植田実のエッセイ「手紙 倉俣さんへ」第6回
手紙 倉俣さんへ 6
「ミス・ブランチ」。1988年、倉俣史朗のデザインによるアーム・チェア。
座面と左右の肘掛け面とがU字形に一体化された厚さ60ミリの透明アクリル。背もたれは同じ素材をさらに薄く、ひとを支える弧の形が両側面から離れ自立して、座面から立ち上がる。脚はアルミパイプ・カラーアルマイト4本が、前後微妙な角度で座面に挿しこまれている。固定していないので運搬などに際しての着脱が容易である一方、坐る人を待つときは透明アクリルの重さを頼んでぴたりと収まり、動かない。
銀座ギャラリーせいほう
「倉俣史朗展 ―Shiro Kuramata Cahier 刊行記念展」より「ミス・ブランチ」
(会期:2020年11月16日―11月28日)
撮影:塩野哲也
透明アクリルを嵌入する、なんともいえない美しい色合いのアルミパイプが、露出した構造体のように丸ごと見える。それ以上に目を惹くのは、座と左右肘掛け面のなかに閉じこめられながら咲く、いくつもの薔薇の切り花である。「ミス・ブランチ」に接するとき、いちばんはじめに目を奪う、そしてさいごまでその印象で椅子がつくりあげられるほどの、赤いかたちである。
とりあえず物に即してメモしてみたが、「ミス・ブランチ」の現実を片鱗もとらえていない。そのわきを通り過ぎて、倉俣さんの家具はある。危ういまでのその精度を説明できない。この椅子以外のどんな椅子にも、薔薇を入れたら破綻する。たんなる装飾となりスタイルとなり、破目を外した花は重くなりグロテスクになる。それはデザインという火山の、溶融したマグマ溜りである。「ミス・ブランチ」の、透明アクリル板の表裏に小口に、実像と反映像とが交錯する薔薇は散開増殖し、切断連結され、出現し消失し出現する。だから、いくつと数えることができない。終わりのないイメージの推移は、写真家たちによる優れた静止画像が、むしろ端的に語っている。
じつにシンプルな構成が複雑な多角性の表れとなる。花と金属の筒が樹脂でつくられたガラスのなかで出会うシーンが、ディテールではなくなる。と同時に、陽が差し込む室内で、あるがままを無造作にスナップしたかのような写真は、この椅子の真実を、あっさりとらえてしまっている。
「ミス・ブランチ」といえば、いつもついてきて離れないイメージがある。ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」に描かれた、風に「散り舞う」などと形容されている薔薇である。ヴィーナスを陸地へと送る風を吹きつけるゼフュロス(西風)とボレアス(北風)はそれを可視化するために、風の流れに薔薇を乗せる。その薔薇は花弁ではなく、花托のすぐ下、あるいは蕾や葉のひとつふたつが残るところで切り、空に浮かせてさまざまな角度から、花の表や裏や側面を見せようとしているようだ。その数およそ30。だがその切り花は画面全体を蔽っているのではなく、当のヴィーナスにもまだ届いていない。ゼフュロスとボレアスのまわりに限定されて、すなわち画面の左上4分の1あたりに寄り集まって、両風神の見えないガウンあるいは夜具あるいは部屋を、点状につないで現前するための花模様であるかのように、舞っていながら静止しており、神のというより人間の生活環境に近づくかのように思えてしまう。画面右手の岸辺でヴィーナスを待ち受ける女性が身につけている青い矢車草模様の白い衣服や、また彼女が裸のままのヴィーナスを護るために着せかけようとしている、小さな花々を刺繍した薄紅色のケープも、それは眼で確かめられるので薔薇の花で暗示されたものの世俗化とも読めるほどに、静と動と見えるものと見えないものとが入り組んだ構図になっている。
