み、年明け早々に刊行された。《墓堀人》は『マルドロオルの歌』の第1歌12章節、青柳訳では「泣くことを知らぬ男」の章節における墓堀人夫との会話に取材したものである。駒井の『若き日の手紙』には具体的に彼が関心を頂いた章句がいくつか引用されている。
「ある晩、彼は墓場の方に歩いて行った。すると、死んで間も無い美女たちの死骸を犯すことに快楽を求める青年等は、同時に展開されようとしている行動のうちに、次の如き幽かな会話を耳にすることが出来たのであった。—墓堀りよ。僕と語ってくれないかね?」
「—野生のペリカンが人間共に恥をかかせてやろうと。雌鳥の啄むままに己の胸を提供する場合、そしてそれは、かかる愛を造り得た者のみが見るのを許されるのだが、その犠牲たるや大きい。」
「墓堀りよ、都市の廃墟を眺めることは美しい。だが然し、人間の廃墟を眺めることは一そう美麗だ。」
『手紙』には、「墓場の対話」と題された、墓堀人に話しかける場面を描いた構想スケッチが付されており、そこでは地中の棺がいくつか具体的に示されている。最終作では棺は多数の白い矩形の連なりとして暗示的に示されているのみで、画像だけを見ると具体的な場面設定は分かりにくいかもしれない。技法的には《束の間の幻影》と同じサンドペーパーによるエッチングが用いられており、ほぼ同時代の試みとして興味深い。
《鱶とマルドロオル》は、第2歌13章節、青柳訳では「自分に似てゐる人」の章節における鱶との交接の場面を表したものである。用紙の余白に”et roulant sur eux-memes vers les profondeurs inconnues de l'abime, ils reunirent dans un accouplement long, chaste et hideux!” という一節が手書きで書きこまれており、青柳訳では「深淵の方へと、上になり下になりつつ転びながら、彼らは純潔で、醜悪な、長い長い交接のうちに一体となった!」と訳されている。
『マルドロオルの歌』の挿絵印刷は都合2100枚に上る半年をかけての難業であったが、あまり上等でない日本製の洋紙を使ったこともあり刷り上がりは不揃いで、不満が残るものであったようである。その際の具体的な苦労を《鱶》に関連付けて1973年に次のように述べている。
アクワチントとエッチングの併用で、松脂を何回もかけなおしてアクワチントとしては一度腐食しただけだ。つまり松脂のまきかたとそれを銅版にどのような状態で定着させるかに気をつかったように思う。印刷は解らないままにいろいろインクを自分でつくってやったがあまりうまくいかなかった。この版は現在も残っていて、実際に本に使ったものより、いま僕が刷ったもののほうがずっと効果が良い。銅版画の印刷はどんな技法の版であってもインクが紙にくい込みしかもそのインクが紙から微妙に
別刷りでは版画用のより上等な紙が用いられており、インクの立ち上がりの一端を味わっていただければと思う。
《分割された顔》は、上述したように、1953年1月の初個展に出品された作品である。この個展の主役は《夢遊病者のフーガ》全10点であったが、駒井美子氏が伝えるように、「しかしフーガは一枚も売れなかった。壁面が足りないために大急ぎで作った小さな色彩銅版画ばかり売れたのだった。」この作品は『銅版画作品集』未収録の作品で、これまで福原コレクションに収蔵されているもののみが一般には知られていた。
個展での反応に気を良くしたのだろうか、4月の春陽会展には色彩銅版画の《街(雑踏)》が出品されている。これまでの年譜では《街A Passage(終油)》《街B》《火A》《火B》が出品されたことが記されるのみで作品の特定がなされてこなかったので、本作品の自筆出品票の確認は重要な意味を持つ。なお、M氏コレクションにはこの年の版画協会展に出品された色彩銅版画《夜の風景の中の雲と子供》が含まれている(今回未出品)。
