内部の星座 三上誠寸描
松永伍一(1999年執筆)

そこにシンフォニーの諧調をたしかに嗅ぎ取っているのに、それは死者でしか表象できない着地点を示しているではないか。もはや進むも退くも叶わぬその完結性はやや多弁のきらいはあるが、透明な悲しみに蔽われていると見つめる私だった。第一回从展の意欲渦巻く会場でのことである。
三上誠は名前の上に「故」と付記されて十点ほどの作品を提供し、幻として中村正義や大島哲以や斎藤真一や星野真吾らの実像と並んで立っていた。しかもかれの特別出品によってこのグループの意図する革新のメッセージが明瞭になっていると確信したとき、私は三上誠を熱く記憶のなかに抱いた。一九七四年の初夏、かれの死後二年半後のこと。
そしていまその年に刊行された『三上誠画集』(三彩社)の五百部限定の重い頁をめくっている。三十年経っても死者は生の時間帯にあるとき以上に健在だ。私は耳を澄ます。すると、かれの問いかけがきこえて来る。「きみたちは恵まれた環境に胡坐をかいてはいないか」と。生者はいつの場合だって死者に設問され、裁かれる。ましてや三上誠のようにいのち賭けで自己を凝視し芸術構築に終始した男の声は、聴く者の魂に染みる。
日本画の概念壊しから戦後を歩み出した若いかれにとって、自己とは何かを凝視することと外的状況に斬り込むこととは等価であった。「日本画壇の封建的ギルド機構をうちやぶれ」という生硬なスローガンに鼓舞されてきた誠実な表現者は、そのときすでに病者だった。外を激しく攻める意志力は即刻内部を攻める求心力となっていくという皮肉は、おのずからピカソの技法を取り込んだ。日本画革新の気概にキュビズムは安直だが、打ってつけの武器だったように思われる。その裏打ちによって芸術運動の核「パンリアル」の推進者たり得た、と断じても良かろう。たしかにスローガンに託された使命感は戦後という時代の空気が許容した青臭さを帯びてはいるが、何もそれは三十代の三上誠に限ったことではなかった。もし他と比較しながらかれの特色をあぶり出すなら、それは外への攻撃性の熱量が病むという現実によって内なる成熟を早めたということだ。不健康が百パーセント芸術創造の敵ではない、という証拠もかれの作品のなかで見つけ出すことができよう。死者への慰めにしては酷な言い方だけど。
三上誠は詩を書いた。模倣期からの脱出、つまり独創への道程を手さぐりするとき、この言語空間も避け難い手段であった。それがイメージ増殖を助けたのである。詩が入口になったか出口になったかまでも詮索する必要はあるまい。詩想の匂うようなタイトルの作品を見据えておけば十分だ。
胸部の大手術にも生への激しい執着によって耐えた。脅かされるその恐怖、肉体の滅びの不安に捉えられても「花がほしい」という象徴的な作品を描いた。そこには三上誠という男性の願望が暗示されていて、病魔を組み伏せようと格闘するパワーを感じさせる。それが画面に活気を植え付けた。一九五五年あたりからエロティシズムの萌芽を私は感じる。そして一九六一年に四十二歳で結婚。幻想領域にあった女体との現実での合体。しかし、それは画境に静謐感を漂わせる序章を奏で始めた。謎が秘められている。たとえば「ウルカの星座」にはかつてのエロティシズムも女体の形象も影をひそめてしまう。墨色による円形に女陰が暗示されてはいるが。それに代って登場するダンボールを使用した作品「異性の街」A B、「ココココの庭」などの冷やかに計算され尽した無機質性の白昼夢は、もはや詩を必要としなくなる。詩という言語の表出がかれにとって生産的な意味を失なったとき、作品の行く先がどこになるかを私はここで発見する。
星座を仰ぎ見ることは、おのれの内なるものを見究めることであった三上誠にとって占星術は生命観とメタフィジカルに繋るもので、むろんそこにはパッションの割り込む余地はなくなる。おのずから宇宙の真理への観念的道すじが待っている。このような三上誠における生理と病理と心理とのスクランブルの試行錯誤の果てに、一連の「灸点万華鏡」「経絡万華鏡」などが成った。これまで誰も思い付かなかった大宇宙と肉体(生命)の妙なる造型である。天の星座は生命の内部の星座と見事に対応した。そこに病める者の特権を認めるのは酷だろうか。病むことによってかれは内部に宇宙の投影を発見できたのだ。たしかに病いはかれの行動を縛ったが、想像力まで規制することはできなかった。
宇宙の輪廻に肉体を賭して帰入していった晩年のかれの到達点は、すでに日本画という概念を根底から覆えし、それは戦後美術の一つの栄光の座標を示すものであった。つねに死の恐怖と背中合わせの地獄から、かくも知的に構築された思想としての内部の星座を生み出しそこにおのれの生を埋めた三上誠に、私は嫉妬を覚える。そして画面に匂わせた一片のユーモアに対しても。
(まつなが ごいち)
*『版画掌誌ときの忘れもの』第1号より、再録
■松永伍一(1930年~2008年)詩人・評論家・作家。
福岡県出身。八女高校卒。8年間中学校教師をし、1957年に上京して文筆活動に入る。1970年「日本農民詩史」で毎日出版文化賞特別賞を受賞。農民のほか、切支丹、落人など敗者、弱者への共感を叙情的に歌い上げる作風で知られる。児童文学、美術評論など多岐にわたる著述を残した。『荘厳なる詩祭 死を賭けた青春の群像』(徳間書店 1967)、『詩画集 少年』(画・吉原英雄、現代版画センター 1977)、松永伍一著作集(全6巻 法政大学出版局 1972-75)他、著書多数。
■三上誠 Makoto MIKAMI
1919年、父の出稼ぎ先の大阪市に生まれる(旧名、嶋田誠)。
幼少期を福井市で過ごす。44年京都市立絵画専門学校卒業。48年、星野真吾、八木一夫、鈴木治らと「パンリアル」結成。翌年、星野、下村良之介、大野俶嵩ら会員11名で日本画の前衛グループ「パンリアル美術協会」を結成し、その中心となる。52年、結核療養のため福井市へ帰郷。以後、福井市で制作活動を行う。しかし72年病魔に倒れ没(52歳)。段ボールや木、印刷物を使い、コラージュやフロッタージュの技法を日本画にとりこみ、幾何学的形態のなかに独自の宇宙論的な作品を発表し、日本画に新地平を切り拓いた。
●『版画掌誌ときの忘れもの第1号』