サンドロ・ボッティチェリによる、カンヴァスに描かれたこのテンペラの制作は1485年頃。ほかの資料でも1480年頃、82-90年頃、83年、84-86年などと諸説あるようだが「ミス・ブランチ」の1988年とはほぼ500年を隔てている。その絵から抜き出して眺めた500年前の薔薇は、その後の、品種改良や育種のさかんな追究をまだ知らぬげに、おっとりしている。ふっくらと平たい。なのにその花々の身のこなしは頭脳的というか挑発的というか、ふつうではない。散り舞うだけの形容を許さない姿。そこに描かれているのは現世に似せながら、現世の人間から隠された天地のシーンなのだ。大きな貝の舟に乗って岸に到達したヴィーナスのまわりには、風神たちと着衣を用意していた女性、それだけの3人(あるいは3柱)の神しかいない。これ以上増えたらその空間は見る間に単調になる。群衆が美神の誕生を祝う場面になれば神性は消滅する。現代の都市図になってしまう。花や衣や貝だけではない。海の光景も陸地の様子も、だいいち美神自体も、謎に満たされ、そのどこまでが画家個人の意図なのか、15世紀という時代の反映なのか判然しない。
この絵だけではない。「プリマヴェーラ(春)」にもその他の、ボッティチェリの初期から晩年までの絵画にも同じ謎が連綿と続く。ルネサンス初期という時代区分の理解では、その謎はいつまでも解けないかのように。
ボッティチェリは16世紀の初めに亡くなったあとは早やばやと忘れ去られ、19世紀になってようやく、ラスキン、ペイター、ダンテ・ガブリエル・ロセッティなどのイギリス人によって再評価されたという(京谷啓徳による、東京美術の『アート・ビギナーズ・コレクション、ボッティチェッリ』を参照)。本場でもその程度の処遇だったとは。この画家については何も知らなかったので大型書店のある街に行き、美術書の棚を見渡して気づいたのは、美術史とくに西欧美術史や絵画の見方などの啓蒙書の表紙を飾っているのは「ヴィーナスの誕生」か「プリマヴェーラ」がとにかく多い。ダ・ヴィンチやミケランジェロが表紙だとちょっと厳しい印象になりそうだし、印象派やピカソやポロックでは美術史全体というより、ある時代、ある傾向に偏ってみえてしまうのかもしれない。だから論文や解説の中核というよりは誰もが美術にすぐ近づけるアプローチとしての表紙に(あくまで上の2作品に限られるが)起用される。ボッティチェリはそういう画家らしいのが発見だった。多くの人々に愛されてきた。でもとんでもない、型破りの画家だったと考えると案外分かりやすいのかも。
「ヴィーナス」の薔薇は、500年にわたる品種改良を経てホンコンフラワーに達した。その絶妙なタイミングをとらえて「ミス・ブランチ」がつくられた。造花だからこそアクリルのなかに封じ込めることができたのだが皮肉な意図はなぜか感じられず、ゼフュロスたちを囲う薔薇にくらべれば、花弁は尖るように小さくまとまり、開き、花柄や葉は心持ち伸びやかにみえる。ヴィーナスを祝う花は平面描写であり、対してブランチを暗示する花は立体模造である。でも両者とも、ぜんぜん枯れていない。
ボッティチェリの薔薇が、一糸まとわぬヴィーナスの身体に触れなんとするぎりぎりの間を取りつつ空に浮くことで、そこに起こっていることの神性を保証するのと同様に、倉俣史朗の薔薇も、そこに坐ることを待つのでも阻むのでもない見えない間を取ることで、椅子と人との、かつてない関係をつくる。「ミス・ブランチ」に坐るひとの写真を見たことがない。でも人が始めからそこに坐っているのが分かる。
それ以前に、「Luminous Chair(光の椅子)」(1969年)や「Chair-Wall」(1970年)を撮った小川隆之の写真は、上に述べた椅子と人との関係を、とてもおしゃれに物語っていた。裸のままの女性たちを包むことで、人間の神性をひそかに描き出す家具を私は知った。その姿は影絵に布に衣服に転身しながら、擬人化からもっとも隔てられた地点に突如現れる。いまは倉俣さんの家具すべてに、見えない人が見える。誰もが、より精緻なその関係をちゃんと知っていた。同じ「ミス・ブランチ」が、それぞれの声で呼んでいた。
倉俣さんはボッティチェリを意識していなかったと思う。(この項つづく)
追伸
「ミス・ブランチ」ではアクリルの座面に挿しこまれたアルミパイプが固定されていないことを教えてくれたのは、「ときの忘れもの」の尾立麗子です。さらに彼女はその運搬設置の様子を見ていて、脚が固定されていないために、おそらく60-70キロの重さの座面を2人がかりで持ちあげることになり、さらには座面を持ちあげているあいだ、脚が倒れてしまわないように4本のアルミパイプを支えるのに2人、計4人の作業員がかかりきりになっていた、と報告してくれました。それを踏まえての「着脱が容易」ということですね。