他方、想像力に身をゆだねるだけではなく、着実な銅版画の技量の習得の必要性を駒井は強く意識していた。実際1951年には「長谷川潔氏の銅版画―主としてその技術について」という文章を『みづゑ』6月号に寄せている。「あらゆる造形芸術は、素材によって思考する時、その表現と技術が一致する可能性を最も可能性を最も多く持っていると私には感じられるのです。」(「素材と表現」)と渡仏前に述べたように、伝統的銅版画の豊かな遺産を自らのものとすべくフランス留学への思いが高まっていたのであった。
しかしながら現実は厳しく、1954年4月から翌11月までパリに滞在し、ロスチャイルド・コレクション展等で銅版画の名作に触れ、パリ国立美術学校でカミ教授のもとでビュランを学んだものの、帰国後の滞在報告記事が「自信喪失の記」と題されたように、パリ滞在は決して充実したものとはならなかった。実際、制作もあまりはかどらなかったらしい。《仏国風景》は滞仏中に制作された数少ない作品の一つで、駒井のビュランへの真摯な取り組みがうかがわれる作品である。
帰国後も制作はしばらく低調であったが、樹木を描いた透明感あふれる写実的な一連の作品は好評であったようで、1957年の第1回東京国際版画ビエンナーレには《樹木》を出品している。滞仏で傷ついた内面はぽっかり穴が開いたままであったことの現れだろうか、同年の春陽会展には《樹木》の作品と並んで全く対照的で晦渋な《ある空虚》が出品されている。
それが一変するのが翌58年で、女子美術大学で非常勤講師を務めたり、新たに大岡信や安東次男らの文学者との交流が始まったりするなど、新たな環境の変化に促されるかのように再び旺盛な制作活動が開始された。本展に出品されている《夜の森》と《樹木》は昼と夜とでネガポジの関係になるなど対をなす意欲的なもので、第3回現代日本美術展で初めて展示されている。写実的な樹木の描写とは真逆に、ここでは樹木が角錐状にデフォルメされて並置され、音楽的なリズムが刻まれている。《樹木》では鋭角的な形象が水平方向に展開し、《夜の森》では、闇の中で浮かび上がる形象と明滅する灯体状のものが垂直方向に漂っている。実験工房の湯浅譲二がウェーベルンの音楽と《夜の森》とを比較したのは慧眼である。両者には《束の間の幻影》を生み出した駒井の代名詞ともいえるサンドペーパーによるエッチングが採用されており、作家に実験的な精神が回復しつつあることがうかがわれる。「オーストラリア・ニュージーランド巡回日本現代美術展」に《夜の森》とともに《束の間の幻影》が出品された背後には、駒井の心にある種の自己肯定感がよみがえった証を読み取れよう。
《青い家》(1960)は、翌年の春陽会展が初出の作品である。《クラブのA》(1958)から始まる、クレーの《パルナッソス山へ》を思い起こさせる一版多色でディープエッチの技法を用いた点描風の色彩銅版画の試みに連なるものである。福原コレクションには、同じ版を用いた色違いの《黄色い風景》が存在している。こうした一連の作品群への評価は高かったようで、《クラブのA》は1959年の『みづゑ』2月号の表紙を飾るとともに、同年の『美術手帖』2月号でも瀧口修造がその批評で取り上げている。こうしてみると、今回展示のM氏コレクションの大部分は、駒井が節目節目で強い思いを託してM氏に供した作品のように思えてくるのである。
おわりに
恩地とクレーに触発されて独自の世界を切り開いた駒井であったが、「この頃美術雑誌などで僕の仕事をめちゃめちゃにくさされるのですっかり参っています。例えば、「彼の仕事からポール・クレエを引いたらなんにも残らない」とかなんとかいう評です。やきもちだと思って我慢しています。」(『若き日の手紙』)との苦悩をそのころ懇意にしていたR夫人に1950年に打ち明けている。
他方、不惑を超えて後の1963年には、「その[1951年]頃の斎藤清さんは、日本的な作品が多いんですが、この時の出品画はむしろバタ臭いものを創ろうとしていたように思います。僕だってそうでした。クレーかなにか真似でバタ臭いものをつくって出したけれど、向うの人が提灯が光っているって風に受け取るんですね。だから、伝統や民族性ってものは作為がなくても自然に出る者だと思うんです」との当時の西洋かぶれについて冷静に振り返っている。
