北郷悟インタビュー 聞き手:三上豊 版画掌誌第4号所収


01


ひとが立つ空間

北郷悟インタビュー
(2001年)

———資料を拝見してますと佐藤忠良先生のお名前が出てきますが、思い出されることは何ですか。

北郷 そうですね。今も一番に自分の柱になっていることがあります。やはり「自然の摂理」についてでしょうか。モデルをまねてつくる意識とは違って、まず、存在する意義というものを考えさせられました。
 先生は「人間が地球の上に生きているということは立っていること、座っていても首はしっかりと立っているはず。死んでしまうとみんな倒れてしまう。草も木もみんな立っているし、みんな地球の中心に向かって反発して存在している。それを知るということはとても大事なことなんじゃないかな」と。人間の心もそういうもののなかで存在しているし、ものも存在している、それを勉強するために彫刻をやるんだよ、と。ぼくにとってはすごいショッキングなことだったんですね。
 それまでずっとデザインを目指していて、いかにいいデザイナーになるか考えていたときに、そこに最も哲学的な部分がドカンとこられちゃったんで、そんな事がとても本質的に感じたんですよ。造形大の彫刻科に入ったとき先生に、だまされたつもりで彫刻をやりなさいって言われたんですが、それはきっとこういうことだろうと。ようするに、だまされたつもりで、彫刻のもののあり方や哲学を学ぶことによって、何にでもつぶしがきく人間になるんだ、どうやってでも生きていけるっていう自信を植えつけるために、そういうふうに先生はおっしゃったんじゃないかなと、自分なりに解釈したんです。だから、あわてて就職したり何かになるよりも、もっと今やれることを学ぼうという気になって、じゃあ彫刻からと。やっとそこで確信が持てて、人を見るようになったんですね。

———まず人体像ですね。

北郷 自分が人間であるかぎり、人間のかたちというものに存在の意味があると思うし、全てそれにそってできているひとつのフォルムであって、そこに長い歴史の中で美というものが育ってきています。だから、今も、その人間をつくるという行為は、自分の中で大事にしてきている部分なんです。

———そこでも、木彫とか塑像とか、いろいろありますけれど、塑像を選ばれた。

北郷 いえ、木彫を選びました。それで人の抽象をやっていました。午前の授業では人体、モデルを見て作るんです。午後は何をやってもいいんですけれど、ぼくは3年から卒業までずっと木彫で抽象をやってました。
 もっと単純な美でわかりやすく構造を知るためには抽象だなと思ったんですね、きっと。見て写して作るのと自分でイメージを出して構造を考えて行なうというのとは別だと思っていたので、できることは抽象的な形になってしまうのです。構造体をこう考えて、かたちを追っかけていくと。だからどっちかっていうとあの頃の抽象といっても、ぼくの場合はヘンリー・ムーア的な、人のかたちを抽象化していくための抽象で、ミニマル的なものや幾何学的なものではないですね。そういった意味で、楽しくてずっと木彫を4年までやってました。

———東京芸術大学の大学院に入ったのは、佐藤先生のおすすめもあったんですか。

北郷 話を聞いて頂きました。芸大には佐藤先生と友人の舟越保武先生がいらして、先生はよく舟越先生のことは話されてましたから作品にも興味がありました。そして芸大に来てから、やっと人の彫刻を作りだしました。

———それで素材も変わられたんですか。まだ木彫を続けていた?

北郷 いいえ、塑造でした。石膏とかFRPとか。それで、大学院1年のとき新制作展で落選しているんです。そのとき人体の立像を作ったのですが、いいと思ったことが否定されました。そこで、やっと考えることになるんです。意識が少しひろがってましたから。自分の彫刻は何だということで、本気で考えたんですね。
 ちょうどその頃、中国の兵馬桶展を見てびっくりしたりして。あっ、こういう素材があるんだ、とか。当時まだ芸大はテラコッタの先生もいなくて、でも窯だけあったんです。見よう見まねで、自分でいろいろ試して、温度域も全部自分で試していったんです。で、一番最初につくったのが、2mぐらいの二本の足で立つテラコッタ(1)。新制作展に落とされた反動でつくったもので、それまであまり二本の足で立つテラコッタはなかったのですが、それで鉄芯を組んで溶接して自立するものをつくりました。これは芸大の資料館の買い上げになった作品ですが、そんな励みもあって、このときにやっと何か自分のかたちっていうのが出てきたような気がしていました。同時にいわゆる空間概念が目覚めているときで、わざと壊したり、なかに空間が入り込んだりするような状況を一生懸命つくろうとしていて、壊れるということで時間とかそういうものを表わそうとしていた実験的な時期に入りましたね。