『版画掌誌ときの忘れもの第1号』A版(版画4点入り)

小野隆生
《日付けのないカレンダー》
1999年 リトグラフ
30.0x18.5cm(紙32.0x51.5cm) Ed.135
自筆サイン・限定番号入り
小野隆生
《バック・ミラーに映った影》
1999年 リトグラフ
21.5x21.0cm(紙32.0x51.5cm) Ed.35
自筆サイン・限定番号入り
三上誠
《作品A(仮題)》
原版制作=1957年頃
1999年後刷り
エッチング、アルミ版
11.8x16.0cm(紙32.0x51.5cm) Ed.35
作家印を捺し、限定版号を記入
三上誠
《作品C(仮題)》
原版制作=1960~65年頃
1999年後刷り
フォトグラビュール、銅版
9.5x7.0cm(紙32.0x51.5cm) Ed.35
作家印を捺し、限定版号を記入
◆ときの忘れものは「第2回エディション展/版画掌誌ときの忘れもの」を開催しています(予約制/WEB展)。
観覧ご希望のかたは事前に電話またはメールでご予約ください。
会期=2021年1月6日[水]—1月23日[土]*日・月・祝日休廊

『版画掌誌 ときの忘れもの』 は優れた同時代作家の紹介と、歴史の彼方に忘れ去られた作品の発掘を目指し創刊したオリジナル版画入り大型美術誌です。第1号~第5号の概要は1月6日ブログをご覧ください。
●塩見允枝子のエッセイ「フルクサスの回想」第2回を掲載しました。合わせて連載記念の特別頒布会を開催しています。
塩見允枝子先生には11月から2021年4月までの6回にわたりエッセイをご執筆いただきます。12月28日には第2回目の特別頒布会も開催しています。お気軽にお問い合わせください。
●多事多難だった昨年ですが(2020年の回顧はコチラをご覧ください)、今年も画廊空間とネット空間を往還しながら様々な企画を発信していきます。ブログは今年も年中無休です(昨年の執筆者50人をご紹介しました)。
●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。
もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
松永伍一(1999年執筆)