駒井の若き日々は、自己意識の高揚と挫折、自尊感情の回復の歴史でもあった。長期にわたって駒井に伴走したM氏の手元に遺された珠玉のコレクションが展示される本展には作家の苦闘の跡が映し出されている。本稿が駒井の生涯と作品にアプローチするための補助線として多少ともお役に立てば幸いである。
(くりた ひでのり)
■栗田秀法(くりた ひでのり)
1963年愛知県生まれ。 1986年名古屋大学文学部哲学科(美学美術史専攻)卒業。1989年名古屋大学大学院文学研究科哲学専攻(美学美術史専門)博士後期課程中途退学。 愛知県美術館主任学芸員、名古屋芸術大学美術学部准教授を経て、現在、名古屋大学大学院人文学研究科教授(博物館学担当)。博士(文学)。専門はフランス近代美術史、日本近現代美術史、美術館学。
著書、論文:『プッサンにおける語りと寓意』(三元社、2014)、編著『現代博物館学入門』(ミネルヴァ書房、2019)、「 戦後の国際版画展黎明期の二つの版画展と日本の版画家たち」『名古屋芸術大学研究紀要』37(2016)など。
展覧会:「没後50年 ボナール展」(1997年、愛知県美術館、Bunkamura ザ・ミュージアム)、「フランス国立図書館特別協力 プッサンとラファエッロ 借用と創造の秘密」(1999年、愛知県美術館、足利市立美術館)、「大英博物館所蔵フランス素描展」(2002年、国立西洋美術館、愛知県美術館)など
●展示風景
左からNo.14 駒井哲郎「青い家」
No.2 駒井哲郎「木版」
No.11 駒井哲郎「樹木」
※1958年現代日本美術展のシール付き

左からNo.1 駒井哲郎「1969年の賀状 クルト・セリグマン作「ロマンチックの産業」の模刻」
No.13 駒井哲郎「1960年の南画廊案内状」
No.8 駒井哲郎「街(雑踏)」
※春陽会第30回展出品の自筆シール付き
No.12 駒井哲郎「夜の森」
※1958年オーストラリア、ニュージーランド巡回日本現代美術展のシール付き


左から
No.7 駒井哲郎「分割された顔」
※自筆シール付き
No.3 駒井哲郎「化石」
※鎌倉近代美術館・現代創作版画6人展出品の自筆シール付き
No.4 駒井哲郎「小さな魚」
※鎌倉近代美術館・現代創作版画6人展出品の自筆シール付き
No.15 駒井哲郎「誕生祝い」
No.9 駒井哲郎作品
キャンバス・油彩
32.8×52.8cm(M10号)
Signed
No.14 駒井哲郎青い家
都美No.141 美術出版no.141
1960
銅版(アクアチント、カラー)
イメージサイズ:13.0×18.5cm
紙サイズ:32.5×25.0cm
Ed.12
Signed
No.8 駒井哲郎街(雑踏)
都美No.69, 美術出版no.72
※春陽会第30回展のシール付き
1953
銅版(アクアチント、カラー)
14.0×15.5cm
紙サイズ:28.5×26.5cm
Ed.25
Signed
No.13 駒井哲郎南画廊案内状
都美No.124, 125
美術出版no.125. 126
1960
銅版二点同時刷り(エッチング)
シートサイズ:各4.0×15.0cm
紙サイズ:15.0×38.0cm
各Ed.37
No.5 駒井哲郎墓堀人
都美No.48, 美術出版no.50
※1952年、パリ、サロン・ド・メイのシール付き
1951
銅版(アクアチント、ソフトグランド・エッチング)
イメージサイズ:16.2×11.3cm
紙サイズ:28.0×20.0cm
Ed.350
Signed
No.4 駒井哲郎小さな魚
都美No.25, 美術出版no.26
※鎌倉近代美術館・現代創作版画6人展のシール付き
1950
銅版(エッチング、メゾチント(雁皮刷))
イメージサイズ:5.0×12.0cm
紙サイズ:16.5×25.5cm