———そういったものはモデルから立ち上げてきたものですね。

北郷 モデルを使っています。ただ、自分の頭のなかにまた違うイメージを持っていたので、それをもとに男でも女でもない人物をつくろうと思ってました。モデルは女の人が多くて、今もそうですが、膝とかはモデルを見ながらつくってましたが、なるべく見ないでつくるように心がけてたような気がしますね。

———テラコッタをこれだと思って掴んだ契機っていうのは。

北郷 子供のときを過ごした、”いわき"というところは縄文・弥生の土器が出土する土地なんです。幼稚園の頃、母が働いていたので、一人で畑とかに行って掘ったりすると土器が出てくるんですよ。それでこう、縄目の文様をぴったりにその破片を合わせたり、ひとつの遊び道具になってました。近くに、勿来(なこそ)の関博物館がその頃あって、そこに行くと陶棺っていうんですか、棺桶の出土したのが展示されてまして、それが24本の足がついているものなんです。象の足みたいのがぼんぼんぼんとあって、その上に安置されるように穴がぼこんと空いていて、そこに骨が入っていたそうです。その、いわきで出土した陶棺や装飾古墳のイメージで作品をつくったりもしています(2)。ですからこの頃は、自分の幼児体験というか、そういうところからきているのがわりと多いですね。表面のなかに別な次元を入れてくるようなことをちょっとやってます。

———79年に芸大にいらしてから、技術的な実験や工夫の時間がかなりあったんではないかと。

北郷 そうですね。つくり方も独自のもので、込め型といってはじめは原型を塑像でつくるんですね、そこから割型をとります。割って型をとって、それがどの部分も輪の状態になるように各部分をブロックに分けます。その型に土を込めて乾燥しますが、筒状のものっていうのは丈夫で壊れないんですね。それを基本として型をとる時は分割しているんです。ひとつひとつ、みんな分かれているんです。そうすると、分かれている分だけ芯棒をつないで溶接してつないでと形にすることが順番にできるんで、その手法は自分なりに見つけていったやり方ですね。

———温度によって、やっぱり失敗などありますか。

北郷 爆発したりします。この作品は(3)、込め型とは違うやり方で、実際に焼き物の土でつくってから、一か所大きな穴を空けてかきだして、中を空洞にしていくやり方なんですね。テラコッタをやる人たちがよくやる、一種の輪積法のやり方と似た直づくりなんです。
 この作品は、展覧会に出すために間に合わないからと半分生乾きのまま窯に入れたら、バラバラに爆発しちゃって、もうだめだ、もう捨てようと思った作品なんです。だけど悔しいから破片を合わせてつくりました。それがこれで賞をいただいたりして。不幸中の幸いっていうんですかね。割れているってことが簡単に受け入れられた最初の作品です。だからすっかり怖いものなしになりましたね。この頃に中国の敦煌まで旅したりしているんですけれども、これはいわゆる風景で、砂漠のなかののろしの台や山並みが人に見えたりとか、そんなイメージで。この頃はそういう大きな大地やシルクロードに影響された作品が多いですね。

———馬の形象なども、シルクロードのイメージだったんですね。

北郷 そうですね。これもけっこう大きい作品なんですが(4)、このときはちょうど芸大の研究生を修了したばかりですごい気合いが入っていて、出てからでも自分はやれるんだ、学校なんかには頼らないっていう、不安と希望が入り混じった気持ちでいっぱいだったんです。この作品は大きなフォルムを二本の足だけで立たせているんですけれど、すごく無理なことに挑戦してましたね。高さも2m30cmくらいあって、相当重いんですよ。墨田区に仲間6人で倉庫を借りて、その仕事場で溶接しながら組み上げていった作品です。

