「メカス マチューナス フルクサス」(再録)
ヴィートウタス・ランズベルギス
ふたりのリトアニア人が海を越え遠い異国に渡った後、世界を、美術の世界を動かした。ふたりはコンセプチュアル・アーティストを名乗りはしなかったが、この呼称はもとより自称に馴染まない。ニーチェの言うように、世界は新たな騒音を創りだす者ではなく、新たな着想を得る者によって動かされる。そして世界は音もなく、だれに聞かれることもなく、自転する。
ヨーナス・メカスとユルギス・マチューナスの両名はアメリカ人となった。国土が再びソ連による占領の憂き目に遇った1944年、大挙して祖国を離れた同胞と運命を共にしたのである。
ヨーナスがアメリカに渡ってもヨーナスでありつづけたのに対し、ユルギスはジョージになりかわった(ただしリトアニアに宛てた手紙にはユルギスと署名する)。ヨーナスが理解し、受け容れる道を選んだのに対し、ユルギスは自ら討って出て、理解しようとしない者等を説き伏せ、靡かせようとした。
内向性と外向性╶─╴ふたりはあの巨大な都会ニューヨークで見事に互いを補いあった。折しも20世紀後半、あらゆる人種、あらゆる国の優れた才能がこの街に押し寄せた時期である。ニューヨークはふたりに翼を授けた。いや授けたのは羽ばたくのに必要な空間にすぎなかったかもしれない。
ヨーナスはリトアニアにともすれば心から溢れそうになるほど深い想いを寄せ、稀な美を湛え、郷愁を誘う詩をものした。ヨーナスはまた叛逆の精神も滾らせ、ハリウッドに対抗するアメリカの新しい映画を創りだした。ユルギスは自らのことで頭を一杯にし、リトアニアから持ち越したその思いを果たし状にように、日下にあるものはなにもかも見尽くしたと思いなすアメリカに突きつけた。
果たし合いは今もつづき、終わる気配はない。すべては生命を保ち、流れ、変化する。人生とはそうしたもの、ただ株券を収めた金庫のようなクローンのみならず、化石化した生き物のみならず、生きた人間のいるかぎり、人生とはそうしたものである。そして芸術を介した暮らしの活力の現れを、両人が現実として、生き生きと、流れてやまず、絶えず変化しつづける現実として捉えたものに、フルクサスの名がついた。
ふたりはそのように名づけ、かくして新語は今も世に受け継がれる。
(木下哲夫訳)
*『版画掌誌ときの忘れもの第5号』(2005年刊)より再録

メカスさん(左)とランズベルギスさん(右)
■ヴィートウタス・ランズベルギス Vytautas LANDSBERGIS
1932年リトアニアのカウナスに生まれる。1940年リトアニアはソ連に併合される。作曲家、ピアニスト、リトアニア国立音楽院教授。同郷のジョージ・マチューナスが創設したフルクサスにも参加している。近代リトアニアの代表的作曲家で画家のミカロユス・チュルリョーニスの研究者として知られる。1990年の50年ぶりの自由選挙で独立回復運動を率い、初代リトアニア大統領となる。
*画廊亭主敬白
ブログはじめ書籍などに多くの方に寄稿していただきましたが、一国の大統領から原稿をいただいたのはランズベルギスさんが初めてでこれからもないでしょう。
メカスさんのおかげです。
1983年5月ニューヨークでメカスさんに会って以来、いろいろなことがありましたが、亭主が最も印象深く思い出すのは1991年夏の二回目の来日のときのことでした。
ソ連のペレストロイカから始まったバルト三国の分離独立運動が大詰めを迎えていた時期でした。新宿の紀伊國屋ホールでの講演会が終わり、会場から出てきたとき、ちょうど街頭テレビの画面にソ連の軍事介入に抗議するバルト三国のニュースが流れていました。大勢の人々が丘に集まり、手をつなぎ(人間の鎖)、合唱することによって世界に独立を訴えている画面を食い入るように見つめていたメカスさんの姿を忘れられません。
軍事的圧力で脅すソ連に対し、銃ではなく歌声で、バルト三国の結束を訴え運動を主導したのがリトアニアでした。このとき国民を率いて独立に導き初代大統領に就いたのがピアノ教師だったランズベルギスさんです。『リトアニアへの旅の追憶』に流れる曲のピアニストです。

ジョナス・メカス Jonas MEKAS
「料理をする私の母、1971(リトアニアへの旅の追憶)」
2009年
CIBA print
35.4×27.5cm
signed
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
メカスさんが1972年に発表した映画「リトアニアへの旅の追憶」には、27年ぶりに訪れたリトアニア(まだソ連領だった)での母、友人たちとの再会、そして懐かしい故郷の風景が映し出されています。詩人ならではのみずみずしい言葉とバックに流れるピアノの調べにのって、一瞬一瞬のきらめくような映像が観る人たちを魅了します。
◆本日から「ジョナス・メカス展」を開催します(予約制/WEB展)。
会期=2020年8月28日[金]―9月12日[土]*日・月・祝日休廊