(2020.12.20 うえだ まこと)
*植田実のエッセイは毎月29日の更新です。
●本日のお勧め作品は倉俣史朗です。
倉俣史朗 Shiro Kuramata Cahie
1集、2集 シルクスクリーン各10点組
作者:倉俣史朗
監修:倉俣美恵子
植田実
制作:1・2集 2020年
*2021年~2024年にかけて3~6集を刊行予定(全6集・60点)
技法:シルクスクリーン
用紙:ベランアルシュ紙
サイズ:37.5×48.0cm
シルクスクリーン刷り:石田了一工房・石田了一
限定:35部
各作品に限定番号と倉俣美恵子のサイン入り
発行:ときの忘れもの
倉俣史朗の遺したスケッチを、倉俣美恵子さんと植田実先生の監修でシルクスクリーン作品集にまとめ「倉俣史朗 Shiro Kuramata Cahier」として1~6集まで刊行します。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは12月27日(日)から2021年1月4日(月)まで冬季休廊いたします。ブログは年中無休、毎日更新を続けますのでどうぞお楽しみください。新年の営業は1月5日(火)からです。
●塩見允枝子のエッセイ「フルクサスの回想」第2回を掲載しました。合わせて連載記念の特別頒布会を開催しています。
塩見允枝子先生には11月から2021年4月までの6回にわたりエッセイをご執筆いただきます。12月28日には第2回目の特別頒布会も開催しています。お気軽にお問い合わせください。
●『ジョナス・メカス論集 映像詩人の全貌』が刊行されました。
執筆:ジョナス・メカス、井戸沼紀美、吉増剛造、井上春生、飯村隆彦、飯村昭子、正津勉、綿貫不二夫、原將人、木下哲夫、髙嶺剛、金子遊、石原海、村山匡一郎、越後谷卓司、菊井崇史、佐々木友輔、吉田悠樹彦、齊藤路蘭、井上二郎、川野太郎、柴垣萌子、若林良
*ときの忘れもので扱っています。メール・fax等でお申し込みください。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
手紙 倉俣さんへ 6
「ミス・ブランチ」。1988年、倉俣史朗のデザインによるアーム・チェア。
座面と左右の肘掛け面とがU字形に一体化された厚さ60ミリの透明アクリル。背もたれは同じ素材をさらに薄く、ひとを支える弧の形が両側面から離れ自立して、座面から立ち上がる。脚はアルミパイプ・カラーアルマイト4本が、前後微妙な角度で座面に挿しこまれている。固定していないので運搬などに際しての着脱が容易である一方、坐る人を待つときは透明アクリルの重さを頼んでぴたりと収まり、動かない。
銀座ギャラリーせいほう「倉俣史朗展 ―Shiro Kuramata Cahier 刊行記念展」より「ミス・ブランチ」
(会期:2020年11月16日―11月28日)
撮影:塩野哲也
透明アクリルを嵌入する、なんともいえない美しい色合いのアルミパイプが、露出した構造体のように丸ごと見える。それ以上に目を惹くのは、座と左右肘掛け面のなかに閉じこめられながら咲く、いくつもの薔薇の切り花である。「ミス・ブランチ」に接するとき、いちばんはじめに目を奪う、そしてさいごまでその印象で椅子がつくりあげられるほどの、赤いかたちである。
とりあえず物に即してメモしてみたが、「ミス・ブランチ」の現実を片鱗もとらえていない。そのわきを通り過ぎて、倉俣さんの家具はある。危ういまでのその精度を説明できない。この椅子以外のどんな椅子にも、薔薇を入れたら破綻する。たんなる装飾となりスタイルとなり、破目を外した花は重くなりグロテスクになる。それはデザインという火山の、溶融したマグマ溜りである。「ミス・ブランチ」の、透明アクリル板の表裏に小口に、実像と反映像とが交錯する薔薇は散開増殖し、切断連結され、出現し消失し出現する。だから、いくつと数えることができない。終わりのないイメージの推移は、写真家たちによる優れた静止画像が、むしろ端的に語っている。
じつにシンプルな構成が複雑な多角性の表れとなる。花と金属の筒が樹脂でつくられたガラスのなかで出会うシーンが、ディテールではなくなる。と同時に、陽が差し込む室内で、あるがままを無造作にスナップしたかのような写真は、この椅子の真実を、あっさりとらえてしまっている。