———いろんなものを動員されてますね。構造計算などは、前もってやっているということはなくて、一か八かということはあるのでは。

北郷 いや、考えてます。抜く手順とか、どうやったら横にするかとか、ひとりで全部やれる方法を。全部ひとりでつくっていますから。チェーンブロックを使いながら、ひとりで押さえながらやるわけですよ。だから全部計算しながらやってましたね、数字的な計算じゃないですけど。今思うと結構無茶なことをやってました。

———テラコッタですが、色についてはどうなんでしょう。

北郷 なるべく空間が、表面のなかに、それだけの量のなかに、もうひとつ別な空間を求めているっていうのはあります。ディテールとかマチエールとかそういったものも、つくっているときには意識しているんですけれど、それがテラコッタになって、もっといろいろな色をつけたい気持ちが結構あるんです。焼き上がってそれで終わりっていうふうにはしたくなくて、そのフォルムができたときにその先にある可能性をもっと求めようとする、タブローに変わっていくような部分もどこかあって、結構こてこてとやるほうですね。

———作品に線刻というか、描いてるなっていう感じもあって、焼成の後でやっているようですが。

北郷 ええ、いろいろやってますね。融薬をちょっと塗ってバーナーで焼き込んでいって融かしたりとか、土をつけていってそこでまた焼いて色を出すとか。あと墨をかけちゃったりとか、砥の粉や石膏をかけたりとか。これでもない、あれでもない、もうちょっと、もうちょっとという感じでいじるっていうのはありますね。

———いわゆるかたちで完結しなくて、空間というかそういうところへもっていきたいと。

北郷 きっとあるのかもしれないですね。インスタレーション的な考えとは全然違うと思うんですが、 自分のなかのイリュージョンをさらにより近づけるというか。目的はそれだけなんですけれども。

———重たいとか軽いとか、そういう意識みたいなものは働くことはありますか。

北郷 ありますね。消えゆくものっていうんですか。こう、そこにものがあるんだけれど、そのなかに別な次元をずっと透視させるように、見る人の頭のなかに別な画像が見えてくるっていう。見ているものとイメージするものっていうのは、ずれが生じてわかるというか、そういうものを考えています。

———「風の記憶」という作品は(5)、表面が描かれているという趣があります。

北郷 引っ掻いてますね。爪がなくなるまで。

———手の跡ですか、全部。

北郷 手です、全部、引っ掻いたり叩いたり。ぼくは道具はあまり使わないですよ、全部手だけでつくるんです。自分のストロークが残っているんです。爪がすぐなくなっちゃうんです、削れちゃってぺらんぺらんになっちゃう。

———この「風の記憶」は、非常に印象的な作品ですね。それからしばらくしてミラノのほうへ行かれます。そこを選ばれたのは何か訳があって。

北郷 このときに、人をもう一回つくりたいと。ずっと人をつくってはいるんですけれど。ギリシャ・ローマという歴史とエトルスクがありますね、そこに何か、作品を観に行くんじゃなくて、人を見に行きたかったんですね、そこに住む人たちを。イタリアの人たち、その意識、その日常生活、いったいどうしてそれが出てくるんだろうかというのが一番知りたかったところですね。だから、旅行しないで、ほとんどブレラの美術学校で制作して、いわゆる人の生活を視察してましたね、向こうの若い人たちの動きというのを。帰りにバールでビールを飲んだりしながら。どういうところにこう目がいっているんだろうか、ずうっと視察してました。ブレラの中できちんとした具象をやろうと思っていたら、そうしたら向こうでは誰もやってないんですね、今。みんな抽象をやったりしているんです。いったいどこからアルテ・ポーヴェラのような仕事が生まれるのかと思っていました。
 これも(6)アルバニア人のモデルに座ってもらってつくって、向こうの鋳造所でブロンズにしたんです。とにかくつまんないことをどんどんやろうと。こっちだと展覧会の発表などで自分の表現する意図とかコンセプトとかそういったものを日常の中で同時に進めますから、学生のように無駄なことをたくさんやるというのはなかなかできなくて。イタリアで思う存分できると思ったんですよ。何でもないかたちでいいものってすごく惹かれますよね。その領域って何だろうなと思って、とにかくそれをやってみたかったんです。