昨2019年1月23日に96歳で亡くなったジョナス・メカスさんが1980年代から精力的に取り組んだ<フローズン・フィルム・フレームズ=静止した映画>シリーズに焦点をあて写真、版画など25点を展観します。出品作品の詳細は8月27日ブログに掲載しました。
※予約制にてご来廊いただける日時は、火曜~土曜の平日12:00~18:00となります。
※観覧をご希望の方は前日までにメール、電話にてご予約ください。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
ヴィートウタス・ランズベルギス
ふたりのリトアニア人が海を越え遠い異国に渡った後、世界を、美術の世界を動かした。ふたりはコンセプチュアル・アーティストを名乗りはしなかったが、この呼称はもとより自称に馴染まない。ニーチェの言うように、世界は新たな騒音を創りだす者ではなく、新たな着想を得る者によって動かされる。そして世界は音もなく、だれに聞かれることもなく、自転する。
ヨーナス・メカスとユルギス・マチューナスの両名はアメリカ人となった。国土が再びソ連による占領の憂き目に遇った1944年、大挙して祖国を離れた同胞と運命を共にしたのである。
ヨーナスがアメリカに渡ってもヨーナスでありつづけたのに対し、ユルギスはジョージになりかわった(ただしリトアニアに宛てた手紙にはユルギスと署名する)。ヨーナスが理解し、受け容れる道を選んだのに対し、ユルギスは自ら討って出て、理解しようとしない者等を説き伏せ、靡かせようとした。
内向性と外向性╶─╴ふたりはあの巨大な都会ニューヨークで見事に互いを補いあった。折しも20世紀後半、あらゆる人種、あらゆる国の優れた才能がこの街に押し寄せた時期である。ニューヨークはふたりに翼を授けた。いや授けたのは羽ばたくのに必要な空間にすぎなかったかもしれない。
ヨーナスはリトアニアにともすれば心から溢れそうになるほど深い想いを寄せ、稀な美を湛え、郷愁を誘う詩をものした。ヨーナスはまた叛逆の精神も滾らせ、ハリウッドに対抗するアメリカの新しい映画を創りだした。ユルギスは自らのことで頭を一杯にし、リトアニアから持ち越したその思いを果たし状にように、日下にあるものはなにもかも見尽くしたと思いなすアメリカに突きつけた。
果たし合いは今もつづき、終わる気配はない。すべては生命を保ち、流れ、変化する。人生とはそうしたもの、ただ株券を収めた金庫のようなクローンのみならず、化石化した生き物のみならず、生きた人間のいるかぎり、人生とはそうしたものである。そして芸術を介した暮らしの活力の現れを、両人が現実として、生き生きと、流れてやまず、絶えず変化しつづける現実として捉えたものに、フルクサスの名がついた。
ふたりはそのように名づけ、かくして新語は今も世に受け継がれる。
(木下哲夫訳)
*『版画掌誌ときの忘れもの第5号』(2005年刊)より再録

メカスさん(左)とランズベルギスさん(右)
■ヴィートウタス・ランズベルギス Vytautas LANDSBERGIS
1932年リトアニアのカウナスに生まれる。1940年リトアニアはソ連に併合される。作曲家、ピアニスト、リトアニア国立音楽院教授。同郷のジョージ・マチューナスが創設したフルクサスにも参加している。近代リトアニアの代表的作曲家で画家のミカロユス・チュルリョーニスの研究者として知られる。1990年の50年ぶりの自由選挙で独立回復運動を率い、初代リトアニア大統領となる。
*画廊亭主敬白
ブログはじめ書籍などに多くの方に寄稿していただきましたが、一国の大統領から原稿をいただいたのはランズベルギスさんが初めてでこれからもないでしょう。
メカスさんのおかげです。
1983年5月ニューヨークでメカスさんに会って以来、いろいろなことがありましたが、亭主が最も印象深く思い出すのは1991年夏の二回目の来日のときのことでした。
ソ連のペレストロイカから始まったバルト三国の分離独立運動が大詰めを迎えていた時期でした。新宿の紀伊國屋ホールでの講演会が終わり、会場から出てきたとき、ちょうど街頭テレビの画面にソ連の軍事介入に抗議するバルト三国のニュースが流れていました。大勢の人々が丘に集まり、手をつなぎ(人間の鎖)、合唱することによって世界に独立を訴えている画面を食い入るように見つめていたメカスさんの姿を忘れられません。
軍事的圧力で脅すソ連に対し、銃ではなく歌声で、バルト三国の結束を訴え運動を主導したのがリトアニアでした。このとき国民を率いて独立に導き初代大統領に就いたのがピアノ教師だったランズベルギスさんです。『リトアニアへの旅の追憶』に流れる曲のピアニストです。

ジョナス・メカス Jonas MEKAS
「料理をする私の母、1971(リトアニアへの旅の追憶)」
2009年
CIBA print
35.4×27.5cm
signed
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メカスさんが1972年に発表した映画「リトアニアへの旅の追憶」には、27年ぶりに訪れたリトアニア(まだソ連領だった)での母、友人たちとの再会、そして懐かしい故郷の風景が映し出されています。詩人ならではのみずみずしい言葉とバックに流れるピアノの調べにのって、一瞬一瞬のきらめくような映像が観る人たちを魅了します。
◆本日から「ジョナス・メカス展」を開催します(予約制/WEB展)。
会期=2020年8月28日[金]―9月12日[土]*日・月・祝日休廊

昨2019年1月23日に96歳で亡くなったジョナス・メカスさんが1980年代から精力的に取り組んだ<フローズン・フィルム・フレームズ=静止した映画>シリーズに焦点をあて写真、版画など25点を展観します。出品作品の詳細は8月27日ブログに掲載しました。
※予約制にてご来廊いただける日時は、火曜~土曜の平日12:00~18:00となります。
※観覧をご希望の方は前日までにメール、電話にてご予約ください。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
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