「ミス・ブランチ」といえば、いつもついてきて離れないイメージがある。ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」に描かれた、風に「散り舞う」などと形容されている薔薇である。ヴィーナスを陸地へと送る風を吹きつけるゼフュロス(西風)とボレアス(北風)はそれを可視化するために、風の流れに薔薇を乗せる。その薔薇は花弁ではなく、花托のすぐ下、あるいは蕾や葉のひとつふたつが残るところで切り、空に浮かせてさまざまな角度から、花の表や裏や側面を見せようとしているようだ。その数およそ30。だがその切り花は画面全体を蔽っているのではなく、当のヴィーナスにもまだ届いていない。ゼフュロスとボレアスのまわりに限定されて、すなわち画面の左上4分の1あたりに寄り集まって、両風神の見えないガウンあるいは夜具あるいは部屋を、点状につないで現前するための花模様であるかのように、舞っていながら静止しており、神のというより人間の生活環境に近づくかのように思えてしまう。画面右手の岸辺でヴィーナスを待ち受ける女性が身につけている青い矢車草模様の白い衣服や、また彼女が裸のままのヴィーナスを護るために着せかけようとしている、小さな花々を刺繍した薄紅色のケープも、それは眼で確かめられるので薔薇の花で暗示されたものの世俗化とも読めるほどに、静と動と見えるものと見えないものとが入り組んだ構図になっている。
サンドロ・ボッティチェリによる、カンヴァスに描かれたこのテンペラの制作は1485年頃。ほかの資料でも1480年頃、82-90年頃、83年、84-86年などと諸説あるようだが「ミス・ブランチ」の1988年とはほぼ500年を隔てている。その絵から抜き出して眺めた500年前の薔薇は、その後の、品種改良や育種のさかんな追究をまだ知らぬげに、おっとりしている。ふっくらと平たい。なのにその花々の身のこなしは頭脳的というか挑発的というか、ふつうではない。散り舞うだけの形容を許さない姿。そこに描かれているのは現世に似せながら、現世の人間から隠された天地のシーンなのだ。大きな貝の舟に乗って岸に到達したヴィーナスのまわりには、風神たちと着衣を用意していた女性、それだけの3人(あるいは3柱)の神しかいない。これ以上増えたらその空間は見る間に単調になる。群衆が美神の誕生を祝う場面になれば神性は消滅する。現代の都市図になってしまう。花や衣や貝だけではない。海の光景も陸地の様子も、だいいち美神自体も、謎に満たされ、そのどこまでが画家個人の意図なのか、15世紀という時代の反映なのか判然しない。
この絵だけではない。「プリマヴェーラ(春)」にもその他の、ボッティチェリの初期から晩年までの絵画にも同じ謎が連綿と続く。ルネサンス初期という時代区分の理解では、その謎はいつまでも解けないかのように。
ボッティチェリは16世紀の初めに亡くなったあとは早やばやと忘れ去られ、19世紀になってようやく、ラスキン、ペイター、ダンテ・ガブリエル・ロセッティなどのイギリス人によって再評価されたという(京谷啓徳による、東京美術の『アート・ビギナーズ・コレクション、ボッティチェッリ』を参照)。本場でもその程度の処遇だったとは。この画家については何も知らなかったので大型書店のある街に行き、美術書の棚を見渡して気づいたのは、美術史とくに西欧美術史や絵画の見方などの啓蒙書の表紙を飾っているのは「ヴィーナスの誕生」か「プリマヴェーラ」がとにかく多い。ダ・ヴィンチやミケランジェロが表紙だとちょっと厳しい印象になりそうだし、印象派やピカソやポロックでは美術史全体というより、ある時代、ある傾向に偏ってみえてしまうのかもしれない。だから論文や解説の中核というよりは誰もが美術にすぐ近づけるアプローチとしての表紙に(あくまで上の2作品に限られるが)起用される。ボッティチェリはそういう画家らしいのが発見だった。多くの人々に愛されてきた。でもとんでもない、型破りの画家だったと考えると案外分かりやすいのかも。