———90年代、最初の数年間の写真を拝見していますと、以前よりも人体の形象が頭部だけではなくて全体に変わっていますが、その辺は何か意識されていらっしゃいますか。

北郷 まず自分のスタイルをなくそうと思ったんですよ。自分の表現する領域として、すごくリアルに全体をつくるのも、それをもっとぼかす、フォルムだけのよさを出すのも、そして抽象的なものにしてしまうことも必要だろうと思うんですね。なかには、ここから何かをもってきて置いてしまったりってことも必要になるかもしれないので、その辺の関連性をもつために、自分を解体しないといけないんじゃないかなと。表現の領域の幅を縦にうんと広げるつもりでやってます。ですから、横並びに自分のスタイルで、人をつくっても全部同じっていうものにはならないように、なるべくしていかなくては。それでもなおかつスタイルらしきものが残っていってしまうだろうと思うんですよ、自分のやり方っていうのが。だから解体することからと思ってます。

———勇気がいるんじゃないんですか、解体しようとするには。

北郷 今までさんざん壊してきちゃっているんで、いいかなと。そうしないと先に自分が進めないんです。たとえば、自分の彫刻はこういうスタイルでつくるってなったときに、非常に自分で自分を縛っちゃうような感じがあって、自分のイメージのなかには、もっとデザイン的なこともやりたいし、映像的なこともコンピュータ的なことも、まだまだあるんで、そういったものが最終的には作品としてではなくてもミックストされていくと思うんですね。だから自分の場合と他の人の場合とはおそらくくらべられないだろうなと思って、そういった表現領域というのを自分なりに新たに広げていかないとだめかなと。彫刻や塑造っていう部類のなかにいますけれど、自分のなかでは全然。彫刻という考え方さえもどうかなと、そういうふうに思うようにしています。

———最後に、舟越先生と佐藤先生の違いって何でしょう。

北郷 佐藤先生は、たとえば、立つという意味をおっしゃられるときに、彫刻に対して人体の正中線をとるために糸をつけた五円玉を下げて、こうやって見るんです。そうすると中心がどう通って、かかとのどこを通って、まっすぐ降りていかないといけないと指摘されます。舟越先生は、僕らにあまり話されないので、かってな判断なのですが、彫刻というのは表現だから、彫刻として精神が立っていればいいんだっていう、対極的な感じがしました。その間で、ぼくらは育ちましたから。両先生のそれぞれのポイントに反応していました。そういうことをいつもこだわっている両先生の存在は大きいなと思います。どちらも大事なことだと思います。
 ぼくとしては、今まで塑造という分野できて、彫刻の背景としてもロダンとかブールデルの時代を経てきましたが、実は表現的な部分で、パターン的にものごとを考えるものではないんじゃないかなと。そういった意味で、その辺を自分なりに解体したいなと思っているんですけどね。

———聞き手 三上豊みかみ ゆたか
2001年9月16日 東京芸術大学北郷研究室で収録

北郷 悟
1953年 いわき市に生まれる。
1977年 東京造形大学彫刻科卒業。
1979年 東京芸術大学大学院美術研究科彫刻専攻修了。
1984年 新制作協会会員。
1991年 新潟大学教育学部助教授(~’97年)。
1996年 文化庁在外研修(1年派遣)、イタリア・ミラノ・ブレラ・アカデミア美術学校
1997年 東京芸術大学美術学部助教授。
2008年 東京芸術大学美術学部教授。
2009年 東京芸術大学理事・副学長。
2013年 東京芸術大学理事・教授。

三上 豊
1951年東京都に生まれる。11年間の『美術手帖』編集部勤務をへて、スカイドア、小学館等の美術図書を手掛け、現在フリーの編集者、和光大学教授。主に日本近現代美術のドキュメンテーションについて研究。
『ときわ画廊 1964-1998』、『秋山画廊 1963-1970』を編集・発行。

02
03
04
05
06
07
0809
10
11
12

●本日のお勧め作品は『版画掌誌 ときの忘れもの 第4号 北郷悟/内間安瑆です。
テラコッタによる人物表現で現代の具象彫刻を先導する北郷悟(b.1953)と、伝統木版にモダンな色彩感覚を吹き込み、アメリカ美術界に確固たる地位を築いた内間安瑆(1921-2000)を特集。
北郷悟が初めて取り組んだ銅版画を挿入しました。
2020_12_23_MG_5713-2