そこにシンフォニーの諧調をたしかに嗅ぎ取っているのに、それは死者でしか表象できない着地点を示しているではないか。もはや進むも退くも叶わぬその完結性はやや多弁のきらいはあるが、透明な悲しみに蔽われていると見つめる私だった。第一回从展の意欲渦巻く会場でのことである。
三上誠は名前の上に「故」と付記されて十点ほどの作品を提供し、幻として中村正義や大島哲以や斎藤真一や星野真吾らの実像と並んで立っていた。しかもかれの特別出品によってこのグループの意図する革新のメッセージが明瞭になっていると確信したとき、私は三上誠を熱く記憶のなかに抱いた。一九七四年の初夏、かれの死後二年半後のこと。
そしていまその年に刊行された『三上誠画集』(三彩社)の五百部限定の重い頁をめくっている。三十年経っても死者は生の時間帯にあるとき以上に健在だ。私は耳を澄ます。すると、かれの問いかけがきこえて来る。「きみたちは恵まれた環境に胡坐をかいてはいないか」と。生者はいつの場合だって死者に設問され、裁かれる。ましてや三上誠のようにいのち賭けで自己を凝視し芸術構築に終始した男の声は、聴く者の魂に染みる。
日本画の概念壊しから戦後を歩み出した若いかれにとって、自己とは何かを凝視することと外的状況に斬り込むこととは等価であった。「日本画壇の封建的ギルド機構をうちやぶれ」という生硬なスローガンに鼓舞されてきた誠実な表現者は、そのときすでに病者だった。外を激しく攻める意志力は即刻内部を攻める求心力となっていくという皮肉は、おのずからピカソの技法を取り込んだ。日本画革新の気概にキュビズムは安直だが、打ってつけの武器だったように思われる。その裏打ちによって芸術運動の核「パンリアル」の推進者たり得た、と断じても良かろう。たしかにスローガンに託された使命感は戦後という時代の空気が許容した青臭さを帯びてはいるが、何もそれは三十代の三上誠に限ったことではなかった。もし他と比較しながらかれの特色をあぶり出すなら、それは外への攻撃性の熱量が病むという現実によって内なる成熟を早めたということだ。不健康が百パーセント芸術創造の敵ではない、という証拠もかれの作品のなかで見つけ出すことができよう。死者への慰めにしては酷な言い方だけど。
三上誠は詩を書いた。模倣期からの脱出、つまり独創への道程を手さぐりするとき、この言語空間も避け難い手段であった。それがイメージ増殖を助けたのである。詩が入口になったか出口になったかまでも詮索する必要はあるまい。詩想の匂うようなタイトルの作品を見据えておけば十分だ。
胸部の大手術にも生への激しい執着によって耐えた。脅かされるその恐怖、肉体の滅びの不安に捉えられても「花がほしい」という象徴的な作品を描いた。そこには三上誠という男性の願望が暗示されていて、病魔を組み伏せようと格闘するパワーを感じさせる。それが画面に活気を植え付けた。一九五五年あたりからエロティシズムの萌芽を私は感じる。そして一九六一年に四十二歳で結婚。幻想領域にあった女体との現実での合体。しかし、それは画境に静謐感を漂わせる序章を奏で始めた。謎が秘められている。たとえば「ウルカの星座」にはかつてのエロティシズムも女体の形象も影をひそめてしまう。墨色による円形に女陰が暗示されてはいるが。それに代って登場するダンボールを使用した作品「異性の街」A B、「ココココの庭」などの冷やかに計算され尽した無機質性の白昼夢は、もはや詩を必要としなくなる。詩という言語の表出がかれにとって生産的な意味を失なったとき、作品の行く先がどこになるかを私はここで発見する。
星座を仰ぎ見ることは、おのれの内なるものを見究めることであった三上誠にとって占星術は生命観とメタフィジカルに繋るもので、むろんそこにはパッションの割り込む余地はなくなる。おのずから宇宙の真理への観念的道すじが待っている。このような三上誠における生理と病理と心理とのスクランブルの試行錯誤の果てに、一連の「灸点万華鏡」「経絡万華鏡」などが成った。これまで誰も思い付かなかった大宇宙と肉体(生命)の妙なる造型である。天の星座は生命の内部の星座と見事に対応した。そこに病める者の特権を認めるのは酷だろうか。病むことによってかれは内部に宇宙の投影を発見できたのだ。たしかに病いはかれの行動を縛ったが、想像力まで規制することはできなかった。
宇宙の輪廻に肉体を賭して帰入していった晩年のかれの到達点は、すでに日本画という概念を根底から覆えし、それは戦後美術の一つの栄光の座標を示すものであった。つねに死の恐怖と背中合わせの地獄から、かくも知的に構築された思想としての内部の星座を生み出しそこにおのれの生を埋めた三上誠に、私は嫉妬を覚える。そして画面に匂わせた一片のユーモアに対しても。
(まつなが ごいち)
*『版画掌誌ときの忘れもの』第1号より、再録
■松永伍一(1930年~2008年)詩人・評論家・作家。
福岡県出身。八女高校卒。8年間中学校教師をし、1957年に上京して文筆活動に入る。1970年「日本農民詩史」で毎日出版文化賞特別賞を受賞。農民のほか、切支丹、落人など敗者、弱者への共感を叙情的に歌い上げる作風で知られる。児童文学、美術評論など多岐にわたる著述を残した。『荘厳なる詩祭 死を賭けた青春の群像』(徳間書店 1967)、『詩画集 少年』(画・吉原英雄、現代版画センター 1977)、松永伍一著作集(全6巻 法政大学出版局 1972-75)他、著書多数。
■三上誠 Makoto MIKAMI
1919年、父の出稼ぎ先の大阪市に生まれる(旧名、嶋田誠)。
幼少期を福井市で過ごす。44年京都市立絵画専門学校卒業。48年、星野真吾、八木一夫、鈴木治らと「パンリアル」結成。翌年、星野、下村良之介、大野俶嵩ら会員11名で日本画の前衛グループ「パンリアル美術協会」を結成し、その中心となる。52年、結核療養のため福井市へ帰郷。以後、福井市で制作活動を行う。しかし72年病魔に倒れ没(52歳)。段ボールや木、印刷物を使い、コラージュやフロッタージュの技法を日本画にとりこみ、幾何学的形態のなかに独自の宇宙論的な作品を発表し、日本画に新地平を切り拓いた。
●『版画掌誌ときの忘れもの第1号』