「ヴィーナス」の薔薇は、500年にわたる品種改良を経てホンコンフラワーに達した。その絶妙なタイミングをとらえて「ミス・ブランチ」がつくられた。造花だからこそアクリルのなかに封じ込めることができたのだが皮肉な意図はなぜか感じられず、ゼフュロスたちを囲う薔薇にくらべれば、花弁は尖るように小さくまとまり、開き、花柄や葉は心持ち伸びやかにみえる。ヴィーナスを祝う花は平面描写であり、対してブランチを暗示する花は立体模造である。でも両者とも、ぜんぜん枯れていない。
ボッティチェリの薔薇が、一糸まとわぬヴィーナスの身体に触れなんとするぎりぎりの間を取りつつ空に浮くことで、そこに起こっていることの神性を保証するのと同様に、倉俣史朗の薔薇も、そこに坐ることを待つのでも阻むのでもない見えない間を取ることで、椅子と人との、かつてない関係をつくる。「ミス・ブランチ」に坐るひとの写真を見たことがない。でも人が始めからそこに坐っているのが分かる。
それ以前に、「Luminous Chair(光の椅子)」(1969年)や「Chair-Wall」(1970年)を撮った小川隆之の写真は、上に述べた椅子と人との関係を、とてもおしゃれに物語っていた。裸のままの女性たちを包むことで、人間の神性をひそかに描き出す家具を私は知った。その姿は影絵に布に衣服に転身しながら、擬人化からもっとも隔てられた地点に突如現れる。いまは倉俣さんの家具すべてに、見えない人が見える。誰もが、より精緻なその関係をちゃんと知っていた。同じ「ミス・ブランチ」が、それぞれの声で呼んでいた。
倉俣さんはボッティチェリを意識していなかったと思う。(この項つづく)
追伸
「ミス・ブランチ」ではアクリルの座面に挿しこまれたアルミパイプが固定されていないことを教えてくれたのは、「ときの忘れもの」の尾立麗子です。さらに彼女はその運搬設置の様子を見ていて、脚が固定されていないために、おそらく60-70キロの重さの座面を2人がかりで持ちあげることになり、さらには座面を持ちあげているあいだ、脚が倒れてしまわないように4本のアルミパイプを支えるのに2人、計4人の作業員がかかりきりになっていた、と報告してくれました。それを踏まえての「着脱が容易」ということですね。
(2020.12.20 うえだ まこと)
*植田実のエッセイは毎月29日の更新です。
●本日のお勧め作品は倉俣史朗です。
倉俣史朗 Shiro Kuramata Cahie1集、2集 シルクスクリーン各10点組
作者:倉俣史朗
監修:倉俣美恵子
植田実
制作:1・2集 2020年
*2021年~2024年にかけて3~6集を刊行予定(全6集・60点)
技法:シルクスクリーン
用紙:ベランアルシュ紙
サイズ:37.5×48.0cm
シルクスクリーン刷り:石田了一工房・石田了一
限定:35部
各作品に限定番号と倉俣美恵子のサイン入り
発行:ときの忘れもの
倉俣史朗の遺したスケッチを、倉俣美恵子さんと植田実先生の監修でシルクスクリーン作品集にまとめ「倉俣史朗 Shiro Kuramata Cahier」として1~6集まで刊行します。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは12月27日(日)から2021年1月4日(月)まで冬季休廊いたします。ブログは年中無休、毎日更新を続けますのでどうぞお楽しみください。新年の営業は1月5日(火)からです。
●塩見允枝子のエッセイ「フルクサスの回想」第2回を掲載しました。合わせて連載記念の特別頒布会を開催しています。
塩見允枝子先生には11月から2021年4月までの6回にわたりエッセイをご執筆いただきます。12月28日には第2回目の特別頒布会も開催しています。お気軽にお問い合わせください。●『ジョナス・メカス論集 映像詩人の全貌』が刊行されました。
執筆:ジョナス・メカス、井戸沼紀美、吉増剛造、井上春生、飯村隆彦、飯村昭子、正津勉、綿貫不二夫、原將人、木下哲夫、髙嶺剛、金子遊、石原海、村山匡一郎、越後谷卓司、菊井崇史、佐々木友輔、吉田悠樹彦、齊藤路蘭、井上二郎、川野太郎、柴垣萌子、若林良*ときの忘れもので扱っています。メール・fax等でお申し込みください。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
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