2001年刊行, B4型変形(32×26cm)、綴じ無し、表紙/箔押・シルクスクリーン刷り、本文/24頁、限定135部
執筆=三上豊(和光大学)、水沢勉(神奈川県立近代美術館)
A版 (限定35部)
北郷悟の銅版《予感》《時代―遠い山》《くり返される呼吸-日常》3点+内間安瑆の木版《Forest Byobu with Bouquet》と銅版《Rose One(B)》計5点。 
B版(限定100部)
北郷悟の銅版《くり返される呼吸-日常》+内間安瑆の銅版銅版《Rose One(B)》計2点。
●挿入作品
予感北郷悟 KITAGO Satoru
《予感》

2001年
ソフトグランドエッチング
20.0×15.0cm
Ed.35
サインあり
※『版画掌誌ときの忘れもの』第4号A版に挿入

時代-遠い山北郷悟 KITAGO Satoru
《時代-遠い山》

2001年
リフトグランドエッチング
14.0×18.0cm
Ed.35
サインあり
※『版画掌誌ときの忘れもの』第4号A版に挿入

くりかえされる呼吸-日常北郷悟 KITAGO Satoru
《くりかえされる呼吸-日常》

2001年
ディープエッチング
20.0×15.0cm
Ed.135
サインあり
※『版画掌誌ときの忘れもの』第4号A・B版に挿入

Forest Byobu with Bouquet内間安瑆 UCHIMA Ansei
"Forest Byobu with Bouquet"

原版制作1979年(2001年後刷り)
木版
イメージサイズ:19.7×26.5cm
シートサイズ:24.0×31.4cm
Ed.35(初版の作家自刷りはEd.30)
作家印を捺し、限定版号を記入
※『版画掌誌ときの忘れもの』第4号A版に挿入

Rose One (B)内間安瑆 UCHIMA Ansei
"Rose One (B)"

原版制作1982年(2001年後刷り)
エッチング
11.7×9.0cm
Ed.135(初版の作家自刷りはEd.10)
作家印を捺し、限定版号を記入
※『版画掌誌ときの忘れもの』第4号A・B版に挿入

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから

*画廊亭主敬白
本日1月21日は石岡瑛子さん(1938年7月12日 - 2012年1月21日)の命日です。
亡くなられて9年、ちょうど東京都現代美術館で「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」展が開催されています(2月14日まで)。
王聖美さんにレビューをご執筆いただいていますのでお読みください。
石岡さんには昔、ウォーホル展で原稿も書いていただきました(2012年01月31日ブログ|石岡瑛子のエッセイ参照)。なにものにも媚びない颯爽とした風貌、亡くなられたときはまだ若いのにと驚きましたが、亭主はもうその歳を超えました・・・ときの流れは速いですね。

開廊25周年記念企画第二弾の「第2回エディション展/版画掌誌ときの忘れもの」も残り僅かとなりました。コロナウイルスの爆発的感染拡大で、ほぼ無観客展覧会で終わりそうです。
WEB展は公開続行ですので、ご覧の上、版画掌誌をご注文いただければ幸いです。

◆ときの忘れものは「第2回エディション展/版画掌誌ときの忘れもの」を開催しています(予約制/WEB展)。
会期=2021年1月6日[水]—1月23日[土]*日・月・祝日休廊
映像制作:WebマガジンColla:J 塩野哲也

案内状両面1200
『版画掌誌 ときの忘れもの』 は優れた同時代作家の紹介と、歴史の彼方に忘れ去られた作品の発掘を目指し創刊したオリジナル版画入り大型美術誌です。第1号~第5号の概要は1月6日ブログをご覧ください。

塩見允枝子のエッセイ「フルクサスの回想」第2回を掲載しました。合わせて連載記念の特別頒布会を開催しています。
AAA_0477のコピー塩見允枝子先生には11月から2021年4月までの6回にわたりエッセイをご執筆いただきます。12月28日には第2回目の特別頒布会も開催しています。お気軽にお問い合わせください。

●多事多難だった昨年ですが(2020年の回顧はコチラをご覧ください)、今年も画廊空間とネット空間を往還しながら様々な企画を発信していきます。ブログは今年も年中無休です(昨年の執筆者50人をご紹介しました)。

●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。
もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
E-mail:info@tokinowasuremono.com 
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。