Ed.20
Signed
No.3 駒井哲郎化石
都美No.14, 美術出版no.15
※鎌倉近代美術館・現代創作版画6人展のシール付き
1948
銅版(アクアチント、ソフトグランド・エッチング)
イメージサイズ:13.7×5.5cm
紙サイズ:30.2×22.0cm" Ed.20
Signed
No.7 駒井哲郎分割された顔
1953
銅版(カラー)
イメージサイズ:7.5×7.5cm
紙サイズ:18.8×17.1cm
Signed
No.10 駒井哲郎仏国風景
都美No.75 美術出版no.78
1954
銅版(エングレーヴィング)
イメージサイズ:9.5×6.7cm
紙サイズ:32.6×25.0cm
Ed.50
Signed
No.12 駒井哲郎夜の森
都美No.99, 美術出版no.101
※1958年オーストラリア、ニュージーランド巡回日本現代美術展のシール付き
1958
銅版(アクアチント)
イメージサイズ:21.4×19.2cm
紙サイズ:33.0×25.5cm
Ed.25
Signed
No.6 駒井哲郎鱶とマルドロオル
都美No.49, 美術出版no.51
※1952年、パリ、サロン・ド・メイのシール付き
1951
銅版(アクアチント、エッチング)
イメージサイズ:16.2×11.3cm
紙サイズ:38.0×28.5cm
Ed.350 Signed
No.11 駒井哲郎樹木
都美No.91 美術出版no.91
※1958年現代日本美術展のシール付き
1958
銅版(アクアチント、ドライポイント)
イメージサイズ:26.0×36.5cm
紙サイズ:32.0×45.5cm
Signed
No.15 駒井哲郎誕生祝い
1962
銅版
イメージサイズ:9.5×7.1cm
Ed.30
Signed
No.2 駒井哲郎木版
イメージサイズ:40.0×30.4cm
紙サイズ:49.5×44.5cm
Signed
No.1 駒井哲郎1969年の賀状 クルト・セリグマン作「ロマンチックの産業」の模刻
都美No.3 美術出版no.4
1936年頃
銅版(エッチング)
イメージサイズ:11.5×9.7cm
紙サイズ:16.5×25.2cm
エンボスあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
◆ときの忘れものでは「生誕100年 駒井哲郎展 Part1 若き日の作家とパトロン」(アポイントメント制/WEB展)を開催中です。
会期=2020年6月16日[火]―7月11日[土]
皆様がご自宅でも楽しんでいただけるよう前回瑛九展に続き動画を制作しYouTubeで公開しています。

栗田秀法さんの特別寄稿(前編、後編)をあわせてお読みください。
※アポイント制にてご来廊いただける日時は、火曜~土曜の平日12:00~18:00となります。前日までにメールでご予約ください。日・月・祝日休廊。
◆「没後60年 第29回瑛九展」は終了しましたが、今回初めて制作した動画・第一部と第二部は引き続きYouTubeでご覧になれます。
特別寄稿・大谷省吾さんの「ウェブ上で見る瑛九晩年の点描作品」も併せてお読みください。
今まで研究者やコレクターの皆さんが執筆して下さったエッセイや、瑛九情報は2020年5月18日のブログ「81日間<瑛九情報!>総目次(増補再録)」にまとめて紹介しています。
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●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
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営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
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