『版画掌誌ときの忘れもの第1号』A版(版画4点入り)

小野隆生《日付けのないカレンダー》
1999年 リトグラフ
30.0x18.5cm(紙32.0x51.5cm) Ed.135
自筆サイン・限定番号入り
小野隆生《バック・ミラーに映った影》
1999年 リトグラフ
21.5x21.0cm(紙32.0x51.5cm) Ed.35
自筆サイン・限定番号入り
三上誠《作品A(仮題)》
原版制作=1957年頃
1999年後刷り
エッチング、アルミ版
11.8x16.0cm(紙32.0x51.5cm) Ed.35
作家印を捺し、限定版号を記入
三上誠《作品C(仮題)》
原版制作=1960~65年頃
1999年後刷り
フォトグラビュール、銅版
9.5x7.0cm(紙32.0x51.5cm) Ed.35
作家印を捺し、限定版号を記入
◆ときの忘れものは「第2回エディション展/版画掌誌ときの忘れもの」を開催しています(予約制/WEB展)。
観覧ご希望のかたは事前に電話またはメールでご予約ください。
会期=2021年1月6日[水]—1月23日[土]*日・月・祝日休廊

『版画掌誌 ときの忘れもの』 は優れた同時代作家の紹介と、歴史の彼方に忘れ去られた作品の発掘を目指し創刊したオリジナル版画入り大型美術誌です。第1号~第5号の概要は1月6日ブログをご覧ください。
●塩見允枝子のエッセイ「フルクサスの回想」第2回を掲載しました。合わせて連載記念の特別頒布会を開催しています。
塩見允枝子先生には11月から2021年4月までの6回にわたりエッセイをご執筆いただきます。12月28日には第2回目の特別頒布会も開催しています。お気軽にお問い合わせください。●多事多難だった昨年ですが(2020年の回顧はコチラをご覧ください)、今年も画廊空間とネット空間を往還しながら様々な企画を発信していきます。ブログは今年も年中無休です(昨年の執筆者50人をご紹介しました)。
●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。
もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
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